いつもハスノハを有難く拝読させております。 ほかの質問サイトと違うお坊さんのためになる回答を見て人生の糧にしています。 本題に入りますが、ハスノハを見ていると「死にたい」「生きていても仕方ない」みたいなかなり暗い質問が目立つように感じます。 実際日本の自室件数は先進国トップクラスというニュースをよく目にしますが、今の日本の暗さは何に起因するものなのでしょうか? 不景気のせいなのでしょうか? モノは豊かなのに子どもの貧困率は進むし、街に出るとマナーの悪い大人が多い。 街の中に暗い雰囲気みたいなのが低く立ち込めているような気さえします。 これからの日本はどこへ向かうのでしょうか? 宜しければ回答よろしくお願いします。
江戸時代に13万もあったと言われる寺も現在8万ありますが、更に減って5万になると言われています。また、葬儀産業の発達によりいわゆる葬式仏教も無くなりつつあります。心の問題は、精神科医やカウンセラーの役割になりました。これからの日本仏教の行方を教えて下さい。
サークル活動としてボランティアでゴミ拾いをしております、サークル仲間とも打ち解けゴミ拾いの際も楽しさを見出せておりました。 しかし、仲間内からこのような事を言われました ゴミ拾いやボランティアは慈善事業であり 困ってる人や環境を救うのが目的であり それに 楽しさ を思ってしまうのは 困ってる人へ対して困ってる事を自身が楽しむ為に見ている と指摘されました。彼の話では 救命士や消防士も現場で人を助ける際に楽しみを持ってやってるとは思わないそれと一緒だ。 と言われてから 善行を楽しみと捉える事は 悪意なのか? と考えこの度ご質問させて頂きましたら
私は就職活動を終えた大学院生なんですが 就職活動中、「社会人に必要なものはコニュニケーション能力。 だから、コニュニケーション能力を上げろ」と何度も言われたんですが、そもそも、日本語には存在しないコニュニケーション能力とやらを上げろというのは無理なことを言っているように感じてしまい。 コニュニケーション能力という言葉を聞くたびにいつも違和感を覚え、気分が悪くなってしまいます。 コニュニケーション能力って一体なんなんでしょうか?
以前から様々な方の悩み相談を拝見しており、参考にさせて頂いております、ありがとうございます。 はじめての質問をさせて頂きます。私はある大切な人との出会いをきっかけに、仏縁が出来、無神論者で虚無主義者だったところを、かなり改善することができました。 もともと私は自分勝手な人間でした。正義感はあったのですが我が強いために、独裁者に立ち向かうなどの良い行いに活かせたことも稀にあったのですが、それ以外のほとんどの面ではただの我儘な人間でした。さらに中途半端に哲学などの知識をつけてしまったせいで、反出生主義などの極端な思想に走り、その思想を家族にぶつけて困らせてしまったことも何度もありました。 好きなものへの執着心もひどかったです。自分だけがその存在を知り愛していればよいと思う一方で、それを好きにならない人間は悪趣味だとも思っていました。 つまり、私は(一般的に見て)悪人というほどではなかったものの、自分が好きな食べ物ほど他人に食べてほしいと思えるような成熟した人間では決してなかったのです。 しかし、仏教を学び始め、苦しみはまさにそのような自身のエゴが作り出していることを痛感しました。与えられるのを待つより与えるほうがずっと幸せになるということもよくわかりました。 問題は、そのことが分かった上で、仏教が理想的とする人物像に達するために、日常をどのように生きればよいのかわからなくなってしまったということです。 仏教を知らない人でもわかるような善行ならできます。でも、心の状態まで管理するとなると、例えば私は劣等感を克服して自分の容姿を肯定的に捉えられるようになり、それを活かすためにメイクするのが好きなのですが、このことはエゴへの執着となってしまうのですか?可愛い服を着た自分を可愛いと感じて自信をつけることは? 食べ物1つとっても、心が沈んでいるのをなんとかするために、好きなものを食べようとするのはいけないことなのか?と考えてしまいます。 作品はどんなものを観ればよいのか?私は児童文学が好きなのでまだいいと思うのですが、教訓のない物語を読むのは心に良くないからだめなのですか? 無学な私にどうか智慧をお授けください。お願いいたします。
