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「仏教・お坊さん」を含む問答(Q&A)一覧

想像しただけでその想像した罪と同罪なのか

想像しただけでその想像した罪と同罪なのか。 ご回答をください。助けてください。悩んでいます。 私の母と私でドラマを見ていた時、親が子を殺すみたいな場面があったんです。それで「私はお母さんを殺さないよ」と伝えた時にふと、 「でももし、母がゾンビになって殺すべきだと判断した時とか、母が病気になって楽にしてあげるために薬とかで安楽死にして殺すことはあるかもしれないな。」 と考えたんです。でも、それっていくら母親のためと思っていることでも罪は罪なのかなという思いと、それに続いて私が母親を殺すなんてことを考えてしまった、という思いが出てきたんです。 そこでネットで調べてみると、「罪は想像した時点でもはやその罪を犯したのと同じ」みたいな内容を目にしまして、とても怖くなっています。無間地獄の罪状に「母親を殺すこと」というものがありますが、それに私は当てはまってしまったのでしょうか。実際に私は母親を殺したわけではないですし、そんな特別な場合ないと思っていますので殺すつもりもありません。今もキッチンで夜ご飯を作っています。 改めて質問をまとめると、 「私が母親を殺すことは、母のためになる場合ならあるかもしれないと思ってしまった。このように『母を殺す想像』をしてしまったことは、実際に母を殺した罪と同罪になり、私は無間地獄に落ちてしまうのか。」 ということです。本当に怖いです。ご回答何卒よろしくお願いします。

有り難し有り難し 26
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功徳の回向について

自分の周りの人々に、また、その他の全ての生命に自分の功徳を分けることはできるのでしょうか(自分に功徳があるのかすら分かりませんが)。                                                                                           頭の中で念じるだけで回向していることになるのでしょうか。                                                                 それは先祖にも届いているのでしょうか。                                                                         実感がない、確認できないことなので、これでいいのか、と首をかしげながら念じています。                                                                 また、どんな言葉で念じるのが良いのでしょうか。                                              

有り難し有り難し 41
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悟りとは不可能なことなのでしょうか

なぜ、私たちは生まれてくるのでしょうか。なぜ、生と死が一つのものだと分からないのでしょうか。                                                                              なぜ生まれたら苦しみがあるのに、生きる楽しみに浸ってしまうのか。執着とは、罠のようなものなのでしょうか。                                                                                                      なぜ私たちは生まれてきた理由を知らないのでしょうか。なぜ浄土や輪廻があるか否かを知るすべを持っていないのでしょうか。                                                                                                 どうしてこの心は、真理とは違う方向に向かってしまうのでしょうか。私たちは生きているうちに悟ることができないのでしょうか。                                                                自分が愚かだと僅かに気が付いても、未だに愚かなのはなぜなのでしょうか。                                                                             

有り難し有り難し 19
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梵字を習うことについて

梵字を習うことに関して質問いたします。 先日ご縁があって児玉義隆師の著書「梵字入門」を手にする機会に恵まれました。それをきっかけに悉曇文字、サンスクリット語を学びたいと思っています。 しかしこのまま自ら書いて習ってよいものかと思い始めました。 私は在家で、在家である自分が梵字を書き、習うことは越法に当たるのではないかという疑問が湧いたのです。 実家の菩提寺などご縁があるお寺やお坊さんに聞いてみましたが、別宗門なので詳しくはわからないとのことでした。 また現在海外住まいのため、直接真言宗や真言律宗のお寺に伺うこともできず、こちらで質問いたしました。 大雑把に、梵字を書くことの在家への制限は越三昧耶罪にあり、その根拠は大日経疏にあると薄い知識ながら理解しているのですが、根拠となる原典を知る機会はありません。 しかし一方で、日本全国で僧侶の方による梵字教室が一般向けに開かれている現状もあり、僧籍を持たれる高野山大学の名誉教授が在家者に梵字の教本と自習を推奨されてもいます。 児玉師の教本には、お袈裟・衣をつけずに梵字を書いてはならないとの心構えの解説がありました。 これを僧侶の方への訓戒と受け取るべきなのか「在家には梵字を書くこと自体許されない」ととるべきなのか判断がつきません。ましてその解説が一般向けの教本に書かれているのですからますますわかりません。 そういったことで、在家でありながら悉曇文字あるいはサンスクリット語を学びまた書くことは功徳になるのか、密教の戒律に詳しい僧侶のかたにご意見を伺いたく思っております。 教条主義的になるのも良くないのでしょうが、独りよがりになることを避けたく、ご意見を賜りたくご連絡いたしました。 もし知識のあるかたから見て問題がなければ、日本に伝わっている素晴らしい文化ですし、悉曇文字を勉強したいと思っています。 僧侶の皆様、お忙しい中見ず知らずの者から長々と恐れ入ります。ご教授いただければ大変幸いです。

