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「身近な人の死」を含む問答(Q&A)一覧

妻を亡くして79日目

初めて質問させていただきます。 昨年11月、突然のくも膜下出血により妻が亡くなりました。 出会って5年。結婚生活は僅か2年と10か月。 夜、自分が仕事から帰ってきたらリビングで倒れていました。 取り乱し、救急車を呼んで必死に妻の名を叫んでいました。 妻は既に心肺が停止しており 病院に運ばれることもなく、別れの言葉も交わせず、妻は亡くなりました。 葬儀は終えました。拭えない悲しみとは別に、問題に直面しています。 それは妻の御両親との関係です。 妻は生前、決して健康体ではない両親を誰よりも心配していました。 自分も一緒に顔を出し、付き合いを深めていました。 そうした中、亡くなる半年前、些細な誤解から妻が僕の浮気を疑い、ケンカになる出来事がありました。 全くの誤解だったのですが、妻は激しく怒りました。 その時、自分の母親に相談していたようです。おそらく離婚まで視野に入れて。 誤解はしばらくして解けたのですが、御両親には解決を伝えていなかったようです。 その問題が、納骨の際に表面化してしまいました。 自分は長男です。何が正しいかを思い、少し遠いですが、御先祖様のお墓に遺骨を納めるのはどうかと考えました。 その考えを妻の御両親に伝えたのですが、悲しまれてしまいました。 まるで我が子を遠い場所に放り出されたような気持ちだと。 自分は御両親が悲しむことだけはしたくなかったので、その考えは改めますと伝えました。 それでも、あなたは浮気をしてるでしょう、と。今でもそれが続いているのでしょう、と。 娘が不憫でならないから、お骨を返してくれ、縁を切ってくれと言われ。 誤解だとは伝えました。どんな手段で僕を調べ上げてもらっても構わないと。 しかし、四十九日法要に御両親は出席して頂けませんでした。 現在、妻の遺骨は近場の預かり供養して頂けるお寺様で、有難く供養させていただいてます。 けれど、妻の御両親には会うことができません。 これからは自分が妻に成り代わり大事にしていく、それが何よりの供養だと思っていたのに。。 今、妻の御両親は悲しんでいるだろうと思うと、消えたくなるような気持ちになります。 妻のために用意した御仏壇に毎日手を合わせて、自分なりに供養をしていますが、迷います。 自分は正しいんだと思う気持ちと、何もしてやれてないと思う気持ちが混在して、悶々とする日々です。

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最愛の母親の四十九日でした、、

投稿は3回目ですが、最愛の母親の四十九日法要終えたところでした、、 去年の11月11日に緊急入院してわずか約2週間後の29日に永眠してしまってから時間がまだまだ進むのが遅く感じてます、、 末期の大腸癌からの腹膜炎併発で余命数日と宣告されて生きた心地がしないまま看病してきました。 本人には告知できずずっと手を握りしめて涙浮かべてた母親、、最後の数日前ギュッと握り返してくれた反応、、 未だに頭から離れず悲しみが溢れかえってきます、、 四十九日法要をお寺に遺骨と位牌遺影持参してお経してもらったのですが、住職がお経唱えてる間、自分はずっと遺影に想いを込め続けて見つめていました。 その時不思議な体験をしました。 遺影の後ろに花瓶で生けてある百合の花がバサッ!と音を立てたんです、、 風もないし、完全な本堂の閉め切った中で、、 お母さんが挨拶してくれたんだと自分はそう受け取りました、、 涙がとめどなくとまりませんでした、、 これでようやく先祖の元にたどり着いたんだね、、ゆっくりと見守ってくれるんだねって、、 普通はあんなタイミングで沢山生けてある花瓶の百合の花がバサッと大きな音立てる事はないから、、、お母さんがちゃんと伝えやすい方法でやってくれたんだねって、、 自分の事より常に家族の心配第一に考え日々を過ごしてくれた母親、、 84歳でもユーモア溢れる優しさに満ちた性格で、片足不自由なまま生きてきた母親を常に自分は側で支えてきました、、 買い物や、遊びに出かけさせるのも車に乗せて常に母親を楽しませてあげたい想いで仕事頑張ってきました、、 いつも母親は、こんな年寄りといつも一緒に行動してくれてありがとね、、ほんとなら若い子と遊びに行きたいやろうに、、って、、 自分は全くそんな事思いませんでした、、自分が幼少から母親の壮絶な苦労を見てきてたので早く大人になって常に守って楽しませてやるんだ!って、、母親が喜んでくれるならどんな苦労にも耐えてきました、、 それだけ密接な家庭で歩んできたので、母親の存在の偉大さがなくなった今、すさまじい悲壮感と空虚感の反動が続いてます、、 母親の為にも自分の残り人生幸せに歩んでいかないとって思いはわかるんです、、母親の元へ自分も後追いたいとか変な気も常にあり続けてますが、そんなのも悲しませるだけってわかります、でもとにかく今は悲しい、、

