64歳の父が、去年の3月に胆管癌レベル4の手術を受けて、すぐに再発をして、抗がん剤や放射線今まで色々やってきました。 胆管癌には、抗がん剤があまりなくて、最後の砦とも言われる飲む抗がん剤の治療は、ダルさが強くて… それと、伴って癌の進行も進んでいて転移して、しこりも出てきてて… 先日から入院しをして、検査でまた放射線を当てることになり。 その時に、父が、飲む抗がん剤の治療はもうやめたいと、主治医の先生に言っていて。 その時に、ノドもなんだか変な感じで食事もほとんど通らない時が多くなってきてと言っていて。 主治医の先生からは、このままだと、食事ができなくなってしまって、流動食になってしまうからと言われて。 放射線をやってみますか? という話で部屋に戻ってご飯の時間で、やはりノドを通らなくて。母の前で涙をこぼしていたみたいで。 先生からは、3ヶ月から半年でしょうと告げられました。 ですが、家族みんな本当に涙しながらどうしようもない感覚に襲われて。 まだまだ、痩せてきてはいるものの、疲れやすいものの、元気は元気なんです。 私は、結婚していてこれから先ずっと一緒にいるという事もなかなか難しいですが。 なるべく私は、一緒に居たいと思い病院には毎日行ってますが。 父も、自分が死ぬという事が迫ってきている事を知っていると思います、 だけど、そんなそぶりもみせずに、早く治らないかなといつも言っています、 私達も、大丈夫だよとしか言えません、 幸せだったと思ってもらえるにはどうしたらいいのか? 私達も、余命宣告されてから悲しくて悲しくて 心がぽかっと空いたような。 心がそわそわしてしまい。 どうしたらいいかわかりません うまく言えませんが。 父を亡くす事がすごく怖いです。 母も、みんな同じです。 今の状況を乗り越えていける心構えというか どうしたらいいのでしょう? 父も自分の身体について、心がツライ。 なんでこんな病気になってしまったのかと その事をすごく不安に思ってるみたいです。 希望を捨てずに頑張ってもらえるためには、どうしたらいいのでしょう?! 長くなってしまい、すみません。
長い相談で申し訳ありません。 父が昨年の年末に亡くなりました。 父は可愛がっていた犬が亡くなり、その後ペットロスが酷くなり、鬱になりました。 また、鬱のため、弱った足腰を急に使った為に、腰骨を折り、身動きできなくなり、趣味だった射撃も鬱になってからは減りましたが、全くできなくなりそのまま亡くなりました。 私は犬が亡くなってからすぐに妊娠し、出産し、また、子供は産まれてすぐ入院し、病気が見つかった為、実家の問題には全然無関心でした。 子供の身体が元気になって、心に余裕ができたときに父の病気が酷くなっている事を知り、父が鬱で辛い時、話ができる時だけ電話で話をするようになりました。 しかし、鬱の人とお話するのはとても大変で、突き放すような事も言ったこともありました。 父は家で母と姉と暮らしていましたが、父の性格が子供のように我が儘で自分勝手なところがあり、そのせいで最後まで鬱病に関して理解をえられることがありませんでした。 そのことにとても苦しんでいました。 父はそれでもとても頑張り屋で、自殺はせず亡くなりました。 父が亡くなってみて、父の存在の大きさを痛感し、後悔が拭えません。 今になって、買っていた鬱病の本を読み初めて、こうしていればもっと父の気持ちを楽にすることができたかも、とか。 また、心理学の本を読んだとき、私は父を助けると言って、ただ、救世主気取りになり、家族の「特別な存在」になりたかっただけなのだと理解しました。 父は電話代が高くなるから…と言って、電話をかけてることが減っていました。 もしかしたら、私が中途半端に父を助けたいと思ったことで、父に酷いことを言っていたと思っています…というか自覚しております。 今ごろ気づいても仕方ないのですし、自分を責めても仕方ないにせよ、それでも自分を追い込んでしまいます。 父は最後まで鬱で、死ぬときは辛くなかったのでしょうか? 最後は幸せだったのでしょうか? 死んで楽になったのでしょうか? どう父の最後を受けとめていけばいいのでしょうか? 思いのまま書いてしまった為に、まとめきれずに申し訳ありません。
