私はお経の事を、私らにはわからない言葉で、亡くなった人がいるところの偉いさんか誰かに、ご先祖さんが極楽へ行けるように言っているって思っています。 伝わりにくいかもしれないですが、私はお経について外国語で何かを言っている感じと捉えています。 その事について、本当のことを教えてください。 また、お経は何のために、誰に何を伝えているのか教えてください。 プラス、お経に日本語訳みたいなのがあるなら 「女もキャービロしゃなばかもだらーまにあんばらばり〜〜〜〜」 みたいな部分を何言っているか教えてください。 気になります!!!
こんばんは。 突然ですが、至急御回答を頂きたいです。 先日、祖父が白血病で入院し、一週間もつかわからない、とお医者さんに言われたそうです。 私は子どもなので何もすることができず、お見舞いに行ったり、母の代わりに家事をやることしかできません。 なので、お守りを作って祖父に渡そうと思い、その中に手紙とお経を入れたいと思いました。 ですが、お経に触れたことがなく、何もわからないので、もし病気が治るような意味のお経がありましたら原文と意味を添えて御回答頂きたいです。 どうぞよろしくお願い致します。
私は、お経が好きなのですがなぜかお経を聞くと不思議と胸が苦しくなります。般若心経が特に好きで、たまーに唱えてみたりするのですが、それでも途中で少し苦しくなります。 何か解決策はありますか?
お経が短くなりました。檀家です。奥様(お母さん)は、とても人当たりがよくよい人です。新宿区の曹洞宗です。 前の住職、代理(若住職、修行中)住職のときは、お経が40分以上とお説教があり、ありがたいと感じた。今の若住職、お経5分から10分でお説教なし、戒名のいわれもいえない。 墓参りに来ている方々の口にでている。他の寺から言ってもらえばいいつけたことになるし、他の檀家さんは若いからと。菩提寺をかわろうかと。悪者になりたくない自分がいることに腹がたつが、やはり言いつけたくない。
見つけてくださいまして、ありがとうございます。 私は昔から第六感が少しだけ強いらしいです。それゆえなのか、普通の人には見えない人や動物を見たり、声を聴いたりします。 今、うちに普通の人には見えない方々がかなりいます。 幼い子供も、大人も、ずっと昔の人もいます。なかには、話しかけちゃいけないような人もいます。彼らはただいるだけで、悪さはしません。(かわいいイタズラをする人もいます。)私自身、彼らがいることについてはなんとも思いません。いたいならいればいい、いたくないならでればいい。そんな感じです。 彼らは、心の中になにかしらの問題があり、苦しんでいます。彼らは本当は優しくて楽しい人のようにおもうのですが、今、彼らは心の中の何かがチクチクして、怖い人になっています。 お坊さんでもお寺関係者でもない素人がお経をあげてもよいのでしょうか。お経をあげたお坊さん独特のお経を読むときの声であげたほうがよいのでしょうか。 今、新生活で疲れがたまってしまい、なかなか彼らとお話できる体力がありません。前までは、ちょいちょいお話ししたりお茶を飲んだりしていました。 私ができることならば、無理がない範囲でやらせていただきたいです。
8年程前に兄が不慮の事故で亡くなりました。22歳でした。年月が経った今でも毎日、お経を唱え墓参りをしています。亡くなった直後の夜、父の夢に兄が出てきたそうです。スマホの充電をずっとしていてほしいと言って消えたそうです。 これは兄なりの別れの言葉だったのでしょうか。スマホは画面ロックがされているため開くことができませんが、充電は毎日しています。 また、たまに仏壇や座敷から兄が吸っていた煙草の匂いがします。愛犬も何か気配を感じるのでしょうか、兄の写真を飾っている机の前に座りずっと一点を見ています。これは兄が家に帰ってきているのでしょうか。もし帰ってきているのであれば、直接、兄に伝えたいことがあるのですが、それは兄に聞こえるのでしょうか。
