こんにちは。 私は曹洞宗の檀信徒です。 が 密教寺院での不動明王の護摩焚きに参加しています。 密教での、不動明王の位置づけはだいたいわかるのですが 曹洞宗では、不動明王というのは存在しない。 お経でもでできませんし、 ただ地元で曹洞宗のお寺に不動明王の像がある寺が ありますが、そこにはどなたもいない僧侶ふざいの荒れた寺です。 あくまで、不動明王というのは密教での仏様だけをいうのでしょうか? よろしくお願いします。
先日、祖父が亡くなりました。 去年の夏頃に祖母が亡くなり、死後の世界について漠然と考えていたのですが、今回の祖父の死でより具体的に考えるようになりました。 死期は自分で分かるものなのか、死んだら魂はどうなるのかなど、色々知りたいと思っています。 ぜひ教えてください!
私は、とある事で大王様(つまり、閻魔大王様)に、興味があります。そういうことで、文献を読んでたら、優しい事をしてる文献が3件も、有りました!でも、そんなに優しくしてるのに、嫌われて、怖がられてるのが、可哀想に思います。何だか、私にも、似てると思います。皆さんは、どう思いますか?
仏教の宗派の違いを教えてください。
・三帰礼文(今、人として生まれたことに感謝し、仏、法、僧の三つの宝を敬い、拠り所にして生きます) ・十善戒(正しい行い、正しい言葉、正しい心を保つ事を誓います。) ・発菩提心真言(私は今、悟りを求むる心を起こしましたという真言。オンボウチシッタボダハダヤミ) これらの経や真言を「全くその気がない者」がするとどうなりますか?例えば… 私の声「オンボウチシッタボダハダヤミ…」 私の心の声(別に悟りに興味ないし…単にこの真言を唱えたいだけだ) 私の声「三帰礼文~!~自ら仏に帰依し奉る。まさに願わくは衆生と共に~…」 私の心の声「仏様は大好きだけど帰依とかそんな重たい誓願なんてしたくないよ…しかも衆生と共になんて!衆生の事なんてどうでもいい!自分や家族さえ良ければそれで良いんだよ!」 このように私が経や真言をする時はなんとなく仏様を近くに感じたい時、落ち着きたい時などに座禅を組み合掌(印母)を結びながらやってます。 単に仏教の教えにあまり興味なく仏様が大好きなだけなんです。 でも一つ言い訳させてもらいますが、私は決して仏教や仏様を茶化したり、品位を下げたりする気など無いんです。 単に「戒律を守れない、守る気すら失せた」「衆生がどうなろうが私の知ったことじゃない」「自分や家族さえ幸せならそれで良い」というだけなんです。 ただ「疑城胎宮」の境地から抜け出す気なども失せて「もうこのまま疑城胎宮の中でまったりするのも良いか…」というだけなんです。 【しかし声に出してソレらを唱える以上、それは一つの約束、仏様と交わす誓いになりますよね?その誓願を初めから守る気など無くアッサリ誓いを立てては破り続ける…】 このように仏様を欺き続ける私を、カタチだけの“仏教ごっこ”を楽しむ私を仏様はどう思うのでしょう…また実際に本物のお坊さんが私を見たらどう思いますか? 私はハッキリとモノを言われないと分からないバカなのでよろしくお願いします。 ちなみにこれらの事はあくまで「私独り」の中で完結させているので、決して周りに仏教を語ったりなどはしていませんのでそこはご安心を。
(編集部より。利用規約により特定宗教の是非を問う質問はできません)
いつもお世話になっております。 以前近くのお寺さんのご住職から「因縁果」という言葉を教えていただき、改めて考えてみたときにきちんと理解ができてないと思い改めてお聞きしたのですがやはりちゃんと理解ができているのかどうかわからず、あまり何度もお聞きするのもためらいがあり、私の解釈であっているのかどうかを教えていただきたく質問させていただきました。 因縁果とは「すべてのことには因(原因など)や縁(ご縁など)があり果(結果)につながる。その繰り返しである」と解釈しているのですが… もし訂正等がありましたら教えていただけないでしょうか? よろしくお願いいたします。
私には病床に伏した祖父がおります。 その祖父の部屋には阿修羅さんの絵が飾ってあります 阿修羅さんには魔除けの力があると聞いた事があるのですが 同時に地獄の神とも聞くので、あまり良くないのではないかと心配です。 このまま絵を飾っておいても良いものでしょうか? また阿修羅さんの御利益にはどの様なものがあるのでしょうか? 宜しくお願いします。
習気とは何ですか?
