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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

2022/06/08

「仏教ってどんな教え?」と聞かれたら

 いつもお世話になっております。こちらの先生方のお説法を拝読し、 なるほど、と思うことがたくさんあり、有難く勉強をしております。  私には、最近仲良くなった友人がおります。なんと不思議なご縁で、 学生時代は、私の不躾な振る舞いから、私を嫌っていたのですが、 近所に住んでいることが分かってから、道で会うたび 「ロータスさん!元気?」 などと、後ろから肩を叩かれるなどするようになり、仲よくしたい、 連絡先を交換しよう、ということになり、「実は…」と、私の障害を 打ち明ける、ということがありました。  「あなたに不快な思いをさせるのが、とても怖い。不快な事が あったら、教えてくれ」 と私が述べると、 「いいよ。でも、それは、ロータスさんじゃなく、障害のせいだと 思っておくよ」 と言ってくれました。  私が、お寺や神社に頻繁にお参りすることを、この友人は知って います。「今、〇〇寺にいるよ」とスーツに半袈裟を付けた自撮り 写真(もちろん、お堂の外で撮影)を送ったとき、 「襟のその綺麗な布は何?どうして、着けているの」 と返信が来、回答に困りました。その時は、仏具店のホームページに 書いてある事を引用し、答えました。  そこで、 「ロータスさんの信じている、仏教ではどんな事が説かれているの?」 と訊かれたとき、何と答えようかと考えました。  現時点では、神秘性を強調するなどしては、霊能者や新興宗教と 同一視されてしまう可能性を危惧し(ただでさえ、世間一般には 混同されている気がするので…)、 「物事には必ず、科学的(現実的)に、言葉で説明できる原因や、 法則性がある。何かが起きたら、神様仏様のお見守りの下、その原因や 法則性を明らかにして、苦しみを減らして、地に足をつけて生きよう、 っていう教えだよ。もちろん、色んな人や物、現象への感謝も忘れずに」 と、説明しようと思っています。  いかがでしょうか?私の見識は間違っておりますでしょうか? ご評価、お待ちしております。

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主人と宗派が違う

私の実家と、嫁ぎ先の宗派が違い、どうにも馴染めず苦しいです。どうしたらいいでしょうか。 小さいから仏教に親しみのある家庭で育ちました。 毎日お題目をあげるわけでないですが、お正月や期末試験の前(!)はいい点がとれますようにと仏壇に手を合わせるような家庭でした。 法事も多かったため、気づいたらお経もなんとなく覚えています。 結婚するまでは、自分の宗派に一才拘りはなく、なんちゃって仏教徒だなぁとしか認識していませんでした。 しかし結婚し、嫁ぎ先の仏壇に手を合わせるようになると、罰当たりなことをしているような気持ちになってしまうのです。 嫁ぎ先も熱心な仏教徒というわけではなく、帰省した際に仏壇にただいまを言う程度ですが、そこで唱えるお題目が違い、自分の宗派を裏切っているような気持ちになってしまいます。 もう私は主人の宗派に変わったのだ、と割り切れればいいのですが、小さい頃から沢山守ってくださってきた自分のお題目も大事にしたい思いが強いです。 同じ仏様を信じているのに、どうにも割り切れません。 結婚して10年以上が経ちますが、未だに夜道で怖い時、心の中で唱えるのは生家のお題目です。 違う宗派に鞍替えすることは、悪いことではないのですか? 菩提寺が変わっても、心の中で違うお題目を唱えているのは非常識でしょうか。

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白骨の御文章に思う

広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが  この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。

