仏教では色即是空空即是色とされていますが、全てが無であるならば、なぜ人間は苦の中で生きるのでしょうか。 生きたり、そのために働いたりする意味がわかりません。
いつも皆様の回答を拝見し勉強させて頂いております。 質問失礼します。 私は真言宗のお寺で得度をしており 主は霊場会の先達や修験者として活動しております 知り合いのお寺さんから いついつ行事があるのでお手伝い可能ですか? とか来たらお寺に出向いております 普段は会社員でお寺でいる訳ではありません 理由としましては お寺に志したのが10代の時でして 全くお寺に関係の無い家で育って仕事をしながら お寺に行くようになり出家をしたので そのままの生活をおくっております。 前置きを書いての質問になります 来年は子どもの卒園式です 子どもの卒園式に正装としまして スーツではなく法衣を着て 嫁さんは着物で出たいと思ってます うちの住職に言ったら 普段はお寺に居ないですが 得度もして僧侶として生きているので 僧侶としての正装で良いと言ってくれました。 嫁さんに聞くと子どもがなんて言うか 周りもビックリするのでわ? 子どもにパパお寺の格好で行って良い? いいよ!(分かってるかは実際分かりません。) 他の園ですが知り合いの園長先生に聞いたら 私の保育人生でお寺のお子さんを預かった事が無いので 参考にしてあげれない。 先生とかビックリするかもね 理由としては 園の地域にあるお寺の住職さんとかだと お父さんお坊さんだもんね!って なると思うけどそうでも無いし 普段は会社員なので 保護者や先生は僧侶ってこと知らない方が多いと思うのでって言われました。 私は行くなら改良衣に明るい袈裟または お遍路さんとかの可愛い袈裟とかにして イメージ明るくして行こうと考えていることもしています。 実際こんな配慮しなくても宗教の自由だとも思ってます… 教えて下さい。 お子さんがいる僧侶の方で 入園式・卒園式・入学式・卒業式と言った 式典の際僧侶でもスーツを着て行ってますか? 法衣着てますか? お子さんがいない僧侶の方は 自分の父や母はどの様な格好で来ておりましたか? 長々失礼します よろしくお願いします。
こんばんは。 お寺にお参りする時に、お経とお線香と蝋燭とライターを持って行ってるのですが、間違いはないでしょうか?
初めて質問させていただきます。 なぜ、耳でお経を聞くのでしょうか?文字ではなく、声に出して読まれるのは何故ですか。 それらはどんな効果があるのでしょうか? お経を読んでいただく際の心構えを教えてください。 葬式や法事など…お経を耳に入れる事は、私にとって非日常の事になります。 一つ一つの言葉の意味はわかるようでわかりません、漠然と「最後は仏様のところに行くんだろうな…」と思いながら、葬式の時は故人に思いを馳せ、時には眠気と戦ったりもしてしまいます。 一昨年、祖母が亡くなりました。祖母の葬式の際、父親は最前列で船を漕いでうとうとしていました。 父親は喪主ではありませんでしたが、祖母の一番近いところに住んでいたので、車を出したり通夜でご遺体と過ごしたり、とにかく疲れていたのだと思います。私は、父がお経を聞いている間に休息が取れているなら、安らかに睡眠が取れているなら十分だと微笑ましくなりました。 しかしそれは私の考えであり、実際には父は「早く終わってくれ」と思っているのかもしれません。 ありがたいお言葉を、故人の前で私たちに聞かせてくださっているのは理解ができます。批判の気持ちは全くありません。 聞く人間により、状況によりお経を聞く気持ちがばらばらになっているのも事実だと思います。(もちろん一人一人が違う視点を持った人間なので当然だと思います。) 長い間、この儀式が続いているということはやはり効果があるからで、一言で済むかもしれない(とても失礼なことを言っているのは承知ですが)ことを、長々とお伝えいただくのはやはり意味があってのことなのだと思います。 タイトルに戻るのですが、どのような気持ちでお経を耳に入れたらいいのでしょうか? 正解というのはあるのでしょうか? ・故人のこと、生死について考えさせられる ・安らげる、眠くなる ・だるいと感じる人もいる ・時間的な拘束で、現世から引き離す(?) ・パワーを感じる ・意味を理解し、有り難がる 全てが正解ならば、それはそれで納得します。 母親が先日難病を診断され、近々お葬式をやるかもしれません。こう言っては悪いのかもしれませんが、唯一無二の葬式ですので、後悔のないようにのぞみたいです。 面倒な疑問かもしれません、失礼だったら申し訳ないです。まとまりのない疑問ですが、ご回答頂けますと幸いです。
