私の相談をお読み頂きありがとうございます。 前回、仏壇の参り方もご教授頂き本当にありがとうございます。 その後も変わらず、お世話?お参り?させて頂いていると思っております。 今は色々簡素化されて来ており、私の周りにも、「自分が亡き後は我が子の負担になりたくないから法事等も不要だ」と申す者もおりますが、私自身は代々引き継いでもらえればと思う部分もあります。きっとご先祖様はそんな姿を見て下さっていると信じております。 またまた無知な私の質問ではありますが、仏様とご先祖様の関係性が分からなくなってきました。ご先祖様は仏様とは違うのでしょうか? 先ほども仏壇のお世話は私自身は代々引き継いで欲しいとお申しましたが、純粋なお供養の気持ちだけかと言われれば、正直なところ、お恥ずかしい限りですが見返りを求めている部分があるのかもしれません。私は適齢期を過ぎてもまだ独身であります。私がこのまま独り身で亡き後、甥なり姪なりが、どこかで私を思い出してくれれば…だから今は私のやっていることを見て、「あー、叔母さんあんなことしていたなぁ」と頭の隅にでも置いてもらいたいと思っていたします。 そして… 仏様は私たちの願いを叶えて下さるわけではなく(冷酷とかそのような意味ではないです。)温かいお心で私たちを見守って下さっているのだと今現在私は考えております。では、ご先祖様は? ご先祖様も私たちの傍で見守って下さる存在なのだとは思いますが… 悲劇のヒロインを演じたいわけではありませんし、もっともっと大変な方々がいらっしゃる事も承知ですし、こんなこと序の口だとは思いますが、家庭内で上手く行っていないことが長きに渡ったり、ずっと頑張っている婚活が全戦惨敗中で、自分の力不足を棚に上げて気持ちのはけ口をご先祖様に向けているだけなのかもしれません。 ご先祖様はご先祖様のお役目だったり修業があるのだとは思いますが、私たち子孫が温厚な日々を送れる手助けなり道しるべなりを頂戴したいと思うことは私のエゴであり愚かな事なのでしょうか? もちろん、日々私たちがこうしていられるのはご先祖様あってのことですし、軽んじているわけではなく、感謝はしており、だからこそ毎日仏壇のお世話も続けられています。
こんにちは。初めて質問いたします。 お寺や修行のドキュメンタリーを見ることが多いのですが、その中でよく修行僧の方が「○○をさせていただく」(例えば回峰行であれば、歩かせていただくという風に)という表現をよくされることに気づきました。 こちらの表現には何か元となる仏教の精神や教義はあったりするのでしょうか? 初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
1.十三仏真言を唱える時に印は結んだ方がよいのでしょうか? 2.僧侶でもない人間が印を結んでも大丈夫なんですか? 教えてください。
こんばんは。 調べてみてもわからなかったので、こちらで質問させていただきます。 親指と中指をつけ、輪を作るハンドサイン(印相?)に心当たりがある方はいらっしゃいますか。 もし存在するのであれば、そのサインの名前や意味、どの仏像に見られるものなのかお聞きしたいです(名前だけでも大丈夫です!) よろしくお願いいたします。
もしかしたら同じ質問あったかもしれませんが、見つけきれなかったので質問させてください。 現在私達夫婦は20代後半ですが、何気なく自分達が亡くなった時の事を話し合った時があり 葬儀の事やお墓の事など色々疑問が出てきました。 まず私達夫婦の実家はどちらとも南無阿弥陀の仏教ですが、私の両親は嫁ぎ先の宗教や慣しに従いなさいと言っていて、 夫の両親は夫は次男だから家の墓には入れないから好きなようにやれと言われました。 そこで、私達には娘が2人なので跡を継ぐ事は無いと思うし、市の共同墓地と言うのでしょうか…子供達にお墓の手入れなど負担をかけない様なお墓に入りたいと思っています。 