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生きる苦しみor死んでからの苦しみ

私には生きる意味がほぼありません。 弟が重度の自閉症の為、親はそちらにかかりきり、寧ろストレスの捌け口なのか何なのか暴力を受けて育ちました。身内からはそのような調子で、他人には変な奴の家族という目で見られ、陰口を言われたり石を投げられたり陥れられたりという幼少期でした。私に味方は誰一人いませんでした。 友達もいない、自分を好きでいてくれる人も誰もいない。 何なら話をする人も誰もいない。 成長して体つきが女性になると、弟は風呂を覗いて来たり私の服を着ようとしたり、体を触りたがったりした。親に訴えても笑われて終わり。最終的には体を触らせてやれないような優しくないやつはすぐ出て行けと家を追い出された。 それでも都合よく使いたい時は親だぞと偉そうにすり寄ってくる。 子供に金をかけたら親だといって威張れるものなのか、物扱いしてサンドバッグにして、でも産んで食べさせたらそれだけで偉いのか。 子供の頃はそれでもいつか誰か判ってくれると思えた。 いつか唯一人で良い、愛してくれる人に出会える。 愛されるというのはどんな気持ちなのだろう。 そうしたら幸せな家庭を築いて、私も思い切り愛するのだと。 成長して知識がつけばつくほど、世間を知れば知るほど希望は枯れた。 自閉症は遺伝する可能性がある。 こんな血を持った私は、正常な子供を産めない私は結婚はできない。 よしんばできたとしても、相手の家族に心から祝福はされない。 何より弟も問題だが親も問題で、弟を甘やかす事しか考えておらず自閉症なんだから仕方ない、周りが配慮すべきという迷惑な考えしか持てていない。 結婚するという事は家が繋がるという事。 好きになった人に、こんな家族と親戚になるという苦行は強いられない。 それでもなんとなく生きて、だから人と積極的に関わる事もしてこなくて、ただ食べる為だけに働いて、こんな調子だからどこで働いても同僚ともうまくやれなくて、孤立しながらも朝目が覚めるから生きてる。 大切な人が誰もいない。友人もいない。 それでも生きてるのは猫を飼ってるから。 私がいないと生きられない命を大切に守るのが今生きている意味。 この子は私より先に死ぬ。そうしたら私も死ぬ。 ただ自殺は死後苦しませられると聞いたことがありますが本当でしょうか? 一人きりで虐げられながら生きる苦しみと、死後の苦しみとどちらがマシでしょうか?

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仏教徒に対する疑問パート4

それではさっそく質問です この世の最初の最初にあった無明それはなんの原因と結果で生まれたんですか? 無明を作った原因と結果それを作った原因と結果それすらも作った原因と結果 そうやって全ての原因を作った犯人を永遠と見つけれないでただ結果だけあったら 因果の法則というより因を無視した果の法則じゃないんですかね そしてその無明が業を作り出しこの娑婆の世界を作ったそして自分の存在も 最初の最初だった頃は自分は何の業も作ってないのに無明が勝手に業を作り 業の濡れ衣を着せられた自分はこの娑婆の世界へ落とされた これも因を無視した果の法則じゃないですか? ホントに最初の最初の状態 そこには原因の犯人がわからない結果だけがただ無明としてあり その無明は業を作り続けて 勝手に自分も業を作ったことにされるなら 悟りを開いても勝手に業を作らされれるんじゃないですか 無明は因果なんて無関係に悟りにも襲ってくると思います 無明は因果の法則というより因を無視した果の法則として 無明は最初の最初に始まりの原因と終わりの結果の全てを作ってしまった この世の法として襲ってくるからですよ まるで神のような速さで煩悩として悟りに追いつくと思います それなのになんで悟りはそこからも解脱できるんですか? 毒矢のたとえでそんなこと考えないで修行しろと説いた お釈迦様は無明からも解脱した根拠はなんですか? 人前で誰にも出来ない奇跡を起こしたりしたんですか? なぜお釈迦様は周りの娑婆僧とは完全に違うと周りは気ずいて その人の言うことが真理だとして宗教にしようとしたのですか? もしも何の根拠もないなら そこらへんの神を妄信するカルト宗教と大して変わらないですよね

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