こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
という、宮沢賢治の童話があります。 署長さんが赴任した町には、禁じられた漁法があります。その一つが毒もみで、自然由来の材料で作った有毒な薬を川に浸すなどして、浮いてきた魚を獲る方法です。署長さんは町の人たちを取り締まり、いかにも職務を全うしているかのように装いますが、ある日、こっそり毒の材料を取引しているところを町の子供に見られてしまいます。町の大人たちは真偽を確かめようと、署長さんに詰め寄ります。署長さんは憤慨し、名誉にかけて犯人を捕まえると約束。しかし、皆が当てはあるのかと問うと、ちゃんと証拠はあると言い、町長さんの前にずいと顔を突き出して、こう告げます。 「実は、毒もみは私ですがね」 かくして、署長さんはお縄頂戴となり、死刑が確定。そして、いよいよ死刑執行のその時、彼は笑ってこう言いました。 「ああ、面白かった!俺、毒もみだーい好き!今度は地獄でやろっかな」 皆はすっかり感服しましたとさ。おしまい。 という話なんですが、人は誰しも「分かっちゃいるけど、やめられねえ~アホレ~スイスイスイ~♪」ってことが、よくありますよね。その理由は自己を客観的に見れない切なさに起因していると思いますが、例え、見れても根源的な欲求が満たされない限りは苦しむ。 その根源的な欲求とは「生きる意味」ではないか。そこがそもそも欠落しているから変なことをし、そして、これをどう捉えるかで人生が変わる。後付けでその理由を作った人、にっちもさっちもいかずに道元禅師を尋ねた人、何かに夢中になることで考える暇をなくした人。色々、居ます。どれを選ぼうが本人の自由で、また、それ故に人を愛し、人を傷つけ、妬み憎んで七転八倒。それを糧にして物を作ったり、歌ったり、ままならぬ人生の詩を詠んで何とか生き抜き、それが今度は他者を慰める糧となる。 大事なのは、覚悟を持って挑めるかどうか。誰が何と言おうが、坊さんに叱られようが「ああ、面白かった!次は地獄で!」と腹くくって言えるなら、それでいいじゃないの。 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」と言いますが、我々は圧倒的に愚者。経験に学ぶしかない。大事なことはスムーズには進まないし、簡単には伝わらない。だから、お坊さん怒らないで。皆、助言には感謝しているけれども、対等な姿勢を示さないと逆効果だと私は思うのです。 ※言葉足らずだったら後で補足します。
つい先程、ペットの金魚が亡くなりました。今日のお祭りで金魚すくいで出逢った子で、 本当に可愛い金魚でした。雑種でオレンジに黒のまだら模様で片方の顔が黒くて眼帯をはめてるような見たことのない金魚でした。 琉金の特徴が一番強く、少し丸くて三尾の可愛い金魚。一週間看病しましたがお昼前に亡くなってしまいました。 昨日まで、元気だったのに。絶対に病気を治すと決めたのに。最初は片方のヒレが動くなり、別のバケツに移し、塩浴させてました。ヒレが白いのと尻尾が切れているのに気がつき、薬を飼いましたが改善しませんでした。結局、水カビ病と尾ぐされ病という病気でした。薬浴中に無くなってしまうことは、あるそうです。早く治してあげたくて、病気の治りが悪いから、私は今回、薬の種類を切り替えでしまいました。小さな金魚にとって薬を切り替えることは死ぬリスクも伴うことは知っていましたが、最初の薬でなかなか治らないのと早く治してあげたくて、薬で治療しているのに後から後から、病気が出てくるので、やもうえず薬を変えました。まさか死ぬなんて。昨日まで元気でした。今日のお昼前に電池が切れるみたいに、ブルッと動いて無くなってしまいました。まさか、死ぬなんて。最初はヒレが動かないだけだったのに。すぐに塩浴したのに。いつもこれで元気になるのに何でって思いました。たったの7ヶ月でしたけど、友達でした。植木の根元に埋めてお線香を上げました。いつまでも泣いてちゃ浮かばれないですよね。ありがとう!って言わないとダメですよね?本当にかわいくて支えで、私がボロボロだったとき、支えになってくれました。ありがとう!っていったあとどうしても、涙が溢れてくるのですが。。。