ここ1.2年よく生きる意味を考えます。そこでネットで調べたら仏教での生きる意味や、それに連なる数々の話が出てきました。 それで形から入ってみようと、両手を合わせて生きる意味を考えようとしました。すると不思議と落ち着き、考えもまとまり辛さも軽減しました。 またすぐツイッターやYouTubeを見ようとするので、そのたびに煩悩、煩悩とつぶやくと意外と自分を制することができます。 すごいと思ったので、手を合わせる時に使おうと、ネットでちゃんとした数珠も買いました。 そこで、ふと思いました。自分は無宗教なのに手を合わせていいのか、数珠や数珠のブレスレットを身に着けていいのか、仏教の教えの美味しい所だけを掬っていいのか。自分に合う宗派も探して、自分と向き合う臨済宗が少し気になりました。 このような場合はどうすればよいのでしょうか、宗派に入らないといけないのでしょうか。また入信しなくても仏教徒を名乗ったり、数珠や、手を合わせるのはよいのでしょうか。 また少し浅はかだと思うのですが、臨済宗が少し気に入ってしまったので(響きがかっこよかったり、ぱっと見の教えが良かった)臨済宗用の数珠ブレスレットは身に着けてよいのでしょうか。これもちゃんと入信してからの方がよいのでしょうか。 多くてすみません、勝手に仏教徒を名乗る場合、自分は無宗教ではなくなり「自分は臨済宗だよ」となると思うのですが、それでゆくゆく臨済宗がしっくりこなくなり、他の宗、たとえば浄土真宗でしたら、急に「今は浄土真宗を信じてる」などと変えてよいのでしょうか。それとも一つ一つ手続きをしなければならないのですか? 宗教に触れてこなさすぎた為、どこまで許されるのか、こんな手軽に名乗れるわけがないと思ってしまいます。 長々と失礼しましたが、よろしくお願いいたします。
先日、知人がお勧めしていたお寺のお坊さんに経木塔婆を複数頼みました。 一か月の供養の後、送られてきた塔婆ですが、名前を間違えない様にと申し込みの際、説明書きと口頭でも伝えたのに、複数お願いしたもののすべてで名前や戒名など、どこかしらが間違っていました。 連絡したところ、お経をあげて送りなおしてくれるとは言ってくれましたが、憮然としたものいいと、古いほうは当方で処分してもらって構わないという発言等で不信感を抱いてしまいました。 また、お寺さんの方から折り返し連絡しますと言っていましたが連絡も来ず…。 そのご住職はいろいろなSNSや動画サイトで二桁に近いアカウントをもち、仏教とおおよそ関係ない内容のものを毎日幾度も違う媒体ごとで更新しており、それをたまたま目にすることでどんどん気持ちが切なくなってしまいます。 先方のご住職にケチをつけたいわけではありませんが、ここまでSNSの更新頻度が高いのに戒名すら確認してくれないんだな、と思ってしまいました。 かなりの理由があって檀家寺以外に申し込んだものだったので、心が狭いのは重々承知の上で、新しいものも古いものも手元に置いておきたくないというのが正直な気持ちです。 重ねて、自分は霊感のようなものがあり、名前を間違えて行った供養は供養にならないと考えています。 お坊さん側からのご意見を伺いたいのですが、名前を全てで書き間違える、こういったことはよくあることなのでしょうか。 また、もう新しいものは不必要ですので作り直さず、今ある塔婆などは手元において来たくないので引き取ってくださいというのはできますでしょうか。 返金してもらいたいとは思っていませんが、誰のためかもわからない供養にお金を払ったことが気持ち悪く感じてしまうため、その分募金でもしてほしいのが正直な気持ちですが伝えたらクレームにしかならないですよね…?
