仏教が好きです。 お浄土や浄土宗、浄土真宗の教えに詳しくないのですが、お浄土に行けば逢いたい人に逢えるとは本当なんでしょうか? 人間なら誰しも逢いたい人はいると思いますが、誰もが寿命を全うしたら、逢いたい人に逢えるなんて有難い教えですね。 お浄土についてもっと知りたいのですが、お浄土って一体どんなところだと云われているのですか? それから、お浄土に行くにはどうすれば良いですか?生前の行いが評価されるのですか? 質問がたくさんあって申し訳ありません。 初歩的な質問ですが、お坊さまのご見解をお尋ねしたいとおもいまして質問させていただきました。 宜しくお願い致します。
よろしくお願いします。 母は生前いろいろな苦労をして、私も母に楽な暮らしをさせてあげられず、せめて来世は幸せになってほしいとの願いで日々仏壇に手を合わせています。 ただ、一方で疑問を抱いています。 四十九日で亡くなった方の魂の行先が決まると解釈しています。となると、既に母が誰かに生まれ変わっているのであればもう私の母としての魂はいないのでは? だとすると、拝んだり母に話し掛けても受取る人はおらず、初盆だとかお盆にご先祖が帰ってくるとかいっても(もうみんな生まれ変わっているなら)帰ってくる人などいないのでは?と思うのです。 そう思うと母が亡くなった時に親戚や知人が私に掛けてくれた、先立った母の兄弟や両親が母を迎えに来てくれてるから大丈夫だよとか、姿は見えなくてもいつでもあなたのそばで守ってくれているよとか、また会えるよとかいう言葉が虚しくなりました。 母が別の誰かとして幸せな新たな人生を踏み出しているなら勿論嬉しいです。ただ、私は誰に、何に、祈ったり笑い掛けたりしているのかと寂しくなる時があります。 勝手な想像で、母の両親兄弟、夫(私の父)らと所謂「あの世」で穏やかに暮らしているイメージを抱いたりしますが、それは四十九日の意味合いと矛盾します。 仏教では、現在母はどのような状態にあるのでしょうか。私の気持ちはもう母には届いていないのでしょうか。 或いは、私が心配を掛けてしまって母が気にして幸せに生まれ変われないなどということはないでしょうか(だとしたら話し掛けたりしない方がいいでしょうか)。 浄土真宗の住職をしている友人がいるので、できれば浄土真宗以外のお教えをお聞きしたいです。 取り留めのない長文で申し訳ありません。
仕事柄毎日お経を聞いています。 色々な宗派のお経がありますが、どれひとつとして意味(内容)が判りません。 お経は誰に対して唱えているものなのでしょうか。 残された人に対してなら、誰一人として意味を理解していないと思います。 故人に対してであれば、個人は意味を理解できているのでしょうか。 毎日聞いているせいか、唱えるのに意味があるのかという不信感が芽生えてきました。 お経を唱える意味を教えて頂ければと存じます。 宜しくお願いします。
hasunohaの僧侶の皆様方、こちらで幾度か質問させていただいておりまするると申します。 プロフィールに記載しておりますように、私はうつ病再発予防のために現在も服薬を続けております。 治療を続ける中で自分の心の問題を薬に頼り切りにせず、自身で調和が保てるようになりたいと思い坐禅を始めました。 坐禅の習慣を続けていくにつれて以前より確実にパニックや不安に陥る頻度が減り、日々を落ち着いて過ごせるようになりました。 また坐禅をしている際に、自らの内に湧いた雑念を冷静に見つめてその雑念から離れる瞬間を幾度か体験し、とても安らかな気持ちになれました。 そして、道元禅師の「ただ坐禅に打ち込む姿にこそ仏がある」という教えを、ほんの片鱗ですが理解できるようになりました。 ただ私は過去の質問で相談いたしましたが、何があっても我が身を救ってくださる阿弥陀様の教えも信条の根っこに抱いており、阿弥陀様の優しさが好きです。 坐禅をする者を阿弥陀様はどう見ていらっしゃるんでしょうか。 逆に、阿弥陀様を信じる者が坐禅をして悟れるのでしょうか。
