お世話になっております。前回、死ぬ時の苦痛が怖いと質問させていただきましたが、もうひとつ死んだ後自分はさ迷うのか、地獄に行くのか、消滅するのか、あるいは霊界みたいなところに行くのか 等考えていると不安と恐怖にさいなまれます。別に悪い事はしていないので地獄行きはないと思いたいですが。私には子供がいませんので私の家系は私で完全に終わります。なので私を供養してくれる人もいません。なので現世をさ迷うのでしょうか?実際死んだら人間はどういう風になるのでしょうか?詳しく教えてください。信仰心はありますが100パーセントではなく30パーセントぐらい疑っているようなところがありますが、信仰心と死んだ後の処遇は関係性がありますでしょうか?
お世話になっています 皆様の質問と回答を参考にさせてもらっています 自分について考えてみたのですが私は子供の頃から死恐怖症なのかもしれません 子供の頃から死を連想させる物が苦手で避けてきました お葬式や法事だけでなく歴史の授業や空や海も死を感じさせるせいか嫌いでした 知り合いに赤ちゃんが産まれたと言われた時ですら嫌な気持ちになりました 子供の頃から色々な物が怖かったです 時間が経つ事そのものが怖いです 若い頃は嫌な気持ちになっても音楽や映画など好きな事して何とか若さで誤魔化せていたのですが、最近は今まで好きだった趣味などにも興味が無くなってきて誤魔化せなくなってきました 何を見聞きしても頭の中が嫌な気持ちや恐怖心でいっぱいになってしまい生活しているだけで疲れます 孤独感も感じます こんな自分を変えて死恐怖症を克服したいです 穏やかに歳を取って死にたいです どうすれば良いと思いますか よろしくお願いいたします
お世話になっております。14年前に親を病気で亡くしたのですが、生前親は善人で悪い事は何ひとつしませんでした。しかし人生は不幸の連続で60代後半から突然難病にかかり、最後まで苦しみながら亡くなりました。不幸な人生だったから死ぬ時くらいは安らかに死ぬのではないかという私の甘い死生観はここで砕けました。この件についてはいずれ質問させていただきますが、問題はそれから私自身、死ぬという事を激しく意識するようなり死ぬ間際の苦痛がどんな恐ろしい苦痛が来るのかと思い、恐ろしくなりました。50代になり2回倒れましたがその時もかなりの苦痛だったのに、本格的に死ぬ時になると耐えきれない苦痛が来ると思うと怖いです。何かご意見を聞かせてください。
またご相談をお願いしたいです生きているのがむなしいです 子育てが落ち着いてきたせいなのか、年齢のせいなのか分かりませんが そのうち死ぬのに生きていても意味がないしむなしいという気持ちで一杯です 周りの人たちや他の相談サイトで相談しても 「趣味を持とう」とか「目の前の仕事を一生懸命やろう」とか 「限りある人生を後悔せずに生きよう」など言われましたが全然元気がでません だんだん相談する事にも疲れて来ました 親身に相談に乗ってくれているのに申し訳ない気持ちです 最近はやる気が出なくてぼんやりしている事が多いです 楽しい気持ちになってもどうせまた辛い気持ちになるのだと思うとやる気も起きません 生きていたくないけど死にたくもないという気持ちです 生きている苦しみから解放されたいけど死ぬのは怖いという気持ちの板挟みです 最近は時間がたつことにも恐怖を感じて来ました 生きて死ぬ事を受け入れて穏やかに過ごしたいと思いますが苦しいです 安心したいです 子供の頃からうっすらとあった生まれてきてきた事に関する絶望感が強くなってきた気持ちです とりとめもなくなってしまいましたがよろしくお願いいたします 話を聞いてくれてありがとうございます
