諸師家様方お疲れ様です。 さて、未だに安居も法戦もままなりませんが、愚禿はこの度漸く伝法(嗣法)、瑞世までの道程を考えて歩ける程度に法灯を賜りました。 そこでこの度安居に入る前に、一つ諸師家様方に「本師としての嗣法のリスク」をお伺いしたくございます。 と言いますのも、可能であらばどうしても嗣法をお願いしたい師がおり、僧堂に往く前にダメ元でも、送安後に、嗣法して欲しいと頼みたいのです。 ですが、背景として「結制していなければならない」だとか「多額に負担がある」だとか「住職後任として世話しなければならない・檀家に公表せねばならない」だとか易々とは行かぬこともあるのではと思ってしまうのです。 私はその師の寺の副住職になって養子になりたいだとかそんな気持ちは無いのです。只、その師を本師と仰げれば何よりであると思う迄であります。 もちろん、嗣法頂ければ、次代の方丈(例えば血縁の婿)が来た際、粉骨砕身して作務を檀務を支えるつもりであります。 そんな気持ちで嗣法賜ることを願い出てもよろしいのか、師家様方にお伺い致します。 どうぞ宜しゅう。合掌九拝。
昨年、空家になってしまった祖父母の家の仏壇を実家に移しました。 その際、父が自分で車で運び、仏壇の自分で運べないものは、新しく購入した仏壇のお店の方に引き取ってもらったと聞きました。 心配になりネットで調べてみると、仏壇を移動したり新しく買いかえる際は、閉眼供養や開眼供養をすべきと知りました。 しかし、家に来ていただいて供養していただくことはしていません。 仏壇を購入したお店で供養はおそらくしていただいているようですが、 大丈夫なのでしょうか?
こんばんは。 私はお寺めぐりが好きなのですが、調べていると縁切りのお寺がいくつかあります。 実際にお参りした縁切りのお寺があり、「いつもありがとうございます、持病との縁が切れて健康でいられますように」という感じで絵馬を書いてお参りしたこともありますが(お礼参りもするつもりです)、「特定の人との縁を切りたい」というのも書いても大丈夫なのでしょうか? そういう絵馬を非常に多く見かけ、相手の本名や県名が書いてあるものもありました。さすがに名前などを書くのは怖いので、例えば「私にとって良い影響ではない人と縁が切れますように」と言った感じなら大丈夫なのでしょうか? ご回答いただけましたら幸いです。
浄土宗○○派というのが沢山あってどう違うのかわかりません。何を基準に選ぶものなんでしょうか?
お忙しい中ありがとうございます。 私には菩提寺は有りませんが、お釈迦様や祖師の方々は素晴らしいと思っていますし、仏教を心の拠り所にしたいと思っています。 以前は、仏教にも、お坊さんにも良いイメージが有りましたが、あるお坊さん達の言動や対応が酷かったので、イメージが悪い方にガラッと変わりました。 それから年月が経ち、将来、菩提寺になるお寺のお坊さんは尊敬したいと思うようになってきました。 お坊さんのイメージアップを図り、また尊敬できるようにしたいのでお尋ねします。 「皆さんが尊敬する、現代の日本のお坊さんはいますか?」 どんな方か、なぜ尊敬出来るのか、なども具体的に教えてほしいです。また、ネットにお寺やお名前がのっている方がおられましたら教えてください。 よろしくお願いいたします。
僕は将来浄土真宗本願寺派の僧侶になりたいです。今は中学生なのですが、今からできることはありますか?
子どもがSNSで頻繁に「死にたい」と呟きます。 心療内科にも受診し精神疾患で治療もしています。 一時は前向きになりましたが、また気持ちが下降気味のようです。 SNSで呟くたびに「いつか本当に死んでしまうのでは?」と思い、 私自身も眠れない夜を過ごし精神的にまいっています。 そんな時にもともと興味があった仏教と出会い お釈迦様の話や我が家は曹洞宗なので道元さんや良寛さんについての本や動画を見て、心の拠り所としています。 さて、「死にたい」と思う息子についてですが、仏教的に考えたら 息子自身が自ら気づき悟るしか手立てはないようにも思えます。 今まで息子を心配して力になって来たつもりですが… 反抗期や家庭が複雑なので反発心もあるようです(プロフィールに記載してありますが) 結局、今後 息子がどうなるかは分かりませんが、治療は怠らず、 私自身は待つしかないように思いますが、お坊さんはどう思いますが?