私の母親が54歳で自ら命を絶ちました。 母親は約25年統合失調症と戦いました。 最近は精神症状は昔ほどひどくないかわりに、手足のシビレや脱力に悩まされ。 排便や移動などを父親が介護する場面も多々あったようです。 本人は父親や周りの方に迷惑をかけてしまっていることや、自分で自分のことができないことで精神的に落ちていたようでした。その日は父親が仕事に出かけるため訪問看護の方がくる予定でしたが、訪問看護の方がきたときにはベッド柵にベルトをかけ亡くなっていたようです。まだ暖かっかったとの状況も聞きました。 手足のしびれと戦い、25年間も精神的な病と闘い。家族としてはとても頑張って生きていたと思っています。亡くなっていたその顔も窒息とゆう要因ながら、とても穏やかだったそうです。本人も辛さからも解放されたのかなと考えることしかできません。 ですがネットなどを調べていると、自害した人はあの世にいってもとてつもない苦しみを与えられる、いわゆる天国?という場所には行けないなどという情報がたくさんあり、今後の母親のことがとても心配です。 残された遺族が、49日までの7日ごとの供養以外できることはありますでしょうか? この世で苦しんだ分、少しでも楽にしてあげたいです。 読みずらい文法、文脈で申し訳ありません。お時間がありましたらお答えください。
仏教では 宗派が違うとあの世で別れ別れ 霊になっても生き別れになる と言う解釈になるのですか? 私は歴史小説などを読むのが好きです そこで出てきた話ですが 徳川家康が亡くなる前、病床で藤堂高虎(伊勢国津藩主)に対して 「宗派が違うからあの世では会うこともできない、今が名残惜しい」 のようなことを言い 藤堂高虎が 徳川家康と同じ宗派に改宗した と言う話があります。 これは 仏教では当たり前の考え方ですか? もし仏教ではなく、結婚や養子縁組などで 相手の宗派だけでなく宗教そのものまで違っていた場合 あの世ではもう会えないという考え方が一般的なのですか? ちなみに 徳川将軍家の菩提寺は 増上寺と寛永寺があったと思うのですが 宗派は違います。 どちらに葬られるかはそれぞれの将軍が遺言を残していたと思うのですが 先代将軍と違う寺に葬ってほしいと遺言した場合は 父親、兄、養父などには会えないで構わないという気持ちだったのでしょうか? そうなると 徳川家の血筋で かつ 江戸時代後期は 養子縁組を繰り返した 会津藩の場合は 代々仏教ではなく 神道でしたが 養子に出る→死後は親に会えない と言う覚悟が必要でしたか?
