坐禅と好きな気持ち
昨年の9月から月に1、2回程、禅寺の坐禅会に通っています。初めは、自分探しというか、真実な私に出逢いたいというテーマで参禅していたのですが・・・。
その寺の住職に恋してしまったのでしょうか(私の片思いです)。煩悩は自分の力でなんとかしてはいけない、血で血を洗う様なもので、掴んだものは放下しなさいと住職は言われるのですが、その様にしても、禅会で住職が視野に入ってくると、せっかく忘れていた「好き」という気持ちが湧き起こり困ってしまいます。
迷いの炎が燃え盛っているそのままが、悟りの大禅定であるとも、住職は言われますが・・・・。坐禅していると余計に、切なくなるというか、どうしてこんな想いに囚われるのかと不思議に感じます。
では、好きという想いで三昧に入れということなのでしょうか。
今では、坐禅よりも、住職を一目見たい、声を聴きたい、側にいたいという想いで一杯になっています・・・・不謹慎というか、情けなくも感じています。
有り難し 14
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