仏教をどのように学ぶのが一般的ですか? 本は何十冊か読んだのですが言葉だけではいまいち仏教を学んだ実感がありません。 仏教を生活に取り入れたいです。 お寺に行って法話は聞いたことがあるのですがそれ以外にお坊さんとかかわる方法がわかりません。 仏教を体系的に知るためには何をしたらいいですか?
初めまして、芹香と申します。 私は幼い頃から宗教学、宗教史に興味があり、父方の親戚に住職さんがいることから、特に仏教学に強い興味を惹かれていました。 ですが、私は、父が熱望していた看護師になるため、看護大学に入学しました。 しかし2年前、「これは私の道じゃない」という思いから、うつ病を発症しました。 そして父の期待を裏切ってしまったこと、そして自分の「道」が見えなかったことから、絶望し自殺未遂を繰り返しました。 ある日私はネットの友達に相談をしました。その友達はお寺出身で、大学で仏教学を学んでいました。 その人に、「自分の「道」が見えない、こんなんなら死んでしまいたい」と言うと、その人は間髪入れずに、「君は何度自殺しても死なんかった、つまり君は生かされたんやから、その命を人に使えばいい。それが君の「道」やと俺は思う」と言われました。 それから私は、これまでの私を受け入れ、自ら命を絶つということをやめました。現在はアルバイトをしながら生活しています。 ところが今年、父が肺病で緊急入院になりました。そして、担当医から言われた言葉は「夏は越せない」というものでした。 母も私も途方に暮れ、残りの命が少ない父に何が出来るだろうと、必死になって考えました。しかし、なかなか現実を受け入れることができず、日々は過ぎていきました。 そんなある日、母がぽつりと「家に帰れないんやったら、せめて、私たちだけでも普段通り接してあげようよ」と言いました。私は「分かった」と返事し、早速その日のお見舞いから、父と何事もないように接することになりました。 父は自分が余命宣告を受けていることを知りません。私達も口外にはしません。病室で、私と母と父は雑談をしては笑い合います。もうすぐ夏になりますが、そんなことを忘れて、私達はいつもの家族として笑い合います。 そんな中、私はふと、自分の「道」を見つめてみました。 すると今まで真っ暗だった道が開けて見えました。そこでは、父や母、そして私の友人達が笑顔でいました。 そう私の「道」は「人を笑顔にさせ、苦しんでいる人を助けること」でした。 私は将来僧侶になりたいと考えています。しかし本で得た知識しか私にはありません。なので、ぜひ私に色々とご教示下さると嬉しいです。 長々と自分語りが長く申し訳ありませんがよろしくお願い致します。
お題目を朝と夜以外でも唱えて良いのでしょうか? そして唱える場所はどこでも唱えていいのでしょうか?それともご祈祷していただいた御札の前だけの方が良いのでしょうか? 一回唱えるときは20回ほど南無妙法蓮華経と唱えています。それを何度も繰り返して居ますが、時々息が出来なくなる位苦しくなる時もありますし、何故か唱えているうちに汗が凄い出てきます。お題目唱えているの事で効果出ているのでしょうか? 私はパニック障害になってしまい不安が出てしまいいつも手が震えてしまい外にも昼間は出れなくなっている状態です。 そして昼間は外だと不安なので声に出さないで心の中で唱えていても良いのでしょうか? 家の中では常にお香を炊いて必死に落ち着かせようとしています。 お題目の効果出て元気になれる日を心待ちにしております。 ちゃんとした唱え方等ありましたら教えてください。 そしてお題目とご真言一緒に唱えていいのでしょうか?宗派違いますし毎日唱えて良いのか悪いのか、それともお題目だけ唱えて居たほうが良いのでしょうか? 今は子供(知的障害児)も言語障害があり上手くはないですがお題目をゆっくり一緒に唱えています。 はじめたばかりなので全く無知で申し訳ございません
どう思われますか。 私は、クリスチャンではないので、率直にご意見を頂けたら嬉しいです。
挑発的なタイトルで申し訳ありません。もっとマイルドにしたかったのですが、字数の関係でできませんでした。決してお坊さんを馬鹿にしてやろうとか、悪口を言ってやろうとかいう気持ちはありません。むしろ日々尊敬しております。なのでそこの所をご理解いただけたら幸いです。 本題に入ります。 まことに、大変失礼な質問だとは思いましたが、心の中にふと思い浮かんでしまいました。 仏教書を読んでいたら、「仏教の出家者は一切の生産活動を放棄して修行に専念しなければならないので、一般の人たちからお布施をもらわないと食べていけません。」とありました。 その部分を読んだ時に浮かんだことは、「お布施をすることによって、お布施をした人にはなんのリターンがない。これでは乞食に施しをするのと同じでないか?」ということです。 もちろん、お布施をすることによって功徳が積める、物惜しみに打ち勝つことができるというのは分かっているのですが、現代人にそんなことを言ってもそれが何だよ?と鼻で笑われるでしょう。もし私が誰かに「坊主と乞食って何が違うの?笑」と聞かれたら私はなんと答えればいいのでしょうか? ちなみに身近なお坊様(そこそこ名のある立派な人です)にこの質問をしたら「違わないんじゃね?」とのことでした。ハスノハのお坊様方はどうお答えになりますか? 大変罰当たりな質問だと思います。このことで私の身に不幸が起こったら甘んじて受けるつもりです。しかし、後学のためになんとかお答えしていただければ幸いです。
失礼致します。 僧侶になりたいです。 どのようにしたらいいのでしょうか。 また、生きるたつきは身に付けた方がよろしいのでしょうか。 教えてくださいませ。 よろしくお願いいたします。
凄くしょうもない質問だとは思うのですが、お坊さんは他の宗教(キリスト教・イスラム教など?)の方と話していておかしいとかって感じることはあるんですか?