有り難し有り難し 38
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納得のいかない法話

質問させていただきます。 回答しづらければ、スルーでお願いします。 母の四十九日法要の和尚さんの法話でのことです。 「亡くなった人はどこへ行くか?」と和尚さんは私の甥に尋ねました。 小学生の甥は、「心の中」と答えました。 それは、亡くなった母が教えたことです。 母は「自分が死んでも、いつも見守ってるから」という意味で、生前、そのように話したのだと思います。 が、その和尚さんは、それを完全否定しました。 人は死んだら「無」になる、と。 何もなくなる、心の中ということはない、と。 実際に仏教でどのように考えられているかは知りません。 和尚さんが仰ることが正しいのかもしれません。 ですが、そこはあえて否定する必要があるのでしょうか? マチガイハ タダスベキということですか? 甥だって大人になるにつれ、母の言葉の意味は理解するだろうし、何より母の法要で母を否定されたような気がして、何とも言えない気持ちになりました。(「黙れクソ坊主がっ!」と思ったことは内緒です) また、その話の流れで、ホームレスは人間のクズだから地獄に堕ちるという話をされました。 いや、ちょっと待て! 人は死んだら無になるんじゃなかったのか? 無になったら、地獄も何もないのではないか? それとも、ソレとコレとは違うとでも言うのだろうか? それより、ホームレスが人間のクズとはどういうことなのか!? それが仏教なのか? 和尚さんの偏見ではないのか? 和尚さんに対しての怒りの感情と、母に対して申し訳ない思いと… お前が地獄に堕ちろ!とマジ思いました… ホームレスの方達に炊き出しをするボランティアをしていたので、色々と思うところがありました。 もう数年前のことですし、そのことを引きずって悩んでいる訳ではありません。 過去のことに上書きすることはできませんし、それはソレで、そういう事実があった、でよいです。 ただ、その本当のところが知りたいです。 数年前のことを、なぜ今、このタイミングで?と思われるかもしれませんが、今まで聞く人がいなかったからです。 hasunohaのサイトを最近知りました。(遅っ!) よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 166
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住職と檀家

はじめまして、翔太郎と申します。お恥ずかしながら、48歳のここに至るまで、菩提寺が真言宗豊山派だということを深く考えずに生きてきました。 しかし、父親が亡くなったら寿命が尽きるまで、わたしが菩提を弔わなければなりません。 となれば、わたしは豊山派の檀家として、それ相応の作法を身に付けたいと思いました。 残念ながら、13年前に亡くなった母親は、ひどい精神疾患でした。兄にもわたしにも、その血は流れているようで、わたし自身、精神障害者手帳3級です。父親は精神疾患というものを本当には理解できないようで、今の状態のわたしにひどい言葉を言うこともあります。それでも晩年の母親に随分と暴言を吐かれながらも看病し、時に惨めな思いをしたこともある姿を近くで見ていた実の息子としては、亡くなった時、菩提寺で手厚く葬ってやりたいと思い。きちんとした檀家の作法を身に付けたいと思いました。 まずは、真言宗の開祖であるお大師様の時代からの仏教の歴史を調べ、なぜ、高野山から別れる形で豊山派ができたのか調べ、母親の戒名が飾られてから、線香をあげなくなった仏壇に線香をあげるようにしました。 次に檀家は正式には、毎日、仏壇の前でどのようなお経を唱えるべきか、菩提寺のご住職に電話で尋ねようとしたのですが、ここから流れが少しずつおかしくなって行きます。 たまにご住職が電話に出ても、これから外出するところで、話をしている余裕がない。キャッチホンが鳴ったので、またかけてもらえますかの繰り返しです。忙しいのは事実のようで、息も荒く疲れ切ってるのが伝わってきます。後日、父親から茨城県で三人しか選ばれない議員に選ばれたと伝聞で聞き、どういう事情でそこまで忙しいのか、今度こそ聞こうと思い、電話をかけたところ、今度は息子さんが出ました。副住職をされているそうです。初耳でした。ご住職が忙しいなら、電話を取った時、息子が副住職をしているので、そちらに聞いてもらえないかと言って欲しかったのですが、それは言ってもらえず、息子さんに檀家の作法をお聞きしました。ちなみに宗会議員になると、檀家の相手をする必要がないくらい忙しいものですか?僧階は2級の権野大僧正だそうですが、それくらい偉くなると、檀家の話などまともに聞く必要もなくなるものですか。わたしが傲慢な考えを持っているようでしたら、分かりやすく注意していただけると助かります。

