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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

2022/02/15

この世で生きる苦しみは学びでしょうか

いつもたくさんの相談と回答を読ませていただき、学ぶことや気づくが多くありがく感じています。 今回2度目の相談です。 前回娘が亡くなったあとの心の持ち方についてご教示いただき、それまで苦しみで澱みきっていた心が浄化されました。ありがとうございました。 あれからも娘のことを思わない日はなく、 でもあちらの世で仏様のお導きのもと、生前抱えていた深い苦しみや悲しみがない在り方(過ごすや暮らすという表現は違うと思いこのように表しました)をしているものと考え、娘の肉体はなくなったけれど存在は私にとって永遠のものになったと感じられるようになりました。 いろいろ考える中で思ったのが、人はこちらの世界で様々な煩悩や苦しみを抱えながら生きていますが、それは学びであって、亡くなった後あちらの世界で仏様になり、生きている人たちの心のよりどころ(?)救いとなるための修行のようなものなのではないかということです。つまり、生きることは決して楽ではないけれど、その経験が輪廻転生の中のどこかで人を救う力になるのではないか…そんなことを考えました。 仏教のことは深く学んだことはなく詳しくわかりません。感じたままのことですが、お坊様方のお考えや仏教の正しい教えをお聞かせいたたければ嬉しいです。

有り難し有り難し 13
回答数回答 2
2022/02/11

お寺の歴代僧侶について

先日、祖母を亡くしたことをきっかけに信仰心が芽生えました。自宅から車で1時間ほどのところに菩提寺があり小さい頃から正月、お盆等は手を合わせに行っておりました。祖母の死をきっかけに菩提寺さんが真言宗であると理解し、今まで何となくで持っていたお念珠も真言宗のものを新調しました。 先祖代々の墓には曽祖父も眠っておりますが、その方が菩提寺で副住職をされていたと父から伝え聞き、そのことも信仰心の芽生えへと繋がっております。 そこで曽祖父が本当に副住職をしていたのか知りたくなり、菩提寺さんの寺務所で事情を説明しましたが、歴代の住職、副住職の記録はないとのことで、曽祖父の名前を伝えたところ分からないとの回答でした。自分の中ではひいおじいちゃんのお寺と愛着があったので少しショックでした。 その菩提寺は戦後に本山となったみたいで、戦前に僧侶をしていたのなら余計に分からないと言われましたので、仕方ないとは思いましたが、将来私が墓守りをしますし、自分の芽生えた信仰心をご先祖の供養に繋げたい、更には自分の子にその寺が菩提寺である所以を伝えていきたく思っております。 拙い文章で申し訳ございませんが、自分の気持ちを聞いていただきたく質問に書かせていただきました。 何か良いアドバイス等ございましたらよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1
2022/02/05

癇癪玉を貰っていただけませんか

はじめまして。 以前ハスノハでお坊様の回答を拝見していたら、日比野雷風というお侍様と石川禅師さまの法話がありました。 禅師さまの数珠を欲しがった雷風さまに、禅師さまが「それならお前の癇癪玉と交換しよう」と仰い、以降雷風様は短気を起こしそうになるとグッと数珠を握って耐えたというお話です。 大変感動しました。 私の話になるのですが(すみません)、私の本名には「香」という漢字があります。  漢字一字一字の意味まで考え抜かれた長男長女とは異なり、次女のわたしの名前は「適当につけた」と母に幼い頃言われてから(笑)あまり自分の名前が好きではなかったのですが、「香」は仏教的にとても素敵な意味のある漢字だと知りました。 蓮のように、清浄な香りが立つような人になりたいと願っています。 そして、最近、蓮の描かれた略式念珠を頂くことになりました。もうすぐ手元に届くので、楽しみに待っているところです。 そこで標題に戻るのですが、ハスノハのお坊様方、どなたか私の癇癪玉を貰っていただけないでしょうか。 ハスノハのお坊様からいただく数珠ではないのですが、私が仏教に興味を持てたのはこちらのサイトのお陰なので、巡り巡って…(?)ということで…… 自分に対して、人に対して、世間や事柄に対してまで、何かと気が立ちやすい私の癇癪玉を、どなたか受け取っていただけたら……雷風様のように頑張れる気がするのです。 いらないと思いますが、ものすごーくいらないと思いますが……どうぞよろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 53
回答数回答 4
2022/01/30

阿弥陀如来様は実在しないのですか?

