維摩居士でも文殊菩薩さまの知恵には、敵わなかったのでしょうか?私が読んだ「維摩経」をマンガにしたものには、維摩居士が文殊菩薩さまに帰依したことは書いてなかったのですが、文殊菩薩さまのことを検索していたところ、どのサイトかは忘れてしまったのですが、その様なことが書かれていた記憶があります。
罪を憎んで人を憎まずと言う言葉がありますが、この言葉の意味は分かります。 自分も普段から心がけてる事の一つでもあります。 ですが、一つ疑問が残ります。 もし、人類を滅ぼす存在が現れた場合です。 だいぶオーバーだと思いますが、人類を滅ぼす存在が居たとして、その存在が人類を絶滅させようとしたとしても、その存在を憎まずに愛で包み込んで人類はそのまま絶滅しました。←これで良いんでしょうか?
「厭離穢土欣求浄土」の意味について、今年の大河ドラマをはじめ昨今の小説やドラマでは「この世を浄土のような平和な世にする」というスローガンだと説明されていることが多いですが、浄土宗は唯心の浄土ではなく指方立相の浄土を説くはずで、凡夫に浄土は築けないと教えているはずですから、この解釈は浄土宗の教義に矛盾していないでしょうか。元来の意味が厭世的過ぎて現代人に受け入れにくいので無理矢理こじつけたように思えます。これはむしろ即身成仏を説く真言宗や娑婆即寂光土を説く日蓮宗の考えに近い解釈ではないでしょうか。 凡夫に浄土が作れるのなら弥陀も念仏も要らないことになってしまいます。 ただ、「浄土宗は死を待つだけの教えではないのか? 法然上人の時代のように道を歩けば死体がゴロゴロ、いつ自分もその仲間入りするかしれない世ならともかく、現代ではそんなに今生きているこの現世を否定しなくてもいいんじゃないか?」というこの胸に芽生えた疑問への答えとしては厭離穢土欣求浄土の現代風解釈は便利なので、指方立相の浄土とは矛盾すると知りながら都合よく取り入れてみるのも悪くないかなとも思っています(真剣勝負と八百長との狭間をウロウロするプロレスファンなので、こういう曖昧な考え方は得意なのです)。 できれば浄土宗のお坊様のみならず、他宗のお坊様のご意見も聞きたいです。
私は2週間前に祖父を亡くしました。 とてもつらく、主に後悔と自責の念に押し潰されそうな日々を過ごしていましたが、残された父と支え合い、友人にも支えてもらい、葬儀の際にはお寺の住職さんとも色々なお話をさせていただき、なんとか今日という日を過ごしている次第です。 49日を迎えるまでの間、故人はまだ私たち家族のそばにいてくれているという話を聞きました。 実際、祖父が何度か夢に出てきてくれたり、父も少し不思議な体験をしたりなど、近くにいてくれてるのだなと感じる瞬間があります。 ですが49日を迎えた後、亡くなった人が天国へ行きこの世界を離れてしまったら、もうそこで本当にお別れになってしまうのかと思うと悲しくて仕方がありません。 仏壇に手を合わせたり、お墓参りをしたり、心の中で問いかけたり、その度にその人はいつも残された人々を見守っていてくれてる、という話は聞きますが、それは成仏が出来た後でもそうなのか、魂というものについてどういった考え方を持てばいいのかわからず不安になっています。 ぜひ、ご意見を頂ければ幸いです。