またよろしくお願い致します。 私は今まで、告別式等で、御坊様があげる「お経」とは 亡くなった人が迷うことなく浄土に辿り着くようにと、 お祈りをしている感じに捉えていました。 しかし、本日、NHKのテレビを見ていたら、 「お経」とは亡くなった人のためではなく、 残された人のために、あげていると聞いて びっくりしました。 これは本当でしょうか? 私は既に終活を始めていますが、 後継者等がいない夫婦なため、最終的に一人になって 自分にとって残された人という存在が無い場合は、 「お経」は必要無いということでしょうか? もう一つ、疑問があります。 よく「亡くなった人の魂を慰める」という言い方を聞きますが、 亡くなった人の魂は、今、生きている人が慰めてあげなくては いけないほど、悲しんでいるということでしょうか? この「慰める」という言い方が気になります。 以前、テレビで見たのですが 夫が病気で激しく苦しみながら息を引きとった時、 奥様が泣きながら「あなた、やっと楽になれて良かったね」と 声をかけたそうです。この気持ち、よく分かります。 たとえ病気で亡くなった人も、痛み・苦しみを持った肉体から 解放され、浄土で安らかにニコニコしていてほしいです。 だから「慰める」という言い方は、浄土でも苦しんでいるみたいで、 違和感があります。
こんにちは。夫が亡くなり半年経ちました。 以前、hasunohaさんで辛い気持ちを聞いていただき、つぶやき、問答共に寄り添っていただいた者です。お答えくださった僧侶の方々に改めて御礼申し上げます。ありがとうございます。 死別直後と比べて少しずつ気持ちが落ち着いてはきましたが、未だに生前の夫との関係に悔いを感じていて、その事に思いを馳せるのが自分の一部になってしまっています。 今回お聞きしたいことは、亡くなった人は仏様に迎えられ、救われて安らかになり、仏様と共に遺された者を見守ってくださっている。 それを頭では理解しているつもりで、日々仏壇にお線香をあげ、手を合わせて私の心を聞いていただいています。 そのようなとき、亡くなった人の魂というのは、もう生前のようなパーソナリティ、感情等とはだいぶ違うものになって、何か聖なるものというか、私たち現世の者とはだいぶ違うものになっているのでしょうか? 夫には安らかでいてほしいと思う一方、こちらを見ている夫には、生前の夫の心、感情を伴っていてほしいと思ってしまいます。 そして、できたら生前の私へのいろいろを少しは悔いて、悪かったなと思ってほしいと思うのです。 そんな現世の私の俗で勝手な考えは、夫の供養の妨げになってしまうかもしれませんが、私のことをどう思っていたのか、どう思っているのか、生前の夫のままで何かを感じてほしい、それを私に伝えてくれたらいいのにと思ってしまう。 四十九日の法要でご住職様のお経とお話を聞きながら、自分だけ先に許され救われて、安らかになってずるいなあ、遺された私はこの世で悔いて苦しむのになぁと、見苦しくも夫を恨んでしまいました。 亡くなった夫は今、仏様のもとで生前とは全く違う気持ちなのでしょうか。そもそも感情や記憶などあるのでしょうか。 それを知る、感じる方法などこの世にあるのでしょうか。 意味不明な質問ですみません。どうぞよろしくお願いいたします。
はじめまして、ハスノハを初めて利用させていただきます。 タイトルにも書きましたが、私はお経が苦手です。 私自身、お経の何が苦手なのか分かりませんが聞いていると何故か落ち着かないようなソワソワモヤモヤした気持ちになってしまいます。 なので、お坊さんが家にお経を読みに来た時は仏間の隣にある自室に籠りイヤホンをつけて音楽を聴き帰るまでやり過ごしています。 しかし、大人になり親戚のお葬式に参加しなくてはいけない事も増えました。 やはり、お経を聴くと落ち着かない気持ちになってしまい早くお経が終わらないだろうかとついつい考えてしまい亡くなった故人やその家族に対して申し訳ない気持ちになってしまいます。 もし、少しでもこのお経を聴いてる最中のソワソワモヤモヤした気持ちを軽くする事が出来るアドバイスをいただけたならと思い相談を投稿させていただきました。 皆さん、お忙しいとは思いますがどうかアドバイスの程宜しくお願い致します。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
