仏教では殺生はいけないという風に教わっています。 細菌やウィルスも殺生はいけないという類いに入るのでしょうか?
お寺に行くと、よくお坊さんが「なむあーみだーぶなーむあーみだーぶ」とずっと念仏をしていることがありますが、自分でそれをしようとすると、肺の病気があるせいで、長く続きません 2,3回ならなんなくできるのですが…。 一度念仏を頑張りすぎて、肺の病気が再発してしまったこともあり、念仏を何回も声を出してするのはしんどそうです 再発の不安を抱えながら念仏をするのもどうかなあと思います けれど念仏は好きで、何度も唱えたいのですが、そういう場合は心の中で南無阿弥陀仏といってもいいのでしょうか 心の中の念仏でも阿弥陀様に届くのでしょうか 法然上人や親鸞聖人はあくまでも口に出す念仏を言っていたと思うのですが、どうなんでしょうか 心の中で南無阿弥陀仏と唱えることは念仏とは言わないのでしょうか? こんな僕でも救われるでしょうか
今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。
私の実家が空き家になっていて、私しか相続人がおりませんのでいずれ相続することになるのですが…私は私で別に家を持っているので、私がそこに住む必要がありません。 わが実家は地方都市ですが、過疎地というわけではなく、むしろ人口が少し増えているところです。にもかかわらず、地域の特性なのか、私の属する宗派のお寺が1か寺もありません。 土地を売ってしまって換金してから教団に喜捨したほうがそりゃーいいのだろうなぁと思いつつ、自分の実家でもあった土地なので、自分の宗派のお寺(お寺建てられる程度の面積はあります)を建ててほしい気もします。まぁ、教団がそんな土地はいらんと言ったらそれまでですけど。建てたって、いまどき寺を維持するのは大変でしょうから… でも、私の土地あげますからお寺立てて!…なんて、ちょっと古くさいような事例って諸先生方は見聞きしたことはありますか?
ある宗教団体に入られてる方と仲良くさせて頂いているのですが、その方に悩み事を相談した時に、 「南無妙法蓮華経を心の中で唱えたら必ず願いが叶うよ」と言いました。 実際叶った事がいくつもあると言うので、正直100は信じてないのですが、心の中で言ったりするようになりました。 この間ある神社に行き、お参りをし、お守りも頂いて来ました。 何か、あっちでもお願いし、こっちでもお願いし…で、いいのだろうか??と疑問を持つようになりました。 あっちこっちでお願いをしたりしても良いのでしょうか。 宗教の事に無知すぎて、ごめんなさい。 宜しくお願い致します。
こんにちは。わが家の宗旨は浄土真宗ですが、私は仏教の新興宗教(すごく真面目な教団です)を信仰しています。 五年前に子どもが勉強のストレスから錯乱状態になり今もその後遺症で苦しんでいます。医療機関の受診やカウンセリングも受けていますが不登校のままです。すがる思いで真言宗のお坊さんに相談したところ“あなたの信仰が原因で子どもに影響が出ている”と言われました。 家の宗旨を替えるつもりは全くありませんが、そいいう事例(ご先祖からの戒め)はあるのでしょうか。
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。
どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。
夫が亡くなってもうすぐ納骨です。 49日までは魂は近くにいてそれから修行の旅に出るから悲しむのは49日までじゃないと未練が残って修行に出られなくなって悪霊になるとかそんな感じのことを聞きました。 49日までしか悲しんではいけないのですか? 皆さんはそんなにすぐに割りきれるものなんでしょうか? 亡くなった後、魂があるものと仮定して、修行に出ると言うことは、側に居てくれないのでしょうか? よく49日まで変わったことが起こるとか聞きますが、何も起きません。 必ず起こるというものでも無いとはおもいますがなんだか寂しいです。側にいないのでしょうか。
