仏教における教義というか、入門を学びたいのですが、どうすれば良いのでしょうか? 例えばキリスト教なら教会に行けば講座をやっていたりしますが、お寺に行ってもなかなかそういったものが見つからない気がします。そういった講座などはあるのでしょうか? また自学するにしても、キリスト教における聖書のようなわかりやすい正典もなくどこから手をつけていいのかわからない状態です。 どうか知恵をお貸し下さい。宜しくお願い致します。
なくなった祖父の写真を「南無妙法蓮華経」と拝もうと思っているのですが唱える回数など決まり事はありますか? また、仏具は全くありません。 必要な仏具などはありますか?
恥ずかしながら仲の良いネッ友の方に数珠を頂きました。その方がその数珠を使っていたのかも分かりません。 その数珠が私の手元にあることによって悪い事が起きたりするものなのでしょうか? 呪われたり、変なものに憑かれたりしないかなと不安です。 人に悪い影響などがあるのかどうか教えていただきたいです。
毎日の勤行で使う真言宗の経本を探しています 色々な出版社から出ており、どれが良いかわかりません 真言宗の毎日の勤行で必要なお経が載っているもの(般若心経、理趣経含む) フリガナがついているもの フリガナが古典読み?ではなく、現代読み?のもの オススメの経本はありますでしょうか?
私は子供の頃から仏教の法事の時のお経の後のお坊さんのお話が大好きでした。なんだか心があらわれるような報われるような気持ちになるからです。 故人親の法事で、参列者は生存の親、子世帯1(子、配偶者、孫) 、子世帯2(配偶者、子なし年齢的に諦めた) の場合、 お経の後のお話で、子孫繁栄について触れることはありますか? 先日、他の派生系宗教の法事で、お経の後の説話で、信者ではない私達子なし夫婦の前であからさまな子孫繁栄万歳話し、子孫を残すことのみが最高の親孝行話しが繰り広げられ、私は内容に酷く傷つき鬱状態で、死にたい気持ちです。私は純粋に故人を思い出し、感謝し、今の自分達が立派に生きてますよと、生きてる親を大事にしますと思いたかっただけなのですが全て打ち砕かれました。 仏教の場合、私達の様に子なし家族が混在する小規模な法事の場合、どの様なお話をされますか?
人生を生きるのがつらくて仕方ないです。 悲しくて、孤独で、痛くてどうしようもないとき、お布団に抱きつきながら『仏様に抱っこしてもらっている』という想像をよくしています。 そうすると涙が出てきて、少し心が和らぎます…。 阿弥陀様とお地蔵様が大好きなので、特にその御二方を想像します。 でもふと気になったのですが、これって仏教的にはどうなのでしょう…? 仏様の身体に触れる(ましてや抱きつく)想像をするなんて、失礼でしょうか?
通学路にお地蔵さん2尊と謎の石碑(どちらも人の膝丈くらいの大きさ)がいらっしゃいます。墓地と隣接しているので,おそらく墓地のお地蔵さんなのだと思います。 人通りが多くて手は合わせられないものの,おはようございます,程度の挨拶をして前を通っています。 片方のお地蔵さんには赤い毛糸の帽子と前掛けがかけてあり,もう片方のお地蔵さんには何もない状態です。 見ず知らずの全く縁のないお地蔵さんに赤い前掛けを差し上げてもよろしいのでしょうか。 墓地の責任者の方もわからず,その墓地に誰か縁のある人がいるわけでもなく,ただの通りすがりなのですが,そんなことをしてもよろしいのでしょうか。 私のいるところは寒さが特に厳しい地域なので,寒い中はキツイのでは・・・と少し心配です。
最近、仏様に興味が湧きまして、いろいろ調べていたらいろんな仏様が居られて、自分の干支の守護本尊があるのですね。自分の一生をお守りいただけると説明がありました。 他の干支の仏様も見ていたら、気になる仏様、惹かれる仏様も居られます。 また、お願いの分野もあるみたいですね。 護符や、お守りとして持つ小さな木彫りの仏様はやはり自分の守護本尊様がいいのでしょうか? 自分が産まれた干支も意味があると思いますし、その仏様と縁があって産まれて来たので、自分の仏様をお守りにした方がご利益もあるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
空とは例えば人間は肉と皮と内臓の組み合わせで出来ていて実態が無い。 他の動物や植物もまた家電製品や車ありとあらゆるものは何かの組み合わせで出来ていてなんら実態はない。 核がない、そんな感じでしょうか?