有り難し有り難し 5
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自殺対策

 自殺対策は仏教の最も得意とする分野ですが、現状の効果はNPOのそれと大差がないのがはがゆいです。  もし輪廻転生が否定されるなら、自殺対策は有害無益で、むしろ自殺を奨励すべきです。  釈尊も若い頃自殺しました。(般若心経の呪文、梵天勧請)  仏教の目的は、涅槃(解脱、心の死)ですから、輪廻転生が否定されれば死後が無いので心は死んでいます。  まさに涅槃状態です。死即涅槃と言えます。  輪廻転生が真実であっても、自殺は諸刃の剣です。  釈尊のように涅槃状態であれば、自殺は奨励されます。  「厭離穢土 欣求浄土」と言う佛教語もある位ですから。  我々も、釈尊に倣って寿命が尽きる前に自殺によって涅槃を得なければなりません。  寿命が尽きた瞬間では多分涅槃は無理だと思います。  私はその修行の厳しさに初めから諦めています。  「現世安穏 後生善処」ならばまだ希望が持てますので寿命が尽きるまで待ちます。  しかし通常の自殺は防止しなければなりません。  何故なら心が死んでいないからです。  六道輪廻で脅しをかけるのです。  それも真実の脅しですから遠慮はいりません。  この自殺対策は有効だと思います。  ちなみに自殺者と通常の死者との死後の風景は、丹波哲郎制作映画「大霊界2」で参考できます。劇場映画ですからフィクションや甘さはありますので、その点は考慮が必要です。  輪廻転生が普遍化している国の庶民の思考については、  NHK「世界ふれあい街歩き」の「チンプー」(ブータン)が参考になります。

有り難し有り難し 20
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スピリチュアル系に頼りそうになり不安定です

何度かご相談させて頂いております。 特に、初めての時と2回目の時にご回答くださった教善寺の中田三恵様には、思っている事をズバリ言い当てられ、また、そう言って欲しかった!、というお答えを頂いて、本当に救われ感謝の気持ちでいっぱいです。 他のお坊様にもご回答を頂き、危ない処を助けて頂いたりもしましたし、考え方や気の持ち方というものを教えて頂きました。 数回相談させて頂いた事により、少しずつ精神的に落ち着いてきました。 ただ、また悪い癖が出て、スピリチュアル系のサイトを覗いてしまいます。 そこには必ず「潜在意識を書き換えれば人生は良くなる」とあり、そのためのセッションやセミナーへと誘います。 とても惹かれてしまうと同時にまた不安を抱えてしまうのです。 潜在意識を書き換えると人生が好転する、という考えはどうなんでしょうか? 仏教ではどういう教えに相当するものでしょうか? 昨年までは、「自分は気が強く、長女という立場であるからしっかりしている、しっかりしなくては!」という思いが知らない内に根付いていて、それは良くも悪くも作用しましたが強く生きてこられました。 それが今年に入ってから崩れて、後はご相談させて頂いた通りなかなか抜け出せず1年が過ぎようとしています。 そしてやっと11月の終わりに、胸の塊が無くなった感覚を久し振りに取り戻した処でした。 潜在意識云々という、自分で植え付けてしまった思い込みを消し去り、心平穏に過ごしたいと思っております。 どうすれば、このような思い込みを消し去る事が出来るでしょうか? スピリチュアル系のサイトはいくらでも目に入ってきてしまいます…

有り難し有り難し 14
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釈尊の言行

 厚かましく、非宗教説を続けます。  釈尊の言行については、立川武蔵先生の「ブッダをたずねて」の受け売りですから、皆様先刻ご承知と思いますが、信仰について言及したいと思います。  先ず釈尊は、偶像崇拝を禁止したとのことですが、釈尊の死後、舎利を分配して、早速信仰の対象にしました。  仏像も信仰の対象として作成され、祇園精舎での説教で済むところを、巨大な寺院を建築し、仏像を納めて 荘厳さを競いました。  これは中国の仏教を模倣したのでしょう。  釈尊の言行からはまったく不要なものであるはずです。  次に釈尊の死が近づいたときに、近隣の村人たちが釈尊の葬儀の支度を始めているのを見て、弟子にあそこに参加してはならないと戒めたそうです。  元々葬儀には無関係だったようです。  確か応仁の乱で加茂川に死体が放置されていたのを、僧侶が荼毘に付したのが始まりだったようです。  釈尊の言行に従って、これらの行事を無くせば、仏教はただ説教と修行に励むことだけが残ることにはなりませんか?  仏教は信仰とは無縁だと思います。これが非宗教説です。  蛇足ですが、通常寺院の参道に仁王門がありますが、これが参道の入り口ではなく中ほどに建てられいます。  これは参道が、輪廻転生を示したと考えられます。  参道の入り口は娑婆です。参詣者は参道を通って本堂に向かいます。  本堂は娑婆から切り離された死の世界です。  本堂に居続ければ平穏ですが、娑婆に還るときは仁王門で苦しめられます。  「チベットの死者の書」によれば、丁度3週目に怒りの神々に遭遇します。  仁王門が中途にあるのはそれを模したものと考えられます。    従って輪廻転生は仏教にとってそれ程重要なものです。  現在仁王門の像は参道を向いていて外敵を防ぐと言われていますが、参道の中途にあるのも不自然だしその必然性が考えられません。  像は本堂を向くべきだと思います。  さびれたお寺の仁王門がその向きになっているとの記事も見かけました。

有り難し有り難し 59
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