こんにちは。 某芸術大学で学生をしているものです。 卒業研究で般若心経を彫ったマニ車を製作しようと考えているのですが、作るにあたって何故日本ではマニ車が普及していないどころか名前すら知られていないのか疑問に思いました。 これは僕の解釈が間違っているかもしれませんが、回しただけで経を読んだ功徳が得られるというマニ車は現代の忙しい日本人にぴったりだと思うのですが、そもそも時間短縮という名目で使用するのは間違っているのでしょうか? また、こう行った話を近所のお寺に聞きに行っても大丈夫なのでしょうか? 長くなりましたが、どなたかご回答していただけたら非常に助かります。 よろしくお願いします。
先ほどはすみませんでした。 さて、質問の後、すごく不思議な夢を見ました。 私の大っ嫌いな育ての母が、今はもうない実家の台所で 「トルティーヤ」のような料理を作ってくれていました。 私は、 「おまえ80の声聴くのに、そんな事もわかんねえの? バカじゃん。それで親とか、笑わせんじゃねえよ」 と煽りました。右の頬に平手打ちをくらいました。 言い返そうとした瞬間突如、風景がアニメチックに変わり、 養母はワニの姿に変化、大きな口を開けて、 トルティーヤを食べようとするも、食べるのをやめて、 テーブルの上に、大切そうに皿を置きました。 そこで終了です。目が覚めて意味を理解した私は、 布団の中で大泣きしました。 でも、なぜ、ワニなのか?などと気になって、後になって 色々調べてみると、 「千手観音」「宮毘羅大将(金比羅王)=ガンジス川のワニ」 「千手観音28部衆」というキーワードがヒットしました。 「宮毘羅大将(金比羅王)」は「ガンジス川のワニが神格化」 され、「千手観音」の眷属になった。 という話が説かれていました。 養母はねずみ年、本尊は千手観音です。偶然にしても、 できすぎています。 養母は生前、私を危険に晒して喜び、かつ、過干渉で過保護な 最低な親でした。 今だったら確実に、警察や児相がすっ飛んでくるでしょう。 ですが浄土で仏様になった事で、今の私を見て、事の重大さを 理解して心配になり、慌てて飛んできたのでしょうか。 最近になって、何度も夢で会います。 お浄土からのメッセージでしょうか? だったら、今すぐ供養しなければ仏様に申し訳が立ちません。
最近とあるきっかけで曹洞宗のお坊さんの書籍を拝読させていただいたきました。 自分の中で仏教の考え方や生活がとても腑に落ちて仏教徒になりたいと思うようになりました。 ただ自分なりに調べてみたところ、キリスト教徒のように教会に通うだけのような感じではなく、仏教徒になるには仏教に通ずる大学を出たり、出家をしなくてはなれないと伺いました。 現在は会社勤めをしているので出家も現実的ではないし、高校時代に仏教に出会えなかったことを後悔しています。 まだ年齢的には遅くはないと思うのでこれから深く関わっていきたいと思っているのですが、具体的にどう行動に移していくのが良いですか? 大学に通い直したり、出家をして修行することにも興味はありますが、会社勤めなので会社をやめると収入がなくなり生活が厳しいです。 何か良いアドバイスをお願いいたします。
この愚かな疑念を教義的に論破してくださると助かります 1親鸞聖人は「信巻」等において、菩提心について自力と他力を分判し、如来回向の信心は願作仏心(自利)、度衆生心(利他)の徳をもつ他力の大菩提心であるとあらわされた。 2菩薩の定義:仏の次の位のもの。みずから菩提(ぼだい)を求める一方、衆生(しゅじょう)を導き、仏道を成就させようとする行者(ぎょうじゃ)。菩提薩埵(ぼだいさった)。 信心があるものは自利も利他も菩提心もある よって菩薩である 菩薩であるならば、41願により諸根が具足するはずである よって諸根の具足していないものは極楽へ往生できない
