仏教のパーリ聖典にはボーディサッタ(菩薩)は地獄に行かないとの記述があるのですが、ほかの仏典ではボーディサッタは地獄に落ちたという記述があります、どちらが正しいのでしょうか?
ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。 そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。 もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。 お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか? 本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?
レタスの葉の一部やお米粒を少し、食前や調理後に生飯偈を唱えて、庭に置いているのですが、大丈夫でしょうか? 毎度、要領を得ずに質問して申し訳ありません。
先日、初めて座禅会に行きました。 そこでの指導で「座禅中は、目を瞑ってはいけない」と言われました。 理由は目を瞑ると眠くなるからです。 僕は目を瞑っても眠くならないし、目を瞑ったほうがやりやすいです。 眠くなるからという理由だけなら僕は眠くならないので目を瞑って座禅しようと思うのですが他に目を瞑ってはいけない理由はありますか?
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
前回の質問では 自らの生き方について相談しましたが、 今回はネルソン・マンデラ氏の名言について単純な質問です。 ネルソン・マンデラ氏は数々の名言を残しています。 「遺恨の念は、毒を飲んでおきながら、それが敵を殺してくれると期待するようなものだ。」 や 「大きな山に登ってみると、人はただ、さらに登るべきたくさんの山があることを見出す。」 などなど、 何となくではありますが、 案外考え方は仏教に近いのではないだろうか。 と、思いましたので 実際にお坊さんの声を聞いてみようと思い、質問致しました。
初めまして、ちかえもんです。 悩みというよりはずっと知りたいと思っている事なのですが、 ここに書いてもよろしいでしょうか。 6年前のこと。離婚をして2ヶ月ほど経った頃に 辛さで軽い心身症になり、心療内科で話を聞いてもらっていました。 普段から夢は良く見るのですが、その頃に印象的な夢を幾つか見ました。 そのー1つが、仏像の夢です。 無音で動きはなく、坐禅の時のような座り姿で、両手を其々 膝頭に 掌を上向けて 置いている金色の仏像が私を見下ろしていました。 ただそれだけの夢でした。 その仏像の夢はそれ一回だけしたが、ずっと記憶に残っています。 どこかのお寺の仏像なのかな? 私の心の中の仏様が姿を見せてくださったのかな? またあの夢は何か意味があったのかな? いつか分かると良いな、などと思っております。 先ほど、このサイトを見つけ、もしかすると何か分かるかな、と 思って書き込み致しました。 あの時の心身症は3ヶ月ほどで治り、 今は毎日仕事に趣味に精を出しています。 始終夢の仏像の事が気になっているわけではなくて、 今は、たまに そういえば、、、と思い出すぐらいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
久しぶりに相談させていただきます。もし過去の相談に答えてくださっている方がおられましたら、その節は本当にありがとうございました。 最近、日常生活の中でしんどいことやつらいことが多く、もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあります。そのようなことをこの前、クリスチャンの友人に相談したところ、彼女はしんどい時は神様に「状況がよくなりますように、神様支えてください」とお祈りするのだと言っていました。 そこでふと疑問に思ったのですが、浄土真宗(家の宗派なので、他は詳しくなくてすみません)では南無阿弥陀仏とお唱えすれば極楽に行けるといいますよね。しかし、今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか。仏様にお願いできるのは極楽に行くことだけなのでしょうか。 もしよろしければ教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
最近、人の寿命は予め決められていると聞いたのですが、それはどんなにお金を費やして健康に気をつけたりしても変えられないものでしょうか。 運命には抗わないほうが正解なのでしょうか。 仏教の智慧をお借りしたいです。
日本の仏教ならではでしょうか。はっきりとした要因があるのか興味があります。
例えば、自殺するつもりは無かったけど、台風で荒れ狂う海へ泳ぎに行って亡くなった場合、それはあちらの世界で自殺として処理され、地獄へ行かされるとかあるのでしょうか。
