いつもご相談に優しく応じてくださり本当にありがとうございました。 全ては私に責任があるのですが、大好きな大切な父が昨年春に65歳で他界し、一人っ子の私そして母共に月日が経てど、全く悲しみ・寂しさ・辛さが癒えないままです。 母も少々気がおかしくなっており、ちょっとした言葉やニュース(暗いことを偏重報道する日本のニュースもニュースですが)からネガティヴに考えてしまい、そんな母と良く衝突して、私も大人気ないですが怒って外出してしまうことしばしばです… その度に一人っ子は良い時は良いが、逆境になると150%自分自身が受け止めねばならず辛いどころではないなと思います。 すぐにか〜っとなってしまう私も人としての器が情け無いほど小さい(ないに等しいかもしれません)ですが… 私自身も大好きな大切な父が他界して今も全く悲しみ・辛さ・寂しさが癒えてませんが、母のことも分かってあげられず(自分自身心が小さすぎだと思います…)… どうしたら母としっかり暮らしていけるのだろうか?と… 本当は父が一ヶ月に一回でも、一日が無理なら数時間でも数分でも良いので戻って来て欲しい、そして家族3人で暮らした幸せだった瞬間が訪れて欲しいですし、それが叶わないなら父に会いに行きたいと思うことしばしばです… まとまりのない文章で申し訳ございません…
私は母から虐待を受けて育ちました。 母は精神的に弱く、何かあると神仏に祈っていました。私は母の愚痴を聞いたり、母の言う通りのいい子になろうと頑張ってきました。 でも母は幸せになりませんでした。 私は母に連れられて神社や寺に行くとき、みんなが幸せになりますようにと祈っていました。私の4歳の娘もこないだ初詣に行ったら同じ願いをしていました。 母は何を願っていたのでしょう? 幸せになりたいわけではなかったんでしょうか? おみくじを先日引いたら 神の御手にすがりなさい。さすればあなたは救われます。 と言ったようなことが書いてありました。信じていれば本当に神様や仏様は私を幸せにしてくれるのでしょうか?
すでに亡くなって戒名を授かってる主人ですが、その戒名を変更するってできますか? 主人の戒名を付けた坊主は地域の昔からお世話になってる寺。でも、その住職が主人が死んだのは家(雨漏りするような築100年ほどの古民家)を建て替え、木を切って井戸を埋めたからだと侮辱するのです。葬儀のこともあるし、その坊主は義兄の友人でもあったので、一旦は我慢したのですが…。 一周忌を迎え、どんどん、嫌な気持ちが大きくなってきてしまって… 一周忌の法事は別のお寺さんでしてもらいました。 お墓の横の板にすでに主人の戒名は彫りこまれていますが、作り直しても良いと思っています。 戒名を変更するのは…良くないことなんでしょうか…?
いつもありがとうございます。 今回も私のせいで、苦しめた挙げ句に死なせてしまった愛犬関連の質問をさせてください。 約一年前に愛犬が亡くなりました。 何度も質問させていただいているとおり、確実に私のせいです。 ここには書いておりませんが、あの子の犬生は私のせいでつらく悲しい寂しいものでした。 あの子を死なせたくせにそのことにも気づかずのうのうと暮らしていた愚かすぎる私が、ある日突然その罪に気づきました。 自分が死なせたこと、苦しめたこと、あの子を振り回してつらく寂しい生き方をさせ続けたこと…。 そして、愛犬のこと以外にも本当に多くの罪を犯してきました。 それらのことはわかっていながら、たいして気にもしていませんでした。 本当に最低すぎる私ですが、罪を気にすることもなくのうのうと、むしろ幸せだとか思い込んで生きていたのです。 愛犬への罪に気付いてから激しい後悔と自責の念に襲われ、自傷や薬とアルコール乱用に苦しむ日々でした。 hasunohaに出会い、縋り、有難いお言葉をたくさん拝見し、仏教を知り、今までの罪を深く反省し過ごしています。 全く悟りなどとは程遠い私ですが、それでもせめて虫なども殺生しないよう、食べ物にも感謝し、間違った行いをせぬよう心掛けています。 