夜遅く申し訳ございません。 僕は今年26歳になります。浄土宗総本山知恩院おてつぎ運動にも参加しています。 毎日勤行は行っています。 家族親族にいつも言われるのは、なぜそこまで若いのに仏教に興味あるのか、仏教を信仰するのは年老いてからだと。 信仰の自由を知らないんですかね。歳が何歳でも、仏教、浄土宗の教えを信仰してもいいですよね。 なぜ浄土宗かといいますと、出身の高校が浄土宗系の高校であったため、浄土宗の授業がありまして、そこで興味を持ちました。 心理の学校の先生でも、融通念仏宗の僧侶をされながらカウンセラーをされておられる方がいらっしゃいます。 その先生とはすごくお話していて面白いのでいつもお話をしているんですが、僕がこの歳で仏教信仰するのはおかしいですか、と尋ねたところ、驚いてはいらっしゃいましたが、すごく受容してくださり、こちらとしては嬉しいという答えをもらえました。 しかし、まだ自分の中にはほんとにいいのかなという気持ちがあります。ひとりで法然上人二十五霊場の寺院を訪れ、参拝し、御朱印をいただくのが好きなんですが、やはりそこらへ行けば周りの目が気になります。 なんで若いのにここに来てるの、という目線を感じます。 最後に、この歳で自ら菩提寺を探し、浄土宗の教えを信仰することはおかしいことでしょうか。 長文、ご拝読ありがとうございました。 合掌
最近仏教に興味を持ちました。 浄土真宗では、南無阿弥陀仏と称えれば救われるというのを知りいろいろ調べてみました。 阿弥陀仏の生起本末を疑う事なくそのまま受け入れお救い頂ければ浄土へ成仏を叶えていただける。 これは凄い!と思い早速自分もと思いましたが、さっぱり上手くいきません。 どうやら疑蓋というものがある為に阿弥陀仏の本願を聞き入れる事ができないようです。 ところがその疑蓋は自力で外す事はできず、阿弥陀仏に外して頂くとの事でした。 どうやって外して頂くかといえば、阿弥陀仏の生起本末をよく聞き受け入れる。 でも、疑蓋がある為に聞き入れられない。 堂々巡りです。 疑蓋とかの自覚は全く無いし、知覚出来るようなものでも無いのでしょう。 法話などは一度も聞いた事は無くネットで調べてるだけなので、いまいち理解が足りないのかもしれません。 法話を聞きに伺う時間の余裕は、全く無いのですが、ネットで調べているだけでは、疑いが晴れることは無いのでしょうか?
今年母の新盆なのですが、私は東京なのですが埼玉にお墓があります。 自宅にお坊さんに来てもらうか、お墓のほうに行ったほうがいいのかわかりません。 後、お膳やお供え物は毎日新しいものに変えるのでしょうか。 それからマンショんで部屋が狭く人数座れませんそんな時はどうしたらいいか、 座布団を買ったほうがいいのか 仏壇の隣に祭壇を置くスペースもあまりありません そろそろお坊さんにお願いしたいのですがまずどこでやるのががわかりません。 迎え方や送り方もどのようにしたらいいかわかりません。お墓から連れてくるには遠すぎると思うんですが どうしたらいいでしょうかマンションでやるかお墓でやるか。 大好きな母に幸せになって欲しいです。迷ってしまったら悲しいです。 姉が言っていたのですが お盆前にお墓参りに行くものなのでしょうか 後コロナ対策で今どんなやり方がありますでしょうか どうか教えて頂きたいです。よろしくお願いします
大学院に通う22歳です。 将来、浄土真宗本願寺派で得度させていただきたいと考えています。 しかしながら、実家は寺院ではなく、無宗教で所属寺院もなければ、現時点で私は門徒でも無いため、どのように立ち回ればよいのか悩んでいます。 近隣に本派の寺院はあるのですが、学生の身分で足を運ぶのはすこし勇気がいることで、なかなか難しいのが現状です。 もともと宗門大学で4年間仏教について学び、より深く学びたいと思ったため、今年4月からは同大学の大学院に進学しました。 得度したいと思うに至ったのは、僧侶として生計を立てていきたいという訳ではなく、この大学で4年間過ごしてきたなかで様々なご縁を頂き自分の中で信仰心が芽生えたこと、またもっと深く知りたい学びたいと思ったこと、そして自らが仏教をこの先も研究していく過程においてやはり実践者として知見を心得ることは重要になるのではないかと考えたからでした。 正直なところ、このような動機で得度したいと言って良いのか、お門違いで身のほど知らずなのではないか、と考えることもあります。この点についてもご意見を賜りたいと共に、こういった場合はどのように動き、ご縁をいただくのが良いのか、ご助言をいただきたく思っています。 何卒よろしくお願い申し上げます。