久しぶりの投稿になります。 こちらで人間関係のご相談を何度もしている者です。 インターネットの世界に依存した結果、様々なトラブルを抱え込んでいましたが、お陰さまでコロナパニックの中でも順調に過ごす事が出来ています。 趣味で小説を書いていたのですがコンクールに入賞し、とある出版社からお声がけ頂きました。 自費出版で本を作らないかというお話なのですが、どうすべきかとても悩んでいます。 金額にすると350万。契約社員で働いている私にとっては大金になり、それを払うには借金を背負わなくてはいけません。 非現実的な金額でない以上断るべきなのでしょうか、このチャンスをみすみす逃して良いものかと、毎日悩んでおります。 もしかしたら一生にあるかないかのチャンスだと思うからです。 本当に支払える額なのか。 その為に今より収入の良い場所へ転職できるのか。 そうしている間に書籍化用の小説を書く事ができるのか。 今書いてる小説はお蔵入りするしかないのか。 でも今断ったら二度とないかもしれない。 と、たくさんの感情が渦を巻いています。 最終的に私が決めなければいけませんが、第三者から見たご意見を頂ければと思い投稿させて頂きました。 よろしくお願い致します。
先程も相談させていただきました。 お坊さんらしくなく、暴言!悪口!嫌味ばかり!いずれもう一度時が来れば同居しなければなりません。するにしても、何もかも一緒で二世帯住宅などにするよう檀家さんに話すつもりもないし、敷地内同居するつもりもありません。 また、当然ながら旦那は休みなし!お寺に休みは無い!というのですから、当然かも知れませんが自分達は旅行しお寺をあけます。檀家さんには隠しとけ!と言います。 他の同じ宗派のでは外出も旅行も自由です。なにもいわれないそうですし、同じ副住職の嫁さんは子育て(三人)あるので子育てと家事しかしてないし、お寺のことはしていません。 うちには娘もうすぐ一歳ともうすぐまさ赤ちゃんが生まれます。娘を四ヶ月から毎日連れてこさせ、本来私のする事を奪いながら子育てもろくにできないとか、家事もしないなど悪口を檀家さんや他の兄弟にいいます。兄弟はことある事に悪者にされたくないから一緒になって悪口を言います。 檀家さんはわかってくれていて、あの性格は死んでも治らないし、片方が亡くならない限り弱まらない。近所でも変わってる寺として有名です。 私も同居していた時ノイローゼになりかけました。旦那は好きだけど、押し付けがましい義両親とは無理かな?と思います。 あと何年同じような悩みを抱えて生きていくのだろうか?もう辞めようかな?と考えてます。 せっかくお寺や教え仏像が好きで旦那と結婚し二人目もできましたか、こんな人がお坊さんをやってること事態に幻滅し、お寺やお坊さんに憧れていた私が馬鹿みたいに思えてきました。 お寺に嫁いでこんなに人間関係に悩んでしまうとは思いませんでした。
底辺馬鹿クズな自分をどうにかしたくて起こした行動も、結局全て長続きしなかった。 今日は寒いな~と同じ感覚で、今日も死にたいな~と漫然と思うけれど、だからといって実行する勇気もなく。そこまで本当に死にたくもなく。ただ、事故や病気で早めに死ねたらいいなと夢見るくらいの憂鬱。 死ぬ気でなにか頑張りたいと思う。でも、なにをどうしたらよいかわからなくて、どうせこんな人間の人生なんてたかが知れてるので早く終わって欲しいと願う日々。 申し訳ないけれど、恵まれた環境に生まれてしまって家事手伝いという名の引きこもりニートを許されている。 ただ家事をしていれば文句は言われないのだから、自業自得で自分が結果望んだことなのだから、どうせ何も変えられないのだから、恵まれすぎているのだから、現状に満足して安らかに生きたい。 1人暮らしをすれば何か変わるかなと思い、資金を貯めて物件探しまではしたけれど、その時にどうしようもなく自分が馬鹿で底辺でクズなのが耐えられなくなった。何かを取り戻したくて高校の勉強をはじめた。