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おぼうさんはどんな修行をされていますか? また、なんのためにされていますか?
私は、曹洞宗の南直哉和尚の著作が好きでよく読んでいます。 南和尚の著作で「超越と実存」という本がありますが、その中での親鸞聖人の信仰のとらえ方が非常に興味深かったです。 曰く、 「親鸞聖人の悪人の自覚は、肉食でも妻帯でもなく、阿弥陀仏の救いを信じられぬことが根本にあったのではないか、そのため謗法をした者をも救われるという根拠を教行信証で示そうとしたのではないか」 ということです。 また、南和尚は 「ゆえに、親鸞の称名念仏はそれ自体無常で無意味な発声行為であり、超越を排しながらも実存を受容する方法として、道元と並び日本思想史上でも希有なものである。」 と結論づけています。 真宗のお坊さんでこの本を読まれた方、また読まれていない方でも南和尚のこのような解釈についてどのように考えられますか? 私はとても心打たれ、やはり真宗もただものの宗教ではない、深淵があるものだと感じました。
仏様には、如来、菩薩、明王、天部、その他があり、仏様に1位、2位、3位、と言うような上下関係はなく、それぞれに役割の違いがあり、コンピュータに例えれば、如来がコンピュータ本体、菩薩は基本OS、明王は応用ソフト、天部は支援ソフトとの事ですが、コンピュータ本体である如来様がなくなった場合、仏様の世界はどのようになりますか?
仏教の教えを忠実に実践すると植物のような存在になるなと感じました。 しかし仏性は人間にしか無いとも知りました。 なぜ元から罪のない動物や植物は仏になれない(なっていない)のでしょうか。 「仏性の自覚」とは「罪を持っている」という自覚のことでしょうか? 切れ端のような知識で申し訳ありません。 気になったので質問させていただきました。
藤岡俊彦 様 から「色即是空」の空は「空性」であるとのお話がありましたが、私がある宗教学者から教えてもらったのは次のようでした。 「空の実名」〔解説〕 ところで、空が形容詞か名詞かということに関してですが、サンスクリット原典で言えば、五蘊皆空の場合は「五蘊の自性はみな空(ZUnya)」となり、ここで空は形容詞です。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、諸法空相、是故空中は、いずれもサンスクリット原典では空性(ZUnyatA)であり、これは「空であること・その性質・その状態」といった抽象名詞です。 空がそのまま空であれば一意に決まりますが、空性となれば、具体的に何かを決定しなければなりません。 それは般若心経に明確に記述されています。 そのキーワードが「諸法空相」です。 花山勝友先生の解説によれば諸法とは「この世の中のあらゆる存在や現象」となっていますから、星座やオーロラも含まれて「宇宙」と考えるのが妥当と思います。 般若心経はその大部分が「色(身体)」と「受想行識(心)」に関する記述です。 その中で「諸法(宇宙)」という突拍子もない巨大な話が割り込んでいますから、その必然性が問われます。 花山勝友先生は「諸法空相」を「諸法は空であるから」と解釈していますが、「空である」と言う理由では「色」も空ですから色で代用して充分だと思いますので諸法の必然性はありません。 諸法の必然性は自然界の中で唯一「閉じた系」であるからです。 「閉じた系」の利用価値は皆さんも中学か高校で学んだように「エネルギー保存の法則」ですね。 これから推測して、「空性」は「エネルギー」と断定して間違いないと思います。 その傍証として、それに続く「不生不滅」は「初めに空(性)ありき」ですから、エネルギーは宇宙の生成元として適合しています。 そして「不増不減」は空性が計量単位を持っていることを示しています。 エネルギーも計量単位を持っています。 因みに「不垢不浄」は直接エネルギーとは関係ありませんが、諸法実相との顕著な対比として例を挙げたと考えます。 空性をエネルギーとしてみれば、「色即是空」は「e=mc^2」を示していると考えられます。 このように般若心経は、最後の呪文を除いて、人体の空性の科学的記述に満ちていると思います。