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愛猫の看取り

昨年、17年間、私に寄り添い生きてくれた愛猫が亡くなりました。 本日は猫が亡くなった時のことについて伺いたく書き込ませていただきます。 ・看取りについて 猫の最期を看取ることができませんでした。 2時ごろに私が寝る際、「お姉ちゃんもう寝るね、大丈夫だよね」と頭をポンポンとして、隣の部屋に行きました。 次に目が覚めた4時ごろ、一応のつもりで様子を見に行くと亡くなっていました。 亡くなる2週間ほど前から獣医師のアドバイスを受けて、1畳くらいのスペースを囲い、その中にトイレもご飯も置いていたのですが、もしその柵がなければ死にたい場所を選べたかもしれません。 また、夢うつつの時に「ニャ、ニャ、ニャ」という声か聞こえていて、もしかしてまた痙攣を起こしているのかなと思ったにもかかわらず見にいきませんでした。 ふつうに朝見にいったら回復しているような気さえしていました。 でも一方で、今晩死んでしまうかもしれないという予感もあったのにどうかしていました。 その時にちゃんと行っていれば看取れたかもしれません。 かつては猫にべったりで溺愛していたのですが、産後は触れ合う時間が激減。我が子を愛でる度合いと反比例して、猫を愛でることが少なくなりました。猫の老いや病ときちんと向き合えず、育児、家事、自分のことばかりを優先して、ずいぶんと寂しい思いをさせてしまいました。 愛猫の死については後悔ばかりで、看取りについてもヤフー等の相談サイトをのぞきましたが、「看取れてよかった」という方もいれば、「猫は死ぬところを人に見られたくない生き物だから、看取られることを望んでいない」と書かれている方もいました。 そこで伺いたいのですが、看取らずに死なせてしまったことは愛猫にとって、やはり寂しいことだったのでしょうか、それとも看取られたくなかったのでしょうか。どちらにしても取り返しはつかないのてすが、教えていただければと存じます。

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父の死の心構え

昨日も、良いお方のお返事をいただけて すごく為になりました。 余命宣告を受けて、希望としてはそれ以上生きていて欲しいと思う気持ちと。 その通りの結果になるのかと… 2つに1つだと思っているのですが。 自分の気持ちが、いてもたってもいられなくて じっとしていられなくて… 何をしてても身が入らない 何も手につかない、物事が中途半端になってしまってて。 心に空洞ができてるような… 大失恋をした時のような気持ちになっていて 夜になるのが怖いんです。 きっと、父も病気が怖くて、あとどのくらい生きれるのかとか考えてると思うと 考えるだけでも涙が出てきます。 現に、兄に電話をして家の事はよろしく頼むな! しっかりやってくれよ!と言っていたみたいで。 死に向かっていく不安や、怖さだけでも父から無くなってくれればと思います。 昼間はなんとかこの気持ちも抑えされる部分もあって、我慢してるのですが。 夜になると寂しさがどっと押し寄せて どうにもならなくなってしまうのです。 どうしたらこの気持ちを楽に出来るのですか? 末期癌だとわかっていても、主治医の先生から宣告されるまでは、こんな気持ちにはならなかったのに… わかっていても、言われて初めてものすごく不安と寂しさがどっと心に突き刺さっています。 私は、家族があるので別で住んでいますが、母も同じ気持ちでどうしたらいいかと涙、涙の日々なんです。 もちろん父の前では笑顔で毎日会いに行ってるのですが。 この気持ちを、無くしたいです。 どうやって自分の気持ちを持っていったらいいのか?! わかりません。 どうしたらいいのでしょうか?