資格や何かの勉強を始めようと思っても、高校の勉強も全然やってないやりきれなかった人間に何が出来るんだよ?と自分が自分を馬鹿にする声がずっと頭から離れなかったからだ。 でも、結局何も出来なかった。成人をとっくに過ぎてるというのに、何もない。 これからの底辺馬鹿クズの人生を何十年も生きていかないといけないと思うと、どうしようもなく死にたくなるが、死にたくなるだけで、結局死ねないんだろうな。 「死ぬ前に感動してください」と、いつかこれと似た質問にお坊さんが回答されていた。勝手な要約解釈だから妄想捏造になるかもしれないけれど。 腑に落ちた。死にたいんじゃなくて感動したいんだと。死にたいのは生きてる実感を得たいからで、自殺する瞬間は最高に生きてると感動出来るだろうから、その瞬間を妄想しては満たされた気になって死にたい気持ちになるんだと思う。 本当に苦しくて逃げだしたくてどうしようもなくて死にたい人には申し訳ない贅沢な悩みだ。悩むことすらおこがましい。不満など何もないのだから満足するべきだ。生かされていることに感謝すべきだ。 ただ家事してご飯食べて寝て起きればいい悩むことなんかない人生なんだから、さっさと満足して成仏したい。 めんどくさい。洗濯しよう。めんどくさい。どうにかしないと。どうでもいい。
新興宗教の3世となる女性と結婚しました。 彼女は勧誘してこないのですが、義父が熱心に勧誘してきます。 うまく付き合っていくために、いっそのこと入会してしまうのがいいかと軽く考えて入会する方向に話を進めてしまったのですが、 いざ真剣に考えると自分は長男なので守るべき墓や納骨堂があることに気付きました。 浄土真宗大谷派の寺に納骨堂があり、また祖父が建てたが納骨されていない墓があります。 その事を義父に伝えたのですが、「そんな50年以上先になることを今心配してどうする。50年も経てば考えも変わる」と取り合ってくれません。 私は父子家庭で祖父母に世話になった時によく墓掃除やお参りに行っていたので納骨堂やお墓、祖父母にとても思い入れはあります。 父がなくなった時にはもちろん祖父母と同じ納骨堂に入れてあげたいですし、自分が亡くなった時も同じ場所に入りたいのです。 そういった自分が真剣にお墓のことを考えてると言うと、某宗教に入会しても「同じ納骨堂に入れるから安心して入会しなさい」と言うのです。 「親の葬儀は浄土真宗大谷派としてできる。位牌(宗派的に位牌はありませんが)は某宗教の仏壇に置くことになるが問題ない」と。 私はできれば仏壇も継いでいきたいですが、それは叶わないようでした。 それから法華経が最高ですべてを網羅したものであるのになぜ法華経より劣る教えにすがるのかなどと話をされましたが私は現段階では一切興味もありません。 私はただ良い家族関係、親戚関係を気づきたかったために入会してもいいと伝えたのです。 しかし、婿養子になったわけではないのに、なぜ妻の実家に宗派を合わせなくてはいけないのかと思うこともあります。 義父は休日を全て宗教活動に使うほどの活動家で地位もそこそこ高いためにメンツもあり、断るのは難しそうです 私は義父の言うとおりに某宗教に入会し、納骨堂とお墓を継いでいくことが望ましいのでしょうか。 断るのだとしたらどのように断ればいいのでしょうか。
わたしは不倫で生まれた子どもであることを二十歳のときに知らされました。 それまで、自分の父親がいないことを母に聞いたことはなく、そして母が語ることもありませんでした。 本当の父親だと語るおじさんとたまにご飯にいくくらいでした。その父親だと語るおじさんからあるひ「お前のお母さんを本当に愛していてお前ができたんだよ。妻子がいたけど」という話を、二十歳の、これからいろんな未来が待っているという時に聞かされました。 正直、わたしはそのとき生まれてきてごめんなさいと思いました。わたしができなければ、母はもっと違う道を歩んでいたかも。不倫という間違いに気づいて正せたかもしれない。 父親の奥さんにはただただ申し訳ない。わたしがその立場なら、正直憎いはずです。夫を愛していればいるほど。 わたしだったら呪うと思います。それくらい許されないことだと思うのです。 