人間以外の生き物(特に虫など)の命も大切にする考えを教えてください。 私は虫が目につくと大抵すぐ殺してしまいます。今まではそれで何とも思わなかったけど、ハスノハでちょこちょこ過去の相談を参考に勉強させてもらううちに害虫駆除にも気が咎める人もいて、自分の感覚を考え直そうと思いました。 でも、かわいそうだと思う気持ちがわからないっていうか….人間以外の虫とか小さな生き物の命も大切に思う気持ちがわからないんです。動物をいじめたりはしないし犬とかは好きだけど、それでも人間と同じには思えない感じです。 昔お坊様は肉を召し上がらなかったと聞いたことがあるので、基本的に生き物を殺さない考えがあるんだと思います。どうやったらそう考えられるのか教えてください。 精進料理について思い出したこと(こっちの質問はメインでないので気にしないでください) 私の親戚が仏教系の中学校に通っていた頃、修学旅行で自分達はまずい精進料理(失礼)を食べたのにお坊さん達はカツカレーを食べていたとぶうぶう言っていました。責める気がしなくて笑ってしまったけど、本当のとこ今は肉料理大丈夫なのかなってちょっとだけ知りたくなりました。
こんにちは! 悩みでも何でもなくどうでもいい質問ですが、どうぞよろしくお願いします。 妄想ですが、お釈迦様が説法をしていた時にそこにいた誰かがすかしっ屁をし、あまりにも臭かったとします。そのときお釈迦様は、その臭いを観察するだけで無反応だと思いますか? また答えてくださったお坊さんは、どんな反応をなさいますか? 僕は家族がクッサイ屁をすると、キレそうになりながら違う部屋に行きます。なるべく怒りを生み出さないように心掛けていますが、まだまだですね...。
こんにちは(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) もうすぐゴールデンウィークですね 疲れが溜まってるので お休みが楽しみです。 私くしは、生きている間に戒名を頂きたいなと思って るんですが 理由は、、、亡くなってつけられて 自分の名前 わかるものか?と思ったり 自分の戒名 に納得してなくなりたいなって 思って ましたが、戒名って頂くのに 結構高いので どうしようかなと思ってます。 私くしは僧名を頂いてるんですが 戒名と僧名って 全然違うものなんですか? 無知ですいません。教えていただけたら嬉しいです。 (^人^)
こんばんは。お暇な時に答えてくださると嬉しいです。私のは切迫した悩み事の相談ではなくて、自分が知りたいなと思った事の質問なんです。 仏教の基本的な考えを理解するのに、宗派が違うと考え方も大きく変わってきますか? 私は子供の頃から家に聖書物語の絵本があって親しんだり教会でお話を聴いたりして、小さな頃から仏教以外の宗教の影響を受けてきました。最近初めて仏教の考え方を少し知って、これまでの自分の考え方と根本的に異なる感じで難しいと思ったけれど、もう少し知りたいんです。でも同じ仏教でも宗派が複数あるのですね。基本の考えがそれぞれ違ってくるともっと難しくなってしまうと思って、気になったんです。お坊様からみたことを教えてください。 追伸 亡くなってお葬式とか色々やるまで知らなかったのだけど、私の父は曹洞宗でした。
おはようございます。先日、父の仏壇の部屋と居間での供養について教えていただいた者です。あれから、亡くなった人が成仏することについて考えれば考えるほどわからなくなってしまいました。お暇な時に教えてくださると助かります。 私は今まで、亡くなった父は天国に行ったと思っていました。時々仏壇やお墓のような祈りの場に降りて来るのかな....とも思っていました。 ハスノハに入ったのがきっかけで、成仏という字の意味を考えてそれは仏に成ることだと考えるようになりました。そうか、父は仏さまになるんだ....と思ったけれど、いざ祈ると自分の心の中に生前の人柄のままの父がいて仏さまになった父は想像がつかなくて、今まで仏壇の前で「ねえお父さん」と普通に呼んでいました。もしかしてとても失礼なことをしていたかもしれないですが、仏壇には仏像の絵があり、神様が祀られているんだろうと思いながらもよくわからなくて父にだけお祈りしていました。 本当は、深く考えないで父が安らかでいてくれれば仏でも何でもなっていていいのですが(不謹慎だったらごめんなさい)、亡くなった人の成仏とはどういうことか考え始めたからには知りたいです。でも私にとってはとても難しい部分なので、仏教初心者向けに教えてください。お願いします。
僕は将来、曹洞宗の僧侶になりたいです。しかし、ネットで調べると曹洞宗では、得度というのは父母の恩などを断つもの、と書いてありました。曹洞宗の僧侶にはなりたいですが、恩などは断ちたくありません。どうすればいいですか?