本願を信受するは前念命終なり。すなわち正定聚の数に入る。即得往生は後念即生なり。即時に必定に入る。 また必定の菩薩と名くるなり と言ったように、親鸞は入数正定聚を菩薩だと言っています けれども無量寿経の41願からの たとえわたしが仏になることができても、他の国の菩薩たちが六字の名号を聞きて、仏に成るまでの間、その身に不自由な点があるなら。わたしは決して仏になりません。 と言ったような他方国土の願はこの世界に適用されてないように思います(念仏者も盲目になったりする) ということは、身体障碍を持っている方は信心を得ていないということになるのですか?念仏者で悟ってない人は信心を得ていないということになるのですか? それともこれは法蔵菩薩が悟っていないという証拠でしょうか? 正定聚というのはもともと菩薩の位に使われる言葉だったそうですが、浄土真宗で言われる正定聚は「菩薩」になるということなんでしょうか?弥勒に同じとも言われますが
久しぶりの質問させて下さい。 2点質問があります。 1)倶会一処の話を聞いて、お釈迦様や親鸞聖人など、歴上の人物(仏)にあえますか? 生で、説法を聞いてみたい。でも梵語わからんなー。言葉通じるかな? 2)西方極楽浄土は、極めて楽しいところ(国)?それとも極めて楽ちんなところ(国)? 金銀ギラギラは落ち着かないな・・ なんて、小学生みたいな質問ですが、回答頂ければ幸いです。
幼い頃、怖い話を聞くのがとても好きでした。今は、それを楽しむのは良くないのではないかと思い、気持ちを違う所に向けようとしています。 また、子どもたちが怖い話の絵本を読んで読んでとせがんでくるのを、 怖い話でキャーキャー言わせてもいいものだろうかと悩んでいます。 怖い話や、おばけ屋敷、ホラー映画などを楽しむことについてどう思われますか?
いつもお世話になっております。 沢山の問答より勉強させていただいております。 ありがとうございます。 急ぎではございませんので、 お時間のある際にお教えいただければ幸いです。 …朝夕の勤行には舎利礼文をあげても宜しいのでしょうか? 今まで余り深く考えず、4文字4文字の文言が有り難い響き(特に後半にかけて)と感じ、今日も新しい気持ちで頑張ろうと思わせてくれる感じもして毎日あげておりました。 最近、少し意味を知って、え!?となりました。 過去の問答にも無く、ネットでも今一つ分かり辛かったので、恐れ入りますが、ご回答の程どうぞよろしくお願いいたします。 本日より、携帯が繋がらない過疎地の実家に行くので、お礼を申し上げるのが遅くなると思いますが_(._.)_
うちのお寺さん?は臨済宗のお寺さんなのですが 臨済宗 禅宗は小乗仏教ですか?大乗仏教ですか? そこらへんややこしくて、教えてください!
昭和初期の演歌というか流行歌の歌詞には浮世(または憂き世)と言う言葉が頻繫に使われました。 輪廻転生が真実となれば、この言葉は重要な意味を持ちます。 輪廻転生即ち心が永久に生き続けるということは、この世に死がある限り心は現世と来世(後生)の二つの環境を持つことになります。 到達が極めて困難な涅槃に依る智慧の完成を除けば、心は二つの環境のどちらが真実の住処であるかと言うことを考える必要があります。 当然死を伴う現世より来世が真実であることは明確です。 そこで現世に憂き世と言う言葉が使われるのだろうと思います。 現実に現世を生きることは大変です。 空気と水は兎も角、食料は殺生を伴うものが大部分です。 五戒にある如く殺生は悪の根源です。悪人でなければ生きることはできません。 しかし生きる為の必要悪ですから、ここから弱肉強食の世界が広がります。 現在の世界情勢の表れもこれが根源でしょう。 死ねば殺生は無くなりますが、心がそのままでは、再び転生が繰り返され、殺生を余儀なくされます。 現世では来世に留まるべく心の修行が必要になります。 これが仏教ではないでしょうか?