私は不動明王様が好きで、お寺や神社で仏像をお見かけすると励ましてもらっている気がしてとても嬉しい気持ちになります。 毎晩就寝前には1日の反省を兼ねてご真言を唱えるようにしています。 ですが最近真言を唱えている最中に、心配事や仕事のことなど余計なことを考えてしまいます。 雑念が入るのはまだまだ自分の意思や心が弱い証拠だとわかっているのですが、僧侶の方々はお念仏を唱えられる際どのようなことを心がけているのか、または集中するコツなどがあれば教えて頂きたいと思います。 情けない質問で申し訳ありません。
こんにちは、いつも楽しく拝見しております。 お釈迦様の話について一つ質問です。 お釈迦様は、お釈迦様の前で悪態をついて罵られた言葉を、一つとして受け取らなかった、というお話がありますよね。 罵りや悪口、批判の言葉は、受け取らなければ、その言葉を言った人のものになる。 この考え方はとても良いなと思っておりまして、実践したいなと常々思っています。 ところが、つい先日、親族から、要約すると「あなたのやり方では駄目よ!」と嫌な批判を言われてしまいました。 そのやり方は、その時の親族には心配させまいと言っていない事情があったことや…私がその方法をする上で、過去親族本人から了承を得ていたことを、おそらく忘れていることがあるのも気づいていながら… 心から「受け取りたくない批判だ」と思い、でもあまり口には出さず、その時はそうかーそうなのー、とだけふんわりと抑えて堪えました。 そしてさっさと忘れて過去より現在のことを考えようとしても、つい心にモヤモヤと、その言葉が刺さったままになってしまいます。 お釈迦様のように、「相手の言葉を受け取らない」とするには実際にはどうしたらよかったのでしょうか。 いざ実践としたときの、「嫌な言葉を受け取らない方法」は、私のやり方は無意識に受け取ってしまったのでは、と後程ふと思い、方法がどうもわからなくなってしまいました。 経験豊かな皆さんが具体的に実施されていることなど、ありますでしょうか。
今日私がいつも行く集まりがありました。 今日は集まったのが私を含め3人で集まりの途中でロータリークラブに所属されている住職の方が参加される予定でしたが会の間は入ってこられませんでした。 その会が終わった途端いきなり部屋の中に入ってこられ私以外の二人に名刺を渡し私だけを無視し続けてお話を始められました。 話の内容は集まりのメンバーを増やす為にロータリーの週報に宣伝を載せることについてのお話でした。 私以外の二人は現会長と次期会長でその二人とお話をずっとされていました。 5分くらい話されていたのですが私だけずっと無視したまま話をされて話が終わり帰る時も私にだけ名刺も渡さず無視してかえられました。私自身は何の役職もないメンバーではあるのですが、今まで会にいらっしゃった他のロータリークラブの方も他の住職のロータリークラブの方も私のことを無視せずきちんと名刺もいただいていました。 なので今回の出来事は私にとってちょっと失礼な対応だなと感じましたが住職の方々からしたら用のない人は無視してもいいという見解なのでしょうか? 個人的にはまたらこういう間に合うのが嫌なのでこの集まりから抜けようかと考え始めました。
こんにちは。 いつもお世話になっています お坊様というと物欲や煩悩をを出来るだけ抑えストイックに自分を律し生活なさっている方が多いというイメージなのですが 彼等彼女等も人間でありますので基本三大欲求や色々な欲があるかと思います。 ですがそれを望むままにやってしまいますと僧侶としてよくないのではないかと想像してしまいます なのでそれなりに折り合いをつけて日々過ごしているかと思いますがそれをどのようになさっているんでしょうか?
私が仏教に興味を持ち始めたきっかけは、大人になってからお寺で仏像を拝観した際に、作りの美しさや、「仏像から何か語りかけられている気がする」と感じたからです。 そこから有名な般若心経についても知りたいと思い、初心者向けの分かりやすい解説本を読みました。そこで「観自在菩薩がお釈迦様の弟子に語りかけている」ことだと知ったのですが、以前に仏像の本を読んで「菩薩とはお釈迦様が出家する前の姿」と認識していたので、如来像も菩薩像も全てお釈迦様自身だと思っていました、恥ずかしながら…。 観自在菩薩は、お釈迦様ではなくお釈迦様の弟子、ということでしょうか?例えば釈迦如来はお釈迦様で、薬師如来は別の人、みたいなことでしょうか? 因みに先日、東京国立博物館の仏像の催しにて沢山の国宝や重要文化財を見ることが出来、感動しました。小さな仏像さんも後ろ側までじっくり見れるのは展覧会ならではですね。 前にも般若心経について質問させて頂いたことがあるのですが、やはり仏教のことこそハスノハのお坊さんに聞いてみよう!と思い質問させて頂きます。初心者すぎる質問ですみませんが、よろしくお願いいたします。
仏教に帰依するとは、いったいどーゆー意味ですか?