去年11月末に入院してまさかのわずか2週間で永眠してしまった最愛の母親、、 入院直前は確かに座れなくなり、家で寝たきりになってしまうまでが早かったのですがまさかの大腸ガン末期からの腹膜炎併発で告知聞いた時は卒倒してしまいました、、 余命数日なんて信じられないって、、 あれからまだ四十九日を迎える段階の現状で年が変わっても全く自分の環境、心境は変わりません、、 毎日母親の写真持って話しかけては何とか仕事復帰しましたが、一瞬でも無になると涙がとまりません、、 常に母親と一緒でした。足も悪かったしずっと苦労してきたのを小さい頃から息子ながらに見てきたので毎日母親を喜ばせる想いで仕事頑張ってきました。母親が糧でした、、 自分は40代で独身ですが、84歳の高齢な母親から産まれた分、凄く可愛がってくれて小さい頃からの記憶も覚えてる分辛くて辛くてたまりません、、 毎週車に乗せて美味しいもの食べに連れて行ったり、遊びに行かせたりと母親は毎週週末が楽しみでした、、 母親は常に、(ほんとに親孝行息子やね、ありがとね。ほんとなら若い子と一緒に遊んだり出かけたりしたいやろうに、こんな年老いたのを連れ添ってくれるんやもんね、)と、、 自分は全くそんな若い同世代と遊びに行きたいとか思わなかったし、母親の喜んでくれてる姿がとにかく何より嬉しかった、、 入院した1週間はかすかに話ができてた、、点滴ばかりやね、、早く年末また一緒に買い出し行きたいねって、、 辛かった、、看病しててほんと心がはち切れんばかりでした、ほんとの告知はできませんでした。 2週間目にはもう酸素マスクで話も出来ずに、点滴もとうとうほとんど打てなくなって、、 最後の数日前に涙たくさんだして自分の手をずっと握り返してくれたあの想い、、 母親の言葉で聞きたかった、、きっとありがとうっていう意味だろうねってそう受け止めてました、、 亡くなった直後はもう自暴自棄で自分もすぐ後追いたい、、母親の支えにとかそんなことばかり、、 勿論わかってます、、母親がそんなこと望んでない事は、、でも、こんなに親が亡くなるって想像絶する辛さですね、 まだ夢にも出てきてませんが、母親との想いが残ってる家の空間、物、服、全てがあるのに生身の人間はなぜ残らないのか、、そんな変な事ばかり考えます、 お母さんともう一回言葉を交わしたい、、 お母さんを感じたいです、、
1カ月程前、婚約者を亡くしました。 健康状態も悪くなかったし元気だったのに、くも膜下血腫で突然の事でした。 まだ32歳だったんです。 知り合ってから11年、付き合ってから5年、私が41歳と高齢なので先に子作りをし、やっと妊娠出来て安定期に入ったので、新居を決め、今月中に引越と同時に入籍する予定で周りにも報告していました。 何でこんなむごい事が起こるのですか? 彼も私も、こんな大きな罰を受ける事はしていないし、仕事も私生活も真面目に生きて来たつもりです。 同じ会社だったから、職場にも思い出があり過ぎて、辛さに耐えられず会社もずっと休んでいます。 こんな精神状態で赤ちゃんは無事に生まれてくれるのか、育てて行く為、経済的に会社は絶対辞められない、でも今は思い出が沢山ある場所へ行くのが怖い。 心療内科なんて行きたくもないけど、毎日悲しさや辛さや先々の不安で色々考えていると気が狂いそうで、自分の頭がおかしくなって、ウツ病にでもなってしまったのかと心配になり受診しました。 彼は自分より大切な人だった。 もう居ないと分かっているけど、どこかで受け入れられていない。。。 運命、宿命、寿命、そんなの信じられないし、神様、仏様、御先祖様なんて居ないと思いました。 毎月子宝神社へお参りし、自分の大切な人達の健康も祈ってたのに神様は無視したんですか? 頻繁にお墓参りも行き、仏壇へ手を合わせて供養していたのに、御先祖様はなぜ子孫を苦しめるんですか? 子孫を守ってあげなかった、彼の御先祖様に一番怒りを感じてしまう。 罰当たりと思われても、誰のせいでもないから、見えないものに思いをぶつけるしかない。。。 悲しむだけ悲しんで時間が経てば、、、 彼の為にも前を向いて、、、 赤ちゃんが力をくれる、、、 そんな決まり文句を言われても、当事者の私は綺麗事じゃ済まない。 これから親になるのに、こんな弱い自分も情けない。 自分の気持ちに折り合いをつけられるまで、いつまで時間がかかるんですか? 考える事、やらないといけない事があり過ぎて、頭が働きません。 この悲しさ辛さ苦しさに耐えられる気力がありません。 どうすれば良いですか?
