価値観の違う人を理解しようとすることは無駄なのでしょうか?
こんにちは。ニナと申します。
私は海外留学をしていました。帰国後に日本人の友人たちや家族・知人と居ると、感覚や感性の違いから生きにくさと疲れを感じています。
例えば、「(人種や文化圏が違う人に対し)○○人だから~で、こういうところが理解できない」というふうな自民族中心的だったり、他民族に否定的な発言をした人に、「全員そういうわけではないし、そういう文化なのだから差別しないほうがいいのでは?」などと正面きって意見すると、発言した人から避けられるようになってしまいました。
こういったように、感覚や感性の違いから人に避けられたり、互いに理解しあえず苛立ちを感じてしまうことが多くなり、少し日々に疲れを覚えるようになってしまいました。
今は日本を離れることができない状態にあるのですが、離れることができるようになったら海外で生活しようかと考えたりもします。
しかし、日本であろうと海外であろうと、どこへいっても感覚の違う人がいるのは当たり前のことです。
居心地の良い環境を自分で作ることは大切だと思うのですが、居心地の良い環境だけにとどまって、自分と感性の違う人の傍に近づかずに過ごすこともまた、自分の殻に閉じこもり、他人への理解を諦めてしまっているようでどうしても嫌なのです。
友人に相談したところ、世の中には言ってもわからない、本当に相いれることのない人間もいる。言い方は悪いが諦めることも必要だと諭されました。
わがままな考え方だとは思うのですが、生きにくいと感じる環境でも、人や物事を理解して生きていくこと、そうであろうと努力することは無駄なのでしょうか。あまりにも感覚が違う日々の疲れからか、自分の考えにも自信が持てなくなってしまったのかもしれません。
何か、見方が変わる、スッキリするようなアイデアをいただけないでしょうか?
有り難し 38
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