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hasunoha 問答検索結果 : 「 幸せ 」
検索結果: 16364件

すべて自分が原因

最近、ある事がきっかけで初めてちゃんと自分と向き合いました。 亡くなった祖父が死の間際に、高校合格の知らせを聞いて泣きながら喜んでくれたのに、人間関係も勉強も何もかも嫌であまり学校に行かなかった事、仲良くなったのに急に相手を突き放して相手を傷つけた事、好きな事や夢のために努力し続けている人が羨ましくて嫉妬していた事、自分に価値があると思って輝いてる人に嫉妬していた事、人の意見を否定して自分が一番の状態にして努力しなくても優位になって安心感を得ていた事、夢は叶わないと決めつけていた事、親からの愛情を上手に受け取る事が出来ずに親を心の中で悪者にしたてながらもっと愛情を求めていた事、自分がどうでもいい事など、とにかく自分に甘くて逃げてばかりで幼くて情けないです。 どれだけたくさんの人に支えられてきたのか、迷惑をかけてきたのか、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 ですが、ここ最近、親や祖父母の事を思うと幸せにならなければと思いました。 自分は幸せになってはいけないと思っています。 今までの事を思うと本当に恥ずかしく、死にたいくらいです。 大学に行こうと思い直し、勉強し始めたのですが、勉強の楽しさややりがいを感じると同時に、急に勉強すらする価値が自分にはあるのかと、考えてしまい、今までにないほどの恐怖と不安と絶望にのみ込まれてしまいます。 この状況も現実から逃げているのだと思うと、本当に情けなくて涙が出て、でも涙を流す価値もないと考えてしまいます。 罪悪感は幼い頃からありましたが、比べものにならないほど強くなって苦しいです。 自分がすべて悪いので苦しくて当たり前なのですが、自殺は親が悲しむのでしません。 親はこんな私に幸せになってほしい、自分らしくいてほしい、自分の経験を活かしなさいと言ってくれます。 親には感謝してもしきれず、本当に幸せになってもらいたいです。 私は幸せになっても良いのでしょうか? 自分に価値があると思って良いのでしょうか? みんなみたいに一生懸命頑張っても良いのでしょうか? 自分で自分の事もまだよくわかりません。今までの自分の行いを考えると、傷つけた人たちに申し訳なくて、今はどこにいるのか、どれだけの人が傷ついたのかわからず、謝罪するにもできませんが、償いたいです。 私はどのように生きていけば良いのか、教えてください。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 3
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大事なモノと人生の幸福量

こんばんは。 いつもご回答ありがとうございます。 私はいま20なのですが、今まで青春というものを送ったことがありません。 人それぞれ青春は違うものであるとは思っているのですが、大事なものがあるから頑張れる!とか、ここが私のいていい居場所などがまだ見つかりません。 そして、卒業してから今も受験勉強中で大学を狙っています。 この2年間何をしてもうまく行かなくて、ずっと悩んでいました。夜も、また落ちるんじゃないか、とか不安なことが多くて夜中までずっと起きてしまっています。 私は幼少期から、母がずっと入院したり、友達に騙されたり、いろんなことがありました。 そして、いまは受験勉強をしていて、このままでいいのかな、とか、この先何か幸せだって、大事だって思えるものに出会えるのか、不安です。 そこで、私のように自分に自信がない者でも、何か人生を変える出会いなど訪れる者なのでしょうか。 人生の幸福量は、幸せな人は幸せ、そうじゃない人はずっとそのまま、なのでしょうか。 気づき、や、少しの事にも感謝することで人生は幸せになるものだとも思っています。 青春を送れなくて、いま青春コンプレックにも陥っています。 ご回答よろしくお願いします。