もうすぐ、今年も終わりますね。 今年の9月に母親を亡くしました。元々から体が弱い母でした。 今まで入退院をしていたので、いつもの体調不良だとおもっていたのですが、倒れた8月から一か月たたないうちに、母はいなくなってしまいました。 母の入院中、母と話せたのは1回きりで、あとは人口呼吸器につながれていたため、会話も意思の疎通取れず、たまに、筆談にて会話をするくらいでした。(元から耳が不自由な人でした) その筆談も、力なくほとんどなにを書いているのかわかりませんでした。 しかしたった一度はっきりとした字で『すぐ、死にたい』と書かれました。 愕然としたのを今でも覚えています 母のその一か月間は絶食で水の一滴すらのませてあげることができませんでした。 私や家族の顔を見ると話せないながら、手で水を飲むしぐさをしていました。 その姿や、衰弱していく母しか、まだ思い出せず。今は声すら思い出せません。 もっと話しておけばよかったと後悔しています。 私は、姉妹にも父にも旦那にも子供にも、母がいなくなって寂しいと話せません。 共有できないから、私が強くないと父も姉も、壊れてしまうから、 姉も母と、同じ病を抱えています。 父も、もう若くはありません。 自分の家庭は、私が悲しんでいたら回りません。 でも、日に日に寂しく罪悪感が増していきます。 どうして、もっと早く病院に連れて行かかなかったんだろう、もっとちゃんとしたお医者様に見せなかったんだろう。 なんで、話さなかったんだろう。 尋常じゃないくらいつらくて痛くて苦しかったはずなのにどうして私はわからなかったんだろう、どうして教えてくれなかったのだろうと。 大切な方や身近な人がなくなったりした時、このような気持ちの整理をつけるためには。どうしたいいのでしょうか。 ずっと母と話したくてたまりません。 長文、乱文にて大変申し訳ありません。
同じような質問になってしまって申し訳ありません。 世界で大事な人をなくして、20日ほど経ちました。 未だに死を受け入れていないような気がします。 過去に、私の味方を常にしてくれる(そして厳しく指摘もしてくれた)大事な祖母を亡くしたときとは全く違う感覚です。 あの方に、毎日のように話しかけ、匂いを感じ、日に日に心の中で一緒に生きているような感覚になってしまっています。特に強く話しかけると心に答えが返ってきて、あれ? とおかしな状態です。 そばにいてくれているんじゃないか、そう思っています。 受け入れていないからこその感覚なのでしょうか? おかしな感覚なのでしょうか? (と言いつつも、自分ではおかしいと思っていないので、なんだか不思議な質問なのです) また、死を受け入れるまで、どのくらいかかるものなのでしょうか?