かってある宗教学者から「諸法実相は空」と言う仏教用語があるから諸法実相を他の意味で使ってはならないと言われましたが、私にはどうにも理解できません。 多分「諸法の本質は空」という意味だと思いますが、「実相」ではそのように受け取れません。 「相」は姿という意味で、一つの物が複数の姿を見せることだと思います。 実相に対比するのは常識的には「空相」でしょう。 般若心経に「諸法空相」とありますから、その対比だとすれば、「空相」が空で、「実相」も空ならば、複数の姿にはなりません。 「空相」が縁起で「実相(現実の相)」に変化したと考えるのが、妥当だと思います。 従って、「諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」の対比として「諸法実相 生滅 垢浄 増減」(諸行無常)とすべきではないでょうか? この仏教用語のためか、ある般若心経の解説に「我々が見ている現実の風景は空の錯覚である」と言われて唖然としました。
ある一つの疑念が強迫観念のように頭の中に張り付いていて、阿弥陀仏の本願がうまく聞けないのです。 それは「18願によって信心決定した者は救われるが、信心決定したものは諸根が具足する」というものです。 荒唐無稽かもしれませんが、第41願に信心決定したものは諸根が具足するととある本に書いてあって、それを見た瞬間諸根が具足しないかもしれない自分は救われないかもしれないとショックでした いろんな本を読んだ結果、これは初住以上の菩薩のための願だとか、聖道門の菩薩を引き入れるための願だとか、他の訳では仏刹(浄土)と書かれてあるから、娑婆世界には関係ないとか、頭では納得できて、そっちのほうが正当な理解なんだろうな、と分かるのですが、頭の片隅に「体の弱い自分は救われないかもしれない」というのが絶えず渦巻いています 自分でも自分のこの疑念は完全に間違った教義理解だとは考えているのですが…。 「18願によって十方衆生の信心決定したものは救われる」「信心決定したものは諸根が具足する」「よって諸根の具足していないものは信心決定していない」「諸根の具足していないものは救われない」 という自分の誤った疑念を間違っていると言ってほしいです。 同じような投稿を前にもしたのですが、専門家のお坊さんに「それは間違ってるよ」と言ってほしいのです。わがままですみません 自力で変な解釈をしてしまう自分に嫌気がさします…。 こういうのを「自力のはからい」というのでしょうか 早く自力をからせたいです
最近、祈願寺で先達さんから 何度も雷を落とされています。 お花を持って行ったら、 「お墓に持って行くなら それでもいいが、うちの様に 墓を持たない寺は最上級の 荘厳具を備える場合が多い。 持ってくる人は皆、 『持ってくるんだからいい でしょう』って言ってポンと 持ってくるけど、管理に困る。 今回は受け取るが、次からは この様な無造作な仕方ではなく 瓶などに入れてくる様に」 とのこと…。 突然だったので情報処理が 追いつかず、「知らなかった」 と言って泣いてしまいました。 「失礼なのは承知だが、 (私の下の名前)さんと俺は 親子くらい歳が離れている。 実際俺には、貴女と同年代の 息子がいて、貴女のことは 娘の様に思っていて、【親心】 からの発言だ」と始まり、 マナー意識に対する訓戒が 続きました。 私自身、改善に努めていることも 伝えましたが… 最後は、私は泣きながら何度も 頭を下げて、「ごめんなさい」 と連呼していました。 私は特に 人からの「優しさ」や「親心」 が一番理解できません。 支援者たちには共有済みで、 指導を受けながら詫び状(先達 さんの御心に気がつけなかった ことに対する謝罪)も作り、 後日持って行きます。 実は、持って行ったのですが 先達さんはご不在、代理の方に 渡して貰おうとしたら、 「気まずくなる、自分で渡した 方がいい。それと、金券や お布施は同封しない様に」 と指示されました。 入れてません、と伝えると、 「そっか!俺の取り越し苦労! ゴメンネ(笑)」と言って くれました。 こんな体たらくが続く私如き が、一丁前に格好を付けて、 輪袈裟や数珠を持って、 お寺に行ってもいいのか… 葛藤しています。
仏教では殺生はいけないという風に教わっています。 細菌やウィルスも殺生はいけないという類いに入るのでしょうか?