はじめまして。 題名通り、今生で迷惑をかけているので 諦めて自決する者です。 仕事では常に叱られ、相談出来ない相手ほど上司になり 障がい者雇用と思えないほど心に対する配慮が乏しく 常に人に見下され罵られ、何か言えば強く批判されて育ち 時折全てを擲っても構わないから憎しみを抱いた相手全員を斬り殺したくなる程の憎しみにさいなまれています。 心さえなければ、何も思わなければ、そもそも存在さえしなければ、蹂躙される痛みや悲しみも怒りも呪いも憎しみも、そもそも原因である誰かを不幸にすることは無かったのに…最近そう思い、今月のうちに「花のもとにて春死なん」の歌の通り桜の散る前に死にたいという思いが強いです。 遺書はすでに家族や就労支援者に渡しました。 ここまでして、救われたい、祖母や愛犬と再会したいと思う自分もいて浅ましく感じます。 お読み下さった方へ。ご仏縁に感謝を申し上げます。
はじめまして。ずっと考えていて、解らなくて、考えることを放棄していた事について相談があります。 私の家は、某新興宗教団体の信者で、小さい頃から「南無妙法蓮華経」という題目を、私自身も大切にして生きてきました。 私の両親も、熱心な信者でしたが、 正直なところ、この私の人生35年を振り返っても、本当に家族全員つらいことばかりでした。 そしてついに、4年前、両親は立て続けに自死をしてしまいました。 元々わたしは、ハタチの頃から、この宗教から離れていたのですが、 この事があり、神も仏も信じられなくなりました。 神も仏も存在しない。存在していたら、あんなに熱心に祈っていた両親がこうなってしまうわけがない。 でも私は、解らないのです。 偽のご本尊に題目を唱えていたから 私たち一家は、こんなことになってしまったのか。 でも、私の両親が、死ぬまで信じて(?)祈ってきたご本尊だから、このご本尊に題目を唱えて、追善供養をすることが、両親が一番に望む事なんじゃないか。 もし、本当に死後の世界があったら、両親は自死してしまったから成仏できないんじゃないだろうか。 このご本尊に供養の題目を送り続けて大丈夫なんだろうか。 だから、わからないから 何も考えたくないんです。 結果的に、科学的に考えた方が、 気が楽だから 死んだら、無。終わり。 両親は、救われなかった。 つまり最初から、神も仏も、いない。 そう考えた方が、一番心が楽なんです。 でも、やっぱり矛盾してて 心のどこかで、両親とこれからも、 死ぬまで一緒に生きていきたい。 私を見守っていてほしい。 すごくさみしい。会いたい。 だから、家には仏壇があり、たまにお香を焚いたり、手を合わせたりしています。 お墓参りも行きます。 まとまりのない文章になってしまいましたが、 わたしは、もし死後の世界があるのなら、両親が安らかであってほしい。そのために、私は今のご本尊に祈り続けてもいいのでしょうか。
最近海外では安楽死を認める国が増えていると聞きますが、私は安楽死は自殺と同じと考えているのですが・・・僧侶の皆様は安楽死についてどうお考えですか?