長文失礼します。Youtubeで地獄という動画を見て個人的にどうかなと思ったので質問させてもらいます。 よく自殺したら地獄へ行く。両親より先に死んだらさいの河原で石を積みあげ、無益な殺生や戦争などで人を殺したりするとそれに対応する地獄へ行き罪を償うと拝見しました。また転生の際は前世の行いによって生まれ変わる条件や生物までもが決められると知りました。欲深く生きていると豚、嫉妬深いと蛇といった感じでした。私にはそれが理解出来ません。 皆仕事や受験で他人を蹴落として上に上にと高みを目指し時には他人を恨みそして欲望の限りお金を儲ける。無益な殺生であれば蚊やゴキブリといった虫を誰もが殺すし戦争であればお国の為にと戦った兵士が何故地獄へ行くのか。自殺した人が地獄へ行くのもどうかと思います。現世でいじめやパワハラ、生きにくい世の中に絶望してその人にとっては楽になりたい、この苦しさから逃げたい、生きている方が地獄だという思いで自殺すると思います。なのに死んでからも地獄は理不尽ではないでしょうか?両親より先に死ぬのにも病気や事故、天災といった理由でもさいの河原で石を積みそして地獄へ行くのはおかしいと私は考えています。 地獄、あの世も時代と共に変化する必要があるのではないでしょうか?自殺した人で地獄へ行くのは殺人などの重い罪を償わず逃げる為に自殺した人は地獄へ、現世で苦労した末に自殺した人は次の人生では幸せな人生を送れるようにするべきです。また仏様はその人が越えられない壁は人生に作らないと聞きましたがその人が壁を越える事ができなかった時のことは考えているのでしょうか? 是非、お坊さんの意見を聞きたいです。
いつもお世話になっております。 仏教の教えに興味があり、ちょっとかじろうかななんて思っています。 実家は浄土真宗なのですが(葬儀やお盆のときにお世話になる程度)、他にも様々な宗派があり、宗派の中にも宗派(?)があることを知りました。 「これは、闇雲に勉強しても自分に合ってるところを見つけるのは難しいぞ」と思ったのですが、つまるところ「いの一番に尊敬できるウンメイの人を探したい」と言っているようなものだなとも思い、迷子になってしまいました。 あらかじめご縁のあるところにお世話になるのもいいかなと思うのですが、祖父の金ピカで豪奢なお仏壇や、来てくださるお坊さんと価値観が合わず、自分で他の宗派を探そうと思っています。 どのように探せば、いわゆる「推し」の宗派を見つけられるでしょうか。 それとも、無理に探すものではなく、「推し」のようにある日突然めぐりあうようなものなのでしょうか。
今、中村元先生の「原始仏典」を読んでいます。そこで色々な経典からお話を引っ張ってきて本を書いているので面白いしわかりやすいです。でも、この本を読み終わったらもうちょっと踏み込んで経典を読んでみたいとおもうようになりました。 そこで、皆様のおすすめの経典・これだけは読んでおいた方がいい経典などを教えてください! 私が読んだことがあるのは般若心経だけです。よろしくお願い致します🙇🏻♂️
はじめまして。毎日夜に読経をしています。 すること自体は落ち着きますし、ありがたいのですが、基本的に怠け者なのでやりたくない時も出てきます。 出家された方は朝に夕に祈念されているわけで、この程度の事で音を上げていて申し訳ないのですが、「こんなことをしていて何になるのかなあ」という迷いや、「やらないと良くない事が起きるのでは」というような妙な不安、一日さぼると二日三日とどうでもよくなってくる心が出ます。 どのようにしたら薄くなるのでしょうか?