仏教でもそれぞれの宗派があって 開祖とされる方がおられますが、 お坊さん達はそれらを信じてますか? お経を唱え信仰を持てば その通りになると心から信じてますか?
檀家さんとかも。。。 これから、日本の仏教が廃れていかないか心配です。
毎日朝、昼、夜にテーラワーダ仏教の「慈悲の瞑想」をして、5分ほど坐禅をして、お経(般若心経か阿弥陀経)を読んでいます。 宗派がばらばらですがこういうことはしてもいいものなのでしょうか?
なぜ、日本の仏教のお経は漢字の羅列で、信者のために分かりやすいように別に生き方の手引書のようなものを作ってこなかったのでしょうか。 僧侶の読経のためだけに存在しているとしか思えません。
説法を聞ける寺院を探しているときに このhasunohaを知りました。 過去に幾つかの宗教を少しづつ経験しましたが 仏教が一番と感じたけれど 無宗教で良いか…って
臨済宗で、修行の途中です。 師僧から、自分の修行の方向は自分で決めなさいと、言われています。 そこで、日本の臨済について色々と調べてみたところ、開祖の栄西師は、比叡山で天台教学を学んでいたことを知りました。日本仏教の母とも言われているそうですね。 わたしも臨済の座禅を学びつつ、天台教学を学んでみたいのですが、この方向性で、間違っていないですよね。 ラッキーなことに天台の尼さんになりたい人のお勉強会を聴講してもよいことになりそうです。 他宗派を学んだため、破門!と、言うことはないですよね。 ちょっとビクビクしています。
以前山形県を訪れその際に即身仏を拝観させていただきました。 そこで疑問に思ったのですが、即身仏は何故現代でも信者や崇敬者が多数いて、信仰されるのでしょうか? 古代(?)では病を治したり、その時代の人々が衆生救済で即身仏となった上人様を有難く思いお参りをするというのは分かるのですが、飢饉などが無くなった現在何故信仰されるのでしょうか…? 僧侶の皆様のお力を借りたく質問させていただきました。よろしくお願い致します。
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こんばんは。 はじめまして。 私は今大日如来様観音様不動明王様薬師如来様毘沙門天様をおまつりしています。 家でその仏様がたに読経をいまのところ毎日続けているのですが、雑念とかめんどくさいとか、お経にたいする疑問などがわきあがってきて、集中して、読経できません。今唱えてるのは開経文、懺悔文、般若心経と十三仏真言、延命十く観音経、観音経普門品げです。それプラス毘沙門天さんの真言をとなえています。 仏様が喜んでくれたらなと思い始めた読経ですが雑念が消えず、先ほどは、毘沙門天さんの真言唱えるのめんどくさいなと読経中思ったのですが、最終的にめんどくさいといってすみませんでしたと念じながら真言をとなえました。 こういうときお坊様たちはどうしておいでですか? 仏様と共にありたいのでこの雑念がきえたらなと思います。よろしくお願いします。
先日、父が旅立ちました。母が喪主としてお通夜や葬儀のことを決めていったのですが、先祖代々の宗派は日蓮宗であるにもかかわらず別の宗派のお坊様にお願いし(経済的な理由から)、父の兄弟から反感をかってしまいました。(母は父の兄弟が怒っていることを知りません) これから四十九日の法要や一周忌、初盆と、親族が集まる度に、本来なら南妙法蓮華経のお経のはずが、南無阿弥陀仏のお経となってしまいます。もちろんお坊様はその経緯はご存じないです。 いまさら日蓮宗にお願いは出来ませんし、父の兄弟に別の宗派のお経で法要に出席してもらうことになりますが、このままでいいのか悩んでいます。
単刀直入に申しまして、 「最短で得度を頂く場合、いかほどで得た前例があるでしょう?」 そして、それは今の僕に成せる事でしょうか? 38歳で家族を持っており、毎日仕事に出ております。 出家を避け、在家で得度習得への近道を導いていただきたく思います。 得度習得後は、私自身で生死、人生などを考えて行きたいと願っております。 いわば、仏教における基礎知識、概念を得度を通し、習得し、 自分の落としどころを自身で探し、精進したいのです。 何か、良いアイディアがあれば、ご教授願いたく思い、 メールさせて頂いております。 よろしくお願いします。