難病を抱えながら生活しています。 自分が生きている意味が分からずいつも孤独を抱えています。 これは何かの罰なのでしょうか。 消えてしまいたいのに、死ぬのが怖いです。 どうしたら生きることに希望が持てて、死ぬのが怖くなくなるでしょうか。 このまま病気で死ぬのは嫌です。 死んだ後にどうなるか分からないのが怖くて仕方がないです。
若い頃から精神疾患に罹患しており、死が怖く精神不安定で、頓服が欠かせません。 死恐怖症(タナトフォビア)なのでしょうか? いずれ訪れる自分の死、妻の死、身内の死に怯えています。 また、妻に先立たれて、一人ぼっちになってしまったら、生きていけないだろうと絶望してしまいます。 目の前にある死体に対しても恐怖を感じてしまうでしょう。 精神が弱いので、きっと、妻の死を前にすると、失神するほどのショックを受けると思います。入院が必要になるかもしれません。 死に対する恐怖を克服するにはどうしたら良いのでしょうか? ご教示ください。
リンパ腫でした。 病気の発見が遅くなり、完全に飼い主の責任です。苦しかったと思います。 脳に腫瘍ができ、壮絶な最期でした。 後悔ばかりで、辛い思いばかりさせて、自分が許せません。 自分の至らなさから、苦しませてしまい、あの子に申し訳なく後悔の日々です。 もう一度会って、ただただ謝りたいです。 猫に対する、供養の方法などありましたら、教えていただきたいです。 個別火葬で最後のお別れをし、お骨は家に置いてありますがどうすれば良いのか分かりません。
健康診断で不安な結果が出てしまい、その後精密検査の結果は大丈夫だったものの死への恐怖だけが残りました。 もとから死への恐怖が出ることが良くありましたが、今までは一晩寝たり何度か深呼吸すれば収まっていました。 しかし、上記の事があり「自分もいつか死ぬ」と言う事実がより具体的に見えてしまったのをきっかけに、病気への不安からは解放されるやいなや死への恐怖がついて回るようになりました。涙を流すほどつらいです。 こんな精神状態になる前はいろんなことが楽しかった→死ぬと全て無になるのが悲しい・怖い&いつか死ぬから全て無意味なのではないか→この恐怖と悲しみの中で生きたくはない→楽しいことをしたい→最初に戻る と言う思考のループに一日中陥ってしまっています。 今までの自分を演じている空っぽな自分がいて普段はそいつが前に出てるが、常に上記の事を考え泣いている自分がもう一人いて時々そっちが表に出てくる、血の気が引き現実感が無くなっていく、どちらが自分なのかわからない、そんな状態です。 今までを思い返せば親がいて友達がいて、普通に仕事をしてお金も貰っていて、好き嫌いはほとんどなくてご飯は全部美味く感じて、ストレスはあるけど後から思えば大体「何だこんな事で悩んでたのか」で過ぎてく人生だったと考えます。 そして、なんて幸せだったんだろうか、何でこれが永遠には続かないのか、永遠も辛いとは言うがこれなら永遠に続いて欲しい、何で幸せだったことに気づいてしまったのかと考えてしまいます。 そして、最近一年の体感がものすごく早く感じ、時間なんてあっと言う間に過ぎてしまうと考えまた悲しくなります。 宗教を学ぼうともしましたが、ここに質問しておいてなんですがやはり死後の世界や魂は無く感情は脳の現象であり死後は無である、と言う変に唯物的な考えがついてまわります。 祖父が亡くなったとき「爺さんいまどこ行ってんだろうなぁ、畑とか家の様子とか見てんのかなぁ」とかのんきに謎の宗教観を持っていたくせに今ではそんな考えしか持てません。 そして怖いという事すら感じなくなるのが怖く悲しく、無になるならすべて無意味に感じます。 精神科に行くことにもしましたがそれとは別視点で、何か考え方を変えるヒントをもらえたらと思い、文字数いっぱいのとりとめのない文章になってしまいましたが書き込ませていただきました。
死のうと思っていますが決心がつきません