はじめて投稿させていただきます。 とある梵字が分からず苦慮しており、どなたか教えていただくことはできますでしょうか。(教理上の理由で回答が難しい場合には、そのように仰っていただければと思います。密教に関することで在家が伺って問題ないことと、伺うこと自体が失礼なことの境目が分かっておらず、もし失礼でしたら申し訳ありません) 空海筆『秘蔵宝鑰』冒頭部分にて「麼吒の恵眼は無明の昏夜を破し、日月の定光、有智の薩埵を現ず」という一文があります。吒は日の種子、麼は月の種子を表して密教行者は修行の際にこれを左右の目において修行すると辞典や註釈にあるのですが、吒の字が一体どの悉曇文字であるかが分からず困っています。 とある注釈書には「慢」を表す字義の文字が、とある辞書には字義「住處」の文字が、『青龍寺儀軌』にはまた別の文字(判別できませんでした)が書かれてあり、同じ「タ(もしくはダ?)」をふりがなとする悉曇文字の中で何が相当するものなのかの解釈が文献によってバラバラのように見受けられます。おそらく悉曇文字が音写された漢字が時代と人によって変遷しているのかもしれませんが、結局のところこの修行を行う際に観想する「麼吒」の吒の字はどれに当たるのか、もし可能でしたら教えていただくことはできますでしょうか。 また、そもそも種子に字義解釈と相応する仏尊があることは知っていましたが、月の種子とか日の種子とかいうのはどういう分類法から生まれた解釈なのでしょうか…この辺りの思想がもしわかる文献があれば教えていただけないでしょうか。 大変申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。
こんばんは ここで聞くのもちょと違うかな?と 思ってますが、 ちょと心配なので 聞いてみます。 前回相談した先生についての続きです。 今は穏やかな気持ちで私は過ごしてます。 が、まだちょと気になるので その先生のホームページを見た所 接骨院を閉めて 2ヶ月位 休業中らしいです。 そして、先生はある宗教の大学で仕事をしてるようです。 そこで、質問です。 どうして人って宗教に走ってしまうのでしょうか? なぜなら、元々その先生が宗教などは全否定の先生だし 信じるのは自分 みたいな人だったので 何が彼を変えたんだろうなーと。
先日、仏教について酷いことを考えてしまう私が、仏教と関わりがあるヨガをしてもよいものかということを質問させていただきました。 お二人のお坊様にお返事をいただき、その中で「自分のためにするというのなら、良くない。エゴイズムの厚塗りになる。わが身可愛さの増長にしかならない面がある」といったお返事もいただきました。私が理解力がないばかりに、いただいた言葉をしっかりと理解できずにいます。 心を落ち着かせたり、体を柔らかくしたいなど、自分のためにヨガをしたいと思っていました。それは良くないということでしょうか?
昔から瞑想をしていたのですが、井上貫道さんの「げんにび」を読んでから坐禅に興味を持つようになりました 事情で障害年金で生活しており、田舎で車もないため、指導者を探すのは難しそうです どうしたらいいでしょうか?
日蓮宗のお坊さんに質問させて頂きます。 日蓮上人の御命日でお忙しい中、見て頂きありがとうございます。 本日は「回数」について、決まり事なのか作法なのか、もしくは気にしなくてよいものかお聞きしたく思います。 様々な場で「3」が出てくるように思います。 1)方便品第二の十如是を3回唱える 2)第二や第十六、唱題が始まってしばらくすると、3回お鈴を鳴らす また、 3)焼香は3回かと思っていましたが、葬儀会社の人に1回でお願いしますと言われたことがある(たまたま参列者が多かったから?) 4)お線香を2本あげていたら、それならもう1本あげて3本に。(と言われたことがある。) など、です。 その他、信徒であるなら心得ておいたほうが良い回数や数字にまつわることもございましたら、教えてください。 よろしくお願いします。
先程、地元のお寺の二人のお地蔵様の前垂れ(?)が取れてたのですが、お地蔵様の真言を唱えながらできる限り丁寧につけ直しました。 その後、不格好かもしれないがこれで許してほしいと手を合わせました。 お地蔵様に怒られないでしょうか?
