仏教では動物の殺生は禁止されていますよね。 私も殺生するのは心が痛みますし、好みません。実際、つい最近までヴィーガンでした。 ですが、 「私達が殺して食べる動物も他の動物を殺して食べている。自然界じゃ楽にとか優しく殺したりなんかしない。私が殺生を拒否するという事は、生を尊んでいるようで、実は生を拒否しているんじゃないか。生死から目を背けて、向き合っていないんじゃないのか。」 と、ふと思いました。 いくらヴィーガンであろうとも、歩くとアリは殺しますし、洗濯するとダニは死にます。 もっと言うなら、植物だって生きているのに、それは良い事だと言って食べます。 革製品を使わないにしても、ポリエステルや綿や麻だって、科学薬品やゴミ処理によって環境を汚しています。それが巡り巡って、多くの生き物を殺しています。 詰まるところ、ヴィーガンもミートイーターも、何かを殺して生きている事には変わりないと思います。 ヴィーガンを経験して考え至った事は、 「自分の為に殺された命に対して感謝と尊敬を忘れず、謝罪は絶対にしてはいけない。自分の為に死ぬ生き物に対して、自分が殺す覚悟を持てないなら、自分が殺されても文句も言えない。」 と痛感しました。 凄く詰まるところ言うと、人も動物も植物も命の重さは一緒であり、人を殺して食べても、動物を殺して食べても、同じ事だと思います。 法律で赦される事でも、何かの命を奪った事実は同じだと思うんです。 だからといってむやみやたらに命を奪いたくはありません。自分の手で助けられる命は救いたいし、環境だって少しでも良くなるように努力したいです。 ちょっと話が逸れますが、アメリカのスキープレーヤーのガスケンウォーシーという方は、平昌五輪の時、韓国の食用犬の牧場を買い取り、ワンちゃん達をアメリカで里親に出したそうです。 エゴだと言う方もいますが、彼は勇気ある人だと思います。 これらは全て私の考えであり、いち意見です。 誰かに強制する気もないし、否定もしません。 ついさっき、少し思う事があったので、自分以外の方のご意見を聞いてみたいと思い、ご相談しました。 殺生について、皆様のご意見ご回答お待ちしております。どうぞよろしくお願い致します。
前回はありがたい回答ありがとうございます。 またお世話になります。 最近は日本人にも野菜しか食べないベジタリアンが増えていますが、私は菜食主義についてずっと悩んでいます。 アレルギーがあるから、宗教の関係で食べれない、なら理解できます。 でも「豚や牛だって命があるのに」「可哀想だから」という理由の人もいます。 そういった理由には疑問を抱いてしまいます。 私は小さい頃から曽祖父に「お米にも神様がいるんだから一粒だって残しちゃいけない」「食べ物全てに感謝して食事を頂きなさい」と言われていたのもあって、何故牛や豚は可哀想などと優劣をつけるのかと感じます。 牛や豚だろうが草花だろうが生きてることに変わりないと思います。 菜食主義だけでなく、イルカやクジラは賢いから殺しては駄目だ、など生き物の中で優劣をつけて保護したりするのは人間のエゴではないかと思います。 お坊さん方はどう考えますか。色々なご意見をお伺いしたいです。 よろしくお願い致します。
私は完璧主義者です。でも何事も完璧にやりきれるだけの能力はありません。 完璧な秩序のある生活や思ったことを完璧なやりきることへの執着心がとても強い人間です。だから一度のつまづきで全てを放棄したくなります。 ただ、現実に社会は混沌としています。それだけでなく、身の回りのことや仕事に完璧な秩序を保つことの能力が私には欠如しています。そのギャップにとても苦しめられています。自分で作ったルールを遵守できないこと、予想外のアクシデントで自分の計画が狂うこと、このようなことが本当に本当に苦痛です。 こんな混とんとした世界で生きることが果たして幸せなのか。娘や家族への情だってもちろんありますが、それを感じる主体がいなくなればすくなくとも私の気にすることではなくなります。おまけに私は利己的な人間です。考える私がいなくなればそれで残された人への想いも断ち切れます。 死んだら思考する私はいなくなります。苦痛を感じる器官もなくなります。それだけでこの世界を離脱することが大きな救いになると感じるのです。 死ぬことは怖いです。でもなぜ死んではいけないのか、よくわかりません。残された人は悲しむかもしれませんが、死んだ私にはそんなこと関係ないとも思うのです。 生きるか死ぬか、そのことが頭をぐるぐるしています。死んではいけないような気もしますが、とにかく死にたさが頭を覆って、でもそんな勇気はなくて、生きることに手がつきません。 死ぬことは果たして救済なのでしょうか。死後の世界については信じることはできません。それにこんな相談をするくらいですので生きたいという気持ちもないわけではないと思うのですが、この先もっと大きな挫折を味わった時、そのような自分を許すこともできないと思うのです。 この場でこんなことを質問していいかもわかりません。ただ、なんとか生きやすく生きていける方策があれば楽になれるとも思うのです。死と生について私なんかよりも深く考えておられるお坊さまに何か知恵をお借りできないかと考えています。 まとまらない文章で申し訳ありません。何卒よろしくお願いいたします。
なぜ今生きているのか。 誰もが希望に満ちあふれ、夢や目標をもって生きているわけではないと思います。 しっかりと答えられる人は多くはないのかなと。私は、 「親より先に死ぬわけにはいかない」とか「私を大切に思ってくれている人を悲しませたくはない」などの理由かなと思います。 もちろんちいさな夢や目標はありますが、生きているから生きているみたいな漠然としたものだったりするかもしれません。 仏教的な観点で、人が今生きている理由はなんでしょうか。お坊さん自身の今生きている理由でもよいのでお教えください。
殺処分や、動物実験、その他諸々について心を痛めてます。 罪のない動物の恐怖や悲しみ、苦しみは、彼らにとっての進化の過程で、必要な意味や理由があるのでしょうか? とても感情移入をしてしまい、どうすれば傷つかず考えることが出来ますか?
サークル活動としてボランティアでゴミ拾いをしております、サークル仲間とも打ち解けゴミ拾いの際も楽しさを見出せておりました。 しかし、仲間内からこのような事を言われました ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり 困ってる人や環境を救うのが目的であり それに 楽しさ を思ってしまうのは 困ってる人へ対して困ってる事を自身が楽しむ為に見ている と指摘されました。彼の話では 救命士や消防士も現場で人を助ける際に楽しみを持ってやってるとは思わないそれと一緒だ。 と言われてから 善行を楽しみと捉える事は 悪意なのか? と考えこの度ご質問させて頂きましたら
私は釣りが趣味で、友人や家族で行くのですが、これって悪い行為でしょうか。 釣れたものはなるべく持ち帰って食べるのですが、中には食べれない魚が釣れて、放してもそのまま死んでしまう事もあります。 釣りによって生活に楽しみがあるのも事実です。 そして、生活のために釣りをしているのではなく、趣味として釣りをしています。子供たちも釣りに誘うとそれを楽しみにして生活し、釣りに行けば楽しんでいます。良い面だけをとらえるなら部屋にこもってゲームばかりよりも良いのかとも思ったりするのですが、どうなのでしょうか。
こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。