僧侶の皆様に御尋ね致します。仏教の教えでは「親を大切にしたければいけません」「育ててもらったご恩に報いることが大切」といわれて いますが、昨今多発しています「児童虐待」「養育放棄」にあっている子供も、その親を大切にし、恩に報いなければならないのでしょう か?僕は幼少の頃から感情の起伏の激しい母親 に振り回され、悪化している夫婦関係のストレス解消に精神的暴力肉体的暴力にさらされ、逃げ場なく、過ごして来ました。19歳で家を飛び 出し、やっと呪縛から解放され32年が過ぎました。数年前から仏縁を頂き、仏教に帰依致しましたが、その中に冒頭の教えがありましたこれ については、僕は素直に受け止めることが出 来ないのです。どうぞ僧侶の先生方のご指導ご回答の程、よろしくお願いいたします。
おはようございます。仏様は平等だと私くしは思うのですが 肉体がある時は 人として 自分のやりたい事を 自由にし、いい事も悪い事も してしまう ただ 亡くなって 肉体を手放した時、魂だけになりますよね そうしたら この世の人ではなくて いわゆる仏になります。全ては平等なので 仏様が天国や地獄に人を分け隔てることを なさるとは 思えないのです。 仏になるとは、仏様の元に帰るのだと思うんです お坊様方は、亡くなったら仏様は天国や地獄に人を裁き わけると思いますか?
お地蔵さんっていいですよね。優しい表情で見守っててくれているようで。お地蔵さんを見るととても優しい気持ちになり、自分よりも家族を見守って欲しいと願ってしまうくらいです。お地蔵さんには、みんなの優しい願いが込められているような感じがしてとても平和で穏やかになるパワーがあると感じています。 お地蔵さんがもっと街中や道端にあれば、他人を思いやる余裕のない人でも見るだけで優しい気持ちになり、ちょっとずつ他人を思う気持ちが芽生え、日本はもっと平和になるのではないかと考えてます。 そもそもお地蔵さんってお坊さんが発注して設置したのでしょうか? 今後お地蔵さんを増やすことなどはできるのでしょうか?
いつもお世話になっております。 私の古巣、浄土宗の教えには「法然上人の厠念仏」の話が 伝えられています。 時間がなかったら、または思い立ったら、トイレで用を 足しながら、お風呂にかぽーんと浸かりながらお念仏しても バチは当たらない、むしろ尊い、といった趣旨だったと思います。 ですがこれは「念仏」の場合であって、真言や陀羅尼、 偈頌や宝号はどうなのかしら?と疑問が浮かびました。 カップラーメンや煮炊きの番、 または体幹トレーニングで一定の姿勢をキープするのに、 ただ数えただけでは気が遠くなって続く気がしない! そんな時に、 「のーまくーさーんまーんだーばーざらだーん…」 「なーむみょーうほーうれーんげーきょーう…」 などとお唱えしたら失礼でしょうか? 喉の鍛錬も兼ねたいので… お知恵をお貸しいただければ幸いです。
仏教に興味を持ち悟りについて考えるようになりました。 そして最近物に対する執着が薄れこだわりなどが無くなって来ました。 ですが、今まで物欲をエネルギーに仕事を行っていた部分もありそれが薄れてしまいました。お金のためではなくやりがいや人の為に仕事をしようとふうに考えたのですが、そうすると長時間の残業、休日出勤、出世競争などに矛盾を感じるようになりました。 今は自分のコントロールが難しいと感じている状態です。 どのように考えればよいのか、どうかご教示のほどお願い致します
今日とある祭りの星祭りに行きました。 お経を長く聞いたのですが、お経を聴いてる 時何度も寒くないのに鳥肌が全身にたちました。 なぜでしょうか?
