こんにちは。 いつもお世話になっています お坊様というと物欲や煩悩をを出来るだけ抑えストイックに自分を律し生活なさっている方が多いというイメージなのですが 彼等彼女等も人間でありますので基本三大欲求や色々な欲があるかと思います。 ですがそれを望むままにやってしまいますと僧侶としてよくないのではないかと想像してしまいます なのでそれなりに折り合いをつけて日々過ごしているかと思いますがそれをどのようになさっているんでしょうか?
私が仏教に興味を持ち始めたきっかけは、大人になってからお寺で仏像を拝観した際に、作りの美しさや、「仏像から何か語りかけられている気がする」と感じたからです。 そこから有名な般若心経についても知りたいと思い、初心者向けの分かりやすい解説本を読みました。そこで「観自在菩薩がお釈迦様の弟子に語りかけている」ことだと知ったのですが、以前に仏像の本を読んで「菩薩とはお釈迦様が出家する前の姿」と認識していたので、如来像も菩薩像も全てお釈迦様自身だと思っていました、恥ずかしながら…。 観自在菩薩は、お釈迦様ではなくお釈迦様の弟子、ということでしょうか?例えば釈迦如来はお釈迦様で、薬師如来は別の人、みたいなことでしょうか? 因みに先日、東京国立博物館の仏像の催しにて沢山の国宝や重要文化財を見ることが出来、感動しました。小さな仏像さんも後ろ側までじっくり見れるのは展覧会ならではですね。 前にも般若心経について質問させて頂いたことがあるのですが、やはり仏教のことこそハスノハのお坊さんに聞いてみよう!と思い質問させて頂きます。初心者すぎる質問ですみませんが、よろしくお願いいたします。
仏教に帰依するとは、いったいどーゆー意味ですか?
広島在住で、いわゆる安芸門徒と呼ばれている地域の者です。 葬儀と言えば導師による読経の後、定番となっている《白骨の御文章》の拝読があります。 拝聴している遺族、縁者にはこの御文章の言葉ひとつひとつが重く胸に突き刺さり 感極まって涙する姿は参列者の心をも締め付けるものがあります。 そこで以前から私には一つの疑問がありました。 法話を聴聞する為にお寺参りをした折、読経後に住職あるいは講師としてお招きした僧侶による御文章拝読がありますが この御文章は数ある章の中から日替わりで読まれている様です。 しかし なぜか私の地域では《白骨の章》にだけは巡り合う事が殆どありません。 普段のお勤めの祭には意識的に避けて、葬式の時に用いる切り札として温存している様にさえ思えるのです。 (もし、他の地域あるいは他宗派では違うのであればごめんなさい) その理由として お寺参りと言えばどちらかと言えば余生短し老人が多いので 死を意識させる話題には触れないでおこう。 そして葬式に限り《白骨の章》で締めれば無難であろうといった僧侶の方々の思惑が働いているのでしょうか? “人の死 ” というものは日常においては誰だって考えたくはないし、忌み嫌われる事はわかりますが 死 という事ほど絶対的に決まっていることはありません。 なので 子供のうちから葬式以外の日常の中で《白骨の章》を耳にするチャンスをたくさん頂くとか 御文章に綴られた深い意味に気付かせて頂く機会が多い生活を送ることは決して悪いことではないと考えるのです。 いつか必ず自分の番が回ってくる死に対しては 若くて元気な時から真剣に考えておかなければならない大切な事だと思うのです。 そうすることが 今の人生を真面目に正しく生き抜く力になるのではないでしょうか。 とは申しましても 現実問題として 住職様の立場から言えば「お寺参りの度に《白骨の御文章》を聞かされたのではたまったものじゃない!」と門徒の方から批判を受け、お困りになるかも知れませんが 私の様な考を理解して頂ける方はおられないものでしょうか? また《白骨の章》を敬遠しないで日々の暮らしの中に活かせる良い工夫があれば お聞かせ頂きたいと思います。
純粋に気になった事で大変申し訳ありません。 住職さんや寺族の方は、普段どのようなお食事をされていらっしゃるのでしょうか? やはり、一般家庭と同じようなお食事ですか? 精進料理も一般の方の間で流行っていますが、お寺のお坊さんも洋食やイタリアンなどを召し上がるのか、少し気になってしまったものでご質問させて頂きました。 もし宜しければご回答お願い致します。
以前より仏教に興味があり、いずれ出家したいと考えています。 私は現在は戸籍は男性に変更しており外見も完全に男性ですが、生まれたときは女性で、現在も下半身はそのままの状態です。 そのため、修行で共同生活をおくることに(風呂)不安を抱いています。自分は気にしないのですが、他の方に迷惑をかけたり、困惑させてしまうのではないかと、、 そこで、宗派により違うのかもしれませんが、具体的に修行中の入浴はどのようなかたちで行われるのか、 また、私のような人間が出家できるのか、教えていただけるとありがたいです。 宜しくお願い致します。
