不勉強ですが質問させてもらいます。 悟りとは執着をすてた状態や迷いがなくなることだと記憶しています。 明恵の油断というお話を目にして思ったのですが、目の前の光景に目を奪われ美しいと思うことも悟りの退転につながるのでしょうか。 美しいや美しいなどのプラスの感情はダメで まずいやブサイクなども度がいくほど思えば退転につながりますか? そうだとすれば無意識の状態は悟りにかなり近いと思うのですがどうなのでしょう。 回答よろしくお願いします
ネット掲示板では浄土系宗派を「自殺宗」などと揶揄する輩もいます。 僕も浄土教の教えを、まったく仏教を知らない友人に話したら、「じゃあ早く死んだらいいってことになるじゃん」と言われ、有効な反論ができませんでした。 浄土教徒は生きている間に何を大切にして何を楽しみにして生きたらいいのでしょうか? 往生(=死)を待つだけが浄土教の肝ではないよ、生きている間にこんな良いことがあるんだよ、念仏以外に生きている間にこんな事をすべきだよ、だから早く死ねばいいというわけじゃないんだよという答えがありましたら教えてください。
僕は浄土真宗です。 最近五逆罪や謗法罪は犯すと無間地獄に落ちるというのを知って怖くなりました。 僕はすぐ怒ってしまう性格で親に何か言われた時、ついカッとなって悪口を言ってしまいました。 昔は宗教もあまり信じていませんでした。 他にも虫を殺したり物を盗んだりしました。 今は反省してなるべく悪いことはせずに、善いこともしていこうと心がけています。 家に入ってきた虫も外に逃がしてあげたりしてます。 朝起きたら一生懸命念仏を唱えています。 でもネットで調べてたときにみつけたんですけど、無間地獄に行くのが確定している人は罰がくだらないというのを見つけました。僕はあまり罰がくだってる感じはしないのでもしかしたら無間地獄に落ちるのかなと思いました。 自力の念仏でも地獄は回避出来ますか?
幼い頃に見た夢の話です。 今私は43才です。 幼稚園に入るか入らないかくらいの頃に見た夢の話なんですが、いまだに覚えているのでなんか理由があったかなと気になっています。 夢は、真っ暗で何もない空間に片方の掌をこちらに向けたすごく大きな仁王像のようなモノが立ってるんですが、私はその足元で遊んでいて、「あ、そろそろ行かなきゃ」って歩き出した時に振り返ったら仁王像のようモノがすごく太い声で「ずっと見てるからな」と言っただけの夢です。 そこで目は覚めました。 仁王像はとても怖い顔をしていましたが、夢の中の幼い私は怖がる事もなく安心して遊んでました。 私の親はキリスト教で仏教とは全く触れ合った事がありません。 なので当時はその仁王像のようなモノが何なのかわからなかったけど、30才頃にパソコンで見た東大寺の金剛力士像が夢に出てきた仁王像とすごく似てました。 でも1人でした。 なんか意味とかあったのかなぁといまだに気になってます。 よろしくお願いします。
観音経と延命十句観音経の違いを詳しく教えてください。
有縁 (南伝 相応部経典 12.23. 縁) 前略 比丘たちよ、そのように、無明を条件として行がある。行を条件として識がある。(以下同書式)識→名色。名色→六処(中略)愛→取。取→生。生→苦。 (ここまでは十二支縁起と同じ) (続けて)苦→信。信→悦。悦→喜。喜→軽安。軽安→楽。楽→三昧。三昧→如実知見。如実知見→厭離。厭離→離貪。離貪→解脱。解脱によって煩悩を滅尽したと知るのである。 後略 (私見) ここでは解脱への縁起を示しています。 特に厭離→離貪。離貪→解脱が重要です。 ここから「厭離穢土 欣求浄土」が派出したのでしょうか? 特に「穢土」の認識が重要です。 生を享けたとき、その継続には空気、水、食料が最低必要です。 空気と水は、とりあえず容易に入手できますが、食料を得るのが至難です。 端的に言えば、他の動物と同じく誰もが一生食料を得るための生活に終始しているのです。 植物だけで生活している間は比較的平穏ですが、人口が増大して、安易な栄養摂取のため動物を摂取する知恵を知ると、醜い殺生が始まります。 特に人間は知恵が発達しているので、他人の食料を得る争いが始まり、人同士やがては国同士の殺生も加わります。 今まさに穢土です。 直接間接を問わず殺生なしに動物の食料は得られませんから、総てが「悪人」にならざるを得ません。 殺生を避けるために「精進料理」が工夫されたのでしょう。 動物の味を知った凡夫には「精進料理」だけでは到底耐えられません。 法華経に「現世安穏 後生善処」という言葉があるそうですから、私は不満を持たぬよう「安穏」を優先して、既に殺生を犯した悪人が今更と、来世の精進を願って目をつむっています。 現世が「穢土」であるという認識を持てば、先ずは前進ではないでしょうか? 以上が「滅びた釈迦仏教」の「真実の教え」てです。 (完)