私は阿弥陀如来様が大好きです。 毎日救っていただくことへの感謝として念仏を唱えています。ハスノハでもたくさんの問答を見るのが楽しみです。 ところが、先日、ハスノハで真宗のお坊様が「極楽浄土があると信じていない」人への解答で、「阿弥陀如来様や浄土というのは働きのことで、実際亡くなった人が浄土という場所で生まれ変わるということではないのだろう。だから浄土とはこの世での働きのことで、死後の世界としてあるわけではないと思う」「仏様というおとぎ話を使って今生での安寧を得るのだ。だから阿弥陀如来様が実在するか否かはどうでもよい」「自分も科学的に極楽浄土の世界は懐疑的」 という旨のことを仰っているのを拝見しました。一人ではなく何人かのお坊様がそういったことを仰っているのを見ました。 誤解していただきたくないのですが私はハスノハのお坊様方のことを尊敬しております。ですが少なからずショックでした。私は今生で死んだら、阿弥陀さまに迎えに来ていただいて極楽浄土に生まれ、そこで仏となる修行をできることを嬉しく思っていたからです。 また、何があっても阿弥陀如来さまがいつも一緒にいてくださることが喜びであり、心の支えです。 法話を聞いたりしていると、「阿弥陀如来様という素晴らしい仏様がいらっしゃる(=阿弥陀如来は実在する)」「死んだら極楽浄土にいき仏になる(=極楽浄土は実在する)」とお経も親鸞様もハッキリ仰っているように思います。 阿弥陀如来様や極楽浄土の存在を確信するのが、浄土真宗ではないのですか? 私が、元はキリスト教を学んでいたこともあって、阿弥陀如来様や極楽浄土への解釈が違うのではないかと不安です。 (極楽浄土と天国は、極楽浄土は阿弥陀如来様の国(他の仏様もそれぞれ浄土をもっていらっしゃる)。という違いだと理解しています) 私はこれからも阿弥陀様といつも一緒だと思っていても良いですか?

有り難し有り難し 164
回答数回答 7
2022/01/29

歎異抄を読んで、自信をなくしてしまった

数年前に大好きだった祖母が亡くなりました。今、祖母の信仰していた浄土真宗について学んでいます。 (本当はお寺をお尋ねし、お坊様のもとで学ぶのが良いと聞きましたが、コロナ禍で、幼い子供もおりますので、You Tubeやhasunohaでお坊様のお言葉から学ばせていただいております。いつもありがとうございます) 先日、買い物帰りに倒れた自転車を見かけました。 通り過ぎようとしましたが、ふと恐れ多くも「阿弥陀如来様なら直すかな〜」と思い、結局その自転車を直して帰りました。 帰り道はそれなりに良い気分で、仏教を学んで私も良い人間になれたのかなと思いました。 でも、ふと、これはたまたま心に余裕があって直せただけじゃん。私が良い人間になったとかそんなこと思うのおこがましいな……と思い、 「たまたま私が人に親切にできるときには、それは私の人間性が良くなったからではなく阿弥陀如来様のはたらきがあったからだ」「でも、いい人になれなくても救っていただけるんだ」と気づきました。 その時、浄土真宗や阿弥陀如来様の教え・ありがたみが、とても腑に落ちたような気がしたのです。    そしてこれからは、念仏を唱えて、お釈迦様の教えをなるべく(全部は守れない凡夫なりに)守ることが、阿弥陀如来さまの御恩に報いることだ!とも思いました。生きる指針が見つかったような気がしました。 しかし、先日歎異抄を読み、自分の腑に落ちた答えが合っているのか、自信がなくなってしまいました。 考え直すと、自分の行いが御恩に報いることになるなんて自惚れです。 そして、私は正直あまり頭が良くないので、夫から「念仏に出会わず虐待されて死んじゃった子供は救われないの?」「どんな悪人でも、信じてなくても唱えればいいの?」とか聞かれたり、仏教の本を読んでて?と思うことも、「難しいことは考えても私には分からない。私は念仏を唱えればいい!」としていたのですが、これも自分の都合のいいように解釈し、助けてもらおうとしてるんじゃないかとモヤモヤしています。 浄土真宗門徒として、どんなふうに生きていけばよいのか、混乱してきました。お坊様からアドバイスがほしいです。また、こんなふうに仏教学べばよいというアドバイスもあれば嬉しいです。よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 7
回答数回答 1
2022/01/26

