天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
私はよく自殺についてネットで検索をしてるのですが、 自殺をすると地獄に落ちますよ! という投稿をしばしば見かけます。 自殺=自分を殺すことと同じ、つまり人を殺したも同然なので地獄へ行くというのです。 特に知恵袋などで多い気がします。 それで自殺防止になるならいいのかもしれないけれど... でも病気などで自殺する人もいるじゃないですか。 私は統合失調症ですが、幻聴に耐えられずその声に従って自殺したというケースもあるみたいです。 それで地獄に落ちるなんて可哀想だと思います。 自殺したら地獄に落ちるのですか?
お寺の後継者について悩んでいます。 私の家は両親と私の3人家族です。 ・私が専門尼僧堂に行く→2年の修業が必要で、おりるときは29歳に。結婚は?出産は?そもそも修行に耐えられるのか? ・お坊さんに婿に来てもらう→御縁がない。 ・父の代で終わらせる。 些細なことでもかまいません。 御意見をお待ちしております。
私には子供がおりません。 供養してくれる人がいません(たぶん) 私は、火葬と納骨までしてもらえれば、それで良いと 考えております。 自然の摂理に沿って、最後は潔く死に、 そして、誰からも供養してもらわなくとも、 自力で成仏したいのです。 死後、お線香をあげてくれる人がいなくても、 一周忌や三回忌の法要がなくても、 自分の意志で成仏できますか?
仏教でもキリスト教でもイスラム教でも、宗教は対立し得ないと思っています。現実に起こっている戦争は、宗教を大義名分にした、個人的な諍いに過ぎないと思います。 さて、宗教に関心はあるのですが、法華経を読んでも、聖書を読んでも、古事記を読んでも、自分が特定の立場をとる根拠が分かりません。 どのような基準で特定の宗教に入るのでしょうか? 「親が○○教だったから自分も」というのは、宗教性と何ら関係がないことだと思います。 みなさまは、なぜ仏教を選び、その宗派を選んだのでしょうか? また、他の宗教についてどう思いますか?
この前、精密検査をして結果が出る間 不安で不安ですごくうろたえました。 (ほとんどパニックでした) 自身のあまりの「生への執着」に驚いています。 ネットを見ると、私より若い方々が余命宣告うけて それでも強く受け止め、戦ってらっしゃる姿を拝見します。 ホントに心から尊敬します。 自分よりも家族の為に生きれば、恐怖は薄まるのでしょうか? (一応、そのつもりでしたが…) それとも、もともと無だからそれに戻るだけなのでしょうか? どのように考えれば、住職さまのように心穏やかに死への恐怖を 克服できるのでしょうか? これからの人生、うろたえるコトなく過ごしていきたいです。 難しい言葉ではなく分かりやすい言葉で アドバイス頂ければ幸いです。
悟るにはどうしたらいいですか? 坐禅をする? 仏教の本をたくさん読む? 悟るにはどうしたら良いのか教えてください。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
突然の質問ですが、ご縁とは仏さまが私に与えてくださっているものなのでしょうか? 仕事で営業をしています。 辛いことが8割、感動が2割というところでしょうか。今日はお客さまが私のことを慕ってくださり、あぁこんな私を大切に思ってくださって嬉しい、と感じました。お客さまが幸せでありますように、と心の中で強く強く願いました。 営業はイキナリ叱られたり、怪訝な顔をされたり、辛いことが多い仕事ですが、時々出会うこのご縁に涙が出そうになるくらい嬉しさを感じます。これは偶然かそれともご先祖の導きではないかと不思議な気持ちになったのでご質問させていただきました。 皆様のお考えや仏教としての解釈のようなものがあれば教えていただきたいです。よろしくお願いします。
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。