仏教の教えでは、自殺した人は地獄へ落ちると書いています。しかし、酷いいじめを受けたり親の暴力に耐えれなかったりして自殺する人もいると思います。そういう人も含めて地獄に落ちますか? もし落ちるなら、それは可哀想すぎるなと思います。最近だったら木村花さんがあんな酷い目にあい1人で抱え込んで自殺しました。彼女みたいな人も地獄に落ちるんですか?仏様の慈悲はないのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
充実した人生と空っぽの人生はどちらの方が価値がありますか? 価値という物差しを捨てる方法はありますか?あれば捨てたほうがいいですか?
先日、テレビで高野山の内部や空海さんの事をあつかった番組を見ました。 空海さんは世界が滅びたとしてもいらっしゃる。祈り続けている。 というナレーションがありました。 私は空海さんのお名前は知っていましたが、どのような高僧であられたのか等、全く知りません。 お忙しい中、申し訳ありませんが空海さんは何故、世界が滅びたとしても祈り続ける。とおっしゃったのか?そしてどのようなお坊様だったのかを教えてください。テレビで高野山を見て神秘的な何かを感じました。 同じ仏教でも真言宗のお坊様は印を組まれたり、ご真言をおとなえしたり、ご法要の時に特別な法具を使われたりととても一般人にはわからない部分(神秘的)があるように私は思いました。 真言宗の事を分かりやすく教えて頂けないでしょうか? 急ぎませんのでどうぞ宜しくお願いいたします。
仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。 釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。 インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。
昔から家は仏教徒で、私も産まれてから仏教を信じなさいと育てられてきました。 小学生の頃、学校環境になれず拒食症になってしまい、食べ物を見ると吐き気を催すようになりました。 その時に母が、「先祖が苦しんでいる。それがあなたに出てきてしまっている。きちんとお経をあげないから、ものが食べられなくなってしまったの」と教えられました。 その時は真に受止めお経を上げました。ですが、考えてみると、ストレスによるものではなかったのかと思うようになりました。 月日が流れ社会人になった時、やっかいな病気にかかり、毎日不安で泣いていました。 他の兄弟は、病気になることも無く、ごく普通にすごせているのに、私だけなぜこんなにも不幸が降りかかるのかと。 母に聞くとやはり、「先祖が苦しんでいるからだ」の一点張り。 私はただ不安な気持ちを聞いて欲しいだけなのに、私のせい、私のせいと言われ続け、仏教とは私を苦しめるものなのか?と思ってしまうようになりました。 確かに、先祖があってこその自分ではあるが、もし仮に母が言っていることが本当だとして、私ばかり苦しい思いになる理由も分からないです。 私ばかりお経をあげて、時間を使わなくてはならないのかと、疑問に思ってしまいます。 他の兄弟は、お経はおろか、仏教を信じていません。ですが、結婚もし、子供も生まれ、幸せな家庭環境を築いています。 このような場で、仏教やお経に対して罰当たりな事を書くのをどうぞお許しください。 私はどうやって生きていけば、普通に生きられるのでしょうか。お経を上げなくては私は幸せになれないのでしょうか。
昨今の陰鬱とした情勢の中、多忙を極められておられるであろう僧侶の方にご相談をさせて頂けることに感謝いたします。 私は、宗教や哲学などの学問に興味があるのですが、仏教における「解脱」という考え方に一抹の不安を覚えています。 といいますのも、この概念は様々なしがらみから解き放たれ、心が安らぐという点で素晴らしいと思う一方で、考えようによっては自己研鑽や他者との競争といったものを一蹴し、様々な枠組みを冷めた目線で見る無情で腰の引けた概念にも捉えられるのではないか、と思っているからです。 例えば、世俗では結婚を是、独身を非とする意見を度々耳にするのですが、私自身は伴侶の有無だけで人の貴賎が決まることはない、もっと言えば、そんな二項対立などで張り合いしないで平和の範疇で気楽に生きればいいのにと思っています。 ところが、ある時似たような意見を呟いた方が、ネット上で「生存競争についていけなかった腰抜けの負け惜しみ」、「生命や家族の尊さが分からない薄情者の言い草」といった罵倒を浴びせられているのを見て、この意見は既婚者の方や婚活を本気で行っている方に対して無自覚の批判や無粋な発言になり得ると悟らされたことがあります。 私自身は、特定の誰かを見下そうという気は全くないのですが、多くの人は何かと甲乙つけたがるものらしく、今に至るまで自身の本心が話せず度々肩身の狭い思いをしています。 