最近可愛らしい如意輪観音様の陶器の置物と出会いました。あまりに可愛らしいので、置物ですが、お水、お花、御灯明をお供えして手をあわせております。 長くお付き合いしたいと思い、開眼供養を思いたったのですが、一般的に、こういった人形のような御像でも開眼供養というものはしていただけるものでしょうか? また、近くに如意輪観音様をお祀りしているお寺様がない場合、観音様をお祀りしているお寺様にお願いすることは可能でしょうか。 よろしくお願いいたします。 (ちなみに実家のお墓のあるお寺様は浄土真宗なので、こういったご相談ができません)
実家の母(96才)が今まで一人で暮らし、朝夕お仏壇に手を合わせ、ご先祖様と父の供養をしておりました。 1月に骨折してしまい手術を受けましたが、術後高齢でもあり一人で暮らすことができなく、施設にお世話になることになり先日入所致しました。 施設にはお仏壇は持ち込めなく、家は無人になっており、長年続けてきたお参りが出来ない事をとても気にしております。 私も跡取りに嫁ぎ、宗派の違うご先祖様があり、預かる事もできません。 母は、お位牌だけ施設に持ってきてほしいと言っております。 可能でしたらこのような場合、仏壇以外の場所にご本尊様等とお位牌はどのようにしてにまつればよいのかお教えいただきたく、お願い申し上げます。できるだけ母の要望に添ってやりたく思っております。 (宗派は 臨済宗妙心寺派です)
先日、法事をおこないました。 曾祖父の代からずっとお世話になっているお寺で、先代の住職さんにはとても親切にしていただいてました。 その先代の住職さんが体調を崩されて、 2、3年ほど前に息子さんが住職になられたのですが、本当に失礼な態度で頭にきています。 無言で入ってきて、用意してあったお供え物も知らん顔だったので、祖母が 「お供え物置いてもらえますか?」 と聞くと、こちらを睨みつけて 「それ以上、入らないでください。」 と一言。結局お供え物は置いてもらえませんでした。 その後挨拶も何もなしに始まり、 小さい子供がいたのですが、子供が少し声を出す度にお経をよむのを止めてこちらを睨んでいました。それが3回ほどありました。 そして明らかに今までにはない短さで終わり、 何の挨拶もなしに部屋から出て行こうとしたので、 「あの...お焼香してもよろしいんですか?」 と聞くと 「こちらが合図したのに、そっちが拒否したんでしょ?」 と言われ、親戚一同呆気にとられていました。 合図なんてなにもなかったし、言葉も発してない。 たとえこちらが気づいてないにしても、その言い方。とてもじゃないけど、ありがたい気持ちなんて全くおきませんでした。 むしろ亡くなった祖父に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。 帰る時も一応挨拶を、と父と祖母が挨拶しに行ったのですが、 「お焼香のタイミングなんて、常識でしょ? それに最近は法事をお寺で行う人なんてめったにいませんよ。こっちが迷惑だ。」 と言われたそうです。 こんなことあっていいんでしょうか。 ただの愚痴ですいませんが、この行き場のない怒りをどうしたらいいのかわからなかったので、話を聞いていただきたくお話しました。
いつも温かくありがたいご回答の数々ありがとうございます。 心がもやもやする時はこちらによくお世話なっております。 御坊様のご回答中にお釈迦さまのたとえのお話しが出てきますが、そのお話に興味を持っております。 お釈迦様のお話を素人でもわかりやすく読めるような本などございましたら教えていただきたいです。 よろしくお願いします。 ちなみに手塚治虫先生の『ブッダ』は読みました。
勤め先の会社にはお稲荷さんがあります。 1年に一度、お坊さんが来てくださり 線香をつけて、お経?を唱えています。 お稲荷さんに、お坊さんが来ていることに すごく疑問を感じます。 調べてみると、神仏習合の関係?と出てきますが なぜなのかあまり理解ができません。 詳しく解説していただけますでしょうか。 よろしくお願いいたします。
いつもお世話になっております。 「信仰とは、その仏様を信じ、教えを実践すること。ただお寺へ 参じたりお経上げることだけではない」 これは、我が本山の布教師さんのお言葉です。 浄土宗の教えの実践、それからいわゆる行とは、 念仏を称えること。これだけ!とのこと。 そこで疑問になってくるのが、不動尊信徒の教えの実践、行とは なにか?ということです。 私には、真冬に滝や冷水ひっ被ったり、真夏に火の上裸足で 突っ走ったり、1週間も2週間も断食したり、断崖から身を 乗り出したり…なんてことは無理です。 「奴僕の行」「羂索のさとし」にならい、率先して人助けなど するようにしていますが… お知恵をお貸しいただければさいわいです。 よろしくお願いいたします。