毎日懺悔文を唱え一日の反省をしています。 こんなことで罪が消えるとは毛頭思っていませんが…。 前置きが長くなりましたが、愛犬への罪に気づかなかったら、今までの他の膨大な罪を反省することはなかったでしょう。 そしてこれからも罪を重ね続けていたと思います。 仏教の本を読んでいて愛別離苦に苦しむ人の話で「仏様が姿を変えて現世に来てくれ、気づかせてくれたのだ」というものがありました。 あの子が仏様だったと思うわけではありませんし、あの子の生まれてきた意味が私ごときのためにあるとは思えません。 それでも…あの子は愚かすぎる私に、罪に気づかせる役目を背負ってしまったのでしょうか? 苦しむばかりの生き方をさせてしまって、懺悔しかありません。
今現在、出家を考えている38歳、女です。私は今、鑑定師として勤めておりますが、ここまで到達するのに、17年かかりました。何故かと申しますと、言い難いことではありますが、過去にイジメの経験、性的な暴力、犯罪への誘惑、ネット上の誹謗中傷。言い切れないほどの様々な苦難との戦いだらけだったからです。出家したい理由は、欲や戦いから離れたい。嘘を付きたくない。心のざわめきは、もう疲れてしまいました。第二の人生を歩みたいと思っております。しかしながら、出家はどの様にしたら可能なのか、分からずにいます。 ご助言、お待ちしております。合掌。
いつも本当にありがとうございます。 今回も自分のせいで死んでしまった犬ちゃんに関連した質問をさせてください。 今まで何度も質問させていただいておりますが、 私は1年前に大好きな犬ちゃんを自分のせいで病気にさせ、獣医さんに言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、病気を進行させ、衰弱させ、死なせてしまう大罪を犯しました。 その後毎日hasunohaを訪れ、他の方の質問のお坊様からの回答や、私自身も質問させてもらい 「全ての命を大切にする」ことを誓いました。 虫などもなるべく殺生せず、食べ物には毎回感謝し頂いています。 しかし結局、わたしのそれは上辺だけです。 命の重さは皆同じ、そう思うようにしても、 大量に飛んでいる小さい虫を車でぶつけてしまってもさほど気にしないのに、もし人を弾いてしまったら法的にも罪になるから、そのほうが大きいことだ…。 そう考える自分も解せないです。 お坊様方はいつから、どのように、命の重さが皆等しいと思えるようになりましたか? 愛犬が気づかせてくれたのに、命を平等だと思い切れない自分が本当に情けないです。
初めまして 私は今福祉施設で働いているのですが、以前から仏様について学び深めそれを生きていく中で私も周りにも生かしていきたいと思っています。 働きながら学校へ行こうと考えましたが、浄土真宗大谷派はその中になく、何か教えていただける方がいらっしゃいましたらよろしくお願いいたします。
今回も私のせいで苦しめた挙げ句に死なせてしまった犬ちゃんに関連する質問をさせてください。 いつもありがたいご回答をいただき本当に感謝しています。 未だに気持ちを切り替えられずに申し訳ありません。 頂いた回答は毎日読み返しては感謝と懺悔をしております。 一年ほど前に愛犬(と呼んでいいのかもわかりませんが)を亡くしました。 自分のせいで亡くなりました。 不慮の事故などではなく、私のせいで病気になり、その病気のことで獣医さんから再三言われていたことを勝手な思い込みから真逆のことをし、 苦しめた挙げ句に衰弱させ病気も進行させ死なせてしまいました。 世の中のどの飼い主さんよりも極悪非道な人間です。 そんな最低最悪なことをしておきながら、私は自分の罪に気づいていませんでした。 毎日病院に連れていっただけで、できることをしていたと思いこんでいました。 それどころか、死んでしまった愛犬のことは悲しいけれど、それ以外は毎日幸せだと思い生きていました。本当は自分が殺したのに。 自分が殺した、しかも苦しめた挙げ句に…ということに気づいてからhasunohaに出会いました。 