そして、私が何より恐れているのは、この考え方を極限まで突き詰めた結果、今回の相談含め、全ての悩みについて「んなもんどうでもいいから腹でも切ってさっさと涅槃においでなさい」と強引に押し切られることです。こうなると最早立つ瀬がありません。 ただ、一つ思う所があるのは、「救世を考えるお釈迦様や僧侶の方々がそんな本末転倒な事言う?」ということです。 思えばこれまでハスノハでお世話になった方々からそんな極端なコメントを頂いたことは全くないですし、私が浅学の身で解脱という概念を持ち上げる余り甚だしい見当違いをしているとも思われます。 長々と語らせて頂き申し訳ないですが、私の悩みはこんな感じです。 今一度断っておきますが、私はこの概念を弱さの言い訳や他人を足蹴にする詭弁に使うつもりは毛頭ないです。 そのことを踏まえて、本職の方に解脱という概念について忌憚なきご意見をお聞きしたいと思う次第です。
祖父の葬儀の時に「死後の世界はこうなっています」と何層かになっている図の説明を受けました。 仏教に限らず死後の世界、天国地獄も含めて「あることは知っているでしょ」からはじまることが多く、「なんでだれも見たことないのにあるということになっているのか」が解りません。 さらに私の認識では例えば仏教はゴーダマシッタルーダが釈迦のペンネームで小説を書いてそれを各宗派の開祖が読んで読書感想文を広めた、というイメージなのです。そう考えないと宗派毎の教典の違いや祭事の違いなど差が出てくることが理解できません。 宗教が絶対のもので揺るぎがないものであれば解釈が変わったり宗派が分かれたりするものではない。会派が別れたり解釈が変わるのは不完全な創作物である証かと思います。広めるために土着信仰と結びつくなどその尤もたるところです。 かなり偏った意見になっているのですが「こういうことになっている」だけで「なぜそういうことになっているのか」「それが間違いない検証は取れているのか」を説明しているものがあれば教えていただきたいと思います。 化学実験でいえば「再現性」、こうすればこうなる、というものです。それがなければ「どうなるか解らないのに信仰するの?」となってしまいます。 また、どうしても論理的に根拠がしっかりしているものでないと認められない性格なのですが、「いやいや宗教というのはそういうものじゃないんだよ」というのがあれば教えていただけないでしょうか。
こんにちは。 最近仏像や曼荼羅などの仏教美術にすごく興味があります。 私自身も何かを作る人間なので、自分の作品にも取り入れたいと思っています。 わからない事は自分なりに調べてみてはいるのですが、仏教に関する専門知識はほとんどありません。 何となくいいなと思った程度で作品を作ってしまって良いのでしょうか? また、私の知り合いで宗教をモチーフに作った作品に誤った知識や解釈が含まれており、かなり厳しい批判をされてしまったという人もいます。 私も自分の作品をインターネットで公開したりします。作りたいものは決して仏教を貶すような内容の作品ではないのですが、宗教というデリケートな要素を含む作品は公開しない方が良いのでしょうか?よろしくお願いします。
小一の息子が最近、『隕石が怖い、どうしたら悟りを開けるの?』と真剣な顔で聞いてきました。理由をよく聞いてみると、以下のようなことでした。 宇宙に関する教材で、地球にはその昔たくさんの隕石が落ちて来たこと、そのせいで恐竜は絶滅したことを学んだ。さらに、これからも落ちて来る可能性があると聞いて、隕石に対して強い恐怖を感じている。 また、別の日にTVでたまたま見た仏教の番組で、人は何度も何度も新しい人生を繰り返し生きる輪廻の話を聞いた。そこから脱するためには悟りを開くしか方法がない、ということを知った。 だから、自分がお爺さんになって死ぬまでに隕石が落ちて来なかったとしても、次の人生がまた来てしまうから、早く悟りを開かないと、隕石の恐怖からは逃れられない!と考えて先の質問をしたようです。 毎晩思い出してしまい、眠れなくなるほどで、本人はかなり真剣に悩んでいます。色々と安心させる言葉をかけてみましたが効果なく、、専門家の皆さまのお力をお借りできますと大変有り難いです。よろしくお願いいたします。
竹内まりやさんの「いのちの歌」が好きです。歌詞も曲も心にしみるものがあります。 ところで、竹内まりやさんは、見た目、あまり仏教徒ではない感じがするのですが、「いのちの歌」って仏教の教えに通じますか? あまり仏教の知識もないのですが、諸行無常とか諸法無我にも通じるのかなと自己解釈しております。 私自身、門徒ですので、特に浄土真宗の僧侶の皆さんにお聞きしたいと思います。よろしくお願いいたします。
菩提寺がないまま仏壇を買いました。 開眼式と過去帳の記入をしたいのですがいきなりお寺に連絡してやってくれるものなのでしょうか? 宗派は曹洞宗です。