僕は将来僧侶になります。なりたいと思った理由は、女性僧侶に憧れたからです。なので、自分もと思いました。なので、無理だとは思いますが、ラインでもカカオでもいいので、女性僧侶や尼僧の方と仲良くなって見たいです。僕の町には女性僧侶の方はいません。なるべく女性僧侶の方、回答お願いします
私は、神仏の存在が信じられません。 遺伝性の疾患も抱えており、仕事をすることもままならず、結婚・出産と言ったこともすっかり諦めています。 人生のターニングポイントでの決断はことごとく失敗。 ついてないとしか考えられません。 ですので、人生に対して幸せや感謝と言った感情も抱くことができません。 先祖に対しても、素直に受け入れることができないばかりか、ある種の憎しみに近い感情を抱いてしまっています。 親子の仲も良好とは言えない状況です。 本当に神仏が存在しているのであれば、もっと他人と平等な生活を送れるようにしてくれても良いのではないかと思ってしまい、 どうしても受け入れることができません。 他人からは、神仏を信じない、先祖を大切にしないから、不運が続くのだと言われます。 どのように神仏と向き合うべきなのでしょうか。 ご教授いただけましたら、幸いです。 よろしくお願いいたします。
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。
こんにちは。 これは自分とその周囲だけでなく、世の中全体についての質問です。 私はたくさんの善い人を見てきました。暑い(寒い)中で道のゴミを拾い、掃除しながらも笑顔で挨拶を返してくれる方。突然の雨で服屋の店先で雨宿りをしていた時に傘を貸そうとしてくれた服屋の店員の方。外出先でトラブルにあったときカタコトの日本語で懸命に助けてくれて笑顔で手を振って去っていった外国人の方。彼らには思い出すたびに心から感謝できます。どのような縁かは分かりませんが彼らのような善人に度々会ってきました。 一方で、他人を平気で騙し、脅し、傷つけ、奪い、それでいて自身が傷つけば善良な被害者のようにふるまう人間が多くなっているように思えます。思い込みであるかもしれませんが、善い人よりもこのような悪人(と思える人)が金を得、地位を得ているように感じます。例えば、詐欺師は人を騙して金を得、のうのうと暮らしています。横暴な人は気の弱い人を力で脅して無理やり従わせようとします。自身の我が侭を言いたいだけ言って周囲の人のことを考えない人といます。あげく、騙されるのが弱いのが文句を言われる方が悪いとまで言われることもあります。 仏様はいつも黙して見ていらっしゃるように思えますが、私は善い人よりも悪人が得をするようなことが納得できません。これは善人の試練とでもいうのでしょうか…。仏様やお坊さまはどのように考えますか?日々どのような視点で人を見ていらっしゃるのですか?
お坊様の修行と言えば滝に打たれて合掌し瞑想しているイメージですが その時は宇宙と心を一つにしているんでしょうか?
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
毎朝、自宅の神棚に手を合わせ、インドネシアのガムランボールでお払いをし、キリストキリスト教会で聖書を学び、仏教も学ぼうとしている、多神教のような中途半端なのですが、神様に頼るから手を合わせるのですが、神様はいるのだろうか、全員の祈りが聞き届けられたら、矛盾が生じるとも考えてしまうことがあります。 仏教から見たキリスト教の率直な考えをお聞かせください。
いつもお世話になっております。 自分は業というものについては、何か元々持って生まれてきた運命とか前世の行いからとか漠然と考えておりました。 最近は仏教に関しまして少しずつ知識を深めている中、少し違うのかなと思い始めました。 業というものは、自分のしてきた罪深い行いが苦しみとなり、気付けば体に芯のように刺さり背負っているのかな、と思いました。 ここ数年、一年一年、毎日毎日、それが深くなっていっています。 過去には戻れない。 したことは変えることができない。 業というものはこの先も永遠に抱えていくものなのでしょうか。 業については、このような解釈でよろしいのでしょうか。 お教えいただければ幸いです、 どうぞよろしくお願いいたします。
お世話になります。 社会人大学院生として、仏教とターミナルケアについて学んでおり、臨床宗教師・ビハーラ僧の活動に惹かれ得度したいと考えております。 終末期における死の恐怖に対して宗教は有効だというのがその理由です。 そのために所属寺を探しておりますが、このような理由で得度したいがために寺を所属する旨は許されるものでしょうか? お寺様に対して非礼であったり、何か問題がありましたらご指摘下さいませ。 なおビハーラ活動で生計を立てるつもりはございません。 (高齢化社会において、そうした体制作りは必要と感じてはおりますが) また、そのような特殊な活動は、僧侶としての基本を身につけた上であることも承知しております。 どたうぞよろしくお願い致します。
諸師家様方お疲れ様です。 さて、未だに安居も法戦もままなりませんが、愚禿はこの度漸く伝法(嗣法)、瑞世までの道程を考えて歩ける程度に法灯を賜りました。 そこでこの度安居に入る前に、一つ諸師家様方に「本師としての嗣法のリスク」をお伺いしたくございます。 と言いますのも、可能であらばどうしても嗣法をお願いしたい師がおり、僧堂に往く前にダメ元でも、送安後に、嗣法して欲しいと頼みたいのです。 ですが、背景として「結制していなければならない」だとか「多額に負担がある」だとか「住職後任として世話しなければならない・檀家に公表せねばならない」だとか易々とは行かぬこともあるのではと思ってしまうのです。 私はその師の寺の副住職になって養子になりたいだとかそんな気持ちは無いのです。只、その師を本師と仰げれば何よりであると思う迄であります。 もちろん、嗣法頂ければ、次代の方丈(例えば血縁の婿)が来た際、粉骨砕身して作務を檀務を支えるつもりであります。 そんな気持ちで嗣法賜ることを願い出てもよろしいのか、師家様方にお伺い致します。 どうぞ宜しゅう。合掌九拝。