誤った仏教の解釈と、仏を拝む行為について
私は「仏を拝む」という行為を、独自の解釈で行ってしまっています。(確かそれを指す仏教用語があったと思いますが失念しました)
信心自体は強いのですが、ただ、その強い信心が間違ったものに
基づいているのでは、いつか間違いを起こすのではと、心の中で引っかかり続けています。
私の解釈では、
大日如来=真理、森羅万象、宇宙の一切。
他の仏や菩薩や如来=大日如来の化身、大日如来の内心。
であれば、
大日如来=森羅万象、宇宙の一切=自分自身も含む
であって、
他の仏や菩薩や如来=既に自分の中に存在している。
つまり、例えば「不動明王」を拝むのであれば、
どこか宇宙の果てか極楽か、とにかく超自然的な場所にいる
不動明王という存在に対し助力を願うのではなく、
自分自身の中にいる不動明王に働きかけ、自分自信が不動明王となる。
という解釈で信仰しているのですが、他の仏教徒の方のブログ等を拝見しても、「日本昔ばなし」的な不動明王が登場する話を見聞きしても、どうも自分の解釈が違っているようだと日々感じており、自分自身だけの謎信仰として心にしまっております。
私の解釈は、本来の仏教の世界観からどれくらいかけ離れてしまってるでしょうか。また、正しく仏教を学ぶ場合、何か良い手段はありますでしょうか。
有り難し 13
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