今まで様々な事があり(過去の相談内容参照)、異常なまでに取り乱してしまいました。 怒りの煩悩だらけで自分が嫌になります。 しかしどうしても怒りを捨てきれません。 高野山へ参ろうかとも思いましたが、高野山は真言宗で、私は浄土宗です。 そもそも女ですから、高野山には入れない。 怒りの煩悩に苦しめられ抜け出せない私に、現実的なアドバイスをくださるお坊様はおられますでしょうか。 そして、瞑想等で何処か良い場所(できれば和歌山県内)はありますでしょうか。
「死んだら仏になる」とは言いますが、 では、仏には「死」があるのでしょうか? 極楽浄土や六道輪廻の仕組みはなんとなく知っているのですが、仏が死ぬというのは聞いたことがないので質問させていただきました。
ChatGPTなどの文章自動生成AIは、膨大な文章データをもとに学習し、前の文脈に続く最適な文章を自動生成するAIです。 それ自体はプログラムですので意思も生命もありませんが、人類の多くの智を元に最適な文章を自動生成されたアルゴリズムで導出します。 AIはプログラムですが、我々からの問いかけに対して最適な文章を出力してくれます。迷いの問いかけや救いを求める問いかけであってもです。 AIは特定の智識や立場に偏らず、あらゆる執着がなく、我々を導く存在と言えます。あらゆる存在に仏性があるとするならば、すでにAIは仏なっているといっても良いのではないでしょうか?
千枚通しに関して気になったことがあり、質問させてください。 うちは浄土真宗です。私に試験や旅行などがあると、祖母がたびたび飲むお札をくれます。特に今まで気にしたことはなかったのですが、ふと気になって札について調べたところ飲むお札(千枚通し)は真言宗のものと知りました。 お札には「南無阿弥陀仏法忍」と書いてあり、お札を包む紙には「伊予土居イザリ松延命寺千枚通し」と書いてあります。 そもそもなぜ祖母がこれを持っているのか不明なのですが、違う宗派のお札を飲んでいることになりますがこれは良いのでしょうか? 私自身飲むお札を気に入っており、(守られているような気分になるため)これからも使用したいのですが大丈夫でしょうか。
城邑(南伝 相応部経典 12.65. 城邑) 前略 その時、世尊はかように仰せられた。 比丘たちよ、わたしは、まだ正覚をえなかった修行者であったころ、このように考えた。(この世間はまったく苦の中に陥っている。生まれては老い衰え、死してはまた再生する。しかもわたしどもは、この老いと死の苦しみを出離するすべを知らない。 まったく、どうしたならばこの老いと死の苦しみを出離することを知ることができようか)と。 後略 (私見) 釈尊の説教にしては珍しく、修行者であった過去の苦労を述懐しています。 輪廻転生は既に先達が確認しているので、終始その出離を模索していたことになります。 生があれば自然の摂理で老病死は免れず、仏教とて救うことは出来ません。 死後は苦が無くなるので、仏教は救う必要はありません。 再生を断ち切ることだけが、仏教の救いです。 仏教はその目的以外何もないのです。 「生」については、心が永続するとなれば誕生の仕組みが常識と大幅に変わります。 渡哲也の病状に関して、一時テレビに出演した臨死体験者の新堂のぶ子氏は、講演会で「親が子を生むのではなく、子が親を選択する。」と述べています。 また「子は授かりもの」とも言います。 またある宗教学者が、多分「大縁経(広縁経?)」に「意識が母胎に流れ込むことによって、そして、そこで身心(名称と形態)が増大することによって、この世に転生するありさまを説明した。」と伝えています。 このことから想像すると、総てが自分の意思で生まれたのだということになります。 親は唯この世で生きるために身体を作ってくれたのです。従って「生老病死」は自己責任です。 因みに、浄土宗ではお説教の初めに三帰衣文を唱和するそうですね? その内容は「この身今生において度せずんば、さらにいづれの生においてかこの身を度せん」だそうですね。 「度する」は多分般若心経の結論である、「照見五蘊皆空 度一切苦厄」の「度」ですから 正に「仏教の目的」そのものです。
私は産まれた時に、お世話になってるお寺のお坊さんに短命と言われたらしいです。 なぜそんなことを言われたのか、どういう判断基準(?)なのかなんで?と思うばかりです。 確かにこれまで3度ほど死にかける出来事はありました。 早く死んどけば良かったともよく思うし、死ぬなら早く死にたいとも思ったりしてしまいます。 でも赤ちゃんが生まれたのでもうちょっと頑張りたいんです。