過去「帰敬式」や「得度式」についてお尋ねしました。 が! 私、各宗派の門徒でもなく、菩提寺もなく、お経の節などもわからない「全く」の ゼロベース駄目人間です。 それでも受けることが出来ますか? どうか温かいアドバイスを宜しくお願いします。
単刀直入に、僕の考えです。 お寺、宗派も病院と一緒で自分にあう所があると思ったます。 親が○宗だから、自分もいつか同じ宗派になるというのは普通な考えなのでしょうか? 僕は自分もそうだし、子供にも自分にあう宗教、宗派、お坊さんを見つけなさいと教えるつもりです。 何が正しいとかは無いと思いますが、やはり自分にあった宗教、宗派を選びたい。 だけど、自分はご先祖様がいたので今の自分がいる。 では、やはり先祖代々引き継がれているお寺がいいのだろうかと、どれをとればいいのかわかりません。
嫁ぎ先は数年前まで家業を営んでいたので、自宅敷地内に神様を祀っています。 自宅で法事を営んだ際 お寺さんに神様にも唱えて頂いているのに不思議に思っていました。 お坊さんが神様を?と。 先日、神様を祀っている場所の土地を売却することになり 残す土地の方へ神様を移動しました。 神様を移動する前に上記のお寺さんに来ていただき、魂を抜いたそうです。 が、お寺のお坊さんに、神様の魂を抜いたり、入れたり出来るんでしょうか? 神道である神様に仏教のお坊さんがお経を唱えて、神様は気持ちが良いものなのでしょうか? 亡くなったご先祖様の魂の供養はお寺さんのお坊さんにお経を唱えて頂き 亡くなった方も残された者も癒されます。 が、商売繁盛をと祀った神様には、それにあった神道の方にお世話になるべきと思うのですが 私の考え方は間違っていますでしょうか?
ご質問させて頂きますハルソラと申します。 仏教大学に興味があります。 仏教の知識、智慧は広大無辺とはいえ4年間も何を学んでいるのでしょうか? お坊さんになられる方は皆、仏教大学に通われたのですか? お坊さんにとって仏教大学に通う事の重要性はどれほどのものなのでしょうか? 私は将来、お坊さんになるかも知れないので、お坊さまのご回答を参考にさせて頂きたいと思います。 よろしくお願い致します。
皆さんいわゆる破戒僧と呼ばれる方をどう思いますか? 突拍子もない変な質問ですみません
今の生活をしながら、僧侶に・・・なれないのはわかっています。 お金(資金)や頭脳(知識)が無く、ついそのままになってしまってますが、 剃髪した頭をして、衣を身についたまとった姿を動画サイトを見ていて想像してしまいます。 どうしたら良いでしょうか?
前にお寺の仏様のご真言が書かれていて、手を合わせ読み上げると知らないおばさんに、素人が唱えてはいけないと注意されました。 ご真言は一般の人が読み上げてはいけないのでしょうか?
お坊様を信頼できません。 というのも、祖父が亡くなった時に、葬儀会社から紹介していただいた住職の方に、法事をお願いしたのですが、1時間遅れて某走り屋漫画で有名な86のカスタムでユーロビートを爆音で流しながら来られました。 趣味でどの車に乗るかは個人の自由ですが 外から聞こえるほどの爆音で改造車で法事に来るには不向きかと思いました。 余りにも徳を感じられず、次回から自宅の近所のお寺にお願いしたのですが、入婿の住職さんで住職さんの不倫が原因で、離婚されたのでどこかへ行ってしまいました。 次にそのお寺に来られた住職さんに、引き継いでお願いしたのですが、2時間経ってもお越しになられないので電話したところ、忘れていたとの事ですが、通話もままならぬくらいのパチンコ屋の音が聞こえました。 パチンコしてて仕事に遅れたらクビですよね? 仕事で使う車に改造車って信用問題になりますよね? 高野山にお参りした時も、坊主頭でジャージを着た若者6人が車に乗っている所を見たのですが、1人はタバコをふかし1人はダッシュボードに足を乗せ...(全員、坊主頭というだけで仏門の方かはわかりませんが宿坊に入っていきました) 私にはもうお坊様が宗教という皮を被った社会人以前の俗物にしか見えなくなってしまいました。 もちろん、真面目に徳を積まれている方もいらっしゃるでしょうが 私が10年間でお会いした方々はこんな感じでした。こうも連続で不快な印象を受けると信用出来ません。 最近では坊主憎けりゃ袈裟まで憎い状態でして お坊様に嫌悪感すら抱きます。 私の祖父母の菩提は弔われたのでしょうか? お経とは行って唱えればいいだけのものでしょうか? それでもお坊様は敬うべき存在でしょうか? 私が死んだらただ火葬して頂くだけで お経も戒名もいりません。 そこにお金を払うなら残された人に美味しいものでも食べてほしいと思います。