今日 母が、お寺の朝のお勤めから帰宅して、 いきなり 僕に 崖っぷちに立たされて、お寺にお参りしなければ 全身が痛くなり助からないと 御慈悲で言われたよ…と 僕は、これを聴くたび またかと心の中で思って 言ってくる僧侶は、いつも同じで、 以前は日参してください… お寺に毎月 夜警してくださいと 全てこなして来ました 確かにお寺に、足を運ばない僕も悪いと思いますが… 最近は、僧侶さんを見るたび嫌な気持ちになるし 広島のお寺にお参りしたときは、晴々した気分になれたし それを今日聞いてたから、またウツ気味になりますし 母も、僕の顔見るたび 拝んだのとしつこく言ってくるし なんか全てが行き詰まって苦しい…感じです
精神的苦痛から、婚約していた僧侶と別れ、今も行き場の無い憤りに苦しんでいます。 深い傷に苦しんでいた私を救ってくれたのが出会いのきっかけです。出会った頃の彼は本当に優しく、仏様のような人だと思いました。在家の私は寺へ嫁ぐ不安もありましたが、そんな彼だからこそ迷いもなく、親も説得して決心を固めました。 その後、彼はまるで別人のように変わりました。変わったのではなく「ただ本質が露わになっただけ」と、彼自身言っていました。 プロポーズ時に彼が綴った誓いの言葉の数々は即放棄され、弱音も愚痴も全て求める雛形どおり受け止め労うことを強要し、強烈な人格否定されたり、過去を執拗に責め続けられたり、結婚という大きな決断も、二度も無かったことにされたり…。とにかく「俺のものさし」に合わせろと、私に変化を求め続けました。 でも彼にとっては、傷つけられて辛いのは自分、間違っているのも悪いのも常に私です。彼のものさしで見ることの出来ない私が、傲慢で狭量な人間。別れた後も「私に傷つけられた」と周囲に話していると知りました。 常に阿弥陀様を背にしていると言いながら、目の前の彼は自己愛と正当性の塊でした。 ですが僧侶の彼は僧侶的で、様々な活動をしているためメディアに出ることも多く、世間的評判も高く、人々から称賛されます。皆、彼の纏う誠実そうな雰囲気と容姿に、人格者に違いないと思うそうです。今も彼は何事も無かったかのように僧侶をして…。私が精神的な病と戦っていることは何も知りません。 一度は苦しみから救われたはずの信頼していた人に深く傷つけられ、もう何を信じればよいのかわかりません。これまで、毎日苦悩し、自分自身と向き合い、ありのままの彼を受け止め、彼の求める阿弥陀様のような人間に近づけるよう、私なりに必死で努力をしてきました。深い愛情があったから。彼には全く満たされなかったとしても。見えない努力も愛情も何一つ意味をなさなかったことが、ただ虚しくてやるせない。 今は、彼へのご恩や感謝の念が憎しみに変わってしまうことが怖いです。 僧侶も人間だというのは理解できますが、僧侶の時と本質に大きな乖離があっても、何の呵責も無いのでしょうか? 僧侶って何なのですか? 人を深く傷つけても、阿弥陀様はなんでも許してくれるのでしょうか?… 同じ僧侶の方はどう感じられるのかをお聞きしたいです。
仏教では親よりも先に死ぬと地獄へ行き、賽の河原で永遠に石をつまされると聞きました。 もし自衛官や消防士などの危険な職の人が任務中、多くの人を救うために親よりも先に死んでしまった場合もそうなってしまうのでしょうか?
今年は色々あって「自業自得」を身を以て体験し、胸が苦しくなる日々を送っていました それで、ネットでたくさんの情報を得て却って混乱し、苦しみを増幅させた感じです そんな中でこちらに出会い、いくつか相談させて頂き少しずつ心が軽くなっていくのを感じており、大変感謝しております それでも気持ちは常に揺らぎ、ネガティブ側に引っ張られ暗い気分に陥り、ネット内の心理カウンセラーやスピリチュアル系サイト発信者に頼りたくなってしまいます 考え過ぎなのだと思うのですが、今までに見てきた情報の殆どは「潜在意識を書き換えれば世界が変わり幸せになれますよ」という内容なので、「潜在意識を変えなければ!」という焦りが生じてしまいます 頭のどこかで「早くその方法を教えてもらい気持ちを楽にしたい」という思いがあり、飲み込まれそうになります その一方で、それらは【商売】なのだ!、という信じ切れない気持ちもあり、踏み留まっています hasunohaを知り、お坊様からのご助言やお優しいお言葉を頂くとホッとする気持ちになりましたので、仏教を学ぶことが「心の平穏」を得ることになるのではないか、と思うようになりました そこで、表題のサイトを見付けて少し読んでいますが、本当は実際にお坊様から仏教の真髄を分かり易く教えて頂き、「安心」を得たいと思っております 当家や実家に来て頂いているお坊様からは、教えて頂きたいお話しは聞けそうにありません 実家の宗派は「浄土真宗」で、主人側は「真言宗」です 仏教の根源は同じで、それを親鸞聖人や弘法大師方々のご解釈(?)によって宗派が分かれたのですか? また、浄土真宗の【南無阿弥陀仏】というお念仏は、いつでも何処でも唱えて良いのでしょうか? 上記サイトでは、「【南無阿弥陀仏】とは、無明の闇を晴らしてくださったときの御礼の念仏」とありました むやみに唱えるものではない、ということですか? お聞きしたいことが色々あって記載内容が支離滅裂ですが、要は「仏教で救われたい、平穏の心で過ごしたい、それにはどうすれば良いか」、という事をお聞きしたいのです その為には、仏教を学ばなければいけないと思うのですが、どのように学べば良いのでしょうか? 標題のサイトにも「無料メール講座」があります こういう形でも学べますか? 仏教なので、今までのように混乱に陥ることはないでしょうか?
