私は、昨日まで、法華宗のお寺や霊苑で、働かせて頂きました。そこの、ご住職様が、風俗で、遊びまくり、パソコンでお金儲けばかり、している現実を知りました。僧侶は、皆様、色欲、金欲とは、縁が切れないのでしょうか?
『私は「おじいちゃん」!?』で、下関の「おじいちゃん」の話をしたので、今度は「おばあちゃん」の話をしたいと思います。 只今、92歳のおばあちゃん。 『おばあちゃんたるもの』孫(私)の前では絶対人の悪口はいわない。 『おばあちゃんの自慢』まだ自分でトイレに行けること。 『おばあちゃんの口癖』①病院に行くと、いつも医療費が数百円なので、受付で「全国の皆さんのお陰です!」と言って帰ること。②「成るようにしか成らないんじゃけん、文句ば~っかり言っててもしゃぁないけん、笑っていようやぁね~」と前向きなことを言うこと。③食べることが好きで「旨いもんがくえりゃあいい」ばかり言うこと。④ほとんど眠っているので、起きてきたら「アハハ、トラスちゃんかね、まだ生きちょるよ!カツカツ生きちょる!また死なれんじゃった!」と笑い飛ばすこと。⑤夏でも「何でじゃろかぁ?冬はねぇ、足が冷えるんよぅ!」とすごく真剣に、真顔で言うこと。 『おばあちゃんの意地』娘(母)の話をするとき、普段「◯◯ちゃんは…」と呼んでいるのに、孫(私)の前で娘の話をするとき、絶対「(あんたの)お母さんは…」と言うこと。そして、自分のことを普段「お母さんは…」と言っているのに、孫(私)の前では「ばあちゃんは…」と言うこと。 おばあちゃんはスゴい!私が誕生日プレゼントを渡した時もそう。おばあちゃんの目が見難くなり、よくコップをひっくり返すからと、下へ行くほど幅が広くなるマグカップをあげたら、箱を開けた瞬間、「ぅわ~!末広がりじゃ~!」と満面の笑み!極めつけの言葉は「お骨(骨壺)に持ってはいろ~!」と言って喜んでくれたのです。 そんな素敵なおばあちゃんですが、私が物心ついた頃から、それこそず~っと言われ言い続けている言葉があります。それが、タイトルの『私の日課は謎の言葉』です。おばあちゃんの家に行くと、まず最初に言われます。意味でなく、発音が呪文みたいで、何と言ってるのか分かりません。 では、まいります…『ほれ「マンマンチャー」してきぃ!』。 「マンマンチャー」なのか「マンマンチャン」なのか「マンマンチャ」なのか。そもそも、手をあわせてご先祖様に心から感謝やお祈り等々をしておいで!というようなことを、何故「マンマンチャー」?と言うのか、本当のところ分かっていません。一体、何と言っているのでしょうか?
最近 御寺の所属団体に入講しました。 御寺の信徒の 地区担当の方が 他宗や 御寺に義理を欠き 不敬をしたという謗法の罰ばかりを説き、御供養の素晴らしさを 説いてくださいますが 正直 御供養=御布施 に 疑問が でてきました。 法施をしていただき 御布施をさせていただくのは わかるのですが 罰を御供養させていただくことで 消えるとは 思えません。 御寺は お金はかかりません とか 御供養はお気持ちです とか 御供養は 真心からしましょう とか 言われてます。 罰ばかりを 説き 人の不幸を 現象だと 説き 御供養を勧めるのが 仏教で 日蓮聖人の教えなのですか?
はじめまして。 どうぞよろしくお願い致します。 わたしの守り本尊さまは阿弥陀如来さまです。 当家のご本尊さまは釈迦如来さまです。 他にも、好きな仏様(如来・菩薩・明王・天部にそれぞれ)が沢山います。 わたしは煩悩の塊なので、祈りの数だけの数の仏様に毎日お祈りしています。 阿弥陀さまお釈迦さま含め、20の仏様に毎日ご挨拶とお祈りをしています。 先日、お友達と話をしていて、 『ひとりの仏様に決めてお祈りするべき、何人もなんて良くない』 と言われました。 わたしは良くないことをしていたのでしょうか・・・ その場合、いったいどうやって謝れば良いのでしょうか・・・ 周りに聞いても、 『観光で行った寺社では祈る・何て言う神様仏様かは気にしたことはない』とか、 『仏壇かお墓またはお葬式以外では手を合わせることがないから・・・』等の 意見が多くて、判断できません・・・ ご教示頂けましたら有り難く存じます。
自分の苦悩を見つめてみると、大概、煩悩や愛情飢餓といったところに辿り着く気がしてます。 もう、いっそのこと、それらに強くなるために、自分も僧侶になりたいと思うようになりました。 ただし、お金もなければ、修行などは出来ない精神病状です。せいぜい勉強くらいしか出来ません。また、就労はしたいと思っています。 こんな自分でも、僧侶になる方法はありますか?ありましたら教えて下さい。自分でも少し調べはしましたが良くわかりませんでした。
在家得度と出家得度の違いを教えて下さい。
こんにちは。見ていただきありがとうございます。 色々ここで質問させて頂きましたが、私は人に助けを求めるのが苦手なのかなと思うに至りました。 思えば、自分の不安な心などは決して出さないようにしていました。 なので、ここでその練習をさせて欲しいです。 ただの勘違いのような不安や、完全な自己責任のような質問をするとかもしれませんが、大丈夫ですか?