お寺に行くと、よくお坊さんが「なむあーみだーぶなーむあーみだーぶ」とずっと念仏をしていることがありますが、自分でそれをしようとすると、肺の病気があるせいで、長く続きません 2,3回ならなんなくできるのですが…。 一度念仏を頑張りすぎて、肺の病気が再発してしまったこともあり、念仏を何回も声を出してするのはしんどそうです 再発の不安を抱えながら念仏をするのもどうかなあと思います けれど念仏は好きで、何度も唱えたいのですが、そういう場合は心の中で南無阿弥陀仏といってもいいのでしょうか 心の中の念仏でも阿弥陀様に届くのでしょうか 法然上人や親鸞聖人はあくまでも口に出す念仏を言っていたと思うのですが、どうなんでしょうか 心の中で南無阿弥陀仏と唱えることは念仏とは言わないのでしょうか? こんな僕でも救われるでしょうか
今の現状について私なりに答えを出してみました。家族の新興宗教のせいだと思ってきましたが、私が仏教に興味を持ったのもその新興宗教に対する対策がきっかけでした。 全ては仏縁なのかな。そう思えるようになりました。すべてを否定する。それでは新興宗教と一緒ではないかと。仏教を勉強してきて思えるようになりました。 以前、hasunoha様で浄土真宗から日蓮宗への改宗を考えているということで相談して、その縁で近くの日蓮宗のお寺に行き法話などを聞かせていただいております。 改宗や墓じまいなどの未来のことで暗くなって急がなきゃと焦ってしまっていた自分を見つめ直せました。hasunohaのお坊さま方、ありがとうございます。 前置きが長くなり申し訳ありません。ようやくここで質問に入らせていただきます。私は南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経を同時に信仰しているというような状況になっているのですが、この状況は問題ないのでしょうか? 日蓮聖人は南無阿弥陀仏を唱えると地獄に落ちると仰られており、親鸞聖人は念仏をして地獄に落ちても後悔はないと仰られたと歎異抄にありますが、 日蓮聖人や親鸞聖人は今の私の信仰の有り様にどう思われているのかなと思い、不安というか、こんな不安定な信仰をしている人間でいいのかなと思ってしまいます。以上まとまりのない文章ですが、お坊さま型のご意見お伺いさせていただきたいです。
私の実家が空き家になっていて、私しか相続人がおりませんのでいずれ相続することになるのですが…私は私で別に家を持っているので、私がそこに住む必要がありません。 わが実家は地方都市ですが、過疎地というわけではなく、むしろ人口が少し増えているところです。にもかかわらず、地域の特性なのか、私の属する宗派のお寺が1か寺もありません。 土地を売ってしまって換金してから教団に喜捨したほうがそりゃーいいのだろうなぁと思いつつ、自分の実家でもあった土地なので、自分の宗派のお寺(お寺建てられる程度の面積はあります)を建ててほしい気もします。まぁ、教団がそんな土地はいらんと言ったらそれまでですけど。建てたって、いまどき寺を維持するのは大変でしょうから… でも、私の土地あげますからお寺立てて!…なんて、ちょっと古くさいような事例って諸先生方は見聞きしたことはありますか?