子供の頃、少林寺を観てお坊さんはみんな 、カンフーをやっていて、強くて優しくて、空を飛べる最強な存在だと思っていました。 DVDの特典映像を観て、ワイヤーに吊られてただけで、空は飛べないし、カンフーやってないと知り少しショックを受けました。 最近知りあったお坊さんが、元自衛官、元ボクサーのムキムキな方がいて、やはりお坊さんは、最強なのではないか。と思ってます。 ・・・相談じゃないですね(;・ω・)
浄土真宗の念仏は「いつでもどこでも何度でも」ということですが、それが逆にいつどこで何回すればいいのか分からず、困ってしまいます 自分は肺が弱く、毎日そう何回も長く念仏することができないので、歩き始めたとき、トイレの時、本が一区切りついたとき、などに2,3回南無阿弥陀仏と称えていますが、こんな感じでいいんでしょうか 何も制限がないということで、逆に不安になってしまいます 思いついたときに、2,3回念仏するだけで、信心を得ることができるでしょうか 信心を得たあとも、そんな感じでいいのでしょうか 信心を得ると、有難すぎて自然とお念仏が出てくると言いますが、自分の場合肺が悪いので、出てきすぎるのも体に負担がかかるので困ります笑 有難くても念仏を我慢しなければならないのでしょうか? 根底には念仏の回数が人よりも少ない自分は救われないかもしれないという思いがある気もします
宿坊に泊まった時に、若いお坊さんたちが色々とお世話をしてくださいました。 僧侶になるにはいくつかのコースがあると思うのですが(二つくらいしか知りませんが)、朝の勤行などでお経を読めるようになるまで、何年くらい経験が必要なのでしょうか。 大体、皆さん20代くらいとお若く見えまして、年齢・経験を積むことで地位や出来るお仕事も違ってくと思いますが、ざっくりとどんな流れで僧侶と言う職を人生の中でしていくのでしょうか。 ふと、気になったので質問させて頂きました。
私は仏教のことに気になってることがーつあります。 それが大乗仏教の 教徒がチベット仏教のお寺に 行ってもいいのかと言う 問題です。 プロフィールを見てもらえばわかるとおり現在私はネパール在住です。 ネパールにはヒンドゥー教よりかは少ない とはいえ、 仏教のお寺があります。 でもほとんどがチベット仏教のお寺です。 私は東京都出身で 家が浄土宗なので 大乗仏教 の 教徒が チベット仏教のお寺に行ってもいいのでしょうか? 実はもうすでに何回も行っていて、 なぜこの質問をしているかと言うと今ふと気になったからです。 私は大乗仏教もチベット仏教もどっちも仏教だしお釈迦様が始めたんだから仏教は仏教に変わりない と思っているので、 行ってもいいと思うのですが、 一度本格的なアドバイスが欲しいと思いこうして質問をさせていただきました。 個人的な質問ではあるのですがどうかご回答をよろしくお願いします。
肺に持病があり念仏が難しいとお坊さんに相談したところ、なんまんだぶではなくて「ナーナーナー」でもいいと教えてもらいました 他にも肺に負担がかからないような念仏のやり方工夫があれば教えてください
最近、仏教に興味があり、仏教の本を読もうと思っているのですが、大学図書館においてある本は仏教史などが多く、読みづらいです。仏教の教えについての本で、お坊さん視点でオススメの本はありますか? それから、仏教の中でも曹洞宗に興味があるのでそちらの本も教えていただけるとありがたいです。
こんばんは。 何人ものお坊さんとお話する機会があった訳ではないですが、お坊さんは話し方が穏やかで、話すスピードも落ち着いていて柔和なイメージがあります。 話し方に、何か心掛けている事はあるのでしょうか? 私は油断すると早口になりがちで、 声のトーンが低く、方言丸出しのキツい口調になりがちです。 また、私は推敲している際はしかめっ面になりがちで、相手にとっつきにくい印象を与えているように感じてしまい、結果、空回りしてしまう事が多々あります。 話し方のコツ等あればお聞かせ願いたく、質問いたしました。