厄年について仏教はどう考えますか?

以前の2回の相談では大変お世話になりました。あれから絵については難しいことはせず、3分間スケッチを続け、仕事も復帰して数ヶ月になります。お答えくださった お坊様方、ありがとうございました。 さて今回は厄年について質問があります。 付き合っている彼が今年大厄を迎えるので心配になり、神社かお寺に厄祓いに行こうと提案したところ、生来面倒くさがりで宗教を信じない彼は、迷信のためにわざわざお詣りに行くのは嫌だと拒否され、その日はケンカになってしまいました。私が本気で心配したのには、母から大厄の歳には必ず悪いことが起きる、特に身内に不幸があるという言い伝えのようなものをずっと聞かされてきたからです。実際父も大厄には遠方に転勤になり、祖父が亡くなりましたし、私も大厄には最愛のペットを亡くし、その後の厄年には(歳がバレますね(笑) 体調を崩し休職しました。 彼が厄祓いを拒否していることを当の母にポロリと話したところ、母は今度は家によって慣習が違うかもと言い出しました。 遠縁のおばさんの一家では、厄年の歳には神社に寄進し、友人親類には贈り物をし、周りの人にはとにかく親切にする、つまり施しをして厄を祓う習慣があるそうです。 少し調べた限りでは厄年に対する考えや行いは地域によって様々あるようです。厄というものはどちらかというと神道の分野ですが、仏教では厄というものをどのように見做しているのでしょうか?そして私は厄年にどう恐れずに向き合っていけば良いのでしょうか?仏教からの見解をどうかお聞かせください。

有り難し有り難し 26
回答数回答 3
2022/01/29

嘘ばかりつく住職への対応は?

嘘ばかりつき、謝らない住職。 代金はご用意しています。→用意していない。 振り込みします→振り込みがない。 連絡しても無視。 せめて、嘘をついた事の説明と(事情があると思うので)謝罪の言葉が直接欲しいです。住職は、自分が悪かったから直接会って謝まりたいと申していました。しかし、日時を決めようとする段階から、無視されています。 お金はかかっていますが、こちらも、素直に信じてしまったのもあるし、用意してると言う言葉をうのみにし…用意してるなら、次の日直ぐでもよいのかと思って、動いてしまいましたので、請求はしません。しかし、前日には、口座番号を教えて。ネットから振り込みは直ぐだから。とおっしゃっていました。 振り込みがないので待っていると、次の日午前中に、午後に振り込みします。と二回連絡が来ました。 振り込み確認せず、午前の連絡があった時間から、信じて動いてしまいました。 しかし午後に振り込みはなく、突然、生活苦しいとか…奥さんが反対してるとか…。用意してた。とか…お金ない。とか…理由がコロコロ代わり、最後には会って謝りたいからと申していましたが、 その後、謝ってもらうのにお会いしようとの、こちらからの連絡は、無視され、返事は全くありません。 事情がおありなんだろうと思うし、信じて振り込み確認せず動いていたので、こちらも悪い為、お金を請求するわけでもありません。 何故、自分から会って謝りたいからと申していましたのに…住職は謝ってくれないのでしょうか? 何故、無視されなければならないのでしょうか? 住職という職業のプライドでしょうか? 信じていた住職なので、振り込みは事情があり嘘をついてしまったとしても、 謝る事くらいは、出来るのではないか?と思います。 住職という立場で、人に謝ると言うのは、抵抗あるのでしょうか?

有り難し有り難し 15
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