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末期癌の父の余命宣告

64歳の父が、去年の3月に胆管癌レベル4の手術を受けて、すぐに再発をして、抗がん剤や放射線今まで色々やってきました。 胆管癌には、抗がん剤があまりなくて、最後の砦とも言われる飲む抗がん剤の治療は、ダルさが強くて… それと、伴って癌の進行も進んでいて転移して、しこりも出てきてて… 先日から入院しをして、検査でまた放射線を当てることになり。 その時に、父が、飲む抗がん剤の治療はもうやめたいと、主治医の先生に言っていて。 その時に、ノドもなんだか変な感じで食事もほとんど通らない時が多くなってきてと言っていて。 主治医の先生からは、このままだと、食事ができなくなってしまって、流動食になってしまうからと言われて。 放射線をやってみますか? という話で部屋に戻ってご飯の時間で、やはりノドを通らなくて。母の前で涙をこぼしていたみたいで。 先生からは、3ヶ月から半年でしょうと告げられました。 ですが、家族みんな本当に涙しながらどうしようもない感覚に襲われて。 まだまだ、痩せてきてはいるものの、疲れやすいものの、元気は元気なんです。 私は、結婚していてこれから先ずっと一緒にいるという事もなかなか難しいですが。 なるべく私は、一緒に居たいと思い病院には毎日行ってますが。 父も、自分が死ぬという事が迫ってきている事を知っていると思います、 だけど、そんなそぶりもみせずに、早く治らないかなといつも言っています、 私達も、大丈夫だよとしか言えません、 幸せだったと思ってもらえるにはどうしたらいいのか? 私達も、余命宣告されてから悲しくて悲しくて 心がぽかっと空いたような。 心がそわそわしてしまい。 どうしたらいいかわかりません うまく言えませんが。 父を亡くす事がすごく怖いです。 母も、みんな同じです。 今の状況を乗り越えていける心構えというか どうしたらいいのでしょう? 父も自分の身体について、心がツライ。 なんでこんな病気になってしまったのかと その事をすごく不安に思ってるみたいです。 希望を捨てずに頑張ってもらえるためには、どうしたらいいのでしょう?! 長くなってしまい、すみません。

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父の死を受け止めたいです

長い相談で申し訳ありません。 父が昨年の年末に亡くなりました。 父は可愛がっていた犬が亡くなり、その後ペットロスが酷くなり、鬱になりました。 また、鬱のため、弱った足腰を急に使った為に、腰骨を折り、身動きできなくなり、趣味だった射撃も鬱になってからは減りましたが、全くできなくなりそのまま亡くなりました。 私は犬が亡くなってからすぐに妊娠し、出産し、また、子供は産まれてすぐ入院し、病気が見つかった為、実家の問題には全然無関心でした。 子供の身体が元気になって、心に余裕ができたときに父の病気が酷くなっている事を知り、父が鬱で辛い時、話ができる時だけ電話で話をするようになりました。 しかし、鬱の人とお話するのはとても大変で、突き放すような事も言ったこともありました。 父は家で母と姉と暮らしていましたが、父の性格が子供のように我が儘で自分勝手なところがあり、そのせいで最後まで鬱病に関して理解をえられることがありませんでした。 そのことにとても苦しんでいました。 父はそれでもとても頑張り屋で、自殺はせず亡くなりました。 父が亡くなってみて、父の存在の大きさを痛感し、後悔が拭えません。 今になって、買っていた鬱病の本を読み初めて、こうしていればもっと父の気持ちを楽にすることができたかも、とか。 また、心理学の本を読んだとき、私は父を助けると言って、ただ、救世主気取りになり、家族の「特別な存在」になりたかっただけなのだと理解しました。 父は電話代が高くなるから…と言って、電話をかけてることが減っていました。 もしかしたら、私が中途半端に父を助けたいと思ったことで、父に酷いことを言っていたと思っています…というか自覚しております。 今ごろ気づいても仕方ないのですし、自分を責めても仕方ないにせよ、それでも自分を追い込んでしまいます。 父は最後まで鬱で、死ぬときは辛くなかったのでしょうか? 最後は幸せだったのでしょうか? 死んで楽になったのでしょうか? どう父の最後を受けとめていけばいいのでしょうか? 思いのまま書いてしまった為に、まとめきれずに申し訳ありません。

