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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

煩悩も欲も消さなくていい。

煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。

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どうしても浄土真宗のお経をネガティブな解釈してしまう

どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。

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これは霊夢?亡くなった親から、お浄土からのメッセージ?

 先ほどはすみませんでした。  さて、質問の後、すごく不思議な夢を見ました。  私の大っ嫌いな育ての母が、今はもうない実家の台所で 「トルティーヤ」のような料理を作ってくれていました。  私は、 「おまえ80の声聴くのに、そんな事もわかんねえの? バカじゃん。それで親とか、笑わせんじゃねえよ」 と煽りました。右の頬に平手打ちをくらいました。  言い返そうとした瞬間突如、風景がアニメチックに変わり、 養母はワニの姿に変化、大きな口を開けて、 トルティーヤを食べようとするも、食べるのをやめて、 テーブルの上に、大切そうに皿を置きました。  そこで終了です。目が覚めて意味を理解した私は、 布団の中で大泣きしました。  でも、なぜ、ワニなのか?などと気になって、後になって 色々調べてみると、  「千手観音」「宮毘羅大将(金比羅王)=ガンジス川のワニ」 「千手観音28部衆」というキーワードがヒットしました。  「宮毘羅大将(金比羅王)」は「ガンジス川のワニが神格化」 され、「千手観音」の眷属になった。  という話が説かれていました。  養母はねずみ年、本尊は千手観音です。偶然にしても、 できすぎています。  養母は生前、私を危険に晒して喜び、かつ、過干渉で過保護な 最低な親でした。  今だったら確実に、警察や児相がすっ飛んでくるでしょう。  ですが浄土で仏様になった事で、今の私を見て、事の重大さを 理解して心配になり、慌てて飛んできたのでしょうか。  最近になって、何度も夢で会います。  お浄土からのメッセージでしょうか? だったら、今すぐ供養しなければ仏様に申し訳が立ちません。

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浮世(憂き世)

 昭和初期の演歌というか流行歌の歌詞には浮世(または憂き世)と言う言葉が頻繫に使われました。  輪廻転生が真実となれば、この言葉は重要な意味を持ちます。  輪廻転生即ち心が永久に生き続けるということは、この世に死がある限り心は現世と来世(後生)の二つの環境を持つことになります。  到達が極めて困難な涅槃に依る智慧の完成を除けば、心は二つの環境のどちらが真実の住処であるかと言うことを考える必要があります。  当然死を伴う現世より来世が真実であることは明確です。  そこで現世に憂き世と言う言葉が使われるのだろうと思います。  現実に現世を生きることは大変です。  空気と水は兎も角、食料は殺生を伴うものが大部分です。  五戒にある如く殺生は悪の根源です。悪人でなければ生きることはできません。  しかし生きる為の必要悪ですから、ここから弱肉強食の世界が広がります。  現在の世界情勢の表れもこれが根源でしょう。  死ねば殺生は無くなりますが、心がそのままでは、再び転生が繰り返され、殺生を余儀なくされます。  現世では来世に留まるべく心の修行が必要になります。  これが仏教ではないでしょうか?

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十善戒の教えは、守りやすい順番に並んでいるのですか?

はじめまして、お忙しい中恐縮ですが、気になることを質問をさせていただきます。 私は読書ブログで本を紹介させていただいたり、本の内容を暮らしの中で活用したお話を書いています。 仏教の本は、暮らしの中で自分も相手も気持ちよく暮らせる取り組みが多く、よく紹介させていただいております。 先日取り上げた本には、十善戒について書かれた内容があり、暮らしの中でできているかを当てはめてみました(心に思っただけのことも入れて自信を持ってできる!といえるコトは1つだけですが…) 本では十善戒を、①殺生しない、②盗まない、③性において淫らな行為をしない、④嘘をつかない、⑤意味のない流行り言葉を使わない、⑥悪口をいわない、⑦二枚舌を使わない、⑧貪らない、⑨愚痴らない、怨みや妬み羨み怒りの心を持たない、⑩愚かな考えをおこさない、と紹介されていました。 実際に暮らしに当てはめてみると、「暮らしに合わせて3つに分けられるのでは?」と思えてきました。 ①〜④までの教えは、最低限、「生きていく」のに守らなければならない決まり。 ⑤〜⑦は、家族と仲良く暮らしたり、地域や会社でトラブルを減らす「社会で暮らす」のに欠かせないこと。 ⑧〜⑩は、自分の心の中の出来事でもあるので「幸せを感じる」のに必要なこと。 ちょうど順番通りになっていたので、もしかしたら元になったお経でも「こうなっているのかな?」、まとめていてふと思えてきました。 十善戒の中で「生きていく」ための決まりは守りやすく、後半の「幸せを感じる」のに必要なことはとても難しいと感じます。 教えの元になったお経では、順番によって守りやすさはあるのでしょうか? 解説書などでは、何かしらの分け方があるのでしょうか? 専門家のお坊さまに、お時間のあるときで構いませんので教えていただきたく思います。 緊迫する悩み事ではありませんので、本当にお時間のあるときで構いません。