大変失礼な質問かもしれませんが、聞ける人がいないのでお願いします。嫌味でなく素直な疑問です。 仏は実際には助けてくれない(祈っても病気が治るわけではない)と言いますが、それならなぜお寺はお守りを売るんでしょうか? 私は子供の頃、神社仏閣で「病気平癒」とあるので「これで治してくれるんだ」と本気で信じていました。なので大変裏切られた思いをしたことがあります。 現在は「超常的な存在が良い人間を助けてくれる」という考えは本当の仏教ではない、あくまで学問という風潮ですが、ならなぜお守りを売ったり祈祷するんでしょう? 施餓鬼や戒名などで、なぜ「これで〇〇が良くなるよ」とするのですか。故人が対象だと、「故人には幸せでいてほしい」という感情を利用されているようで、複雑な気持ちになります。 お寺や宗派によって違いはあると思いますが、よければ教えてください。
24歳の男です。 もしも今死んだらどうなるんですか? 49日であの世に行くんですか? どうやってあの世行くんですか? 極楽に行けますか? あの世でもう亡くなった祖父に会えますか? 病気で死ぬのも事故で死ぬもの自殺も同じですか? 素朴な疑問です。質問攻めですいません。
10月1日になると全国の神様が出雲大社に集まって会議が行われます。 そこで疑問があるのですが、出雲大社に仏様も会議に参加する事はあるのでしょうか? 答えが難しいとは思いますがよろしくお願いいたします。
大切な父が亡くなったとき、暗闇から救ってくれた住職がいました 寂しくても頑張ること、供養は伝わること、寂しかったらお寺においで。 と言ってくれました しょっちゅう会えるわけでもないですが、住職の存在は私の心の支えで 私の光でした その住職が先日病気で亡くなってしまいました 支えを失ってしまい、悲しみと寂しさで 潰れそうです どうか道を示してください よろしくお願いします
私は浄土真宗本願寺派の門徒です。 この度家族が他界した事をきっかけに、仏教に携わる仕事をしたいと思うようになりました。 先日見つけた求人が他宗派の寺院でした。 信仰宗派ではありませんが、そこで働いても良いでしょうか。
こんばんは。お坊様に質問があります。 先週の金曜日に喉の調子が悪かったので、お医者様に診て貰ったらアレルギーの影響だとおっしゃってました。 なので、御薬師様に、アレルギーの症状が無くなる様にとお祈りしたいのですが、問題はないでしょうか?
仏教も各宗派も、成立も発展も、ずいぶん昔からの歴史あるものですので、現代的な価値観と相容れないものもあるかと思います。 良く言われるところでは女性蔑視だとか。障害や病気を因果応報で説明される事だとか。 お坊様たちは、そういう教義と、現代的な価値観とどのように折り合いをつけておられますか? 私自身女性ですので、どのように考えて行けば良いのかわからないところがあります。 「その時代の人にもわかるように説明しただけ、方便」だとか 「解釈が間違っていただけ、仏様の本意ではない」みたいに言うのも、なんか都合が良すぎるような…。 たとえばある経典や説話集などを、全体としては採用し信仰したり説明に用いながら、特定の部分を現代の価値でジャッジして、美味しいところだけをつまみ食いするようなやり方、本当に正しいのかな、と。 お坊様たちはどうお考えですか? 考えるヒントをくだされば幸いです
皆様、いつもお世話になっております。僕は今「老子」についての本を読んでいます。そこで感じたのが、老子の思想は仏教の教えに通じるものがあるのではないか?ということです。例えば老子の言う無為自然という考え方は、仏教で言う空の考え方に近いものがあるのでは?と個人的に考えています。お坊さんの意見を教えて頂けますか?
家族を亡くして3ヶ月、心を落ち着かせるために、何冊もの仏教書や動画の法話など聞いておりました。いろいろと疑問も出てくるので、大学通信教育で専門に学ぼうとさえ思うようになりました。 しかし、最近は仏教がおとぎ話のように感じるようになり、易行と言われる浄土真宗についても、本当に信じることができる方がいるのだろうか、苦行とさえ思ってしまいます。せっかくの心の拠り所が無くなってしまうのはとても辛いことです。僧侶になられた方はどのように信心を深めていったのでしょうか。
在宅得度をしたいです。 しかし在家得度を行っている寺院や団体様のHPを見てみると、入門時の冥加金や、宗派本山の度牒の儀式のために数十万円必要だったり、法衣や宝具を自腹で揃えるなど、到底一般人の私にはまとめて用意できないお金が発生するとの事でした。 お金を工面しようとしてもカードローンにも通らない年収ですから、どうしても得度に必要な資金と法衣を揃えたくても揃える事ができません。 私のような貧困者でも金銭的な意味での在宅得度への道はあるのでしょうか? お金を用意する事ができない、と言う理由だけで法名や度牒を受ける事が出来ない人の為の救済手段を教えてください。 よろしくお願いします。
私は浄土真宗本願寺派で得度を受けたいと思っております。理由を書くと1000文字では書けないのでここでは書くことは控えます。 私の住んでる市は浄土真宗本願寺派のお寺が少なく、お寺を探すことができません。 どうしたら所属寺のご縁をいただけるのでしょうか?