ただお葬式を家族葬にしてお坊さんを呼ばないお葬式(できるだけお金のかからない方法)にしようかと話してたのですが、その場合四十九日や、三回忌七回忌等も無くなると思うのですが、魂は成仏されるのでしょうか? そもそも私の勝手なイメージですが、お墓=お寺というイメージがあり、お経を上げないお葬式を行ってもいいのでしょうか? 今回は明日死ぬかもしれないという体で話し合ったので、多分十数年生きたら考え方が変わるのかもしれませんが… 直接お坊さんから知恵を頂ければと思い相談しました。 よろしくお願いします。
お久しぶりです。お世話になっております。最近になって、自分は本当に 往生できるのか不安になってきました。 最近になって新しいモーニングルーティーンを組みました。 朝5時50分に起きて床掃除をして、6時になったら勤行(浄土宗檀信徒日常 勤行式)をする…これを最近毎日続けています。 ですが、私は法的ではありませんがたくさんの仏教的罪を犯しました。 たとえば、10代のころ追い詰められていたときにやけを起こして神棚に 石を投げたり、エアガンでお祀りされている阿弥陀如来様を撃ち、右手を 無くしてしまったり…(仏様を傷つけるのは十悪五逆、「悪心出仏血罪」に あたると聞きました)。 また、臨終の際にこの世に未練が残って往生できなかった…という風に なってしまうのではないかと不安です。 モーニングルーティーンに加え、私を支えてくださっている人たちの分も 折を見てはお念仏をしたり、虫や動物の亡骸にもお念仏しています。 お念仏以外にも、可能な範囲でいわゆる「人助け」と言われることを日々 行っています。ですが周囲からは「やりすぎ!」といわれますが…。 ですが、冒頭の通り不安になる時があるのです。本当に大丈夫なの でしょうか?
『100万回生きたねこ』を読みました。 猫が何度も生まれ変わってようやく解脱(?)するところが感動的だったのですが、仏教っぽい気がしました。 他にも、この作品のこの部分は感動したし仏教的に感じる、というようなものがありましたら是非教えて頂きたいです。
目蓮さんの最期は、過去生の悪行為の報いで壮絶なリンチだったという話は有名ですよね。 前の生は地獄に落ち、その期間が終わって、目蓮さんとして生まれて お釈迦様の弟子になる人生を生き。 地獄に行ってすら刈り取りが完了していない業があったから、リンチを受け、亡くなったのですよね? 前の人生で淫に耽り親を殺して(他の説あり)、地獄にまでいくほどの存在が、地獄での期間を終えたとはいえ、 地獄の次の人生がいきなりバラモン生まれのお釈迦様の二大弟子ですか?!と、驚いてしまいました。 よほどの凄い善因もどこかの過去生で 作っておられたということでしょうか? 2、地獄がらみで疑問に思ったこととして 別の話ですが、このサイトの問答で、或るお坊さんが、ご自身の来世は地獄だと述べておられるのを目にしました。 何ゆえにでしょうか? ご謙遜で、自分は地獄行きと仰っておられるのでしょうか? 熱心に仏道を学び、智慧と福徳の修積に努めておられるご様子なのに、それほどの生き方をして、来世が地獄だとは…。 特に悩んでいるわけではないのですが、 もし教えてくださる方いましたら、宜しくお願い致します🙇
毎朝、ご先祖様へ感謝の気持ちをお伝えしたくお経を唱えています。 実家では祖父が毎朝般若心経をお唱えしているので、私も馴染みのある般若心経を唱えています。 そのときの心待ちについてお尋ねします。 YouTubeでお坊さんがお唱えする動画にあわせて行っているのですが、正直文字を追って口を動かしているだけでいっぱいいっぱいになってしまい、感謝の気持ちをこめることができません。こんな状態でも感謝のお気持ちはご先祖様に伝わるのでしょうか。 般若心経の内容について勉強したりしていますが、まだまだ暗記することができなくて。気持ちを込めたくてもお唱えでいっぱいいっぱいになってしまって、できない自分にちょっと悲しくなります。