はじめまして。 私は大のおばあちゃん子でした。中一の頃に父が病気で亡くなり、それからは別々に住まなくてはならなくなりました。この世で一番大好きな大親友でした。父が亡くなったため、祖母が亡くなる前の何週間も毎日1人でお見舞いに行きました。父がいたら家族や親戚でお見舞いにも来られたし、そう思うと辛くて仕方ありませんでした。父方の親戚は優しいですが、母と仲が悪く、父が亡くなってからは、祖母の死の間際まで付き合いが途絶えていました。 祖母が亡くなった時、祖母はもう辛さから解放されたとほっとしました。けれど命日から四年経った今月突然、辛すぎた当時のことを思い出したり、祖母に会いたくなったり、悲しすぎて耐えられなくなってきました。あまりにも悲しくて寂しくて、何も食べられなくなり、体重も8kgも減り、目が覚めるとうんざりします。 思えばこの4年間、信じられないくらい平気で過ごしてこられました。でも四年も経った今、堪え難いほどの悲しみに襲われ、生きていくのも嫌になりました。 母は祖母のことが大嫌いだったので、お葬式にも行っていません。だから誰にもこの気持ちを話せずにいます。誰かに聞いて欲しいのに、こういう話ができる友達もおらず、彼氏も夫ももちろん子供もいません。 優しい親戚のおばさん(父の従姉妹)や、隣の家の親戚のおばさん(母方の祖父の奥さん)、祖母の友達などは、祖母のことをとても気にかけて優しくしてくれたので、聞いてくれるでしょうが、こういう気持ちを話しても、迷惑だと思うのです。ただ誰かと祖母の思い出話だけでもしたいのです。 とにかくこの気持ちを和らげて、今までのようにそれなりに生きて生きたいのですが、悲しすぎて耐えられません。 祖母は最期は認知症でしたが、最期まで私のことはわかり、私が結婚することを願っていました。いつも私のことを想ってくれていました。だからもう味方が誰もいないような気分です。 いつも心配してくれていた祖母のためにも、幸せに生きて生きたいのですが、あまりにも辛く、どうすればいいのかわかりません。なぜ子供の頃に父が亡くなったり、私の人生はこんなに辛いのでしょうか? どうすれば少しでも楽に生きていけるようになるでしょうか?
こんばんは。 心配してくれる親しい友人もいて、 たまに様子を見に来てくれる両親もいて、 仲の良い兄妹もいて、 新しい土地で出会えた友人もできて、 最愛の子供たちもいるのに、 誰にも主人を亡くした辛さ全てを話せません。 主人と交流があった方とお会いしても、 表面上のありふれた寂しさを語るくらいで、 相手を困らせてしまうのではないかと、考えると それ以上の話はしません。 死ななければ、何でもできる それ以上の辛さはないから。 わかります。死んだら終わりです。 でも、その気持ちが越えてしまうほどに 悲しみで溢れてしまいそうで、 明日を迎える気持ちも湧いて来ません。 どうしたら良いのでしょう
三ヶ月前に母親が病気で亡くなり、3日前に父親が心筋梗塞で亡くなりました。どうして立て続けにこんな事が起こるのか、子供の一才の祝いをもうすぐ父とすると約束してたのに。どうしてこんなことが起こるのか分かりません。 これからどうしたらいいのか途方にくれています。質問ではなく聞いてもらいたいために書き込みしました、質問するとすれば1.どうすれば心が落ち着くか 2.不幸なことをどう受け止めたらよいか が知りたいです
10年前 私が20代半ばの頃です。約2年半程 交際していた方が自ら命を絶ちました。当時は 悲嘆に暮れ 絶望感と今までに経験したことのない喪失感でいっぱいでした。 私の言動や行動が 彼を追いつめたのではないかと思い自責の念にも苛まれました。 彼に対して 『何故、どうして?』という気持ちがいっぱいで溢れそうになり 時にはそれが『なぜ私をこんなに悲しませるの』と、怒りになることもありました。 彼がいなくなってからも 私の日常は変わらずにあり 泣いてばかりもいられませんでした。半年も経てば 彼がいない生活にも慣れてしまいました。亡くなってからの一年間は 周りに心配をかけまいと 必死に毎日を過ごしていたように思います。楽しいことがあれば普通に笑えたし、その一方では 死にたいと考えてしまう自分がいたり。今思えば、 常に両極端な緊張感の中にいるようでした。結果 糸がプッつり切れてしまい休職するに至りました。 『時間が経てば癒される』と よく言いますが、三回忌を過ぎた頃からは 彼がいないことに対して寂しくて泣くことは少なくなりました。あんなに毎日の様に彼のことを考えていたのに 自分のやるべきことに追われ忙しい日常にいると すっかり彼のことは忘れていましたし、それでいいのだとも思っていました。しかし そう簡単に割り切れる訳もなく、 少し疲れていたりすると 決まって彼のことを思い出しては悔やんでいる自分がいたのも確かです。 七回忌が終わった頃には 私自身も 歳を重ね 彼の自殺の原因を考えるより 彼が亡くなった意味に想いを巡らせる様になりました。 歳月が流れて 私の気持ちにも沢山の変化がありました。時間はかかってしまいましたが 私なりには彼の自死を消化してきたつもりです。しかし、10年が経とうという今でも あの当時の喪失感だけは拭えません。新しい誰かと未だに向き合えない自分がいます。 また、物にも あまり執着しないようになり、とにかく身軽でいたいと年々 思うようになりました。彼以外にも この数年に大切な家族を立て続けに亡くしたことも かなり堪えています。 すっかり 自分の進むべき道を見失ってしまいました。生きることに執着がない自分自身にも とても不安になります。何か新しく手に入れたり 出会いが生まれれば、そこから貪欲になれるのでしょうか?