仏教徒になるとは出家して僧侶になることですか? 出家するのは主にお寺を継ぐ方なのでしょうか? お坊さんではないけれど仏教を信仰している方(在家と呼ぶ?)とお寺との関わりや、そういった方が普段どういう風にすごされているのか知りたいです。 歴史上ではよく引退した人が出家したり、お坊さんの芸術家や作家さんもいますよね。 そういった仏教の仕組みが、いまいちよく分かりません。 10代の頃からそういう道に惹かれており、最近また思い立って色々と検索していたところ、ハスノハを知りました。 まだ曖昧な気持ちのまま投稿するのもためらわれたのですが、あまりにも分からないことだらけなので思い切って質問しました。 今でも仕事を辞めたりして、お寺の人ではないけれど出家する方はいますか? 継ぐお寺がない場合、僧侶という職に専念して生活できるのでしょうか。 また、出家すると家族と疎遠になったりしますか? 宗派にもよるのでしょうが、お教え頂けると有り難いです。
死者のことをずっと考えていたり、 悲しんでいたりすると、死者が成仏できない。 前向きな姿を。 と、よく聞きますが、自殺者の場合もそうなのでしょうか。 自分のいない世界で、家族が、平気な顔をしていたら、 「やっぱり自分なんかいなくても良かったんだ」 と余計悲しくならないのかしら。 悲しんでもらえないことが、故人には余計に寂しく感じられるのではないでしょうか。 たった一年でこんな当たり前に過ごしてしまっていたら、寂しいと思うのです。 当たり前じゃないのに。 お葬式のあと、お茶碗を割った。 その行為が、もう帰ってきても一緒に食事を囲めないから帰ってこないようにね。なんて意味だなんて知らなかった。 そんな意味ならやりたくなかった。 その気持ちが成仏の妨げになっているのでしょうか。 それとも、本人が悲しくても寂しくても、「自分なんかいなくてよかったんだ。」とマイナスな解釈だとしても、現世に未練を残さない方が本人のためになるのでしょうか。 出来ることなら、家族にもみんなにも愛されていた。と納得して成仏してほしいと思うのです。 そんなマイナスの解釈で成仏するのが幸せなのでしょうか。 寂しい気持ちにさせてしまうことにならないのですか。 私は 私だったら、それはとても寂しいです。 生きていてほしかった。と、現世と無理矢理関係をたつなんてしないでほしかったと思ってばかりです。
お世話になります。 夫の実家が真言宗でしたので 娘の供養は真言宗でさせて頂いています。今も毎月ご住職に来てもらっています。 私の実家は浄土真宗でした。 子どもの頃、 祖母の朝夕のお経を聞き 暮らしました。 近くのお寺の日曜学校にも行き 南無阿弥陀仏を唱えることが当たり前でした。 子どもですから、怖いテレビを見た日の夜のトイレや、物音など、恐怖を感じたり心配事があると、おまじないのように南無阿弥陀仏を唱えたりしていました。そうすると仏様がそばで守ってくれる気がして安心できたんです。 大人になってからも、手を合わすと南南無阿弥陀仏を唱えてしまいます。 車で走っている時に、道路で動物が轢かれているのを見ると 条件反射のように「南無阿弥陀仏」が出てきます。 でも、真言宗では南無阿弥陀仏は唱えませんよね。 ひとりで娘のお仏壇で手を合わせる時 喉元まで出る南無阿弥陀仏を止めて 今日あった出来事などを話します。 でも、やっぱり心の中で唱えてしまう。 母親がこんなんで、娘が彼方で他のご先祖に責められないか心配です。 南無阿弥陀仏は真言宗では ただの呟きなのでしょうか? 唱えても大丈夫ですか?
お坊さんは健康で長寿のイメージがあります。 病気や認知症のお坊さんは想像しづらいです。 実際に、お坊さんをされている方も、周りのお坊さんを見ていてそう感じられますか? また、お坊さんが健康長寿なのが本当だとしたら、理由は何だと思われますか? 読経 ? 粗食でしょうか? 宜しくお願い致します。
守り本尊の由来について知りたいです! それと、自分の干支の守り本尊ではない、仏様を信仰しても大丈夫なのでしょうか?
私は、自尊心が低く、自分というものがわかりません。 自分を認める事が、どーしても出来ず自分自身が嫌いです。 心が疲れてしまっている時、仏様にすがるのは、甘え?逃げなのでしょうか。 お坊さん方は、こういう気持ちになる事は無いのですが? 心が病んだ時どの様に対処なさっているのですか? お経を唱えるとよいのですか? 私なんかより、本当に苦しんでいる方がいる事も、承知しています。 平凡日々を送らせてもらってる中での、ただの甘えなのかもしれません。 けれど、変えたい変わりたいと思うだけで、どーしたらよいのかがわからないのです。