葬式、お経、戒名について御質問させていただきます。 自身は無宗教です。 死後、葬式・お経・戒名は希望せず。です。 お坊様に対して、この様な事を言ってすみません...。 葬式はせず、直葬(火葬のみ)、納骨はせず、遺骨の全てを散骨(又は焼き切り火葬)を希望ですが、親族が代々、仏教(一般的葬式、墓に納骨)の場合、私だけ外れるのは御法度でしょうか? 親族は白い眼で見られますか? 金銭的な問題もあり、出来るだけ安くおさえたいです。 お経、戒名は必要ですか? 御回答、宜しくお願い致します。
母が昨年他界しました。 葬儀の際に葬儀屋さんに宗派を聞かれ、 我が家が曹洞宗であると知りました。 近くで葬儀社さんが知り合いの曹洞宗寺院が無く、遠方(君津)の曹洞宗寺院からお越しいただいて戒名をつけていただき、お通夜と葬儀をしていただきました。 そのあとも49日、100か日、新盆、1周忌とそちらのお寺さんに自宅にお越しいただき 供養のお経を読んでいただいてきました。 そろそろ納骨をと考えているのですが さすがに君津のお寺にお墓は遠すぎて 近隣のお墓を探しています。 しかしながら、私が一人っ子で独身のため、父はお墓を購入するのではなく、お金はなるべく将来のために遺しておき、納骨堂や樹木葬などで考えたいと言っています。 母も生前、納骨堂のニュースを見て、お母さんはあれでいいからね、と言っていた記憶もあるので、納骨堂で探したいのですが 近隣の曹洞宗寺院に、そういった施設のあるお寺があまりありません。 宗派を変えればあります。 (日蓮宗・浄土真宗が多いです) 宗旨宗派不問とパンフレットには、書いてありますがほとんどがその後のご供養は管理されている寺院の宗派でご供養されるとのこと。 曹洞宗は禅宗ですし、調べたところ お経も宗派によってかなり違うようでしたし、父は近くの浄土真宗のお寺を気に入ったようなのですが、浄土真宗だと直ぐに極楽浄土にいけるけれど、曹洞宗だと仏さまの弟子になって修行をしているという教えだと聞き、尚更に、曹洞宗で戒名もいただいた母は、般若心経などのお経を読んでいただいた方が安心なのではないか、など色々と考えてしまいます。 父を見ていると、早くお骨を納めて母をお寺さんに見ていただくことで安心するように感じてもいて、何とか探したいのですが、このあたりよく分かっておらず。 宗派違うお寺に曹洞宗で戒名をいただいたお骨をお預けして良いものでしょうか。 もしくは何か、お骨は近くのお寺さんにお預けし、法要の時には家の仏壇で、曹洞宗の方に来ていただいてお経をあげていただく、とかそういうことだとどうなのでしょう。 また、お墓についても質問です。 開眼供養をしてお墓は仏さまをいれているのだと知ったのですが 樹木葬や納骨堂の場合でも仏さまは(対象となる石がなくても)いらっしゃれるのでしょうか。 本当に色々と考えすぎてしまう性格で恐れ入りますがご教示いただけましたら幸いです。
何故、葬式でお坊さんがお経を誰もわからない言葉で長々と読むのでしょうか?なぜそこにいる人々にわかるような言葉で読まないのでしょうか?あれじゃただの雑音です。 せっかくですし自分はお経の内容を知りたいと思っているのに、あれじゃ時間の無駄です。 ただでさえ悲しいのにあんなに長々と意味のわからない音を聞かせられるとか、お坊さんが人々にさらに苦しみをあたえています。 ああいう喋り方じゃなきゃ死者があの世に行けないということはないでしょう。 木で木を叩いて音を出し、声帯から決まった音を出さないと死者があの世に行けない理由もないでしょう。 ありがたいことを読んで悲しんでいる人の心を楽にさせてあげているわけではないでしょう。誰も理解できていませんから。 ああいうやり方にしないと死者への敬意を表せないわけではないでしょう。葬式で大事なのは心から悲しむことで、心から悲しみさえすれば決まった一つのやり方でやる必要はないからです。 自分が推し量るに、ああいうやり方じゃないとありがたみがなくなり誰にでも葬式ができるようになって、お坊さんが金儲けの手段を失うからだと思っています。 悟りを目指し、人々を救うことを目指しているお坊さんが、そのような誤魔化しをして金儲けをしている理由を教えてください。 攻撃的に感じるかもしれませんが、これは子供の頃から気になっていたことなので。どうか誤魔化さずに本当のことを教えて下さい。