乱文失礼します もう、死にたいです 幼い頃から親のいくつかの転勤により、旧知はおりません。私は引っ越しなんかしたくありませんでした。そして思春期、転校先で心無い誹謗中傷を受けました。毎日机に突っ伏して耐えました。毎日毎時が臨戦態勢で、給食も食べられませんでした。それでも将来の自分のために学校に通いました。明日になって欲しくなくて、この頃から不眠症になりました それから高校の進路を決める頃、家庭が経済的に困窮していたため、親の望む公立校に進学できるよう、厳しい家庭教師をつけられました。なんとか進学しました。でも学校は遠くて、それだけでも冬の北海道の通学は辛いのに、授業にさえついていけなくなりました。痴漢や、不審車に追いかけられたこともありました。それでも卒業まで頑張って通いました 少し人より精神の成長が遅かったのか、中高でも友達はできず孤独でした。学生~青年時代、趣味を通じて仲良くなったと思われた友達とも、結局私が一方的に悪者と言う形で一人残らず仲違いしました 大人になっていざ就職と思った矢先、就職氷河期とリーマンショックに当たりました。その頃、難病にもかかりました。難病の兼ね合いで、生命保険に加入するのも困難なため恋愛も結婚も諦めました。ゆえにブラック、グレー企業でも、なるべく経済的自立を目指して頑張って働きました。でも、心も体も壊しました 幸い、現在親元で暮らしています。迷惑がられてはいません。でも、それから10年たってしまいました 病院には通っていますが、うつ病も難病も勿論治らず。もう働くこと自体がトラウマで、求人や履歴書を見るだけで震えてしまいます 心の病を紛らす絵を描く趣味も、謎の指の疾患により絵がかけなくなり。娯楽等も、もう楽しく感じないのです 私、なんのために頑張ってきたのでしょう 結果論ですが、自他の安泰な未来のために頑張ってきたこと、自分のためでも他人のためでもありませんでした 母は私に死んで欲しくないと言いますが、もう引きずられながら生きることにさえ疲れましたもう死にたいです。本当に息をしてるだけで辛いです。でも死ぬ度胸もなくて、情けなくて、更なる自己嫌悪を重ねる毎日です 一言で構いませんのでお言葉をいただけたら幸いです
心の持ちようが分かりません。助けて下さい。文章がぐちゃぐちゃかもしれません、すみません。 私の世界一の宝物、相棒、親友、お姉ちゃんである愛犬が危篤状態です。 愛犬は実家におり、昨日の夜父親から連絡があり、実家のある場所へ急いで来ました。実家は関係がボロボロのため、愛犬と父親に長期休みにホテルの駐車場で会うことがここ数年の状態でした。今回もホテルをとって、母親とは目も合わさずに実家で愛犬に会ってきました。 愛犬は現在犬としてはとても長生きしている年齢になります。しかし父親が定期的に検診に連れていくなどしっかりとケアをしていて、先月のお盆休みに会ったときは、年齢を感じながらも元気そうでした。 でも今日会った愛犬は体が思うように動かず呼吸も苦しそうでした。頑張って呼吸をしている愛犬を目の前に、涙が出てしまい、私も一瞬呼吸の仕方が分からなくなって息が止まりそうな思いでした。頑張っているのに、変なことを考えて泣いてしまって愛犬に申し訳なさすぎます。愛犬のことが大好きで現状が受け入れられません。 仕事も、犬が〜という理由で休みが取れるような職場ではなく、実家で色々とあって緊急だと言って休んできました。 いつか自然にお返ししないといけない日が来るのは分かっているのですが、愛犬は私にとってとてもとても大きな心の支えで、もうパニックに近いです。ただ苦しそうな姿を見ていると、今の状態のままずっと過ごすのはこの子にとって苦でしかないんじゃないか。でも気持ちの整理がつかず私も息をするのがやっとです。 もう仕事もやめてずっと愛犬のそばにいたいです。 思考も呼吸もまとまらずこれからどうしたらいいのかわかりません。助けてください。
