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検索結果: 592件

モヤモヤの気持ち

こんにちは。初めてお便りさせて頂きます。よろしくお願いいたします。 先日、職場で年下の子に仕事の事で意見したら、泣きながら「どうして私ばかりにそんなことを言うのか」と言われ少し険悪な雰囲気になってしまいました。(険悪になりたくなかったからなるべく言葉を選んだのですが)私の職場はほとんど年上の方ばかりで、その子だけが私より年下になります。でも、私としては年齢かんけいなく間違っていると思ったから意見したんです(意見したのはこれが初めて)が、その子は自分が年下だから言われてると思っていて、「あなたのそのセリフ、N先輩にもいえるんですか!」って言われました。「いちいちうるさい」とか。N先輩はそもそもそんなことしないから・・・と思いながら聞いていました。その子はかなり興奮状態になってきたので、それ以上言うのはやめました。ですが私の心の中で、その子の怒りに満ちた目やセリフが忘れられず、モヤモヤしています。あの時私は言いたい事をほとんど言えなかったからかな・・。でも、もう忘れたいんです。忘れるようにしてるのに離れないモヤモヤ。どうしたらいいでしょうか・・。ご回答よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 312
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個性を磨く。

お久振りです。いつもお世話になっております。ユーリです。 今回は、個性を磨くということについて質問いたします。 教育現場では、良く「個性を磨く」といった文言が使われ、「生きる力」と共に、二大教育用語になりつつあると、私は考えております。 さて、個性というと、広義にはその人の特性・性質ですが、それを磨くというと、どういった意味なのでしょうか? 私個人の見解を述べますと、やはり、短所のない人間はいないわけで、また、自分と同じ人間もまたいないわけであります。 自分を追及し(今頑張っています。)、自分をより深めることで、自分にしか出せない味を出す。それによって、噛めば噛むほど味が出てくる。噛めば噛む程、噛んだ傍から味が出るような。そんな人間を目指すのが、「個性を伸ばす」だと感じてならないわけであります。 私は、部活の野球はベンチ外。勉強は、論外の外。顔は、圏外の外。 喋らせたら、うるさいとよく言われ…。そんな人間です。 ですが、人に誇れるものというととくにありませんが、この喋りというのは、自分の中で好きな部分ではあります。 アホなこと言って、「自分ってあほやなー」と、振り替えってにやにやしてしまう。そんな自分が大好きです。 元々、芸人になりたい私ですから、そう感じるのかもしれません。 「よく喋る・デブ・ちび・くそメガネ・頭悪い・送りバントが得意」これが私の個性です。 ですが、「よくしゃべるなー・・・」と周りに言われるということから、それを不快に思う人もいるかもしれないわけです。 自分は誇らしく思っても、そんな一面を磨いてどうするのかと思うわけです。 「個性」には、対個人、対社会にプラスのもの、マイナスなものがあるわけで。 マイナスなものだとしても、それを伸ばせ、ってことなんでしょうか?

有り難し有り難し 20
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住職様にとって、お葬儀とは何ですか

大変失礼な質問だと思いますが、何卒ご了承いただけると幸いでございます。 私は、長らくサービス業に従事しております。 ここ5年の間に、2人の祖母、叔父、母親、旦那の親友が亡くなり、その都度お葬儀に参列いたしました。 宗派の違いはありましたが、通夜・火葬・葬儀・法要とそれぞれにおつとめをいただき、『ありがたいお経のおかげで、故人は仏になるために旅立つんだな』と故人の冥福を祈っておりました。 そういった機会も多かったためか、ご縁あって葬祭会館へ転職いたしました。 まだ1ヶ月も就業しておりませんが、すでにたくさんのお葬儀に立ち会わせていただき、さまざまな宗派のご住職様にもお会いしております。 何件ものお葬儀に立ち会うと、知りたくなかった裏の部分も見えてまいります。 『お葬儀をしておつとめを頂くのは、故人が無事に仏になるためではなく、残された遺族が大切な人の死を受け入れるための段階の儀式』なのかな、とも考えてしまいます。 お葬儀をする意味とは、そういった死を受け入れる儀式的な理由も含まれているかと思いますが、住職様から見た『お葬儀の際におつとめをすること』には、どのような意味があるのか、お伺いしたいです。 無知故の不躾な質問で大変申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 70
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学校行きたくない