毎日毎日たくさんのありがたいお言葉を見て、知らないことが罪だとも知りました。 そして罪に気付き懺悔や反省をすることが大切だとも知りました。 毎日、朝晩のお線香、 夜は108回の南無阿弥陀仏と我昔所造諸悪業から始まる懺悔文を唱え、 一日の反省と愛犬だけでなく全ての命への懺悔やお釈迦様へのお願いをしています。 (恐らく宗派などバラバラですよね、すみません) 食べ物(命)への感謝、一日の反省、もう罪を繰り返さないようにつとめる…等もお釈迦様にお話しております。 しかし自業自得なのですが、罪に気づいてから自責の念で本当に毎日苦しいです。 こんな言い方はどうかと思いますが、私が今更反省しても悔いても愛犬の命は帰ってきません。 だったら罪に気づかなかったほうが、こんなに苦しまず、幸せだと勘違いしたまま生きられたのではと思ってしまいます。 それでも、気づけたことはよかったのでしょうか? 文章もめちゃくちゃで申し訳ありません。
葬儀社に勤めています 先日通夜にて天台宗の若い二代目住職から怒鳴られました。 • いつもは式場前に車を横付けして、車から降りて来てドアをご自分で開けて仏具をお預かりしていました。 • しかし先日は車を縦に停めて、車内に10分程居たようなのです。 普通その場所には住職は車を停めませんので、会葬者のお迎えの車だと思っていました。 • 私は開式30分前から、出入口で会葬者の案内とその二代目住職が来るのを待っていました。 • その時には車は既に停車していました。 • すると突然、その車から二代目が降りて来て • 「あんた10分前からそこに居るよね、 車を覗かないの?こんなの初めてだよ、不愉快だ」と怒鳴りかかってきました。 • 自家用車で来られた住職はもちろん自分で車から降りてきます。 • 二代目は降りて来ないで私が気付くのを車内で10分程待っていたようなのです。 • 立場上、葬儀社は弱いですので3回謝罪の言葉を伝えましたし、荷物を預かろうとしたら、腕を振り払われ • 「あんたになんか持たせないよ」とまた怒鳴られました。 • 最後には「あんたは明日(告別式)は入らないで下さい。不愉快なので」と怒鳴りつけられました。 • 正直私も不愉快でしたので、同僚達に全て話して他の葬儀に入りました。 • 二代目は自分から車を降りてきませんでしたが、私達葬儀社に何を求めていたのでしょうか? • まだ30代後半~40代半ば位の二代目です。 • ご意見を宜しくお願い致します。
僧侶になる人の心構えを教えてください。 自身を修行の場に身を置き、一切言い訳や弱音を吐けない場所で仏教を学びながら、自分や周りの人生を仏教を学んだうえで豊かにしていけるのでは?と考えてます。 高野山の宿坊では宿業務の傍ら、僧侶になれます。と求人が出ております。 このような場所に身を置いて学ぶ事の想像が出来ませんが、どんな人間でもそれなりの精神的成長は見込めるものでしょうか? 今は都会で暮らしており、少し人生に疲れているところはあります。何事にも中途半端になってしまうところもあります。 ですが、高野山の宿坊を調べてるうちに、ピンキリとあり、結局のところお金が神様と考える資本主義の世の中から断ち切れるか?修行の場にも俗世の欲望や煩悩から切っても切れない場であるのか? 全ては自分次第だとは思いますが、何かアドバイス頂けたらと思います。 真言宗にしたのは高野山含めて昔から馴染みがあります。 あと人との関係性を築くのがあまり得意ではなく、大体独り行動が多くここまで来ました。医療系の仕事で業務の会話のみで成り立つ、女性に囲まれた環境が長かったです。 男性社会の人間関係はどのようなものかも実情を教えて頂けたら幸いです。 よろしくお願いします。
お坊さんこんばん。たくさんの質問の中から回答していただきありがとうございます。 早速質問ですが、精神が不安定な時に聞くとホッとするような、安心するような仏教用語、禅語などはありますか? また、お坊さんが個人的に好きな言葉はありますか?