幼少の頃から母親が苦労してきたのを見てきたので自分が早く大きくなって母親にたくさん親孝行することを糧に生きてきました。 ずっと母親っ子でとても優しく、自分の事よりも子供の事を何より優先して心配してきた母親、、 そんな母親との日々が仕事してても糧でした。 それなのにまさかの先月緊急入院してから僅か2週間で他界してしまい、、今でも信じられません、、末期の癌からくる腹膜炎でした、、84歳でした。 2週間付きっきりで看病してましたが、母親は最初の一週間は「迷惑かけてごめんね、、退院したらまた年末一緒に買い出しに出掛けようね、、がんばるからね、、と、、」 手を握りながら相づちうって笑顔振りまいてましたが、すでに主治医からは余命数日と予想もしない宣告受けててとてもとても苦しくて一人の時は号泣し続けていました、、 母親はまた家に帰れる想いで頑張ってるのに、本当の事はとても言えなかった、、 2週間目に入ったら一気に急変してきて話さなくなり、、それでも必死に口の渇きを潤してあげあり耳元で話し続けてました、、 母親は涙浮かべて、ぎゅっと手を握り返してくれました、、今思い返してもその時の光景が離れません。 最後は、徐々に息も絶え絶えになり眠るように永眠しました、、 号泣してありがとうを何度連呼したか、、嗚咽止まらず叫び続けました、、 亡くなってまだ2週間ちょっとですが、空虚感、悲壮感、孤独感、現実に受け止めれません、 何もやる気がおきず、母親の元にすぐ行って支えて一緒に逝きたいとかばかり考えてしまう今、、 家にいても母親の直前まできてた服や、台所の物とかはもちろん、出掛けても母親と行った場所、道がどこも頭をよぎって涙が止まらずさみしくて辛いです、、 母親の写真を常に肌身離さず持ち歩いて話しまくってます、、 84歳なら往生だと思うよとか、周りは慰めで言ってきても、自分にとっては全く素直に受け入れられず、逆に親のいる人に何がわかるんだ!と怒りとか苛立ちばかりになってしまう、、 普通に過ぎていく毎日がいかに幸せだったか、こうした別れで深く感じています。 今は普通に過ごす事すらつらくてたまりません、、 母親の涙流しながら手を握り返してくれた想い、、言葉で聞きたかった、、 母親の気持ちが聞きたくてたまりません、、 母親が高齢の時生まれた自分でまだ独身なので余計淋しいです、、
世界で一番大事な人を一週間前に亡くしました。 最期を看取り、通夜、葬儀に参列し、肉体を失うまで見てきました。 ですが、いまだに実感がわかずにいます。ただ、涙はずっと出ています。 まだ、過去形で故人を語ることが出来ません。 そこで質問です。 (1)故人へのこの思いは、故人を現世にとどめてしまうことになってしまうでしょうか? (2)故人の写真を持ち歩いたり、生前頂いたものを身に着けてもよいのでしょうか? (3)生前通り、ついついメールをしてしまいます。(いつもそうしていたので)また、生前頂いた大事なぬいぐるみにも毎日話しかけてしまいます。これも良くないことなのでしょうか。 (4)故人とした会話や行事での音声を毎日聞いてしまいます。これも良くないことでしょうか? (5)故人の匂いや気配を感じると、そちらを向いて話しかけてしまいます。これも良くないことなのでしょうか? (6)この哀しい気持ちを引きずってしまうのは、いつまでしても良いのでしょうか? 故人には解放され、自由になってほしいと思っています。 自分も前を向いていきたいと思っているのです。故人は私が哀しんでいるとへこむと生前仰っていましたし、いろんな思いを私に託してくれたので、それらを糧に頑張りたいと思っています。