いつもお世話になっております。 先般、般若理趣経について質問し、その後 色々リサーチしました。 「欲を捨てられないのは生き物として 当たり前。ならばいっそ、その小さな 我欲を大きな一切衆生へ向けた大きな欲 へと昇華せよ」との教えについて、 少々気になった点があります。 いわゆる、「ぐ犯者」「犯罪者」。 または言っても聞く耳を持とうとしない、 「縁なき衆生」にも根気よく優しく接しろ ということですか? 実際、 「それやめた方がいいですよ?」 と優しく注意したところ逆ギレされて 公開処刑に遭ったこと、 謂れのない、かつ意味不明な悪意を 向けられたこともあります。……お寺で。 日常でも実際に騙されたり害を加えられた ことも何度もあります。 このように、 相手が「縁なき衆生は度し難し」のまさに それだった状況に何度も遭遇している 私としては、かなり危険かつ困難な事だと 思います。 ご意見賜りたく存じます。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。初めてご質問させていただきます。 いつも皆様の問いに優しく、時には厳しくご回答されているのを拝見し、自分の身に置き換えてお考えを吸収させていただいています。いつも貴重なお言葉ありがとうございます。 さてご質問の方なのですが、道に咲いているよく目にする花や、お花屋さんに置かれている珍しい花など色々ありますが、先生方はどのような花がお好きでしょうか?理由なども添えてお聞かせいただけたら嬉しいです。 ちなみに私はと言いますと、梅雨の時期、雨の中に咲くアガパンサスの少し紫がかった青い色、繊細な形や、秋始めに漂う甘い金木犀の香りが大好きです。 空いた時間、気分転換にでもご回答いただけましたら嬉しいです。色々なお応えをいただけますのを楽しみにしています。
僕は曹洞宗の僧侶に将来なります。質問です。曹洞宗の得度式の手順を教えて下さい。後、得度式で頭を剃るんですか?それとも自分で事前に剃るんですか?福島の寺で得度し、永平寺に修行に行きます。何ミリにするんですか?
いつもお世話になっております。 インターネット等で仏教に関する情報を収集していると、 「理趣経は民間人が読んじゃダメ」 「絶対的門外不出」 「理趣経加行を受けてから」 といった趣旨の記述が目立ちます。 「17清浄句が極めて誤解を生じやすい表現であるため」 とのことでした。 * ですが、私の祈願寺では護摩修行の際に読誦、 また護摩用に貸し出し、販売されている経典に、 勧請部、序章、初段、百字偈、17段(金剛手若有聞此〜)、 流通部の順に載っています。 そして信徒に向け、一緒に他の経典と並び修行中に読むことを 奨励しています。 * 私これを含めお経を読むにあたって漢文をかじり、 ほんの少しですが読み下すことができます。 たしかに、非常に「強烈」な意味でした。 これは誤解して魔境に陥る人も出るわけだと思いました。 ですが、あのお釈迦様や大日如来様がそのような軽率な 発言をするはずがありません。 * 長年の引っ掛かりです。ご意見お待ちしております。
こんにちは。ご覧いただきありがとうございます。 ここのサイトで仏教を知り、諸行無常、諸法無我や、執着しないことなどを知り、これは素晴らしいものだと感動しました。 実際にこの思想で生活すると、毎日が濃い1日となっているように感じられ、とても嬉しいです。 ですが、本当に苦しい時に、これらの教えが思い出せなかったり、気づかないうちに執着してしまったりするのがとても不安です。 仏教の心を忘れないために、何か私にもできることがあれば教えてください。
こんばんは。 同じような質問を他でも見かけるのですが、改めて質問させてください。話をまとめるのが苦手ですので長くなりますがご容赦ください。 一週間ほど前に出会った海外の僧侶の方に、 「なぜ、日本の僧侶は結婚するのか」 という質問をされました。 私の生半可な知識では到底答えられなかったのでhasunohaで見かけた意見などを紹介してみたのですが、いまいち質問の意図にそぐわない気がしました。 彼が訊ねていたのは妻帯を許されるようになった歴史とか、結婚したらしたなりの別の修行があるから、というようなことではなく、なんと言えばいいのか…もっと根本的なことのように思います。(と、いっても私の拙い英会話力での印象ですが) 会話の中では"不必要な結婚"(わざわざ戒律を破る不可解な行為)とも表現していました。 彼はインドで修行を開始し、その後"世捨て人"(なんと訳せば良いのかわかりませんが、英語ではrenunciantと呼んでいました。彼は家も(自認する)国籍も持たず、各地を放浪しながら乞食修行を行なっているようです)になったようです。不学なので詳しくはわからないのですが、インドでの仏教のあり方に最も共感しているようです。それ故、日本でのこの特殊な仏教のあり方に心底疑問を抱くようで、お寺が世襲制であることにも違和感を感じているようです。