初めてご相談させて頂きます。 机の上に、お守りに入れる用の紙のお札を二枚、 キーボードとパソコンのモニターの間に立て掛ける形で置いています。 お寺で頂いた小さな紙のお札で 一つは開運、一つは厄除けです。 このお札とは別に、個人的な願望を祈祷して頂いたお札も 持っていますが、そちらはお守り袋に入れて首からさげて いつも持ち歩いています。 倒れた紙のお札はお寺で売っていたもので、 お守り袋に入りきらなかったので机に飾っていました。 その二枚のお札が、机で作業したときにぱたりと倒れたので 不安になってしまいました。 息を吐いた時に倒れたので、息がかかったか、 私が机を揺らしたか、近くにあったキーボードが接触するかして 物理的に倒れたのだと思いますが、 神棚に置いた紙の札が倒れるのは 物事が行き詰まるとか今の願いがかなわないとか、 あなたの願いや考え方自体が間違っている可能性がある、 等書いている占い師さんのサイトを見て心配になりました。 (実際には神棚ではなく机ですが…) 他にも色々な意見を見まして、 大抵は「物理的な問題なので気にしなくてよい」 というものでしたが、心配症なもので、 お坊さまの意見を聞いてみたくこちらに書かせて頂きました。 そのお寺では、お札とお守り両方をお出しできるのですが お札をお祀りするのが大変な人はお守りを頂けます。 今回、机に置いていたのはそのお守り用の紙のお札です。 お守り用のお札が倒れたからといって、 問題があるとか願いがかなわないとか、 そんな風に心配することはないでしょうか? くだらない質問とは思いますが、 ご回答頂けましたら幸いです。
可能な範囲で教えてください。 出家なさった理由はなんですか? そして、出家して良かったと感じたこと、悪かった(大変、辛いなど)と感じたことはなんですか? 立ち入った質問で恐縮ですが、在家で仏教に関心を持つ者にとっては興味のあることです。 宜しくお願い致します。
仏教に興味が出る前にチベット密教のシンギングボウルや、ガンター、バジュラなどを、天然石やさんや、マライカとゆうお店で買ってきてそこには印はどのように組むかなど紙にもかいてあって無料で配っていましたから見たりよく、鳴らしていました。今は手放しましたが、これは罪になりますか? もし罪になるならばどうしたら許されますか?
仏教で絶対の幸福というものがありますが本、セミナーでは理解することが出来ません やはり、お坊さんとの問答で何年という時間(お金)をかけ、理解するものなのでしょうか? 時間をかける事に意味もあるのでしょうか? 楽して理解する事はやはりお釈迦様が許さないのでしょうか? 人間関係で生きずらさを日々感じています アンケートなどで生き方が180°変わった、目からウロコと言うような返事が寄せられています 絶対の幸福が理解でき これからの人生に役立てればと思います よろしくお願いいたします
お坊さんに在家で天部の仏様は祀らないように言われて手放すように言われてしまいました。仏教的には師僧にあたると思っています。 その天部の仏様には特別に縁を感じているのですが、師僧はその天部の仏様自体に疑問があるようです。 魂抜きをして安置してもダメでしょうか?
自分の部屋で、観音様を祭っているのですが、お米とお水と偶にお菓子(頂き物や家に合った物)を供えているのですが、大丈夫ですか?
仏教のパーリ聖典にはボーディサッタ(菩薩)は地獄に行かないとの記述があるのですが、ほかの仏典ではボーディサッタは地獄に落ちたという記述があります、どちらが正しいのでしょうか?
ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。 そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。 もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。 お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか? 本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?
レタスの葉の一部やお米粒を少し、食前や調理後に生飯偈を唱えて、庭に置いているのですが、大丈夫でしょうか? 毎度、要領を得ずに質問して申し訳ありません。
先日、初めて座禅会に行きました。 そこでの指導で「座禅中は、目を瞑ってはいけない」と言われました。 理由は目を瞑ると眠くなるからです。 僕は目を瞑っても眠くならないし、目を瞑ったほうがやりやすいです。 眠くなるからという理由だけなら僕は眠くならないので目を瞑って座禅しようと思うのですが他に目を瞑ってはいけない理由はありますか?