有り難し有り難し 53
回答数回答 3
2021/10/13

過去の過ち・後悔・前を向く方法

高校生の者です。私は過去に最低な過ちを犯してしまいました。(過ちの内容はプロフィールを見ていただけると嬉しいです)私のせいで多くの人を傷つけてしまいました。もしかすると今も苦しんでしまっているかもしれません。 今はもう二度とあんなことはせず、周りの人に幸せを与えられる人間になろうと心に決めて生きていますが、毎日後悔ばかりしてしまいます。私には幸せになる権利などないはずなのに私は今、幸せな生活を送ってしまっています。毎日自分の帰りを待ってくれている親、自分を可愛がってくれる姉達、自分と仲良くしてくれる友達に恵まれ、何不自由ない生活を送ってしまっています。私の親はよく『〇〇(私の名前)は本当に優しいね。ありがとう』と私に感謝してくれますが、心の中で『こんな最低な息子でごめん』とばかり思ってしまい、その感謝の言葉を素直に受け取れません。家族を裏切ってしまった罪悪感で胸が潰れそうになります。 私は過ちを犯してようやく自分の周りにいてくれる人達の優しさ、温かさ、ありがたさ、大切さを心から感じるようになりました。後悔しても無駄だと知りながら『なぜ私は自分のことをこんなにも思ってくれている人達がいるのにあんなことをしたんだ』と後悔ばかりしてしまいます。私は本当に愚かな人間です。情けないです。何の罰も受けていない私が今こんなにも幸せに生きてしまって良いのでしょうか。過去の過ちの後悔から前を向くにはどうしたら良いのでしょうか。 読みにくい文章ですみません。

有り難し有り難し 16
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2022/02/21

地元に対して消えない罪悪感

お世話になっております。 最近どうも心に引っかかっていることがあり相談させていただきました。 ひとことで言うと、「自分を犠牲にした友人達を思うと、私だけ自分のやりたいように生きていいのか」という罪悪感があるという悩みです。 私は地方出身で、漠然と「いつか上京するんだろうな」と思いながら育ちました。なんとなく生まれ育った町の中で生きていくのが窮屈で仕方なかったんです。残念なことにあまり好きになれなかったのかもしれません。 結果として、大学を卒業して就職したあたりで関東に住むことになり、現在は都内で自分の望んでいた環境で幸せです。 一方、地元の友人達は大学で県外に出ても戻ってきた人がちらほらいました。中にはずっと地元に住んでいる人もいました。 しばらくは「なんだかんだみんな地元が好きなんだなぁ。」と思いながら友人達と関わっていました。 しかし、そのうち彼らから、「私も結局(地元から)逃げられなかったな」や、「地元がこんな状況(寂れている)なのに東京に行ったやつ許せない」「あなたが地元に帰ってこないなんておかしい」「地元を離れるなんて親が泣くよ」など言われたり意見を目にしたりするようになりました。 地元を離れ、関東で嫁に行ったことに対し、なんとなく嫌味のような事も言われひどく傷ついたこともありました。 そして、地元の友人達の中には、自分を犠牲にしたり何かを諦めて、地元に戻ってきた人も意外といることに気づきました。だからこそ傍から見ると自由に生きている私にあたりがきつくなってきたのかと思い至りました。 結局、自分の幸せを考え、地元の友人とは全員縁を切りました。 私は今幸せです。愛する主人がいて、好きな環境で今までで一番幸せな時を過ごしています。 だからこそでしょうか、地元の友人達に対して罪悪感を感じてしまうことがあるのです。 彼らが幸せかどうかなんて私が知ることではないし、知る由もない。どんな人生を歩んでもそれは彼ら自身の選択です。私には関係ないしその責任はありません。それでも「私こんな幸せでいいのか」と不安になったり罪悪感が拭えません。 地元で関わっていた人に、あまり幸せそうに見えない人が多かったことを思い出してしまいます。彼らの幸福を推し量り勝手に憂うなんて図々しいとも思うのですが。 どうすれば楽になれるのでしょうか。教えて下さい。