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最愛の母親が亡くなって49日を迎えます、、

去年11月末に入院してまさかのわずか2週間で永眠してしまった最愛の母親、、 入院直前は確かに座れなくなり、家で寝たきりになってしまうまでが早かったのですがまさかの大腸ガン末期からの腹膜炎併発で告知聞いた時は卒倒してしまいました、、 余命数日なんて信じられないって、、 あれからまだ四十九日を迎える段階の現状で年が変わっても全く自分の環境、心境は変わりません、、 毎日母親の写真持って話しかけては何とか仕事復帰しましたが、一瞬でも無になると涙がとまりません、、 常に母親と一緒でした。足も悪かったしずっと苦労してきたのを小さい頃から息子ながらに見てきたので毎日母親を喜ばせる想いで仕事頑張ってきました。母親が糧でした、、 自分は40代で独身ですが、84歳の高齢な母親から産まれた分、凄く可愛がってくれて小さい頃からの記憶も覚えてる分辛くて辛くてたまりません、、 毎週車に乗せて美味しいもの食べに連れて行ったり、遊びに行かせたりと母親は毎週週末が楽しみでした、、 母親は常に、(ほんとに親孝行息子やね、ありがとね。ほんとなら若い子と一緒に遊んだり出かけたりしたいやろうに、こんな年老いたのを連れ添ってくれるんやもんね、)と、、 自分は全くそんな若い同世代と遊びに行きたいとか思わなかったし、母親の喜んでくれてる姿がとにかく何より嬉しかった、、 入院した1週間はかすかに話ができてた、、点滴ばかりやね、、早く年末また一緒に買い出し行きたいねって、、 辛かった、、看病しててほんと心がはち切れんばかりでした、ほんとの告知はできませんでした。 2週間目にはもう酸素マスクで話も出来ずに、点滴もとうとうほとんど打てなくなって、、 最後の数日前に涙たくさんだして自分の手をずっと握り返してくれたあの想い、、 母親の言葉で聞きたかった、、きっとありがとうっていう意味だろうねってそう受け止めてました、、 亡くなった直後はもう自暴自棄で自分もすぐ後追いたい、、母親の支えにとかそんなことばかり、、 勿論わかってます、、母親がそんなこと望んでない事は、、でも、こんなに親が亡くなるって想像絶する辛さですね、 まだ夢にも出てきてませんが、母親との想いが残ってる家の空間、物、服、全てがあるのに生身の人間はなぜ残らないのか、、そんな変な事ばかり考えます、 お母さんともう一回言葉を交わしたい、、 お母さんを感じたいです、、

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神様仏様御先祖様なんていません。

1カ月程前、婚約者を亡くしました。 健康状態も悪くなかったし元気だったのに、くも膜下血腫で突然の事でした。 まだ32歳だったんです。 知り合ってから11年、付き合ってから5年、私が41歳と高齢なので先に子作りをし、やっと妊娠出来て安定期に入ったので、新居を決め、今月中に引越と同時に入籍する予定で周りにも報告していました。 何でこんなむごい事が起こるのですか? 彼も私も、こんな大きな罰を受ける事はしていないし、仕事も私生活も真面目に生きて来たつもりです。 同じ会社だったから、職場にも思い出があり過ぎて、辛さに耐えられず会社もずっと休んでいます。 こんな精神状態で赤ちゃんは無事に生まれてくれるのか、育てて行く為、経済的に会社は絶対辞められない、でも今は思い出が沢山ある場所へ行くのが怖い。 心療内科なんて行きたくもないけど、毎日悲しさや辛さや先々の不安で色々考えていると気が狂いそうで、自分の頭がおかしくなって、ウツ病にでもなってしまったのかと心配になり受診しました。 彼は自分より大切な人だった。 もう居ないと分かっているけど、どこかで受け入れられていない。。。 運命、宿命、寿命、そんなの信じられないし、神様、仏様、御先祖様なんて居ないと思いました。 毎月子宝神社へお参りし、自分の大切な人達の健康も祈ってたのに神様は無視したんですか? 頻繁にお墓参りも行き、仏壇へ手を合わせて供養していたのに、御先祖様はなぜ子孫を苦しめるんですか? 子孫を守ってあげなかった、彼の御先祖様に一番怒りを感じてしまう。 罰当たりと思われても、誰のせいでもないから、見えないものに思いをぶつけるしかない。。。 悲しむだけ悲しんで時間が経てば、、、 彼の為にも前を向いて、、、 赤ちゃんが力をくれる、、、 そんな決まり文句を言われても、当事者の私は綺麗事じゃ済まない。 これから親になるのに、こんな弱い自分も情けない。 自分の気持ちに折り合いをつけられるまで、いつまで時間がかかるんですか? 考える事、やらないといけない事があり過ぎて、頭が働きません。 この悲しさ辛さ苦しさに耐えられる気力がありません。 どうすれば良いですか?