お久しぶりに投稿させて頂きます。 今回も深刻な悩みはありませんので、悩みごとのご相談の皆様を 優先させて下さい。 仏教を修習している過程での、素朴な疑問です。 仏教の教えは、無常・無我・苦を説いて、死後の世界のことは 扱わず、今現在の事実のみを扱うものと思っていました。 とすれば、告別式に唱えられるお経は、故人に向かって説いても 意味がないように感じられます。 告別式に唱えられるお経は誰に向かって説いているのでしょうか。 会葬者へ向かってのお経? でしょうか? とすれば納得なのですが。 もう一つの疑問です。 般若心経の「色即是空」「空即是色」ですが、これを 文字通りに見ますと、「色即是空」は、 「色(物質)、即ち、これ、空なり」は理解できますが、 「空即是色」の「空(無常)、即ち、これ、色(物質)なり」 となってしまいます。 しかし、空は物質だけではなく、全てが空ではないでしょうか。
先日は浦上和尚様、中村和尚様にご回答頂きありがとうございました。 お二人のお言葉には感謝しておりますが、彼のいない事がこんなにも寂しいとは思いませんでした。 お二人には私がお経をあげてもらう事は良いと言って頂き、救われた気持ちでした。 ただ先日、彼が一番信頼する先輩に話したところ『彼はそんな事は望んでいないと思う。人間は死んだら無になると思うよ。お経をあげても届かないと思う。彼が生きていたらそんな無駄な事はするなと言うよ』と…。 冷静に考えれば私も彼はそういう事を言う人だと思います。元気な時私が世話を焼いてする事にはやはりそう言いました。でも後にはいつも私の気持ちに応えてくれました。 私がする事は許してくれると思うのですが、形だけの家族でも家族のする供養の方が正しい事なのかもと思ったりします。 亡くなる一ケ月程前には先輩にも離婚の話しをしていた。先輩の前で電話して離婚の話を娘にし、けじめをつけようとしていた。私には過去の自分がした事で悪い事をした。と言っていたと聞きました。 私のことなどなんとも思っていないだろうなぁと想っていたので救われた気もしました。でも彼も寂しかったんだろうと想うと前向きになれません。 またお答えを頂けないでしょうか
過去に同じような質問がありましたら申し訳ありません。 (その場合は、過去の質問タイトルを教えていただけるとありがたいです) 私(一般人)ですが、仏教が好きで、お経を唱える事に関心があります。 誰が(1)、何に(2) お経を唱える(あげる)のかによって、なぜ、どうなるのか知りたいです。 (1)お坊さん か 一般の人 かで次の2ア~カの対象にお経をあげて違いはありますか? (2)ア.お寺で貰ったお札、イ.家で特に祀っている仏画や仏像、ウ.仏壇の仏画や仏像、エ.仏壇の位牌、オ.お墓、カ.お寺の本堂の仏画や仏像 「日蓮宗の南無妙法蓮華経は、誰があげても同じだよ」と聞いたことがありますが、それならお坊さんの意味が無いような? そうかと思えば、真言宗のお寺で聞いたのは「お坊さんは仏様との橋渡しだよ」とも。では、一般の人が唱えても意味がないのでは? 「仏画や仏像にお唱えすると、誰がお唱えしても仏様は喜ぶので、それが功徳になる」とも、聞いたことがあります。 誰が 何に お経を唱えると、なぜ、どのような効果があり、どうなるのかを知りたいです。 出来れば、密教(真言宗か天台宗)の方のお話と、日蓮宗の方のお話が聞けると嬉しいです。 よろしくお願いいたします。