はじめまして。みぃころと申します。 夫と1歳半の子どもと3人暮らしです。実は3年前にも妊娠と出産を経験しているのですが、生まれたときに先天性の障害があるとわかり、1年もたない命でしょうと医師から宣告されました。最初は受け入れられず、面会に行けなかったり、早く次の子どもを作らなくてはと焦ったりしました。でも、徐々に受け入れられるようになってきた頃に短い生涯を終えてお空に帰ってしまいました。たった4ヶ月でした。そして今いる子が二人目の子どもで、健康そのもので育っています。 出先で出会う知らない人や、一人目の子どもを亡くしていることを知らない知人など、なにげない会話のなかで「はじめての子ですか?」「一人っ子ですか?」と聞かれたときの返答にとても困ります。一人目の子を亡くしていることを話すと気まずい空気が流れて会話が止まってしまうことがあり、正直に言いたくありません。でも、適当に話を合わせてしまうと、一人目の子の存在をなかったことにしているようで苦しくなります。お空で聞いていたらきっと悲しむだろうと苦しくなります。また、健康な二人目の子どもを羨んで悔しい思いはしていないかと心が痛むときもあります。 つまらないことかもしれませんが、いつも気になってこの話をされたくないなと怯えています。気にしすぎでしょうか? もうひとつ「賽の河原」について知りたいです。親より先に死んだ子どもが、そこで懺悔?の意味を込めて石を積むが、鬼に崩されて一生積み終わらない石を積み続けると。お地蔵さんが時々助けに来てくれると聞きました。私の子どもは障害のため指が曲がって固まっていました。石など積める手ではありません。石を積めないことで、イライラした鬼に意地悪をされたり怒られたりしていないでしょうか?体も小さかったので、助けに来てくれるお地蔵さんに見つけてもらえず、悲しい思いをしていないでしょうか?バカにされるかもしれませんが、そんなことが気になって気になってしかたありません。せめてあの世では辛いことがないようにしてやりたいと願っています。 まとまらない長文で申し訳ありませんが、心が穏やかになれる回答がもらえたら嬉しいです。お願いします。
先日、母が旅たちました。 10年ほど前、検診で初期のガンがみつかったのですが、当初、家族に隠し、積極的な治療も避けていたようです。 一番身近にいたのが娘の私でしたので、母の身体のちょっとした変化に、どこか悪いのでは、病院へ行こう、と話したことも一度ではありません。その都度母は、私の心配を一笑にふし、何もなかったように毎日は続きました。 6年ほど前、いよいよ体調を崩し、やっと病院へ行ってくれた母の診断はステージ4、病院の先生方、母自身も最善を尽くしての6年だったと思います。 母が逝って2週間、母のいない人生に意味が感じられず、想像を超えた喪失感に打ちのめされる毎日です。そばにいた私が10年前の初期の段階で病院へ連れて行けなかったことへの自責の念や、親友のような母に、ガンであることをたった一人で抱えさせていたことへの不甲斐なさに潰されそうです。 過去は取り戻せない、そう思おうとしても、後悔ばかりがわいてきて、涙がとまりません。いつも精一杯私を愛し応援してくれていた母の一大事に何もできなかった、助けることができなかった、そのことはもう取り返しがつかない。10年前の自分を殴り飛ばしたいとさえ思います。 亡くなる前、とびきりの笑顔で「ありがとう」といった母の顔と声を思い出すと、もう若くもないのに泣き叫びたくもなります。この思いをどう乗り越えたらいいのか、もしおこたえがいただけましたら幸いです。
