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「仏教」を含む問答(Q&A)一覧

仏陀の教えではない仏教。

カクヨムなどの小説投稿サイトでムトウゲンジ名で人間の真理の考察しております。 とりあえず自分の行き着いた人間の真理が仏陀に近い事は理解しました。 仏陀もまだ甘いですがね。 そこで質問。 仏陀は死んだ後とかそんな事は教えてないよね? 人間が人間として生きる道を説いていた。 どう生きたら良いかを説いてました。 生きていくための道をですよ? なのに念仏唱えりゃアータラコータラ。 極楽だ浄土だ。 昔の高僧が栄養不足の睡眠不足でトリップした妄想を大事に残してこれが仏の教えとか仏陀をバカにしすぎてないですか?仏教全般。 仏陀が生きていたら仏教の信者に助走うつけて殴り付けるレベルまで落として仏陀の教えバカにしまくり。 本当にそれにすら気が付かないぐらい何も考えないのが修行なんですかね? 悟りの境地ぐらいあちこちの人がしてますよ。 アインシュタインから宮本武蔵、今はイチローと下手したら江頭2:50もね。 昔のシリアルキラーもしてた可能性高いのはいますね。 仏陀が半端な知識なため善人しかできないと思っただけで。 自分も到達しましたしね。 さて? 仏教なんぞしてると悟り開くのは無理なのになんで悟りだのなんだの言葉を使うか知りたい。

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仏教ウェブ入門講座というサイトで仏教を学ぶ事が出来ますか?

今年は色々あって「自業自得」を身を以て体験し、胸が苦しくなる日々を送っていました それで、ネットでたくさんの情報を得て却って混乱し、苦しみを増幅させた感じです そんな中でこちらに出会い、いくつか相談させて頂き少しずつ心が軽くなっていくのを感じており、大変感謝しております それでも気持ちは常に揺らぎ、ネガティブ側に引っ張られ暗い気分に陥り、ネット内の心理カウンセラーやスピリチュアル系サイト発信者に頼りたくなってしまいます 考え過ぎなのだと思うのですが、今までに見てきた情報の殆どは「潜在意識を書き換えれば世界が変わり幸せになれますよ」という内容なので、「潜在意識を変えなければ!」という焦りが生じてしまいます 頭のどこかで「早くその方法を教えてもらい気持ちを楽にしたい」という思いがあり、飲み込まれそうになります その一方で、それらは【商売】なのだ!、という信じ切れない気持ちもあり、踏み留まっています hasunohaを知り、お坊様からのご助言やお優しいお言葉を頂くとホッとする気持ちになりましたので、仏教を学ぶことが「心の平穏」を得ることになるのではないか、と思うようになりました そこで、表題のサイトを見付けて少し読んでいますが、本当は実際にお坊様から仏教の真髄を分かり易く教えて頂き、「安心」を得たいと思っております 当家や実家に来て頂いているお坊様からは、教えて頂きたいお話しは聞けそうにありません 実家の宗派は「浄土真宗」で、主人側は「真言宗」です 仏教の根源は同じで、それを親鸞聖人や弘法大師方々のご解釈(?)によって宗派が分かれたのですか? また、浄土真宗の【南無阿弥陀仏】というお念仏は、いつでも何処でも唱えて良いのでしょうか? 上記サイトでは、「【南無阿弥陀仏】とは、無明の闇を晴らしてくださったときの御礼の念仏」とありました むやみに唱えるものではない、ということですか? お聞きしたいことが色々あって記載内容が支離滅裂ですが、要は「仏教で救われたい、平穏の心で過ごしたい、それにはどうすれば良いか」、という事をお聞きしたいのです その為には、仏教を学ばなければいけないと思うのですが、どのように学べば良いのでしょうか? 標題のサイトにも「無料メール講座」があります こういう形でも学べますか? 仏教なので、今までのように混乱に陥ることはないでしょうか?

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非我説(無我説)と我見

非我説(無我説)と仏陀の否定した我見について、差異が知りたいと思います 因果論も関わるかもしれませんが、私は「生き物は縁によってその在り様を生じる」と見ています そしてその見解は基本的に「仏教の見解と一弦する」と思っています しかしこの「生き物は縁によってその在り様を生じる」と「五蘊が我である」と言う「我見」は非常に親和性が高い様に思います そして、「我見」は仏陀によって否定されています 「行為」としての戒めであれば「我見を否定する」のもなんとなく分かるのですが(丹下さんありがとうございます)、 「事実はそうではないからそう見てはいけない」だとすると「え?それだと事実五蘊が我なのでは…?」となってしまいます あくまで仏教は実践宗教であって、真理や真実を追い求める様な科学や他の宗教とは違う、 とすれば、私がそもそも勘違いしていただけなのですが、仏教が余りに優れて科学的(妄想的な所が少なく真理と真実を良く見通している)せいもあってか、 特に「我」と「因果」については「真理や真実」の話だと思っている部分があります この件についての誤りについて教えて頂ければと思います この見方についての補足ですが、 そもそも私の仏教に対する興味がそう言った真理や真実からであったせいがあると思われます もっと言うと「正しいからそれをしてよいしそれをした方が良い」みたいな感じですね 恐らく悟りについても私の中ではそのような物だと思います 「悟れば苦しくないよ」と言われて「じゃあ苦しみたくないから頑張る」と言う領域ではないのだと思います 「善くなる」の「善さとは何か」とかそう言った部分はさておき「少しでも善くなりたいだけなら図書館にでも行きなさい」と言われたら、図書館に行ってしまうような状態ですね 仏教が一般的な意味での善悪からは外れた彼岸にあるのは分かっているのですが、ただ己の為にそこに辿り着くと言う類の物ではなく感じているせいだと思います

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悟りと解脱、輪廻転生について

こんにちは。 これだけこのサイトにお世話になりながら、悟りについて良く考えた事がありませんでした。私の考え含めて質問させていただきます。 仏教の入門書だとよく「修行の完成」→「悟りを開く」→「輪廻の苦海から解脱」と解説されています。 しかし自分はこの解脱と言うか、輪廻転生が今一つピンと来ません。 生前や死後については無記とするのがお釈迦様の真意に近いと思うし、 輪廻とは一種の比喩と考えるのが適切と思うからです。 実際、輪廻を考えると色々と矛盾が生じます。 例えば虫の輪廻転生。一生無心に鳴き続けるセミ等に「善行」「悪行」などあるのでしょうか?善行を積んだセミが高次の存在に転生し悪行を積んだセミがさらなる悪趣に落ちるのだとしたら、誰がそれを判定するのでしょうか? そのような超越的な存在(判定者の類)は仏教では否定されるのではないでしょうか? となると、悟りも輪廻転生を前提にしている限り、よくワカラナイものになってしまいます。 悟った覚者は転生せず、凡夫が転生する・・・のでしょうか? だとしたら悟ったかそうでないか判定者がいる事になります。 (ここでまた超越的な判定者の問題にぶつかります。) 悟りによって体質と言うか、魂(?)の質が変わるとでも言うのでしょうか。 じゃあ輪廻とか死後が無記なら、結局「悟り」て何なの?って話になって 頭の中ぐるぐるで何だかよくわかりません。 こんな考えって戯論でしょうかね? お考えを教えて頂ければ嬉しいです。

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