禅について。 座禅をしてると、この世と一体となった感覚というか、諸行無常が感じられる瞬間があると聞きますが、それは本当ですか?体感しましたか? 私は、虐待という辛い人生経験をして、きっと自分が辛いのは前世で悪いことしたんだなと気づきました。 仏教の初歩ではありますが、因縁自覚したという感覚があり、仏教の輪廻転生や諸行無常を信じてますし、感じてます。 座禅をすると、それ以上のことを感じられたりするのでしょうか? それとも、因縁自覚があれば、座禅してもそれが深まるだけなのでしょうか? というのも、私は読経や写経や掃除などはしますが、座禅が苦手で、一番続いたものでも20分くらいしありません。 このまま座禅を続けていて、その先に今までの価値観が変貌するようなものかあるか気になったからです。 どうか教えてください。
外国人です、今日本語と唯識を勉強しています。成唯識論は第七巻まで読みました。横山紘一さんの本もたくさん買いました。 でもわからない部分があります。 1 あるお坊さんは『縁起論は無因論でもなく、宿命論でもないです。選択によって世界は変わるんです』と言いました。 なら、偶然論と必然論のほかは、第三の論がありますか?第三の論はありませんよね?偶然論以外は必然論、必然論以外は偶然論でしょう? 選択によって世界は変わるって、選択自体は必然ですか?偶然ですか? 2 横山さんの本には『一人一宇宙』『一人ひとり各人の世界はその人の阿頼耶識が作り出したものであり、各別である』と書いてあります。 もし一人一宇宙なら、どうして他人は自分の宇宙にいますか?どうして他人と交流できるのですか? 他人は自分の宇宙にいるなら、他人と交流できるなら、世界は一人一宇宙ではなく、多人一宇宙になってしまうんですよね? 私の考えには間違いがありますか?間違いを教えてください、よろしくお願いいたします!
私の実家は浄土真宗、 主人の実家は真言宗です。 主人は、長男ではありません。 私は小さいときに父を亡くしたことで、浄土真宗になじみがあり、また浄土真宗の考えかたなどに救われてきたこともあり、亡くなったときには、出来れば、夫婦ともに浄土真宗でいきたいと思ってます。(片方が嫌というわけではなく、どちらも大切には考えてます) そのことについて、主人と話をすると、 主人は、こだわりがなく、真言宗でも浄土真宗でもどちらでもよいと言ってくれてます 主人の実家の宗派ではなく、私の実家の宗派を受け継ぐことに問題はないですか? 長男だとなんとなく少し大変な感じがしますが・・・ それと、そうすることは(妻の宗派を受け継ぐこと)「改宗」にあたりますか? (私は信仰心がありますが、主人はほぼなじみがないので信仰心はないです。親の宗派が真言宗という感覚です) 宜しくお願いします
こんにちは。前回の『慢』についてのアドバイス有難うございました。とても参考になりました。お陰様で、慢が出たー!と気づいたら掴まず放置してみると、勝手に鎮まるようになりました。 今日教えて頂きたいことは、以下のことです。 お釈迦様は、人々が占いを生業とすることを禁じたと 或るお坊さんから聞きました。 それは本当ですか? エピソードや出典も もし可能でしたら知りたいです。 占いという不確定なもので人生左右されてしまう人もいて、可哀想に思います。 仏法を学ぶ方がはるかに良いと思っています。
1.天部様は仏教を守護する神様ですよね 日本の神道における神々と格の違いはあるのでしょうか? 2.氣の練り方でコツなどはありますか? 私は毎日気を練る練習はしているのですが、まだまだよくわかりません。