有り難し有り難し 8
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2023/04/27

他人と比較する考え方をやめたい

幸せなことがあっても満たされません。 悪い方に目が行くというか、すぐにネガティブなことを考えて落ち込みます。 例えばテストで良い点をとってそのときは嬉しくてもしばらくすると「でも私より良い点の人はたくさんいる、こんなに勉強してこの点数しかとれない私なんて」と思って落ち込んだり、上司に褒められて幸せな気分になっても、「でもあの人はもっと褒められていたのに」といった感じです。 思えば昔からコンクールでも漢字のテストでも数学の課題発表でも友達との関係でもどれだけがんばってもトップにはなれず、好きな人には私より好きな人がいて、常に「私は一番になれない」という気持ちがあったように思います。 何事も一番になることがどれだけ難しいかは理解しているつもりなのに、そこに到達できない自分がダメに思えます。 そんなつもりはないことはわかるのに、十分嬉しいことがあっても、自分より(偶然そうなっただけであっても)幸せな位置にいる人を見ると「どうして?」「やっぱり私は一番になれない」と卑屈になっては落ち込みます。 先日も好きな人から嬉しい言葉をかけてもらって幸せな気持ちだったのに、他の人に私が一番嬉しいと思う言葉をかけているのを見て、一気にその気持ちが萎んでしまいました。 相手に何の意図があったわけでもないことは理解していますが、それでも悔しくて自分がダメに思えて苦しいです。 こんな自分が嫌いです。 どうしたらこの考え方をやめられますか?

有り難し有り難し 24
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2023/03/27

自分は恨まれる人間なのでしょうか。

私は今まで生きてきた中で色んな人達に出会ってきて何人かには私はその人達に酷い事を言ったり、酷い事をした覚えはないのに「○○○(私)さん、ムカつくー!」とものすごくゾクっとくるような念をもらったり、さんざん酷い事を何回も言ってきたBさんという友達と縁を切ろうとしたら夜中に「お前のせいだ!」というBさんの声が聞こえてきてそれが三日連続続いて全然眠れなくてその子と友達に戻るような事になったら、その声は聞こえなくなったり、Aさんという人には酷い祈りを込めてしまった事はありましたが、28日間謝る祈りをしましたが、Aさんの声が「○○○(私)さん、生きるのやめようか。」と気持ち悪い男の人の声で「○○○(私)、気持ち悪い」と何回も言っている声が一つの音楽に残されたり、今はAさんは幻覚、幻聴の形で出てくるようになり、一度だけAさんが自分を夜中に起こして「今すぐ死んで」と恐怖感を味わされ今すぐ殺されると思いましたが、自分の目の前に男の人の影が写ってそれで何もなかったから良かったのですが、本当に幻覚、幻聴なのか、わからなくなったりします。自分は今でも人に酷い事を言わないように。全ての命ある者には酷い事をしないように頑張って生きていますが、今でもBさんという友達は相変わらず酷い事を言ってきたりします。それでもBさんは今は自分は幸せだと言ってくるので、自分が悪い事をしないように生きている事は間違っているんだろうかと思ってしまいます。私に酷い事を言ったり、酷い事をする人は私より今幸せなのかなと毎日、周りの人を見れば自分より幸せそうに見えてしまいます。今でもAさんは幻覚、幻聴の形となっていつまでも「お前のせいだ、お前のせいだ」と言ってきます。自分はどういう心構えでいた方がいいのでしょうか?アドバイスお願いします。 もし、その人達が幸せになってほしくないと思ってるわけではないですが、お坊さん方がそう捉えてしまうなら嫌な人間ですいません。 その人達が絶対幸せになってほしくないと思って相談してないです。さっき母に「その人達は酷い事を言ったかもしれないけどその人達が幸せになってほしくないと思って恨んで相談に乗ってもらうのか。」と言われ、ものすごく自分の居場所がない気がします。自分は恨まれるような人間なのでしょうか?