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気持ちの整理の仕方

もうすぐ、今年も終わりますね。 今年の9月に母親を亡くしました。元々から体が弱い母でした。 今まで入退院をしていたので、いつもの体調不良だとおもっていたのですが、倒れた8月から一か月たたないうちに、母はいなくなってしまいました。 母の入院中、母と話せたのは1回きりで、あとは人口呼吸器につながれていたため、会話も意思の疎通取れず、たまに、筆談にて会話をするくらいでした。(元から耳が不自由な人でした) その筆談も、力なくほとんどなにを書いているのかわかりませんでした。 しかしたった一度はっきりとした字で『すぐ、死にたい』と書かれました。 愕然としたのを今でも覚えています 母のその一か月間は絶食で水の一滴すらのませてあげることができませんでした。 私や家族の顔を見ると話せないながら、手で水を飲むしぐさをしていました。 その姿や、衰弱していく母しか、まだ思い出せず。今は声すら思い出せません。 もっと話しておけばよかったと後悔しています。 私は、姉妹にも父にも旦那にも子供にも、母がいなくなって寂しいと話せません。 共有できないから、私が強くないと父も姉も、壊れてしまうから、 姉も母と、同じ病を抱えています。 父も、もう若くはありません。 自分の家庭は、私が悲しんでいたら回りません。 でも、日に日に寂しく罪悪感が増していきます。 どうして、もっと早く病院に連れて行かかなかったんだろう、もっとちゃんとしたお医者様に見せなかったんだろう。 なんで、話さなかったんだろう。 尋常じゃないくらいつらくて痛くて苦しかったはずなのにどうして私はわからなかったんだろう、どうして教えてくれなかったのだろうと。 大切な方や身近な人がなくなったりした時、このような気持ちの整理をつけるためには。どうしたいいのでしょうか。 ずっと母と話したくてたまりません。 長文、乱文にて大変申し訳ありません。

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亡くなった祖母のことを思い出し、耐え難く、辛い

はじめまして。 私は大のおばあちゃん子でした。中一の頃に父が病気で亡くなり、それからは別々に住まなくてはならなくなりました。この世で一番大好きな大親友でした。父が亡くなったため、祖母が亡くなる前の何週間も毎日1人でお見舞いに行きました。父がいたら家族や親戚でお見舞いにも来られたし、そう思うと辛くて仕方ありませんでした。父方の親戚は優しいですが、母と仲が悪く、父が亡くなってからは、祖母の死の間際まで付き合いが途絶えていました。 祖母が亡くなった時、祖母はもう辛さから解放されたとほっとしました。けれど命日から四年経った今月突然、辛すぎた当時のことを思い出したり、祖母に会いたくなったり、悲しすぎて耐えられなくなってきました。あまりにも悲しくて寂しくて、何も食べられなくなり、体重も8kgも減り、目が覚めるとうんざりします。 思えばこの4年間、信じられないくらい平気で過ごしてこられました。でも四年も経った今、堪え難いほどの悲しみに襲われ、生きていくのも嫌になりました。 母は祖母のことが大嫌いだったので、お葬式にも行っていません。だから誰にもこの気持ちを話せずにいます。誰かに聞いて欲しいのに、こういう話ができる友達もおらず、彼氏も夫ももちろん子供もいません。 優しい親戚のおばさん(父の従姉妹)や、隣の家の親戚のおばさん(母方の祖父の奥さん)、祖母の友達などは、祖母のことをとても気にかけて優しくしてくれたので、聞いてくれるでしょうが、こういう気持ちを話しても、迷惑だと思うのです。ただ誰かと祖母の思い出話だけでもしたいのです。 とにかくこの気持ちを和らげて、今までのようにそれなりに生きて生きたいのですが、悲しすぎて耐えられません。 祖母は最期は認知症でしたが、最期まで私のことはわかり、私が結婚することを願っていました。いつも私のことを想ってくれていました。だからもう味方が誰もいないような気分です。 いつも心配してくれていた祖母のためにも、幸せに生きて生きたいのですが、あまりにも辛く、どうすればいいのかわかりません。なぜ子供の頃に父が亡くなったり、私の人生はこんなに辛いのでしょうか? どうすれば少しでも楽に生きていけるようになるでしょうか?