少し突飛な質問かもしれませんが…… 現在訳あって、縄文土器や、古い農具や民具、道具類(江戸時代~昭和)が大量に飾ってあるところで、1日の大半を過ごしています。 ですが、そういう古い「物」に、人の精神を不安定にさせたり、運気を下げたり等の悪影響ってあったりするのでしょうか…? 仏教的な立場や考え方の中では、昔の人たちが使用していた古い道具って、どういう位置づけがなされうるのですか? 大切にすべきものですか? いち早く手放すべきものですか? 使い古された道具は、生きている人間に何か影響を与えるものなのですか? 幽霊がいるらしい、と噂されるほど建物自体も古いので、そもそもの環境自体が精神的に悪影響を及ぼしたりすることってありますか? また、今度、髪が乱れていたり、装飾が破損している古い雛人形(怖い)を6セットほど物置から取り出さなければならず、少しドキドキしています。 古い人形を取り扱う際の心構えなども、アドバイスいただけると有り難いです。 この場所で過ごすようになってから、精神的に不安定になることが多発しているので、 ついつい「土器のせいでは(笑)」と精神的不安定さの原因を物になすりつけてしまいます。
仏教には様々な逸話がありますが、阿修羅像の逸話についてずっと気になっていました。 逸話を端的に言うと「阿修羅の娘を帝釈天が無理やり連れ去り、激怒した正義の神・阿修羅が帝釈天に戦いを挑むも戦闘神の帝釈天には到底敵わない、そんな中で娘は帝釈天を愛し妻になる、戦う必要がなくなったにも関わらず怒りに我を忘れ戦い続ける阿修羅」 初めて見た時は結果オーライか⁈ なんだそりゃ‼︎ と思いましたがこの逸話の言わんとすることはよく見かける解説で 「阿修羅は怒りで自分を忘れ、戦いに目を奪われて、すでに娘が帝釈天の正式な奥さんだったのにも関わらず、相手を赦す心を失っていました。たとえ、正義であってもそれに固執すれば、善の心を忘れ、妄執の悪・復讐の鬼になってしまいます。過去を水に流し、人を赦すことは大切なのです。」 とあり理解出来るとこもありますが、この逸話を初めて見た時はいくら例え話しだとしてもこの話しを納得することは犯罪を容認するようで、なんとも気分が悪くこの逸話を簡単にそうかと理解するのは無神経なようでずっと引っかかってました。 程度は違いますが私の毎日はずっとこの引っかかっりです、私の煩悩が怒りなのか杓子定規な正義への固執なのか、両方ですかね? ここから質問なんですが、この逸話の中で娘が帝釈天を愛し娘に関してはある意味で結果オーライですが、実は最悪娘は帝釈天に連れ去られた後に殺されたとしてもこの逸話の言わんとすることは同じ(憎しみの先に救いはない)ような気がして、結果オーライはまだましな話しだったのかなと最近思うようになったんですがどうなんでしょうか。 上記とは違う解説等ありますか。
正信偈を読んでいて疑問に思ったことを質問します。 1) 仏様の師弟関係は、世自在王、法蔵菩薩、釈迦如来の順だと思うのですが、世自在王は何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか?世自在王を御本尊とする宗派はありますか? 2) 釈迦如来は、今、どこにいて何をしていらっしゃるのでしょうか?阿弥陀仏のように浄土をお持ちなのでしょうか? 3) 「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われ、地球上で仏の悟りを開かれたのは釈迦牟尼だけと聞きましたが、法蔵菩薩は人間の世界から出た方ではないのですか? 法蔵菩薩は国を捨て王位を捨てて出家されたそうで、お釈迦様のようにこの地球上の国王であったような気がします。 勉強不足の質問ですが、よろしくお願い致します。
お釈迦様は親から虐待される子供になんと仰っておられますか。また、子供を虐待する親のことはどのように仰っておられますか。 また、宗祖のお坊様など過去にいらっしゃった高僧の方々で、虐待について書いたり言われたりなさったものはありますでしょうか。 親への愛着を持ちながら親から虐められる子の苦しみはいかばかりかとよく考えます。現代では親子愛が称揚されることしきりですが、慈悲の心を欠いた親もいます。
以前テレビで島田紳助さんが以下のように述べていました。(ブログからの抜粋です) 「仏教っていうのはね、自分のための拝む人へのもの。 両手を合わせた瞬間に、自分の心の中が穏やかになる。 そこに極楽が生まれんねん。例えば、あーもうムカつくわ、競馬まけた博打負けたから墓参り行こうって思う人はいないのよ。心が乱れてるから墓参り行こうとは思わない。ある日、ふとあ、長いこと行ってないな。お墓参り行こうか。と思う。その、お墓参り行こうか、と思った時、自分の心が穏やかになる。その瞬間、心に極楽が生まれんねん。だから、お墓参りの行為自体よりも、行こうと思った時の穏やかな心、それが大事なの。仏壇だってね、仏様が中にいるけど、あれは職人さんか誰かが木かなんかを彫ったものだよ。所詮。もしあれがほんとに仏様なんだったら、供えてある花も、仏様の方を向けて供えなくちゃいけない。でも実際はそうなっていないでしょ。向こうからしたら、花の裏、葉っぱの裏しか見えないよ。拝む人に向かって、拝む人の心に向かって供えてあるから。だから仏教っていうのは、心の中、拝む人の心の中に極楽があり、仏があるという教え。」 私はこのような考えに感銘を受けました。実際、極楽というにはこのようなものなのでしょうか?お坊さんたちの意見が聞きたいです。