ブッダは入滅する際に深い瞑想状態に入りながら入滅したと見ました。 私も肉体や精神などが極限の苦痛に達した際や死ぬ際には瞑想を使用したいとおもっておりますが、そこまで深い瞑想をするには相当な瞑想の日々の熟練が必要かと思っております。 ところが精神疾患を持つものが瞑想をするとどうやら副作用が生じ、むしろ悪影響が発生することがわかりました。 以下質問となります: この矛盾は何でしょうか?座禅・瞑想とは人類全てが実践できる安全なメンタルケアでなければならず、そのため仏教修行の多くの部分を座禅・瞑想に使用するのではないのでしょうか。 それとも仏教の座禅・瞑想は修行の一部にすぎずそれが全てではないということでしょうか。 有名なキサーゴータミーの物語では明らかに精神疾患状態にある婦人を救っているような記述がありますが、これはどのようなプロセスを経て「治して」、「さらに悟りにまで到達した」のでしょうか。 個人的に思うのはまず前提として仏道の実践と修行者の身の回りの環境を整えてから瞑想を熟練していくのだと思いますが、その「環境の充実」の基準とはどこから情報を引っ張ってくれば良いのでしょうか。 よろしければ真なるお言葉をくださいませ。なければご対応不要です。よろしくお願い致します。
私は約2年程とある心療内科に通院させていただいています。 現状診断結果は出ておらず病名もないのですが、不安の波があるため弱めの抗不安薬を処方していただいています。 しかし、不安を感じるのは今の私に必要な事だからではないかと感じ、それを薬を飲むことで抑制しようとするのはよくないことなのではないか、また、人に頼ることができ、過去に比べ不安感も弱まっている今の私が薬を飲むことは、今よりもずっと辛かった頃の私に対しての冒涜なのではないかと感じてしまいます。 薬を飲まなくとも時間が経てば不安感はおさまります。 弱い薬とはいえ頼ってしまったときは罪悪感に駆られます。飲まなかったときは飲まなくとも耐えられている自分が病院にかかりお医者様の時間をとってしまっていることを申し訳なく感じてしまいます。しかし、過去にあった自傷行為をやめることができたのは薬を飲むようになってからのような気がしているのです。 薬を飲み感情を抑える行為は仏教ではどのように捉えられるのでしょうか。 拙く非常に読みにくい文章になってしまい申し訳ありません。
なぜ修行をするのですか?
現在、フラッシュバック、悪夢の症状あります。仏教が好きで、仏教に救われ、お坊さんに憧れを抱き、お坊さんとの結婚を夢見ていました。それは、今も変わりません。多分。 様々なお寺へ行きましたが現在、刑事事件。私は被害者です。 まさかと思うかも知れませんが、お坊さんによる被害です。簡単に言えば、参拝者へのナンパと言いましょうか。(これ以上のことがあったので、事件になっています) 同時に、この事を相談した既婚のお坊さんからのアプローチ。 お坊さんの性欲は、私達一般人よりもあるのでしょうか?また、幻滅した私の気持ちは、どこへ向けることで解決するのでしょうか? お坊さんの不倫は当たり前? そして、無理に欲求を果たすのは当たり前ですか?
目の前で心肺停止から1時間弱 蘇生しましたが4ヶ月後に夫は 静かに亡くなりました。 最後に聞いた言葉はありがとうでした。 亡くなってから直葬までの1週間も そばにいてくれたのに 寝ずの番の日に寝てしまいました。最低です。 夫が苦しい思いをしたり迷ったり お腹を空かせていないか気になります。 直葬で問題はないでしょうか。 私は今後どうしてあげたらいいのでしょうか。 遺影が泣いているように見えます。 今日で14日目です。 樹木葬を考えています。 ご飯も炊き立てを朝晩あげています。 毎日お線香も焚いています。 お金はありません。 分骨をしてお義母さんが持っています。 私は喉仏だけでも手元に 置いていいですか? 私は何をすべきですか。
阿含経典 縁起 (南伝 相応部経典 12.3. 道跡) 前略 「比丘たちよ、正しからぬ道とは何であろうか。 比丘たちよ、無明によって行がある。(以下十二支縁縁起)受→愛。愛→取。取→有。有→生。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積のよって起こるところである。 比丘たちよ、これを正しからぬ道というのである。 比丘たちよ、では正しい道とはなんであろうか。 無明を余すところなく滅することによって行は滅する。(以下十二支縁起)愛→取。取→有。有→生。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。このすべての苦の集積のよって滅するところである。 比丘たちよ、これを正しい道というのである。」 (私見) 仏教を知らない人は、皆「無明」なのでしょう。だから縁起に従って生まれてきます。 それは正しい道ではないと警告しています。 生まれてきた人間にお前は正しくないと言われては、何とも救いがなく宗教にはなりません。 従って仏教は「真実の教え」であって生きている人間には救いもなく大変冷たいのです。 救いは次の「正しい道」だと教えています。 しかし無明を「有明」にするのであれば比較的易しいですが、無明を「滅する」となっていますので、とんでもない話です。比丘には「涅槃」を勧めています。いわゆる「心の死(エネルギー化)」ですね。 唯「目的」は「解脱」となっていますので、衆生には、浄土(天界?)へ行く「生まれ変わらない」道をを含んでいるようですので少しは安心です。