有り難し有り難し 21
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これからの、老後の人生設計

これまで、何度か、いろいろ質問させて頂き、アドバイス、助言を頂き、感謝してます。 今回は、ふと、独りの時間になった時に、今後の、人生、老後の人生について、いろいろ、考えるように成りました。 今は、四人の孫達(間もなく。5人目の孫、誕生)に囲まれて、幸せを、実感、感謝しつつ、毎日を、過ごして、頑張ってます。 でも、孫達も、日々、成長する事を、願いつつも、思春期にも、なってくると、友達、又は、異性に夢中になっていくと、思うと、自分自身の、これからの、人生、老後の事も、真剣に、考えて、いかなければと、よく、思うようになりました。 よく、廻りの人からは、「貴方は、沢山の孫達に囲まれて、幸せだよね。」と言われる事が有ります。 確かに、端から見れば、幸せそうに、見えるでしょう。 でも、自分の心の中では、何か、葛藤が、日々、有るのも事実です。 これ以上の幸せを、望んでは、贅沢でしょうか?甘え、自分自身に対する、エゴでしかないのでしょうか? 今も、次女家族と、同居し、将来は、「父さん、新居も構えたら、父さんの部屋も、ちゃんと作るから、一緒に住もうね。」と言ってくれてます。感謝の気持ちで、いっぱいです。 しかし、今後の人生を、廻りに家族も居て、独りで無いのは、良く理解してる、つもりですが、不安だし、自分自身の幸せも、掴みたい気持ちも事実です。 今となって、亡き妻が、緩和ケアに居る頃、ふと、夜中に、「父さん、私の棺の中に、以前、若い頃、付き合ってた頃にしていた、交換日記が、タンスの奥に、有るから、一緒に持って行きたいから、忘れず、入れてね。」と言った事の意味を、最近、良く、考えるようになりました。 未だに、その答えが、見つからずに、居ます。 長文に成りましたが、今後の自分自身の、人生、老後について、善きアドバイス、助言を頂ければ、幸いです。 宜しくお願いします。

有り難し有り難し 21
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生きることは正しいですか?

先だって、「風俗経営者の息子として」というタイトルで質問させて頂きました。真摯な回答をありがとうございました。 あまり間をおかずに恥ずかしい限りですが、もう一つだけ質問がございます。 生きることは、そもそも正しいことでしょうか? 私は小学生の頃、宮沢賢治が好きでよく読んでおりました。その中でも好きな童話に「よだかの星」があります。よだかという醜い鳥が、迫害と、なによりも生きるために他の命を犠牲にすることを悲しみ、自らを燃やして美しい星になる話です。そんなこともあって、幼い頃からぼんやりと「他人のために迷わず自分を犠牲にできる人間になりたいな」と思っていました。 それから十数年が経ち、私はすっかり凡俗な人間になってしまいました。他人より優れたいと願い、魅力的な異性と交わりたいと欲し、美味しいものを腹いっぱい食べたいといつも思っています。 幸せになりたくて、たまらない。惨めなまま死にたくない。一般の人よりは何倍も死にやすい難病であることも手伝って、そう思うことをやめられません。 しかし、こうも思います。私が幸せになることは、他の人が掴めるかもしれなかった幸せを奪うことではないか?と。 私が何かを食べなければ、それを他の誰かが食べられたかもしれない。私があるところに就職しなければ、他の誰かががそこで働けたかもしれない。私がある女性と結ばれなければ、彼女に恋していた他の男が結ばれたかもしれない。私が公的な扶助を受けなければ、税金は他の人を助けたかもしれない。 私が生きていなければ、私がこの世界から奪い取る全ての幸せは、他の誰かのものだったかもしれない。 そう考えると、私が生きていることはあまりに非道徳的なことのように思えるのです。 私が死ぬことは、立派で、道徳的なことじゃないのか?むしろ周りの人たちに甘えて、生にしがみつくことこそが煩悩であり、振り払うべきものなのではないか?私は度々そう考えるようになりました。 自分でも、過激な考え方である自覚はあるつもりです。しかし、「自分はあまりにもみっともなく生に執着している」という感覚がどうしても拭えません。 自分が今すぐ死ねば大勢の人が助かるとしても、自分の幸せを求めて生きることは正しく、道徳的なことでしょうか? 取り止めもなく幼稚な悩みではございますが、何卒よろしくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 52
回答数回答 3