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
純粋に気になった事で大変申し訳ありません。 住職さんや寺族の方は、普段どのようなお食事をされていらっしゃるのでしょうか? やはり、一般家庭と同じようなお食事ですか? 精進料理も一般の方の間で流行っていますが、お寺のお坊さんも洋食やイタリアンなどを召し上がるのか、少し気になってしまったものでご質問させて頂きました。 もし宜しければご回答お願い致します。
以前より仏教に興味があり、いずれ出家したいと考えています。 私は現在は戸籍は男性に変更しており外見も完全に男性ですが、生まれたときは女性で、現在も下半身はそのままの状態です。 そのため、修行で共同生活をおくることに(風呂)不安を抱いています。自分は気にしないのですが、他の方に迷惑をかけたり、困惑させてしまうのではないかと、、 そこで、宗派により違うのかもしれませんが、具体的に修行中の入浴はどのようなかたちで行われるのか、 また、私のような人間が出家できるのか、教えていただけるとありがたいです。 宜しくお願い致します。
最近可愛らしい如意輪観音様の陶器の置物と出会いました。あまりに可愛らしいので、置物ですが、お水、お花、御灯明をお供えして手をあわせております。 長くお付き合いしたいと思い、開眼供養を思いたったのですが、一般的に、こういった人形のような御像でも開眼供養というものはしていただけるものでしょうか? また、近くに如意輪観音様をお祀りしているお寺様がない場合、観音様をお祀りしているお寺様にお願いすることは可能でしょうか。 よろしくお願いいたします。 (ちなみに実家のお墓のあるお寺様は浄土真宗なので、こういったご相談ができません)
実家の母(96才)が今まで一人で暮らし、朝夕お仏壇に手を合わせ、ご先祖様と父の供養をしておりました。 1月に骨折してしまい手術を受けましたが、術後高齢でもあり一人で暮らすことができなく、施設にお世話になることになり先日入所致しました。 施設にはお仏壇は持ち込めなく、家は無人になっており、長年続けてきたお参りが出来ない事をとても気にしております。 私も跡取りに嫁ぎ、宗派の違うご先祖様があり、預かる事もできません。 母は、お位牌だけ施設に持ってきてほしいと言っております。 可能でしたらこのような場合、仏壇以外の場所にご本尊様等とお位牌はどのようにしてにまつればよいのかお教えいただきたく、お願い申し上げます。できるだけ母の要望に添ってやりたく思っております。 (宗派は 臨済宗妙心寺派です)
先日、法事をおこないました。 曾祖父の代からずっとお世話になっているお寺で、先代の住職さんにはとても親切にしていただいてました。 その先代の住職さんが体調を崩されて、 2、3年ほど前に息子さんが住職になられたのですが、本当に失礼な態度で頭にきています。 無言で入ってきて、用意してあったお供え物も知らん顔だったので、祖母が 「お供え物置いてもらえますか?」 と聞くと、こちらを睨みつけて 「それ以上、入らないでください。」 と一言。結局お供え物は置いてもらえませんでした。 その後挨拶も何もなしに始まり、 小さい子供がいたのですが、子供が少し声を出す度にお経をよむのを止めてこちらを睨んでいました。それが3回ほどありました。 そして明らかに今までにはない短さで終わり、 何の挨拶もなしに部屋から出て行こうとしたので、 「あの...お焼香してもよろしいんですか?」 と聞くと 「こちらが合図したのに、そっちが拒否したんでしょ?」 と言われ、親戚一同呆気にとられていました。 合図なんてなにもなかったし、言葉も発してない。 たとえこちらが気づいてないにしても、その言い方。とてもじゃないけど、ありがたい気持ちなんて全くおきませんでした。 むしろ亡くなった祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。 帰る時も一応挨拶を、と父と祖母が挨拶しに行ったのですが、 「お焼香のタイミングなんて、常識でしょ? それに最近は法事をお寺で行う人なんてめったにいませんよ。こっちが迷惑だ。」 と言われたそうです。 こんなことあっていいんでしょうか。 ただの愚痴ですいませんが、この行き場のない怒りをどうしたらいいのかわからなかったので、話を聞いていただきたくお話しました。
いつも温かくありがたいご回答の数々ありがとうございます。 心がもやもやする時はこちらによくお世話なっております。 御坊様のご回答中にお釈迦さまのたとえのお話しが出てきますが、そのお話に興味を持っております。 お釈迦様のお話を素人でもわかりやすく読めるような本などございましたら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。 ちなみに手塚治虫先生の『ブッダ』は読みました。