はじめまして、お世話になります。 私は看護師の主任をしています。 3月から毎日コロナ対応に追われています。 自分が感染するのではないかと言う不安にかられながら、スタッフの体調、メンタルに気を配ってきました。 ですが長引くコロナの蔓延にスタッフの体調が悪くなり仕事ができなくなったり、怒り不満不安をぶつけてくるスタッフがいたりと、色々なことが起こり自分自身が疲弊してしまいました。 そんな中、般若心経に出会いました。 もともと信仰に関心がなく、宗教といえば勧誘、お布施、入信しないと悪いことが起こる的なイメージが強かったのでなんとなく避けていました。 ですが般若心経に触れ、「全ては空である」 体、感情、もの、全ては空と言う考え方に何か 安心?安らぎのような物を感じました。 難しくて、わかったような?分からないような?全然理解できていないのですが、般若心経を読むと少し心が落ち着くのです。 早く般若心経を読みたい、学びたいと焦燥にかられ近くの高野山真言宗のお寺さんで般若心経の経本をさっと買ってきました。 もっと般若心経に触れたいのですが、私は独身で家に仏壇もなく檀家にはなれません。 調べたら入信の制度はないようで、もっと般若心経や仏教の教えについて深く学び、私の中に落とし込んでいきたいのですが術がわかりません。 お寺さんのホームページに月二回の読経会があるようなのですが、このコロナ渦の中医療従事者の私がお寺で他の皆様と一緒にお経をあげる、お話を拝聴するのは難しいです。 本当はお香の香りに包まれたお寺さんで、自分と向き合いながらお経を唱えてみたいのですが。 まだまだ続くであろうコロナと向き合うために どのように般若心経やお釈迦様の教えに触れ、 お経を唱えて行ったら良いか迷っています。 読み方も分からないのでyoutubeの読経に合わせ読んでみたり、文献やyoutubeで学ぶのが精一杯です。 何か良い方法はないでしょうか?
宜しくお願い致します。 光明真言は何度も聞いたことがあったのですが 素晴らしい意味を持つ事を最近知りまして 毎日の習慣にしてお唱えしたいと思い 回数や合掌の仕方などは調べたのですが 家でお唱えする場合、こうした方がいいなど ありますでしょうか? 声にださなくとも心で呟く事も良いのでしょうか? お教えいただきたく宜しくお願い致します。 ふとした時に頭の中で流れる程、耳に付いております。
私はポジティブな性格でいつ死んでも悔いのない生き方をしてきたつもりでした。母が亡くなった後も、とてつもない大きな悲しみを感じながらも、母はきっと今頃は亡くなった祖父母たちと天国で幸せに暮らしているに違いない、私も死んだらそこに行くわけだから、これからは死ぬ事も怖くないと思っていました。 しかし、最近、仏教に興味を持ったので、少し勉強してみると、死んだ後にみんなが極楽浄土に行けるわけではなく、ほとんどの人はまた生まれ変わってしまうこと。それも、人間に生まれることは滅多にないということではないですか。そう考えると、もう母に会えないのかもと、また落ち込んでしまいました。 悩み相談の答えを読むと、亡くなった方たちは、他の亡くなった家族と幸せに暮らしているから心配ないなどと書かれていますが、それらは単なる気休めなのでしょうか?
日頃から仏様に対して酷いことを思ったり考えたりしてしまいます。 本当はもっと感謝をしたいし、反省すべきなのに、それも上手くできません。 今日はお彼岸のお参りに行きましたが、仏像をみて酷いことを考えてしまいました。 お参りに行く資格などないはずなのに、 お彼岸だから行かなければという考えにとらわれてしまっているようです。 汚い心はどうすれば綺麗になるのでしょうか。
以前に「近所の地蔵尊」について質問した者ですが、いつも寺社仏閣や道端の仏様(地蔵尊)にお参りした時に、「見守ってくれてありがとうございます。一日一日元気に過ごせる事に感謝します」と小声で般若心経と舎利礼文・普回向・回向文を読んでるのですが、仏様や神様失礼は無いでしょうか?