原田祖岳著「延命十句観音経講話」という本を読んでいたら、著者が「南無大慈大悲広大霊感観世音菩薩哀愍照明」と序文の結びのところに書いてありました。「哀愍照明」の意味がはっきりと分からず。ネット検索しましたが、中国語のサイトばかり出てきて分かりません。おそらく「民を慈しみ給え」という事なのかなあ?と思いますが、この「愍」とは人間だけのことでしょうか?それとも「一切衆生」ということでしょうか?または他の意味でしょうか?たぶん仏教の用語なのでしょうが、漢字が難しすぎて分かりません。どうぞ宜しくお願いします。
障碍者です。 在宅で仕事はしています。 色々な仏教の本を読み、 心の平安や人間的な成長をするには、 大変ですが、僧侶になるのが良いのでは とおもいました。 ネットで調べると、得度〇〇万円とか ビジネスの匂いがするものがたくさんあり、 自分が目指すものではありません。 私が僧侶になり(なるために)したいこと ・在宅で僧侶になる(お寺に所属しなくてもよいです。) ・仏教の勉強・理解を深めたい ・関係する全ての人が日々を平安な 気持ちですごせるようにしたい(私を含め) 在宅の僧侶には、どうすればなれるでしょうか? 恐れ入りますが、お教えください。
いつもお世話になっています。 前にヨガを少ししていたのですが、ヨガは仏教と関係があると知り、私がヨガをしてもよいものかと迷いが出て、しなくなりました。 というのも、私は以前より、仏様に対し繰り返し酷いことを考えたり、そのことに対し反省ができなかったり、ちゃんと感謝の気持ちが持てずにいます。ここまで仏教の教えに反することをしている私がヨガをするのは良くないですよね。 ヨガの中でも、合掌や太陽礼拝のポーズ、手のひらを上にして親指と人差し指で円を作るポーズなどは特にこわいです。酷いことを考えてしまうことが目に見えています。 また、仏教に関連することをジャージを着たまましても良いのか?など考えています。 ですが、またヨガをしたいと思ってしまっています。ご意見お願いします。
以前、京都旅行で、哲学の道を友人と歩いていて、大豊神社で休みました。誰も居ず。社務所も開いておりませんでした。ネズミが神様だ。すごいね。と友人と話していました。最近たまたま大豊神社を検索したら、お札やお守りを授与していました。参拝する人が増えたのか、と嬉しくなり、郵送でお札を頂きました。 私はハムスターを長年飼っていて、大豊さまに亡くなったハムスターの供養をお願いしようと思いましたが、神道は死を穢れと言って嫌がるのではなかったか?と思い。ハムスターの供養をお願いすることをやめました。やはり亡くなった人や動物のご供養は、神様に頼むものではなく、仏様にお願いすることでしょうか?
浄土宗を信仰している僕ですが、どうしても叶えたい願いがあって、高野山の愛染明王さまに祈祷をしてもらいました。 仏さまが願いを叶えてくださるのはその現世利益によって仏の力の偉大さを実感させて信仰に導くためだと思うのですが、そうすると僕は真言密教を信仰しなければならなくなるでしょうか。 法然上人は称名とそれ以外の諸行を廃立していますが、法然上人が廃した諸行というのは往生・成仏のための行のことであって現世利益目的の祈りまでは廃していないのかどうか?(一枚起請文にも「往生極楽のためには」とわざわざ書いているので、現世利益を祈るのはセーフのような気がしますが) もし現世利益の祈りまでも廃されているのだとしたら、例えば称名をメインとしながら密教・禅的色彩も濃いと言われている時宗を信仰すれば良いのか?(実は法然上人、親鸞聖人の教えでは納得できなかった部分が一遍上人の解釈なら納得できるという体験を何度もしているので、僕は潜在的にはすでに時宗かもしれません) そんなことをグルグルと考えていたら、専修念仏の「専修」の部分がなんとも重たく思えてきて、専修じゃなかったら良かったのになどという思いもわいて、自分が何を信仰しているのかわからなくなってきました。本当に迷っています。助けてください。
うちの宗派が曹洞宗で、今年の宝暦を拝見しました。 年間行事予定の中に大山阿夫利神社の例大祭の日取りが書かれており、曹洞宗とどんな関係があるのかな?と思い質問させていただきました。 出身が阿夫利神社の近くで、よくお世話になっていました。
秋のお彼岸なので、坂東三十三観音霊場である弘明寺さんで、去年の春に亡くなった恩師の為に御塔婆を建立した(菩提寺と戒名が分からなかった)のですが、大丈夫でしょうか?