なぜ人間は存在するんでしょうか。 過去に忘れたいほど嫌な記憶があったり、嫌な日があったらなんで地球はでき、人間がいるんだろうと考えます。 人間が存在しなければこんな辛い思いしなかったのでは?ってついつい考えてしまいます。 毎日なんだかんだ言って学校に通っていますが、学校でもよく考えています。 最近そのことばかり考えて授業にあまり集中できてないので、教えて欲しいです。 そして、とても仲の良い友達がコソコソ話してる時があるととても気になります。 何を話しているんかな~って思い、もし自分の悪口だったらどうしようと思うのです。 友達関係は良好で信頼をとてもしています。 そういうのはつきものなのでしょうか? 私には忘れたい過去があります。 できることならやり直したいと。 心に残った傷は全く治りません。 すこしづつでもいいから、傷が治ることはできないのでしょうか? 私はいま生きてることがわけんからず、なぜ存在しているのか全くわかりません。 どうか教えて欲しいです。
(編集部より。投稿の一部を修正しています) もう気を使って生きるのに疲れました。 働いていると気を使ってばっかりです。仕事を辞めたくても妻や妻の両親にどう思われるか考えてしんどいです。 会社に行くとストレスです。 今週末旅行に行きますが、旅行から戻ったあとのこれからも続くストレス社会に絶望し、死を望みます。 仕事を辞めても、したいことがわかりません。好きなものがわかりません。今まで何をしてきたのでしょうか?無意味に生きてきて、いま絶望にいます。生まれたときからやり直したいです。ゴミです、 生きる意味って考えんねん。 でもわからんねん。 ほんで調べたら意味はないとか出てくんねん。 じゃあ意味ないやんて思うねん。 でも死ぬ意味はあんねん。 苦しみから逃れられんねん。 で死んだ時のこと考えんねん。 んじゃ悲しむ人がおるなと思うねん。 ほんでその悲しむ人って自分が大事な幸せになってほしい人やと気づくねん。 自分の大事な人を悲しませたくないから生きる。 でもやっぱり人の為に生きたくないとか思うねん。 でも大事な人が悲しまずに生きてたら、自分は嬉しいから生きるねん。 これが自分の生きる意味か どんだけ考えやなあかんねん! めんどいわ! もう私のことなどどう思っていただいてもかまいませ。 どうぞこの人生笑ってください。
私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。
今、絶対に許せない人がいます。 もう人生どうでもいいので直接、そいつか家族に復讐してやろうかとさえ考えています。 仏教では怒り、絶対に許せないことや人に対して、どう考えますでしょうか?
(すべての宗派がそうではないことは理解していますが)座禅をすることによって悟りへの道が開かれる、ということへの質問です。何十年も修行をしたり座禅をしたりすることは確かにその僧侶にとっては悟りへの一歩かもしれません。 でも、その間に途上国ではその日をも生きられるかわからないひとたちがたくさんいます。この日本でも貧困層は存在します。もしも座禅をするかわりにそのひとたちの手をとってくれたら、パンを与えてくれたら、生き延びる道を一緒に検討してくれたら、助かる命もたくさんあるはずです。 修行の道(とくに長い期間社会から断ち切る行為)というのは、ある意味で自分を選択、優先することになる、と思ったことはありませんか?(これは侮辱ではなくて、本当に疑問、のレベルです。本当に本当に悪い意味でいっているのではないことをご理解ください) 自分の道に専念するその思いは素晴らしいと思う。そして得たものを周りのひとに伝えていこうとする気持ちも。でも、現実のこの社会のなかで、仏教が天台宗で言うような「一隅を照らすひとになる」ことが大切だとすれば、それはどこか矛盾していると感じてしまうことは間違っているでしょうか。 僧侶として、途上国や先進国を問わずに、貧困や飢餓などで今日をいきられるかわからないひとたちを前に仏教はなにができると思われますか?
長文で申し訳ありません。どうぞよろしくお願いいたします。 私は小さな頃から「天才だね」「何でもできるんだね」と言われて育ちました。実際にかなりの才能に恵まれているようですが、自己肯定感が強いので、どうしても傲慢な気持ちが捨て切れません。 私は長い間、業務能力が芳しくない人と一緒に働くことで生じてしまう様々な非効率に悩まされてきたので、正直「賢くないことを自覚していない人」がとても苦手です。 正直「賢くない人と働きたくない」という思いもあり、学生の頃に個人事業を起こして順調に経営していましたが、25歳の頃に孤独なお金儲けが虚しくなり、大きな仕事を純粋に楽しむことを目標に一流企業に入社しました。 日本でも指折りの入社難易度を誇る会社でしたので、入社後は優秀な人に囲まれて本当に楽しく働いていました。「やっぱり、優秀な人に囲まれて過ごせば悩みは解決するんだ。賢くない人に関わりさえしなければ、健全な気持ちで働くことができるんだな」と感じたのです。 しかし心の底では、「優秀ではない人を見下してしまう自分」がすごく嫌いです。その人の人として尊敬できる部分を探して尊敬しようとしても、「あ、この人頭が悪いんだな・・」と感じるとどうしても上から目線になってしまうんです。 これではいけない、傲慢だ・・・と思い何度も謙虚になろうとするのですが、「頭の悪い人に対する嫌悪感」が強く、うまくいきません。 「頭の良さ=人徳」ではないことはわかっているのですが、経験上「頭が悪い人からは迷惑をかけられたり失礼な目にあう」という認識が拭えないのです。 しかし、私が人より器用に生まれたのは、自分ではなく誰かを助けるためなのだろうな、とも感じています。 どうすれば、賢いとはいえない人に対して尊敬の念を持つことができますか?
宗教とは何ですか? 宗教とは何を目指しているのでしょうか?宗教の目的がよくわかりません。 祖父母の法事等で、宗教行事に触れる機会はあるのですが、この私の人生にどういう意味があるのかが、わかりません。 宗教の目的はなんでしょうか? お坊様がたの信仰されている宗教について、その宗教とは何か?その宗教の目的とはなにか? を教えていただけたら幸いです。 宜しくお願い致します。