はじめまして。 わたしはタイトル通り死や病気に対しての恐怖心がとても強いです。 そのことについてお坊さん方のお考えをお聞かせいただきたく投稿いたしました。 わたしは様々な体調に関する不調があるとすぐにネットで調べて不安になり、病院にかけこみます。 医師から様子を見ていいと言われても『もっときちんと調べてもらった方が良かったのかもしれない』とまた別の病院を受診することもたびたびあります。 家族は『本当に心配性』『そんなに気にしてどうするの』『なったらなったで受け入れるしかない』と言いますし、私も頭ではその通りだと理解はしています。 しかし、病気になって、しかも余命宣告を受けるようなものだったらどうなってしまうのだろう。 自分がそうなったらその状況に耐えられるはずがない。 死んだらまだ幼い子ども達はどうなるのだろう。 そう思うと、病気が怖くて仕方がありません。 実際に婦人科系の疾患で経過を診ていたり、別のことで手術も経験しました。 さらには悪性を疑っての生検をしたこともあります。 子供がいるのに、そのたびにネットで調べ、この病気だったらどうしようと最悪の事態を考え、まだ病気と言われてもいないのに暗い表情で最低限の家事しかせずに落ち込んでしまいます。 主人にも、そういう性格だから仕方がないと思っているけど、子どもに対しては無理をしてでも明るく接して欲しい言われています。 病院受診が続いても主人は何も言わずにいてくれますが、私自身この考え方を変えたいと思い今まで本を読んだりいろいろな方法を試しました。 いまを生きる。 先のことを思い悩まず、目の前の一瞬にかける。 現にいまこの時も私なんかよりもっと若くもっと幼くして病と闘っている人もいるのだろうと思うと自分の心の弱さが情けなくなります。 頭ではわかっているんです。 でもすぐに不安感情がその上に覆い被さるように乗っかってきてしまいます。 この先も自分だけでなく、子ども達も体調を崩したりするたびに毎回こうなるかと思うとこの考えを断ち切りたいのです。 何に対しても、私は理屈っぽいと思います。どうしてそう思うの?その根拠は?とつなげてしまうところも災いしていると思うのですが。 そんな私が、少しでもどん!と腰を据えて何があろうと例え重病になろうが運命だったと受け止められるようになるアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。
今度初めて夜行バスに乗らなくてはいけなくなりました。 20代の女子大生です。ゼミ合宿のために乗ります。 夜行バスは危ないと聞いたことがあるのも踏まえて、事故になったらどうしよう、事故死したくない、と思ってとても憂鬱です。 でももう行くことは決まってしまっているし、私1人だけ別で向かうことはできません。 しかも、夜行バスに乗る日は私の誕生日の翌日です。家族や彼氏とご飯に行ったり、誕生日を含めてそれまでにたくさん楽しい予定があるため、ドラマみたいに最高に幸せなところから突き落とされるように、という感じで事故死したりしないか怖いです。 考えすぎ、大丈夫、と親や友達に言われていますが、怖くて怖くてしかたないです。 最近は就活も始めていたり、彼氏との何年目かの記念日があったり、まだまだこれからだと思っています。頑張って働いたり、将来は家庭を持ったりとまだまだこれから楽しく生きていたいので、尚更死にたくないです。 夜行バスや事故死以外にも、普通に歩いていても飛び降りてきた人とぶつかって死にたくない、通り魔に遭いたくない、車が突っ込んでくるかもしれない、などについても、怖いと日々思ってしまいます。 これらを踏まえて、夜行バスが怖いです、、 まとまりのない文をここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。 このような場合、どんな心の持ちようでいれば良いでしょうか。また、どんな考え方をすれば良いでしょうか。 お教えいただけたらありがたいです。 よろしくお願いいたします。
人は死んだらどこに行くのですか?地獄に堕ちるのですか。
子どもの頃に「朝起きたら死んでたらいいのに」と思うようになってから、ずっとそういう気持ちがどこかにあります。 幼少期から20代は辛い環境にあり、絶対幸せになるんだと思ってガムシャラに頑張れました。紆余曲折をへて、思い描いたことは手に入れたように思います。はたから見たら何の不満もなさそうな環境にあると自分でも思います。何をぜいたく言っているんだと、お叱りを受けると思います。 でも、心の奥底に、私はいつ死ねるのだろうという気持ちがずっとありときおり顔を出します。 何か楽しみを見つけられたらと色々とやってみましたが、楽しそうなフリはできても本当のところは楽しむことができていません。独りになると、虚しさだけが残っています。 あんなに好きだった仕事にも、楽しみにしていたはずの子どもの成長にも、優しくしてくれる家族や美味しい食事や贅沢なことにも、非道いと思いますが本心では興味が持てず、漫然と過ごしています。 目標にしていた幸せな環境を作ることができたので、生きる目標を失ってしまったからでしょうか?これからどのように生きたら良いのか見出せず、時間が過ぎていく日々で苦しいです。