父が8月に46歳で脳幹出血に倒れそのまま亡くなりました。先々週に百か日を迎えました。 お坊さんから「百か日はこれまでの悲しみを乗り越えて普通の生活をするための節目」だと聞きました。 私は今の今まで父が死んだなんてことは実感しておらず長い長い出張に行っている感覚でした。いつ作業着で帰ってくるんだろう、と、そんな気持ちで待っている自分がいたんです。だから、倒れた時の父の顔を思い出したり写真を見れば涙は出ますが、普段悲しいと心の底から思ったことがありませんでした。 でも昨日、たまたま寄ったパン屋さんで流れていた曲が昔父と二人美味しいと言いながら食べたラーメン屋さんで流れていた曲で、その時初めて「あ、父は亡くなったんだ。もう一生あのラーメンを父と一緒に食べられないんだ」と実感しました。 昨日はたくさん泣きました。 いないと思えば思うほど涙が出て今も少し思い出すだけで涙が出そうになります。 今まで頑張って1位を取っていた定期試験もなぜか頑張るのが怖くなってしまいました。 褒めて欲しい人がもういないんです。 乗り越えたいなんて思えません。でも乗り越えないといけないのは痛いほどわかります。 私が今しなければならないことはなんですか? 父が今私にして欲しいことや私にして欲しい生き方がわかりません。私が今したいことは父とまた会話することです。おはようだけでもありがとうだけでも父に言って「なんもだよ」って言われたいだけなんです。
母が先日56歳で亡くなりました。 突然のことで、脳出血で倒れ、そのまま意識が戻らず1週間の入院の末亡くなりました。倒れていたところをすぐに見つけ、すぐに救急車を呼び、すぐ近くの病院が受け入れてくださり、最善の治療を施して頂けたと思っています。祖父母も駆けつけ、遠方からの友人も、伯父も駆けつけて、もちろん家族は病院に詰めていて、入院している間は病院の方も家族も最善を尽くせたと信じています。 無宗教で、戒名はいらない、私のお葬式ではみんな可愛い格好して骨は粉にして海に撒いてちょうだい、と常日頃から笑って言っていた母ですが、妹の幼稚園などでお世話になっていたお寺さんに葬儀をお願いしました。家族葬で静かに行う予定でしたが、お花を贈ってくださる方が多く、花に囲まれた立派な式だったと思います。綺麗な戒名もつけていただきました。遺影の笑顔も本当に綺麗です。明るく華やかな母の笑顔です。出棺もご住職様にお見送りいただき、お骨は綺麗に焼いていただき、今は綺麗な骨壷と葬儀社の方が丁寧に作ってくださった祭壇の上に乗せられ、家に戻りました。 まだ実感が湧きません。明るい母が、今にも玄関を開けて買い物袋と一緒に帰ってくるように思います。コタツで寝ているように思えます。病室での顔も安らかで、本当に家で寝ている時と同じ顔でした。私は社会人ですが、3人いる妹はまだ大学生、一番下の妹はまだ成人もしていません。今帰ってきた妹が明るい声でママただいま!と遺影に声をかけました。父は実家と疎遠で、頼れる人はいません。母の両親はもう83歳で、こんな悲しみを味あわせていいはずはありません。我が家の要です。働かせすぎたのだと思います。朝起きて、洗濯をし、朝食を作り、ゴミを出し、弁当を持たせ、出勤し、帰宅し、買い物をし、掃除し、食事を作り、洗濯をし、誰よりも遅く寝て、誰よりも早く起き、誰よりも働き、誰よりも早く旅立ちました。 娘4人全員マザコンで、日頃から母には好き、大好きと伝え、母との予定は最優先にしてきました。私たち娘たちからの母への気持ちは伝えられていたと思っているし、母からの愛情を疑ったことはありません。ただ、母の友人、兄、祖母から「〇〇くんと結婚していたらなあ」「あれじゃ(母)ちゃんが可哀想」と言われるのを聞きました。母はかわいそうだったのでしょうか。大好きな母がかわいそうなのはとても悲しいです。
