hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる
問答一覧

いじめやパワハラはなくならない?

なぜ、いじめやパワハラがなくならないか考えてみました。 結論は、「なくならない」 ネガティブ感情や言動(不徳?)によって引き起こされるのではないかと考えました。 恐怖、不安、怒り、イライラ、不快感など。 価値観の固執は、他の価値観を受け入れないことになり、不安や怒りに繋がると考えました。 異質者対しては、大多数のものは不安や恐怖の感情を引き起こします。 社会不安は、生存の危機感を生み出します。 これらのことは、動物にも見られることで、個体の生存に関わることだと思います。老若男女、人種、民族に関わらず、互いの人権を尊重することが、いじめやパワハラのない社会に近づくのだと思います。 このようなストレスマネジメントや人権教育は、本来教育が担うべきものだと思いますが、残念ながらできていないように思います。日本のどこかの学校では、カリキュラムに取り入れていると聞いたことがあります。 医療や福祉の分野の方がだいぶ進んでいて、教育で生み出した問題を医療や福祉が引き受けているのが現状のように感じます。 人間は、自分の体を含む自然現象に逆らうことはできません。ライフイベントで、ホルモンバランスが崩れることがあります。そのようなときにどう対応するのか、男女差で体の中のバランスや変化がどのように変わるのか、互いを理解することが大切なのだと思います。互いを理解できなかったり、無理に抗ったりするから、ネガティブな感情が生まれるのだと思います。 楽観的思考でも、否定的思考でもなく、批判的思考ができるようにする。 起こったことをあるがままに受け入れる。 徳を積んでいきたいと思います。 以上のように考えましたが、仏教ではどのように考えますか?

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

取り柄がなくなってしまった

タイトル通り、取り柄(具体的には勉強が出来なくなったこと)がなくなってしまったことで、自分のことを肯定出来なくなったことについての相談です。 私は、小中学校の時、勉強だけが出来る子でした。具体的には、体力は人並みなものの運動神経は壊滅的、コミュ力もぼっちになる程ではないものの平均以下という有様でした。 そんな私に対し、両親は全力で肯定してきました。というのも、私の親戚は皆学歴至上主義的な側面があり、特に母は学生時代にスポーツ少年にからかわれた経験から、運動が出来る子=悪、勉強が出来る子=善、という単純な二項対立的な思考の持ち主でした。 私自身もそのような家庭で育った上、事実自信のあったものが勉強だけでしたので、心の奥底で似たような価値観が根付いていました。 しかし、ある程度成熟していくにつれ、私の親戚が言っている論が矛盾に満ちていること、何より人と人を比べて相手を下げる生き方がひどく醜いものに見えてきたのです 以前このサイトでも相談させてもらったので詳細は省きますが、私の親戚は互いが牽制しあってるような人達で、そんな人よりも私には休み時間にサッカーをしている人達のほうが眩しく見えました。(隣の芝生は…という奴かもしれませんが) そういう人達に近づくこと、自身の家庭への反抗の意味を込める事、そして何より勉強する意味がわからなくなり、嫌いになってしまった事で、あろうことか私は唯一の長所であった勉強をやる事をすっぱりとやめてしまいました。 実際以前より明るくなったと思いますし、「相手の良いところを見つけて楽しく過ごす」をモットーとして困ってる人がいたら助けていましたが、一度根付いた価値観はそう変わらないもの、心の奥では勉強が出来なくなった自分から逃げて、その他の面で他人に認めてもらおう、という他人ありきで自分が無い事に対して嫌気がさしてしまいます。 詰まる所、私も心の底では自分は勉強しか取り柄のない奴だとわかっていたのに、親戚という小さいコミュニティだけをデータにして、勉強が出来る人=悪、明るい人=善という毛嫌いしていた母と似たような安易な結論に走ってしまった事に気づき、自分を責める日々です。(親戚のことを責めるのも、それを言い訳にしてるような気がしてできません) 学校では明るいペルソナを被り、自分のことを責め続ける日々。私はどうすれば良いのでしょうか。

有り難し有り難し 3
回答数回答 1