数日前、大好きだった祖母が亡くなりました。 葬儀も終え、祖母にお別れもきちんとしたつもりでしたが、やっぱり祖母に会いたくて仕方ありません。祖母のシワシワだけど柔らかい手に触れたい。祖母の笑顔が見たい、祖母とお喋りがしたいです。 葬儀の時にお坊さんが、亡くなった人は新しい世界に旅立つ。と言っていました。 新しい世界とはなんですか?亡くなった人はそのままの姿、年齢で新しい世界で過ごすのですか?それともまた赤ちゃんからやり直すのですか? 新しい世界からはこちらの世界は見えるのですか? 新しい世界には悪人もいるのですか? 天国と地獄はあるのですか? どなたか教えてください。宜しくお願いします。
初めて質問させていただきます。 なぜ、耳でお経を聞くのでしょうか?文字ではなく、声に出して読まれるのは何故ですか。 それらはどんな効果があるのでしょうか? お経を読んでいただく際の心構えを教えてください。 葬式や法事など…お経を耳に入れる事は、私にとって非日常の事になります。 一つ一つの言葉の意味はわかるようでわかりません、漠然と「最後は仏様のところに行くんだろうな…」と思いながら、葬式の時は故人に思いを馳せ、時には眠気と戦ったりもしてしまいます。 一昨年、祖母が亡くなりました。祖母の葬式の際、父親は最前列で船を漕いでうとうとしていました。 父親は喪主ではありませんでしたが、祖母の一番近いところに住んでいたので、車を出したり通夜でご遺体と過ごしたり、とにかく疲れていたのだと思います。私は、父がお経を聞いている間に休息が取れているなら、安らかに睡眠が取れているなら十分だと微笑ましくなりました。 しかしそれは私の考えであり、実際には父は「早く終わってくれ」と思っているのかもしれません。 ありがたいお言葉を、故人の前で私たちに聞かせてくださっているのは理解ができます。批判の気持ちは全くありません。 聞く人間により、状況によりお経を聞く気持ちがばらばらになっているのも事実だと思います。(もちろん一人一人が違う視点を持った人間なので当然だと思います。) 長い間、この儀式が続いているということはやはり効果があるからで、一言で済むかもしれない(とても失礼なことを言っているのは承知ですが)ことを、長々とお伝えいただくのはやはり意味があってのことなのだと思います。 タイトルに戻るのですが、どのような気持ちでお経を耳に入れたらいいのでしょうか? 正解というのはあるのでしょうか? ・故人のこと、生死について考えさせられる ・安らげる、眠くなる ・だるいと感じる人もいる ・時間的な拘束で、現世から引き離す(?) ・パワーを感じる ・意味を理解し、有り難がる 全てが正解ならば、それはそれで納得します。 母親が先日難病を診断され、近々お葬式をやるかもしれません。こう言っては悪いのかもしれませんが、唯一無二の葬式ですので、後悔のないようにのぞみたいです。 面倒な疑問かもしれません、失礼だったら申し訳ないです。まとまりのない疑問ですが、ご回答頂けますと幸いです。
こんにちは。 亡くなった人にもう一度会えるの方法が、なにかしらあるのではないかと考えてしまい、検索していましたら、そういう考えは仏教の教えに背くものとありました。 会えないのは当たり前なのに、少し悲しかったです。 やっぱり私が人生を全うするまでは、絶対に会えないのでしょうか。 はすのはでたくさんのお坊さんに助けていただきました。残された子供たちに主人の魂が宿っているというのもわかってます。でも、もう一度会いたいと思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょうか。主人の死を受け入れられてないからなのでしょうか。 同じ様な体験をされた方は、どの様に過ごされているのでしょうか。
父親の13回忌が来月中旬ですが、知人よりお経は上げたほうがいいという助言をもらいました。 宗派がハッキリしないのですが、納骨堂に収めてあるお寺は真言宗のようです。 最悪、テープでそのお経を流すだけでもしたほうが良いということなのですが、真言宗でもたくさんお経の種類があるようです。 13回忌に適したお経を教えてくただければ幸いです。