長文失礼致します。 ここ1~2ヶ月の間、あることを切っ掛けに特定の宗派のお寺に伺うことが増えました。 その中で、あるお寺のお弟子さんとお話しさせていただいた時に「お坊さんにならないのか」と問われ、その事についてモヤモヤとしています。 何故言われたのかはなんとなく理解できています。 それというのも、縁があり菩提寺とは別の宗派のお坊さんと知り合いになり、そのお坊さんに娘のように可愛がっていただいていました。 そのお坊さんに本当に色々なことを経験させていただき、そのお坊さんがいなければ今の自分は居ないと思うほどです。 亡くなってしまったため今は直接会う事は叶いませんが不思議と淋しいという感情はありません。 このようなことをお弟子さんにお話ししたところ上記のような発言となったのです。 恐らく「経験」の内容が水行等、修行に関することが多かったからなのでしょう。 さらには「そのお坊さんは貴女をお坊さんにしようとしていたのでは」ともお弟子さんに言われました。 しかし上述のとおり、懇意にしていたお坊さんは亡くなってしまったため真相はわかりません。 でもなんとなく私に色々な経験をさせてくれたのは自分で自分を守るためなのではないかと思っています。 いずれにしろ真相は分からないのですが… ここまでであれば私の性格上「こんなこと言われたな」程度で終わるのですが 先に書いたとおり特定の宗派(懇意にしていたお坊さんと同じ宗派)のお寺に伺う機会が増えたと同時に そのそれぞれのお寺でお経が始まる確率がすごく多く 必ずと言って良いほど伺ったお寺でお経を耳にするようになりました。 ちょうど御開帳が始まったり、こんなタイミングあるのか?と不思議に思うほどです。 そして何故かずっと開経偈が頭から離れないのです。 特に今の生活を変えたいとか思ったことはありません。 ただお坊さんになりたくないとも思いません。 行く先にその選択肢があるのなら選ぶ確率はゼロではないと思います。 最後になりましたが ・お坊さんにならないのか聞かれたこと ・お経を耳にすることが急激に増えたこと ・開経偈が頭から離れないこと これらの事は何かを意味しているのでしょうか。 またこれらのことから今私自身がすべき事はなにかありますか。 ご教授いただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
ある宗教団体に入られてる方と仲良くさせて頂いているのですが、その方に悩み事を相談した時に、 「南無妙法蓮華経を心の中で唱えたら必ず願いが叶うよ」と言いました。 実際叶った事がいくつもあると言うので、正直100は信じてないのですが、心の中で言ったりするようになりました。 この間ある神社に行き、お参りをし、お守りも頂いて来ました。 何か、あっちでもお願いし、こっちでもお願いし…で、いいのだろうか??と疑問を持つようになりました。 あっちこっちでお願いをしたりしても良いのでしょうか。 宗教の事に無知すぎて、ごめんなさい。 宜しくお願い致します。
こんにちは。わが家の宗旨は浄土真宗ですが、私は仏教の新興宗教(すごく真面目な教団です)を信仰しています。 五年前に子どもが勉強のストレスから錯乱状態になり今もその後遺症で苦しんでいます。医療機関の受診やカウンセリングも受けていますが不登校のままです。すがる思いで真言宗のお坊さんに相談したところ“あなたの信仰が原因で子どもに影響が出ている”と言われました。 家の宗旨を替えるつもりは全くありませんが、そいいう事例(ご先祖からの戒め)はあるのでしょうか。
私は「仏を拝む」という行為を、独自の解釈で行ってしまっています。(確かそれを指す仏教用語があったと思いますが失念しました) 信心自体は強いのですが、ただ、その強い信心が間違ったものに 基づいているのでは、いつか間違いを起こすのではと、心の中で引っかかり続けています。 私の解釈では、 大日如来=真理、森羅万象、宇宙の一切。 他の仏や菩薩や如来=大日如来の化身、大日如来の内心。 であれば、 大日如来=森羅万象、宇宙の一切=自分自身も含む であって、 他の仏や菩薩や如来=既に自分の中に存在している。 つまり、例えば「不動明王」を拝むのであれば、 どこか宇宙の果てか極楽か、とにかく超自然的な場所にいる 不動明王という存在に対し助力を願うのではなく、 自分自身の中にいる不動明王に働きかけ、自分自信が不動明王となる。 という解釈で信仰しているのですが、他の仏教徒の方のブログ等を拝見しても、「日本昔ばなし」的な不動明王が登場する話を見聞きしても、どうも自分の解釈が違っているようだと日々感じており、自分自身だけの謎信仰として心にしまっております。 私の解釈は、本来の仏教の世界観からどれくらいかけ離れてしまってるでしょうか。また、正しく仏教を学ぶ場合、何か良い手段はありますでしょうか。