今回も、私のせいで苦しめた挙げ句に死なせてしまった犬ちゃんのことについてお伺いさせてください。 いつも本当にありがとうございます。 お坊様方からいただいた回答は 毎日、何度も何度も読み返しております。 そして相変わらず、毎日hasunohaのペット関連の問答、その他後悔や懺悔などの問答も読み尽くしております。 ペットに限らず、人間やその他の生き物にも言えることですが、 「残された人が悲しんでいると成仏できない」 「自責の念で苦しんでいる姿を亡くなった方は悲しんでいる」 と聞きます。 (実際私の以前の問答でもお坊様がそのように仰ってくださいました 本当にありがとうございます。) それなら前を向かないと、と救われる気持ちになりますが、 このような言葉は遺された者のためにあるのでしょうか? 私の場合は自分のせいで愛犬は病気になり、 そればかりかそんな病気の子を自分の愚かさと無知により更に苦しめ、挙げ句に死なせてしまったので 世の中のペットを失った飼い主さんや愛する人に先立たれた皆様とは全く違う立場なのですが。 「遺された方が前を向いて、気持ちを切り替えて生きていくためのお言葉」なのか知りたく質問させていただきました。 お忙しい中申し訳ありません。よろしくお願いいたします。
こんばんは。中東宗教であるゾロアスター教やイスラム教では、生きていた時の善行と悪行、あるいは懺悔の度合いなどでそれぞれ天国(浄土)へ行くか地獄へ行くかを裁かれるなどと言われています。これは日本でも、閻魔様などと言われて日本人の基本的な宗教観になっていますよね。 私は敬虔な真言宗の家庭に生まれ、「朝起きたら食事がお不動様に祀られる」というのが当たり前の光景で育ちました。そんな家庭で、よく「いいことをしたら天国へ、悪いことをしたら地獄へ」と教えられたものです。 「神仏を信じ恐れたり感謝したりし、清く正しく生きる」。こういった思想は、仏教的に言えばどこの宗派にあたるのでしょうか? 多分ですが上座部仏教や禅宗は違いそうで、きっと大乗仏教的な考えですよね。日本人に根付いているのかそれともうちの家庭が特殊だっただけなのか気になったので質問させていただきました。お読みいただきありがとうございました。
はじめまして。 私は仏像に興味があり、 趣味で粘土で仏像をお作りするようになりました。 (今作っているのは大日如来様です。\(^-^)/) しかし、手順があるとか、 趣味って気持ちだと失礼に当たってしまうのではないかと 不安です。
浄土宗を信仰していますがどうしても大日如来様の仏像が欲しいです。 購入して阿弥陀如来様と一緒に安置してもよろしいでしょうか。 御回答よろしくお願いいたします。
初めまして、ハルネと申します。 皆様が日々心を落ち着けたり精神を高めるために、 どのようにルーティンを行ったり、毎日を過ごされているのか気になり、質問させていただきました。 といいますのも、私は日頃精神のバイオリズムが激し目のタイプで、 これを落ち着かせたい、気持ちを高く良い位置で維持したいと考えており、 その為にはルーティンのような、日々の自分の精度を上げるための習慣のようなものが効果的ではないかと考えている為です。 実際、そういえばお寺のお坊さんは朝のお勤めなどでお経を読まれたり掃除を毎日していた気がする…と思い、 見様見真似で真似をしてみたところ、 気持ちが安定してきたという成果があったので、 よりお坊さんの日頃の過ごし方やルーティンのようなものに興味が湧いたという次第です。 宗派や人によって日々の習慣や朝のお勤めの仕方、ルーティンは違うかと存じます。 できるだけ多くの方の、心を落ち着けるため、己を高める為の習慣的行為を教えていただけたらと思います。 ぜひ勉強させてください。 何卒よろしくお願い致します。
最近、他宗にも興味を持ってあれこれ勉強しているのですが、阿弥陀如来は真言宗では大日如来の分身、天台宗では久遠実成の釈迦如来の分身と捉えているようです。 そこで、はて我が浄土宗ではどうだったかな?となりました。 僕の理解では阿弥陀如来の方が上位で釈迦如来は阿弥陀如来の誓願を衆生に伝えるために娑婆世界に現れたものだと捉えていましたがどうでしょうか? それとも浄土宗も天台宗から派生したのだから僕が聞いた事ないだけで久遠実成の釈迦如来の分身ということになっているのでしょうか? またそれ以外の他宗(例えば禅宗)などではどう捉えているのかもお聞きしてみたいです。