その因果というのがあるのかわかりませんが、男運に恵まれません。毎回ひどく傷ついて、なんとかもがきながら立ち直るというのを繰り返しました。 でも今回どうしても立ち直れない失恋をし、きっとわたしはそもそも生まれてはいけなかったんだろうし、母以外には生まれたことを祝福されていなかったはず…恨まれているのかなと。 業というものなのかなと思うくらい、辛いです、 許されないこと、あるまじきことだとは思いますが私が生まれた意味はないにしろそれでも生きていくのが辛いです。 わたしはこれから、何を糧に何を心に抱いて生きていけばいいのでしょう。 わたしは、ただ普通に、生きたかった。ただ、祝福されたかった。ただ、ふつうの幸せを知りたかった 良くないことまで最近考えます。度胸がないだけで。 こんなわたしにも生きる意味や権利はあるのですか。辛いです。
お坊様方、お盆のお勤めお疲れ様です。 それにしてもお坊さんの僧衣、ただでさえ暑い中、何枚も重ね着してらっしゃるのは、見ているこちらが辛くなります。色だって(宗派にもよりますが)黒とか紫とか濃い色ばかりだし。どんなに暑くても袖まくりすらできずに法務を行うお坊様には心から尊敬いたします。 余計なお世話ですかね?修行を積んだお坊さんなら大丈夫? クールビズの僧衣バージョンみたいな、略式の冷感服って無いんでしょうかね。もちろん僧衣の色や形式にはそれぞれ大切な意味がある事は知っているのですが、さすがに近年の暑さは酷すぎます。 色々意見はあるでしょうが、個人的には、服装は形式よりも快適なものを着て欲しいと思います。率直な話、ジンベイや作務衣に近い服装でも良いんじゃないかと思ってます。何も僕等は服に拝んでもらってる訳じゃないんだし。 総本山にメールででも申し入れしようかなと思うのですが、余計なお世話でしょうかね。あるいは無駄な事でしょうか。伝統もあるものだし、急には変えられないとは解るのですが・・・ それとも、近年の僧衣には涼しくなるような工夫が色々されてるんでしょうか? ともあれ、お坊様方大変お疲れさまでした。 しばらくは涼しい所でお過ごしください。 (伝統を軽視するような言い方で、かえって不快にさせてしまったらすみません。またこのサイトに相応しくない質問であれば、放置して下さい。2、3日回答が無ければ削除します。)
本願寺派の門徒です。真宗では弥陀一仏に帰依する立場から、神棚を祀ったり祈祷占い等を受けたりしない決まりごとのようです。 ですが、わたしは地元の神社のお祭りには氏子として協力しますし、正月には当然のように神社に初詣に行き1年の健康を祈願します。子供の成長を願って七五三詣にも行きました。 門徒としてはこういう態度はやはりよくないのでしょうか。
こんにちは。四海と申します。質問を見ていただいてありがとうございます。 私は最近仏教の魅力を知り、ネットなどを使って仏教について調べて瞑想などにも挑戦しました。そしてあるとき突然猛烈な衝撃に襲われました。自分と周囲が共に呼吸して境目がなくなった感じがしたのです。それ以来痛みや空腹などを感じてもそれらに惑わされることがなく、心がつねに穏やかで喜びと感謝で満ち溢れています。(言語化すると非常に分かりにくい感覚なので拙い表現なのはご容赦ください。)ひょっとして悟ったのかなと思いましたが実際周囲に変化を指摘されたのでやはりそうみたいです。 ここでひとつ伺いたいことがあります。 悟りを開いたら何をすればよいのでしょう。苦しむ人々を助けたいという気持ちこそありますが16歳の小娘に出来ることなどあるのでしょうか。 母や父にはとても相談出来なかったのでここで質問させていただきました。お知恵を拝借したいです。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
結婚も出来ず子供もいません。 好きな人には好きになってもらえない運命だったんです。 死にたいくらいの嘘つかれました。私には存在価値はないとわかりました。 死んだ後も苦しみが続くとか聞きますが生きてても苦しみは続きますから自殺する事に決めました。自殺した罪を死んでから償えば極楽浄土にいけますか?