高校三年です。商業高校です。 3年になっていつも一緒にごはん食べたり、帰り一緒に帰ったりしている友達がいます。 ごはん食べているのは私合わせて3人です。 今月末に校外HRで、ディズニーに行きます。私はいつも一緒にごはん食べていたので、一緒に行くのだと思っていました。ある日ディズニーランドに行くのかディズニーシーに行くのか聞いた時にその回答はしてくれず、話を変えられてしまいました。 その日にランドかシーか決めなければならなかったので、私は焦りましたが、すぐなら変更できると先生に言われたので、シーにしておきました。LINEでどちらにしたか友達にきくとランドと言われました。 私は、どっちに行くのかなんで答えてくれなかったの?と言うと、約束してないじゃん。と言われました。私は何も言えませんでした。 どちらにしたのと聞かれるとシーにしたけど、ランドにするよと言いました。 ランドに変更する理由は、部活の子が一緒に行ってくれるからです。ランドに変更したときもごはん一緒に食べている子は嫌な顔をしました。 最近、いつも同様休み時間友達のところに行きますが、私が話しかけても無視をされます。他にも今まで一緒に遠出して遊んでいた子にも「は?なに?」などと冷たくされます。 それが嫌なので最近は休み時間友達のところに行くのはやめました。 ディズニーランド一緒に行動する子は決まりましたが、行くまでに一緒に行く子がいないので、行きたくないです。 いろんな友達に聞いてみましたが、みんなシーなので道が違います。 どうしたらいいですか?私は行きたくないです! 楽しくないのに行っても楽しくないから。 ディズニーだけではなく、この先卒業までどうしたらいいですか? ちなみにクラスに友達いません。今更グループに入ったところで周りの目線が気になるから。グループに入ろうとも思いません。

有り難し有り難し 39
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葬式をあげてほしくない

死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 411
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南無阿弥陀仏をおとなえする意味について

私の家は浄土宗の檀家です。 浄土宗(浄土真宗も同じだと思います)では、「ただ南無阿弥陀仏を唱えれば、臨終に際して阿弥陀様が現れて浄土に連れて行ってくださり、そこで悟りをひらいて救われる」という思想だと理解しております。 しかし、どうしても心の中にもやもやが残ってしまいます。 といいますのは、「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に連れて行ってもらえ、悟りをひらける(=救われる)」というのを裏を返せば、「南無阿弥陀仏を唱えない人は悟りをひらけない(=救われない)」ということになってしまわないかと思うのです。 「自分に帰依しないもの、信じないものは救わない」などと、阿弥陀様はおっしゃるようには思えないのです。そんな心の狭い方ではないと思うのです。 おそらく「信じるものは救われる、でも信じてない人も救ってあげるよ」とおっしゃると思うのですが、ではそうなると「南無阿弥陀仏」をお唱えするのに果たして意味があるのかどうか、唱えても唱えなくても救われるのであれば、なぜ「南無阿弥陀仏を唱えると良い」とされているのかという疑問がわいてきます。 つまり 「南無阿弥陀仏を唱えないと救われない」→阿弥陀様はそんな心の狭い方だろうか? 「南無阿弥陀仏を唱えなくても救われる」→じゃあなぜ南無阿弥陀仏を唱える必要があるのか? という板ばさみといいますか、ジレンマに陥った気分になるのです。 これについて、お坊さんの見解をお聞きしたく、よろしくお願いします。

有り難し有り難し 712
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