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
前回の質問では 自らの生き方について相談しましたが、 今回はネルソン・マンデラ氏の名言について単純な質問です。 ネルソン・マンデラ氏は数々の名言を残しています。 「遺恨の念は、毒を飲んでおきながら、それが敵を殺してくれると期待するようなものだ。」 や 「大きな山に登ってみると、人はただ、さらに登るべきたくさんの山があることを見出す。」 などなど、 何となくではありますが、 案外考え方は仏教に近いのではないだろうか。 と、思いましたので 実際にお坊さんの声を聞いてみようと思い、質問致しました。
初めまして、ちかえもんです。 悩みというよりはずっと知りたいと思っている事なのですが、 ここに書いてもよろしいでしょうか。 6年前のこと。離婚をして2ヶ月ほど経った頃に 辛さで軽い心身症になり、心療内科で話を聞いてもらっていました。 普段から夢は良く見るのですが、その頃に印象的な夢を幾つか見ました。 そのー1つが、仏像の夢です。 無音で動きはなく、坐禅の時のような座り姿で、両手を其々 膝頭に 掌を上向けて 置いている金色の仏像が私を見下ろしていました。 ただそれだけの夢でした。 その仏像の夢はそれ一回だけしたが、ずっと記憶に残っています。 どこかのお寺の仏像なのかな? 私の心の中の仏様が姿を見せてくださったのかな? またあの夢は何か意味があったのかな? いつか分かると良いな、などと思っております。 先ほど、このサイトを見つけ、もしかすると何か分かるかな、と 思って書き込み致しました。 あの時の心身症は3ヶ月ほどで治り、 今は毎日仕事に趣味に精を出しています。 始終夢の仏像の事が気になっているわけではなくて、 今は、たまに そういえば、、、と思い出すぐらいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
久しぶりに相談させていただきます。もし過去の相談に答えてくださっている方がおられましたら、その節は本当にありがとうございました。 最近、日常生活の中でしんどいことやつらいことが多く、もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあります。そのようなことをこの前、クリスチャンの友人に相談したところ、彼女はしんどい時は神様に「状況がよくなりますように、神様支えてください」とお祈りするのだと言っていました。 そこでふと疑問に思ったのですが、浄土真宗(家の宗派なので、他は詳しくなくてすみません)では南無阿弥陀仏とお唱えすれば極楽に行けるといいますよね。しかし、今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか。仏様にお願いできるのは極楽に行くことだけなのでしょうか。 もしよろしければ教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
最近、人の寿命は予め決められていると聞いたのですが、それはどんなにお金を費やして健康に気をつけたりしても変えられないものでしょうか。 運命には抗わないほうが正解なのでしょうか。 仏教の智慧をお借りしたいです。
日本の仏教ならではでしょうか。はっきりとした要因があるのか興味があります。
例えば、自殺するつもりは無かったけど、台風で荒れ狂う海へ泳ぎに行って亡くなった場合、それはあちらの世界で自殺として処理され、地獄へ行かされるとかあるのでしょうか。
時代が時代だから隠してただけで、昔もそういう人は日本にもいたらしいですし。現代で、僧侶の方々はLGBTの人たちをどう考えてらっしゃるのか知りたいので、どうかご意見をお聞かせください。俗世的な質問をお許しくださいませ。
浄土教(浄土宗あるいは浄土真宗)の深い信仰に入りたいと思っています。もちろん出家ができればベストなのでしょうが、なにしろ仕事もある身ですから、在家のまま信仰が持てればと思います。勇気を出して近くの浄土真宗のお寺に見学をお願いしたこともあるのですが、門前払いの対応に落胆し、それ以後どこの寺院にも連絡できていません。昔の日本ではお寺は「駆け込み寺」であり、もっと庶民にも門戸が開かれていたそうですが、近年は本当に「葬式仏教」になったのでしょうか? ただ、そうも思いたくはなく、深い信仰をお持ちの僧侶もおられるに違いないとも思います。ご自分の体験から、在家のための信仰の入り方についてお導きください(ちなみに、仏教関係の読書はある程度は広く浅く行ってきました。もう200冊以上は読んできたかと思います)。
なぜ、仏教では宗派を問わず、誰もが持つ死への恐れを信者から取り去るためのありがたい話をせず、「死後のことは分からない」と突き放すような言い方をされるのでしょうか。比較するのもおこがましいと思われますが、キリスト教でもイスラム教でも、一応はそれなりの死後はどうなる的なお約束を説教してくれるのに。