今年初夏に父が突然亡くなりました。朝「行ってくるよ」と出かけた途中の道で倒れていたところを救急車で搬送され私たちが駆け付けた時は意識不明。亡くなるのを待つしかない状況でした。私は父にとても大事にされたくさんの愛情で過保護なくらい甘やかされて育ちました。私が仕事で成功することが父の楽しみだったのに、一度は事業部のトップになったにもかかわらず能力不足で左遷され、転属した先の男性上司にとことんいじめられ、悩んだ末、退職しました。さぞや父は落胆したのではないかと思います。両親の願いだった結婚もせず、仕事の道を選んだ末路でした。その後両親と暮らし父には親孝行といえることもできたと思っています。ただ、父がいなくなったことが悲しくつらく、残された母のショックも深くこののち母もなくなってしまうことがあると私は一人きり。どうやって生きていけばよいのか悲観的になってこころにずーんと思い鉛を抱え毎日不安なまま仕事に行っています。できれば仕事もやめてずっと母のそばにいたい。けれども働かないと生活できない。どうしてこうなってしまったのか、いずれ両親と別れがあるのはわかっていたのに突然で何が何かわからないまま日が過ぎています。毎日生きている事に感謝して生活しなければならない事はわかっていますが気持ちが沈んで気持ちがおかしくなりそうです。どうかこれから生きていく指針をお教え下さい。
主人が52歳で脳出血で急に亡くなりました。 単身赴任7年我慢しました、EDで病院にいくようにもお願いしましたが、ネットで買って嘘でした、出会い系も行っていないというのを信じ我慢しましたが、死んだあと、箱につかったもの3個と空の薬が箱にあったのを見つけショックで、 許せないでも会いたくて、もどにもどりたくて毎日泣いています。 カウセリング、精神科にも行っていますが、変わらず辛くてどうしたらよいかわかりません どう考えれば良いのか教えてください
愛する人を亡くしました。 進行の早い病気で、でも希望を捨てたくなかったので、治療がうまくいく前提でしか話をしていませんでしたが、結局は…。 こんなことになるなら、もっと彼に対する感謝の気持ちを伝えたかったという後悔の思いばかりです。 私は、魂とか輪廻転生というようなことを信じています。 人は亡くなった後、49日までは魂がこの世にいるのですよね。だとしたら彼の魂は家族のところにいるのでしょうか? 私は彼の家族ではありません。 彼は天国に行けるでしょうか。 家族を大切にしている人でしたが裏切っていたことには変わりないので、それは“悪いこと”であり、天国には行けないのでしょうか…。 また、愛する人の死を“乗り越える”とはどういうことなのでしょうか。 彼が亡くなって以来、頭ではわかっているものの、気持ちがついていけません。それでも私は普通の生活を送るしかなく、自分は何をしているのだろうという気持ちになったりして、どうしたらいいのかわかりません。
いつもお世話になっております。 お世話になっていた近所のおじちゃんが亡くなりました。 きょう洗濯物を干しているおばちゃんにいつも通り 「おばちゃんおっはよぉ〜wおじちゃん具合どぉ〜?www」 と軽く聞いたら口パクで「し、ん、だ」との事。 * 私は買い出しに行く出がけでだらしなかったのですぐに スーツと数珠をひっ掴んで弔問に走り、 宗派が違うので許可を得た上でお十念を称えました。 「嘘だろ…」しか言えませんでした。 * 息子さんがいらしていたのですが、忙しいらしくすぐに 帰ってしまわれるとの事。死後の手続きも手伝えないと言う 状況だそうです。さいわいお知り合いに弁護士さんがいる そうで、なんとかなるかもとの事でしたが。 * 手続きは専門の人にお任せするとして、おばちゃんは1人に なってしまいます。自身も体に不調があり、すぐにめまいを 起こします。私は何をしてあげられますか? そう言う私も自分の時の感覚が鮮明に蘇っており、泣きそう です。めちゃくちゃ悲しいです。 お智慧を貸して頂きたく存じます。