また、人によってそれぞれ適した修行方法があるし、だからこそ妻帯者には妻帯者なりの仏道修行があるのは認めた上で、それでも、最終的には乞食修行に行き着くのではないか、とも語っていました。 日本という国や仏教に関心を寄せる身として、「今後空海のような人が日本から出てくることはないだろう」とか、「日本のお坊さんは会社員と同じ(誰でも望めばなることができるし、ビジネスとしてやっている)」などと言われてしまうとなんだか悲しくなってしまいしたし、うまく答えられないことがとても悔しく感じました…。勿論、彼に日本を貶めようとかいう気が全くないことは重々承知の上ですが…。 長くなりましたが、hasunohaに集うお坊さま方は彼の質問"日本の僧侶はなぜ妻帯するのか"にどのようにお答えになりますか?是非皆様の智慧をお貸しください。 彼はまだしばらく近くに滞在しているので、会う機会があれば伝えたいと思います。 どうぞよろしくお願いします。
こんにちは。今3冊の仏教本を少しずつ読んでいて、今日は「ブッダ いのちの言葉(永岡書店)」の和顔愛語についてお訊きしたいと思います。災害のため今は特に深刻な相談が増えていると思うので、その後でお暇な時にお手すきの先生が教えてくださるとありがたいです。 愛語は慈悲を種子とする愛の心から起こるということですが、その逆 - 最初に慈悲の種子がなくても笑顔(和顔)と優しい言葉(愛語)で人に接していればいつかは愛の心が生まれる - はあるでしょうか。 和顔愛語の実践で心が行動に近づいていくかもしれないと思って、実践しています。優しい言葉を使うので表向きは環境が和やかになるのですが、実際に愛の心があるかというと、だめです....いまだに何も感じられません。 それでも優しくふるまって周りとうまくいってそれでよしならいいのだけど、実は、最近適性検査というテストを受けてある部分に極端に悪い結果が出てしまいました。内面がちゃんとわかってしまう場ではごまかしは効かなくて、愛の心(思いやり?)は学んで身に着けるものではないのかもしれません。私はないものを生まれさせようとしているのかな、と限界を感じます。
世の中には、たくさんの素晴らしい宗教と、たくさんの素晴らしい神様・仏様がいらっしゃるのに、何故、(宗教対立も含め)戦争はなくならないでしょうか?繰り返されるのでしょうか?これは私の、幼い頃からの疑問であり、永遠のテーマの1つです。是非とも、いろんなお考えをお聞かせ下さい。
『弟が突然死してしまい、未だに信じられない。 弟を思うととめどなく涙があふれてしまう。 悲しみは日を追うごとに深くなってるような気がする』 先日、このような質問をさせていただきました。 その後、とあるお坊さんから回答をいただきました。 お坊さんは『悲しみがこみ上げてきた時には仏様や弟さんにその思いをお伝えなさって下さい』と仰ってました。 仏様? 仏様ってどなた? 仏様に手を合わせたいのですが、仏様はどこにいらっしゃるのでしょうか? 仏様の意味がよくわかりません。 お忙しいところ申し訳ないのですが、よろしくお願い致します。
因果応報、という言葉についてお教え下さい。 この言葉は罪を犯した人に対して使われる事が一般的かと思いますし、実際罪を犯した人に報いが来る(バチが当たる)ものだと思っているのですが、報いを受ける人、又は受けない人がいるのは何故なのでしょうか? 例え罪を犯した人でも、その罪を深く悔い改めるなど自分自身に正直に向き合えばバチは当たらなくなる(因果応報という言葉から外れる)のでしょうか? まとまりない文章で申し訳ありません。 よろしくお願い致します。
最近は、四国地方に南海トラフ巨大地震がいつ起きてもおかしくないという状況だそうです。 そこで、私達一般人は南海トラフ巨大地震がとても怖い思いをして生活しています。 私もトラフ巨大地震が怖いですが、お寺のお坊さんは地震に対しての恐怖心はあるのでしょうか?
ビハーラ活動というものを最近知りました。興味津々で、好奇心から勉強中ですが、もっと簡潔に、「一言で言うと!」という風に、どなたかプロの方に言い表していただけると有り難く思います。納得する一言をお願い致します。
浄土真宗の法話を伺いに行こうと思っております。そこで、色々調べさせていただきますと、いくつかのお寺で何人ものお坊さんが法話をされているようです。 私は、お坊さんは一つのお寺にずっといらっしゃり、あるお寺ではそのお寺のお坊さん(ご住職)が法話をするものだと思っていました。 有難いことに、ところによっては音声の法話をアップロードしてくれていました。しかし、いざそのお坊さんのお話しを伺いたいと思っても、もうそのお寺では伺えないのです…。 できれば、法話などでご縁のあったお坊さんとお話しさせていただき、信心を深めさせていただければとも思うのですが、こういうことは難しいのでしょうか?