11月に『経木塔婆の名前が間違っていました』というご相談をさせていただいた続きです。 前の相談を簡単にまとめますと、昨年9月の彼岸より1か月のミニ塔婆の供養を近所のお坊さんにお願いしました。 11月を過ぎてからその経木塔婆が配送されてきたのですが、頼んだものすべてで名前が間違っておりました。 その旨連絡したところ、すぐに新しく作り直して送りなおしますとのことでした。 名前を間違えた古い塔婆はゴミとして捨てて構わないという回答や、問い合わせ時の対応が威圧的だったこと、加えてTwitterやyoutube、他SNSを毎日何度も更新しているのにどれもこれも供養の文字すら確認しないでやっていたのか・・・ということで、不信感が生まれました。 とはいえこれ以上揉めるのも嫌でしたので、我慢して送付してくださるのを今日まで待っておりました。 ところが、それから2か月近くたった年を明けた今日、お寺さんから封筒が届いたものを確認すると、新規のお札の申し込み書や、頼んでいない紙のお札が入っていました。 一瞬目が点になりました。 12月は師走でお坊さんは忙しいかと思い、連絡も控えておりましたが、すぐ送るとは・・・なんだったのでしょうか、と。 本日までこれ以外の連絡はございません。 前回も書いたのですが、ここまで供養の気持ちを踏みつけられると悲しさが勝ります。 本来昨年10月末には発送予定の塔婆です。 クレーマーになりたいわけではないのですが、どう伝えていいのかわかりません。 こんな気持ちで供養する方の塔婆は手元に置いておきたくないです。 かといってお金を返してとも思わないですが、こんな中途半端な供養を私が頼んだと思いたくありません。 見たくはないのでブロックしていますが、こちらのお坊さん、週に何度も長時間録画の人生相談等のyoutubeがあがり、毎日幾度となく更新した複数のアカウントのTwitter、テレビに出ました等の自己顕示系の内容ばかりが風のうわさで届きます。 仏様の教えの通り、諦観の気持ちをもって、他のお寺さんに経木塔婆のお焚き上げをお願いするしかないのでしょうか。 もう新しい経木塔婆は欲しくないです。
いつも大変お世話になっております。 私にとって大好きな大切な父が他界してからもうすぐ9か月、悲しく寂しく辛く日々が過ぎていきます。 年明けから夢には良く出てきてくれて、今まで通りに自分の名前を呼んでくれて旅にも連れて行ってくれます。 ただ目が覚めると父の部屋に行っても寝室に行っても父がいない・・・ 私自身36歳です。よく悲しみは時間が癒してくれると聞きますが、むしろ逆でどんどん辛さ・悲しさが増している気がします。と同時になぜあの時にあのようなことを父に言ってしまったんだろう・・・など後悔もいろいろ(後悔がいろいろと出てきてしまうなんて、本当に自分自身最低だなと思います)・・・ 毎日父の骨壺に頬を合わせて「1日に数分だけでも良いから戻ってきて!それが無理なら1週間に1回、1か月に1回、何か月かに1回でもよいから切実に戻ってきて!」と涙が出そうになるのを堪えながら伝えたりしています・・・周りに誰もいないのを確認しながら歩きながら父に向って「お願いだから戻ってきて!」と言葉に出す時もしばしばです・・・ 南無阿弥陀仏、倶会一処と毎日起きた時、夕食前、寝る前と唱えていますが・・・ 夢の中でも今までと変わらず旅に連れて行ってくれる父、思い起こせば「今度日光東照宮にでも行こうか?」なんて話していて横浜からどう行くのが良いのかな?と話していた日がついこの前の出来事のような感覚です。 いつも夏場に有楽町へウナギを食べに連れて行ってくれて、それも楽しみでしたがその後の父とのショートトリップで川越や葛飾柴又、北千住などへ行ったあの時も本当に楽しかったし幸せでした。 でもそんな楽しくて幸せな時を当たり前と思ってしまうダメすぎる自分に本当に何と言い表せば良いのか・・・という感じです。 本当に一生のお願いで何か一つだけ叶うなら・・・父にとにかく戻ってきてほしいです!そしてまた母と3人で暮らしたいです。それが叶えば他に何も望むことなんてないです。それが無理なら母と早く父のところへ行って父と3人で暮らしたいです。大好きな父がいない世の中を生きていて心から楽しいこと、幸せなことなんて有り得ないです・・・ 全くまとまりのない文章で恐縮です。
こんにちは 初めて質問させて頂きます 昨今テクノロジーの進歩は凄まじいですよね 人工知能が一部では人間を上回ってその内技術的特異点を迎えると言われたり、粒子加速器などで宇宙の始まりを解明する試みもどんどん進んでいます そんな中で将来、技術が進む中で仏教など宗教は信仰を失っていくでしょうか? お坊さんの考えを聞きたいです また、出来ればお坊さんのテクノロジーに対する考え方も聞いてみたいです 曖昧な質問となってしまい申し訳ありませんが回答をお願い致します