浄土真宗について勉強しています。が、少々わからないことがあり、質問させていただきます。 諸法が無我であることを鑑みると、阿弥陀仏や極楽浄土も我ではなく実体的な本質を持たないということになるような気がしたんですが、お寺で聞くお坊さんがのお話からはあまりそういった印象を受けません。この点は、僧侶の方々はどのように理解されてらっしゃるのかお聞かせ願えたら幸いです。 唯信鈔文意や自然法爾章にそれに近いことが書いてありましたが、やはりお寺できく阿弥陀仏の救いの話とは若干の距離感を感じます。やはり阿弥陀仏や極楽は実体として捉えるのが主流なのでしょうか。
南無阿弥陀仏と唱えるときには目は、開けるものですか閉じるものですか、それとも半眼でやるものですか?
仏教の教えでは、自殺した人は地獄へ落ちると書いています。しかし、酷いいじめを受けたり親の暴力に耐えれなかったりして自殺する人もいると思います。そういう人も含めて地獄に落ちますか? もし落ちるなら、それは可哀想すぎるなと思います。最近だったら木村花さんがあんな酷い目にあい1人で抱え込んで自殺しました。彼女みたいな人も地獄に落ちるんですか?仏様の慈悲はないのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
充実した人生と空っぽの人生はどちらの方が価値がありますか? 価値という物差しを捨てる方法はありますか?あれば捨てたほうがいいですか?
先日、テレビで高野山の内部や空海さんの事をあつかった番組を見ました。 空海さんは世界が滅びたとしてもいらっしゃる。祈り続けている。 というナレーションがありました。 私は空海さんのお名前は知っていましたが、どのような高僧であられたのか等、全く知りません。 お忙しい中、申し訳ありませんが空海さんは何故、世界が滅びたとしても祈り続ける。とおっしゃったのか?そしてどのようなお坊様だったのかを教えてください。テレビで高野山を見て神秘的な何かを感じました。 同じ仏教でも真言宗のお坊様は印を組まれたり、ご真言をおとなえしたり、ご法要の時に特別な法具を使われたりととても一般人にはわからない部分(神秘的)があるように私は思いました。 真言宗の事を分かりやすく教えて頂けないでしょうか? 急ぎませんのでどうぞ宜しくお願いいたします。
仏教では無我や無自性を説きますが、それが否定するのはあくまでもインド哲学に於けるアートマンであって、日本あるいは他の文化の持つ「自我」とは必ずしも同一ではないと思います。「永続する魂」たる「アートマン」が存在しないことを理解すれば、即ち諸行無常を理解すればそれで良いのではないか、と思ってしまいます。 釈迦は八正道など自身の心がけを要することを勧めていますので、「無我」とは「ぼーっと生きる」ことでは断じてあり得ないと思います。 インド文化に住まない我々が「無我」の道を生きて行くとは、どういうことを意味するのでしょうか。
昔から家は仏教徒で、私も産まれてから仏教を信じなさいと育てられてきました。 小学生の頃、学校環境になれず拒食症になってしまい、食べ物を見ると吐き気を催すようになりました。 その時に母が、「先祖が苦しんでいる。それがあなたに出てきてしまっている。きちんとお経をあげないから、ものが食べられなくなってしまったの」と教えられました。 その時は真に受止めお経を上げました。ですが、考えてみると、ストレスによるものではなかったのかと思うようになりました。 月日が流れ社会人になった時、やっかいな病気にかかり、毎日不安で泣いていました。 他の兄弟は、病気になることも無く、ごく普通にすごせているのに、私だけなぜこんなにも不幸が降りかかるのかと。 母に聞くとやはり、「先祖が苦しんでいるからだ」の一点張り。 私はただ不安な気持ちを聞いて欲しいだけなのに、私のせい、私のせいと言われ続け、仏教とは私を苦しめるものなのか?と思ってしまうようになりました。 確かに、先祖があってこその自分ではあるが、もし仮に母が言っていることが本当だとして、私ばかり苦しい思いになる理由も分からないです。 私ばかりお経をあげて、時間を使わなくてはならないのかと、疑問に思ってしまいます。 他の兄弟は、お経はおろか、仏教を信じていません。ですが、結婚もし、子供も生まれ、幸せな家庭環境を築いています。 このような場で、仏教やお経に対して罰当たりな事を書くのをどうぞお許しください。 私はどうやって生きていけば、普通に生きられるのでしょうか。お経を上げなくては私は幸せになれないのでしょうか。