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大切な人を失くしました

10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?

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先日母親が亡くなってとても辛く淋しいです。

幼少の頃から母親が苦労してきたのを見てきたので自分が早く大きくなって母親にたくさん親孝行することを糧に生きてきました。 ずっと母親っ子でとても優しく、自分の事よりも子供の事を何より優先して心配してきた母親、、 そんな母親との日々が仕事してても糧でした。 それなのにまさかの先月緊急入院してから僅か2週間で他界してしまい、、今でも信じられません、、末期の癌からくる腹膜炎でした、、84歳でした。 2週間付きっきりで看病してましたが、母親は最初の一週間は「迷惑かけてごめんね、、退院したらまた年末一緒に買い出しに出掛けようね、、がんばるからね、、と、、」 手を握りながら相づちうって笑顔振りまいてましたが、すでに主治医からは余命数日と予想もしない宣告受けててとてもとても苦しくて一人の時は号泣し続けていました、、 母親はまた家に帰れる想いで頑張ってるのに、本当の事はとても言えなかった、、 2週間目に入ったら一気に急変してきて話さなくなり、、それでも必死に口の渇きを潤してあげあり耳元で話し続けてました、、 母親は涙浮かべて、ぎゅっと手を握り返してくれました、、今思い返してもその時の光景が離れません。 最後は、徐々に息も絶え絶えになり眠るように永眠しました、、 号泣してありがとうを何度連呼したか、、嗚咽止まらず叫び続けました、、 亡くなってまだ2週間ちょっとですが、空虚感、悲壮感、孤独感、現実に受け止めれません、 何もやる気がおきず、母親の元にすぐ行って支えて一緒に逝きたいとかばかり考えてしまう今、、 家にいても母親の直前まできてた服や、台所の物とかはもちろん、出掛けても母親と行った場所、道がどこも頭をよぎって涙が止まらずさみしくて辛いです、、 母親の写真を常に肌身離さず持ち歩いて話しまくってます、、 84歳なら往生だと思うよとか、周りは慰めで言ってきても、自分にとっては全く素直に受け入れられず、逆に親のいる人に何がわかるんだ!と怒りとか苛立ちばかりになってしまう、、 普通に過ぎていく毎日がいかに幸せだったか、こうした別れで深く感じています。 今は普通に過ごす事すらつらくてたまりません、、 母親の涙流しながら手を握り返してくれた想い、、言葉で聞きたかった、、 母親の気持ちが聞きたくてたまりません、、 母親が高齢の時生まれた自分でまだ独身なので余計淋しいです、、

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故人との付き合い方について

世界で一番大事な人を一週間前に亡くしました。 最期を看取り、通夜、葬儀に参列し、肉体を失うまで見てきました。 ですが、いまだに実感がわかずにいます。ただ、涙はずっと出ています。 まだ、過去形で故人を語ることが出来ません。 そこで質問です。 (1)故人へのこの思いは、故人を現世にとどめてしまうことになってしまうでしょうか? (2)故人の写真を持ち歩いたり、生前頂いたものを身に着けてもよいのでしょうか? (3)生前通り、ついついメールをしてしまいます。(いつもそうしていたので)また、生前頂いた大事なぬいぐるみにも毎日話しかけてしまいます。これも良くないことなのでしょうか。 (4)故人とした会話や行事での音声を毎日聞いてしまいます。これも良くないことでしょうか? (5)故人の匂いや気配を感じると、そちらを向いて話しかけてしまいます。これも良くないことなのでしょうか? (6)この哀しい気持ちを引きずってしまうのは、いつまでしても良いのでしょうか? 故人には解放され、自由になってほしいと思っています。 自分も前を向いていきたいと思っているのです。故人は私が哀しんでいるとへこむと生前仰っていましたし、いろんな思いを私に託してくれたので、それらを糧に頑張りたいと思っています。

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