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
煩悩も欲も消そうとする必要はない。この世の理(ことわり)だから。 煩悩や欲はありのままの心の在り方であり、決して消えるものではなく、そのままを受け入れることでその縛りから解き放たれる。 辛い苦しい悔しい腹立たしいだけでなく、ありがとうと感謝の言葉を発することも、何か良いことをするという徳を積む行動も、お念仏さえ煩悩や欲のひとつである。煩悩と欲は人として生きるには逃れられないものである。 また、煩悩は108あるという。言葉遊びではあるが永遠(とわ)とも読める。 これは、煩悩や欲などはこの世の時空間が始まる時から(科学的にはビッグバンか)終わるまでの限られた「永遠」という中に存在することを意味する。 煩悩がこの世の物理的な法則決まりごと、欲が化学結合などを起こすエネルギーとして考えるなら納得してもらえる人もいるだろう。宗教や哲学、科学などは人のごく限られた能力の中で作られたものであり、大した差はない。 別の世、違う時空間には違った煩悩や欲があるだろう。 人は人としてこの世に産まれる前から生命体(あるいは物質)として遥か昔から存在し、煩悩と欲のおかげを受けながら、産まれてからだけでなく、死んだ後も物質やエネルギーとして森羅万象の中で存在しつづける。 自分とは?自分はなぜ?ということに捕らわれず、今の状態、周りの言動はその存在を認め、自分の感情をはじめ、他人の行動や起こった出来事は仕方がないと赦して労わり、その経験をありがたしと感謝しながら、経験を活かして自分の趣くままに行動する。 そうして、普遍的に存在する煩悩や欲にも感謝しながら、うまく活用できれば、自ずとこの世も極楽と気づくことができる。 悟ることができて仏になるであろう。
どうもこんばんは 以前からの質問を見ていただければ分かると思うのですが、無量寿経の41願について「信心決定したものは諸根が具足する。だから諸根の具足していない者は救われない」といった解釈に気を取られて、ずっともんもんとしておりました それで、ハスノハでお坊様の意見を聞いたり、本で調べたりしたところ、「その解釈ではみな救うと誓っている18願の誓いが守られないからそれは我々に関係のない菩薩様への願だ」「十住以上の菩薩様は三悪道に堕ちることがないので、浄土を願わないものもいる。そうした聖道門の方々を浄土門へ引き入れるための願」「諸根ケツルというのは念仏という大道を知らないこと。哲学者や聖道門の方々も名号を聞くことで諸根具足することができる」「42願~48願を見ると、他方国土の諸菩薩というのは名号を聞くとただちに三昧を得るような方々であるので、われわれには関係のない願」「そもそも障害というのは実体的なものではない」「身体に不自由がないというのは、浄土へ行くのに不自由がないこと」という頭では合点できるような説明がたくさんありました。ハスノハの皆さん、ありがとうございました。 けれども「けれども」なんです…。「もしも」41願が念仏者が諸根具足するという願だとしたら、体の弱い自分は救われないかもしれない…。と、この「もしも」が頭から離れないのです。おそらくこれは、阿弥陀様への疑いと、自力のはからいでもって、このような状況になっているのだと思います。 この「もしも」というのを消す方法はないでしょうか…。そんな上手い方法はないとは思いますが、なんか愚痴みたいになっちゃいました、すみません。阿弥陀様を疑ってしまい、お経をネガティブに解釈してしまう自分がいる。それが悩みです。
夫が亡くなってもうすぐ納骨です。 49日までは魂は近くにいてそれから修行の旅に出るから悲しむのは49日までじゃないと未練が残って修行に出られなくなって悪霊になるとかそんな感じのことを聞きました。 49日までしか悲しんではいけないのですか? 皆さんはそんなにすぐに割りきれるものなんでしょうか? 亡くなった後、魂があるものと仮定して、修行に出ると言うことは、側に居てくれないのでしょうか? よく49日まで変わったことが起こるとか聞きますが、何も起きません。 必ず起こるというものでも無いとはおもいますがなんだか寂しいです。側にいないのでしょうか。