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浄土真宗の教えについて3

おはようございます。 今回も引き続き浄土真宗の教えについての質問です。 昨日文法様に教えて頂き、私というものがいかに自我という錯覚に踊らされ執着し、分別に苦しめられているのかという事がわかりました。仰る通り自分にとって都合の良い物は欲しいし悪い物は遠ざけたい。 そしてこの道理を知った所で「はい、そうですか。では自我の錯覚を見破りますね。」と簡単にはできそうもありません。 吉武文法様の御回答より引用 〉煩悩を煩悩と知るところに、煩悩の身のままでも煩悩を引き受け、煩悩を活かしていける道が開けれるという救いです。 1、この煩悩を活かしていける道というのは具体的にどういう事でしょうか? 「道理としては病む。でも病気になりたくない。これは煩悩だ。でも何とかしたい!病気になっても治せる様に医者になろう!」という様な事でしょうか? 病む事に変わりはないけれど、少し安心し救われる。安心して迷っている。という様な。 〉これは味わいが強い表現ですが「安心して迷っていける、悩み苦しみ切っていける」とも言われます。 2、ここも具体的に文法様の例えやすい物で構いませんので何かに例えて教えて頂けないでしょうか? 本当は正確には言葉にできない所の様な気がしますし、もしかするとすべきではない様な気もしますが「安心して迷う」という一見矛盾している様なこの表現や「悩み苦しみ切る」という一見普通に過ごす以上に辛そうに見えるこの表現に文法様が込められた真意に触れさせて頂きたいのです。 文字数の関係がありましたら、2の方の質問を優先して御回答下されば幸いです。どうぞよろしくお願い致します。

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浄土真宗の教えについての質問

浄土真宗の教えについて質問があります。 悟りの反対が迷いだとして、迷った時に阿弥陀様のお力を心底信頼し、私は大丈夫なんだ!と思う事ができたら迷いがなくなる。それは最早悟りで極楽である。という理解でよろしいでしょうか? 仮にその様に考えると、悪人正機説で親鸞様が仰りたかった事は、「迷いの多い人の方が南無阿弥陀はよく効きます。」という事で、善良な市民や、悟っているお坊さんを批判したかった訳ではなく、犯罪者を特別庇った訳でもない。という風に考えられます。 ところが、浄土真宗のお坊さんのお話によりますと、「現在、この世は末法の世界のため親鸞様は生きている間に悟られる事はなかった。」とお聞きしました。 そう考えますと、私が今、いくら南無阿弥陀と唱えようとも悟る事はなく、この世では楽にはなれない。苦しいまま。という事にならないでしょうか? 私は阿弥陀様の本願、お力を心底信頼し、南無阿弥陀と唱えた時の心のあり様が悟りで、極楽浄土ではないかと思うのです。 それとも、極楽浄土という別世界が西のどこかにあって、生きている間は苦しいままですが、死後苦しみのない極楽浄土へ行くのでしょうか? だとしたらそこには何が行くのでしょうか?魂でしょうか?肉体でしょうか?心なのでしょうか? お手数ですが、回答頂けましたら幸いです。

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遺品について

先日、母が亡くなりました。 母へは親孝行は何も出来ず、避けていた部分もありました。 寂しく悲しかったと思います。 親子関係は、仲良し親子というものではなかったと思います。 私とはうまく行かないけど、でも元気に楽しく過ごしていてもらいたい、という自分勝手な思いでいました。 今では自分があまりにも子供であった事に気付き、 申し訳ないという気持ち以外ありません。 母がたった一人で亡くなった部屋には布袋様の置物がありました。 傍には祖父母の写真が飾られていました。 この布袋様は私が小さい頃に祖父母の家に置いてあったもので、 当時、私は寂しい事や悲しい事があると布袋様の笑顔をじーっと眺めていました。 祖父母が亡くなった後に、母にその布袋様の事を「形見に欲しかったな」等と話したことがありますが、 その時母は、自分が持っている事を私に内緒にしました。 「誰かが持っていったかなぁ」程度で流していたような記憶です。 なので、もういないと思っていた布袋様と再び巡り合ったのですが、 当時母は持っていても私にあげるとは言ってくれなかったし内緒にしていたものです。 大事にしていたのだと思うのです。 それに私は他のきょうだいに比べても母に好かれていた自信がありません。 私が安易に引き取ってもその存在感から、後でやはり自分には重い。 と感じてしまうのではないか?という心配もあります。 絶対に生涯共にして大切にするのか? というと自信が沸いてきません。 布袋様と再会した時は是非うちに来て頂きたいと思ったのですが、 よくよく考えているうちに、これは私が引き取るよりも、祖父母の写真と一緒にお寺に引き取って頂く方が正しい選択のような気がしています。 (私との会話は母は忘れていると思います。覚えていたら誰も持って帰らないように自身で整理済みだったかもしれません。) お坊様方ならどのように感じますか?

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