浄土教(浄土宗あるいは浄土真宗)の深い信仰に入りたいと思っています。もちろん出家ができればベストなのでしょうが、なにしろ仕事もある身ですから、在家のまま信仰が持てればと思います。勇気を出して近くの浄土真宗のお寺に見学をお願いしたこともあるのですが、門前払いの対応に落胆し、それ以後どこの寺院にも連絡できていません。昔の日本ではお寺は「駆け込み寺」であり、もっと庶民にも門戸が開かれていたそうですが、近年は本当に「葬式仏教」になったのでしょうか? ただ、そうも思いたくはなく、深い信仰をお持ちの僧侶もおられるに違いないとも思います。ご自分の体験から、在家のための信仰の入り方についてお導きください(ちなみに、仏教関係の読書はある程度は広く浅く行ってきました。もう200冊以上は読んできたかと思います)。
なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。
仏教は、悟りや解脱や涅槃に至る為のツールです。 哲学が好きな私は客観的に考えを深める事が好きで、苦しみの原因を抽象的に考えて気づきを得ようと問答でも具体性というより根源的な答えを求めておりました。 しかし私の書き方は、何故か肯定的に捉えられません。 皆さんは私を精神疾患だからとスティグマを貼るのはわかります。また疾患に対してのスティグマがあるように思えます、私は寛解しておりますし、発達障害での通院であり特別大きな"何か"があるわけではありません、また今苦しんでる発達障害は疾患ではなく障害です。必死に真面目に生きております。 私はとても不幸や苦しみに悩まされており、それをきちんと言語化して対処し、アドバイスをこなし哲学的に考え努力し改善し感謝して実践しています。 しかしとんでもなく不幸なのです。捉え方ではもはや気休めにもなりません。何度も書いてますが親を目の前で殺されて全身火傷に塩を塗られて捉え方を変えるなど無意味なのです。 誰からも理解されません。社会や医師や家族や友人、知人、異性、職場、ソーシャルワーカー、そして仏教。。。 運命というか世界は私に拷問をしているようです。遺伝子配列に始まり、私の人生の全ては拷問のようです。 私を唯一理解してくれ救ってくれるのは、私と同じような発達障害や生きづらさで人生苦しんだエジソンやゴッホなどの偉人の生き様や思考だけです。 私には救いはないのでしょうか。 まだ救いが来るのは早いと此方のサイトで言われてもう数年経ちます、結局私は人に感謝をしてその感謝にゲロを吐かれるような人生です。 "ジョーカー"という映画が今、流行っていますが私はあれより酷いかもしれません、他者に施した優しさや感謝が純粋な悪に変わっても何ら違和感がありません。 ニーチェの永劫回帰ってありますよね、まさに私の人生はアレです。人生めちゃくちゃで苦しんでも毎日雨ニモ負ケズの精神で毎日毎日偽の希望を持って折れずに笑って生きて、アホらしくなります。 色んなことを試して毎日毎日苦しい気持ちを押し殺して毎日毎日毎日ずーっと苦しんで、いつ私に救いが来るのでしょうか? もしこのまま私が死んだら何だったのでしょうか? この苦しみなんだったのでしょうか? 救いってやはりないのでしょう? 生まれて毎日毎日虐待されて死んだ人とか救われたのでしょうか?
特定の神を信仰しない仏教は、宗教というより実践的な哲学集団という側面が強い気がするのですが。
先日祖母が亡くなりました。 理由をつけてはなかなか施設に会いに行けず、後悔しかありません。 祖母はよくお経をあげていました。 私も横で手を合わせて一緒に読んだりしていましたので、おばあちゃん孝行が出来なかった分、せめて次の法要ではお坊さんに合わせて心の中で読経したいのですが、どの章(例えが分からないのですが、沢山お経の種類があったので…)を読み上げるのか知りたく質問させて頂きました。 お忙しいとは存じますが、何卒宜しくお願い致します。
智慧とは例えば人にやさしくするといい雰囲気になる。おかしい人にはトラブルのもとになるので近づかない。自分の心を整えることが幸福な人生を送るうえで大事。 こういうのが智慧でしょうか? 自分を含めた生き物はこうすればこういう結果になると知るというのが智慧でしょうか?
仏教には大日如来、不動明王、観世音菩薩などいろいろな仏様がいますが、仏教の始まりは仏陀が悟りを開いて、それを他の人々に教えたのが始まりですよね。 それならなぜ一神教ではなく、多神教になったのでしょう。仏陀の教えを信仰するなら仏陀一人を信仰するのが自然な流れではないのかな…と考えました。 いろいろな地域に広まるなかでその土地の神様と混ざっていつのまにか増えていったのでしょうか?
まず、瞑想と座禅は違うものなのかを知りたいです。違うのであればどう違うのかを教えていただきたいです。 次に瞑想と座禅をどのように学べばいいかという事が知りたいです。インターネットで聞いた話だと教えるのがうまい人から教わらないと成功はしないと聞きました。 よろしくお願いします。