いつもお世話になっております。 以前から死の恐怖について相談させていただいておりました。 最近は仕事もプライベートもそれなりに忙しく充実しております。体力的にも時間的にも死の恐怖に囚われている時間は少なくなり、心安らかに過ごしていました。 ですがふと、 やっぱりこの世は諸行無常で、今の幸せや充実もいつか無になり、私は私を自覚できなくなり、死んだあとは未知でしかなく、「死」という未来が待っている以上この先の人生のエンディングは絶対的な絶望なのだ、と 以前と同じ恐怖が強くよみがえりました。 日々の幸せに夢中で死を考えなくなり、「まあでも、これが今の私なりの死への向き合い方なのだろう」と甘く捉えていましたが、 結局、恐怖は忘れていただけで、死ぬ事実も絶望感も変わらずに私の中に存在します。 たくさんのお坊さんにご回答をいただき積極的に「心安らかに死んでいける心持ち」を探し求めても、知識だけが増え頭でっかちなまま、結局は恐怖も絶望感も拭えぬまま、不安な心のままです。 お坊さん方の視点から、私は今後、どのように死と向き合ってゆくのが良いと思われますか。 積極的に怖さに向き合い死を学ぶショック療法のような形か(ただ、もう死の恐怖に面と向かって辛い思いはしたくないという甘えも自分の中に今はあります)、 それとも自然の流れに身を任せて死を忘れたような日々を過ごすのか(そのうち死を自然と受け入れられると信じて)、 はたまた仏様に全てを任せ不安な心持ちのまま生きてゆくならば、まだ心の底から仏様を信じられない愚かな私の、実在する「不安な気持ち」をその都度「大丈夫」と躱していけばそのうち信心が得られるのか、など。 もちろん最終的に何を選択するのかは私が決めるべき問題と思っておりますが、 なんだかもう、自分でもどうしたら良いのか分からなくなってしまったため、アドバイスをいただけたらと思います。 お忙しいところ大変恐縮ですが、よろしくお願いいたします。
ほぼ愚痴になります。ご容赦ください 私は現在肉体的な持病。元来の気質かうつ病気質でもあり、現在外出すら困難な状態です。所謂引きこもりです。外の世界や新しい経験、そして人の悪意が、10年経っても怖くて堪らないのです 絵を描くことが好きですし、特技であり生きるモチベーションでした。しかし昨年、原因不明の指の症状のせいで、箸もペンも持てなくなりました。生き甲斐や、私の唯一の価値どころか、日常生活すら困難になりました。ですが、当時の私の友人の中に、私が絵を描き精進することを望まないタイプの方がいたようで、その友人の願いが叶ったのかなと、今では思っています。そう思えば、私はいくらか人の役に立てたと思えるからです。でも、本当の私の心は様々な意味で痛く、悲しいです 私の誕生日を覚えてくれるような友達も、いなくなりました 勿論別れには各々異なる理由がありましたが、別れ際「あの人は嘘つきで精神疾患はは偽物」「我儘」「そもそも相性が合わなかった」と言い触らされた事もありました。それらが事実であったのか、短所を誇張された悪口だったのか、当人の私には分かりません 友達だと言っていた筈なのに、途端発せられたこれらはかつての友に対する言葉ではないのでは?と思った時、友達だと思っていたのは私だけだったのだと気付いた時は、本当に消えてなくなりたくなりました もう私には、存在する価値が、目的が、希望や願いが、他人にも自分にも、ないのです なるべく早く、世のため人のため私のため、自然な形で息を引き取りたいと願わない日はありません 心穏やかに、せめて過ごしたいと、今は思っています 上手く言葉にならず申し訳ありませんが、読んで下さりありがとうございました