いつもお世話になっております。私が最近通い始めた法座(読経会)の お寺の住職先生が、法話や説法を邪道とみなしているようです。 法座が終了し、私がノートを片手にお経について聞きに伺うと、 「本当のことを知っているのはお釈迦様しかいないから、説いてはいけない」 「僕のいったことも参考程度に耳に挟んでおいてね」 「説いちゃいけないって書いてあるから(確かに法華経にはそんな文言が あったと思いますが)」 「もしそれを説いて、その人の言ったことを信じてしまったら、変な新興宗教 ができちゃうよ」 「お経を直接読んで、自己解釈するように」(逆にそちらの方が危険な気が… 例:理趣経。それに漢文や中国語の文法が理解できない人はどうするの でしょうか)などと言い、教えていただくことができません。それどころか、 最後の文言のように、かえって危険な事態を招きかねないことを言われます。 法句経ーダンマパダには「教えさとせ」という文言があったような 気がします。対機説法という概念もあったと思います。 それに、積極的に法話会を開いている先生方もいらっしゃいます。 この先生のおっしゃることは、信頼しても良いのでしょうか? 私個人的には「う〜ん…」といったところです。
初めての相談です。 私はこれまで、人を憎み、虫を殺し、ネットのルールも守れず、盗みを働き、 友人の物も盗み、勉強もせず、人に嘘をつき、家族に嘘をつき、酷い生き方をしてしまいました。 私はあの世について調べていました。 そしたら死んだら悪人は地獄に行く、 現代人の半数は地獄に落ちる、地獄は存在する、臨時体験で地獄を見た、という恐ろしいことが書いてありました。冗談ではない、子供の教育の為の嘘ではないのだと。 懺悔をしても、心は報われません。 死ぬのが怖いです、自主しようと思いましたが、元々家族に信頼されていないと思い、周りに影響する酷いことをしたのだと 罪悪感で、震えが止まりません。 後悔しても仕切れません。 本当に私は、悪い人間です。仏教の教えを知らずして、悪い事ばかり頭が働いてしまう自分が情けないです。 今こうして平然と生きていることが、嫌になります。犯罪者の身なんだと、見守ってくれているご先祖様や、仏様に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 過去にした出来事は、戻すことは出来ない 自分を悔みます。 怖くて苦しいです。 これからが不安になりました。いい行いを これから出来るのか、完璧にならなくては、好きなことを我慢しなくては。 毎日自分のしたことの罪悪感で心が潰れてしまいます。 現実は厳しい世界です、仏教の教えも、 やはり厳しいのでしょうか、六道輪廻という言い伝えがあるのをネットで拝見しました。苦しいことを繰り返す。 人はまた人には生まれ変わることはない。 アニメを見過ぎている私は、転生する、 命は循環している。そう今まで思っていました。そう信じて生きてきました。 限られた命、好き放題してしまって、情けないと思いました。地獄は 炙られて、切り刻まれて、叫び声が聞こえて、骨になり、活活と鬼が言うと、また体が戻される。 想像しただけでも、恐ろしいです。 いい人になりたい、親孝行をしたい、 でも自分は死後、49日も、恐ろしいです。臆病者です。純粋な頭の悪い人間です 長文で申し訳ありません。 返答よろしくお願いします
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
ある方から新興宗教への誘いがあり、お経というものに初めて触れました。 自分の人生色々あったので、懺悔とかそう言った意味での読経してみようと思い始めました。 ただ、その人と付き合い会うたびにその人のお友達を紹介され、その友達によるとSNSの情報は間違っているだのとか、 他の宗教は正しいお経を読んでいないから、うちのは正しい教えに沿っているから功徳があるとか、 持っているお守り、お札は功徳を得るには邪魔だから処分しろとか、読経を続けていれば社会がどうなろうと守られるとか言われました。 お守りやお札はとても大切なもので処分することは耐え難いものです。 宗派によってそう教えるものがあるものでしょうか。 そう言ったことを言われこの宗派での読経は止めるか迷っていますが、読経自体は辞めたくないと思っています。
子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
位牌を作る時、文字の色はどういう基準で決めたら良いでしょうか?
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
仏教では生まれれば一切皆苦 四苦八苦 輪廻からの解脱(生まれないこと)を目指すそうですが 反出生主義とある程度重なる所がありますか?