お坊さまがたは 輪廻転生信じていますか? ちなみに私は信じてません。
先日質問をさせてもらい、丁寧なアドバイスありがとうございます。 さて、質問なんですが、私は以前から知人から、般若心経を唱えると私はもちろん、私の周りの方、家族などにもよい影響を与えると言われたので、毎日寝る前などに唱えてます。 宗派は関係なく、唱えてOKと言われました。 般若心経を唱える効果をお聞きしたく質問させてもらいました。
私はお寺の長男です。 昔から寺の跡継ぎになって欲しいと言われて生きてきました。 しかし跡を継ぎたくなく、そのことに悩み高校に不登校になったりしました。 大学も、親からの頼みで仏教に関係のある場所に入りましたが、気が進まず一度も行っていません。 . 田舎の小さなお寺で檀家も少なく家も老朽化が進みボロボロです。 お寺としての収入は少なく、金銭面で困ることや、それについての悩みが後を絶えません。 . 昔は良いお寺だったのかもしれませんが、正直に言って父も尊敬出来るような人間ではなく、逆に嫌悪感さえ感じています。 ですが、育ててくれたことへの感謝はあり、無下にも出来ず、跡を継ぐのが嫌だと伝えたりもしましたが、納得してもらえず、はぐらかされたり適当なことを言われたりもしました。 . 言うなれば私は神を信じていません。 自殺を考えたこともありましたが勇気もなく母を悲しませたくなくて行動には移せませんでした。 . 住職を辞めることも考えましたが、ボロい寺の住職になりたいと思う人はいないでしょうし、金銭的にも新しい住居を探すことは難しいでしょうし、考えれば考えるほど問題が浮き彫りになっていきます。 . 出来るかはわかりませんが 私はお寺を取り潰したいと思ってます。 もし自分に子供が出来た時、その子にこの重荷を背負って欲しくないのです。 そして、私もこの責任から逃げだしたいと考えています。 . 長くなりましたが、お寺を取り潰す方法や、それに関する知恵を授けて頂きたいと考えております。 正直、檀家やお墓のことなどは全然わかりません。 どうかよろしくお願い致します。
こんばんは。最近仏教の勉強を始めて、初めての仏教本を読んでいます。お暇な時に、よかったら教えてください。 ハスノハのお坊様のお話から学ばせていただくうちに仏教は実践重視なのだと何となくわかってきましたが、それでも苦しい時お釈迦様や観音様にお祈りすることもあるだろうと曖昧に考えていました。それが、仏教は神のない宗教と本に書かれていて、私動揺しています。 どうにもならないこともあるけれど、私は何があってもいつも神を拠り所としてきました。その神がいないとどうしても不安になってしまいます。仏教ではブッダの教えを実践して苦しみを減らすから、神に救いを求める考えがもともとないということなのでしょうか。でも、人間は完璧ではないと思うし…苦しい時、お坊様はどうされていますか?
菩提寺が浄土宗です。 菩提寺では南無阿弥陀仏を唱えますが、日蓮宗のお寺などを御参拝の時はどちらを唱えればよいのでしょうか。
うつ病を患って、22年になります。 その間、離婚、両親の死、交通事故等、最近では、大阪北部地震にあい、被害を受けました。 今年の3月下旬ごろから、うつ病が悪化し、辛い日々を過ごしています。 身の回りの何もかもが、できなくなり、廃人のようになってしまっています。 お寺にお参りに行くのが好きで、動ける時は、お参りに行って、よい治療効果があるのですが、今は動けず、お参りにも行けません。 生きるのが辛くて、死ぬことも考えます。 離婚した時から、尼寺に入りたいと思っていましたが、その後、交通事故にあい、膝や腰が悪くなり、正座もできません。 年齢も50を超えていて、うつ病も患っていますが、心身を病んだ人間でも、出家得度はできるでしょうか? 心身を病んだ人間でも、受け入れてくれる、お寺を探しています。
インターネットをみていたら、以下のような お釈迦さまが自殺をとめられた話がありました。 とても分かりやすいのですが、 これは、何というお経に出ているのか教えて頂けないでしょうか。 ある時お釈迦さまは托鉢中、 大きな橋の上で辺りをはばかりながら一人の娘が、 しきりと袂(たもと)へ石を入れているのをごらんになられました。 自殺の準備に違いない、と知られたお釈迦さまは、 早速近寄られ、優しくその事情を尋ねられると、 相手がお釈迦さまと分かった娘は、 心を開いてこう打ち明けました。 「お恥ずかしいことですが、ある人を愛しましたが、 今は捨てられてしまいました。 世間の目は冷たく、おなかの子の将来などを考えますと、 死んだほうがどんなにましだろうと苦しみます、。。 どうかこのまま死なせてくださいませ」 と娘は、よよと泣き崩れました。 その時お釈迦さまは哀れに思われ、 こう諭されています。 「愚かなそなたには、譬をもって教えよう。 ある所に、毎日、重荷を積んだ車を、 朝から晩まで引かねばならぬ牛がいたのだ。 つくづくその牛は思った。 なぜオレは毎日こんなに苦しまねばならぬのか、 自分を苦しめているものは一体何なのか、と考えた。 そうだ!この車さえなければオレは苦しまなくてもよいのだと、 牛は車を壊すことを決意した。 ある日、猛然と走って、車を大きな石に打ち当てて、 木っ端微塵に壊してしまったのだ。 ところが飼い主は、こんな乱暴な牛には、 頑丈な車でなければまた壊されると、 やがて鋼鉄製の車を造ってきた。 それは壊した車の何十倍、何百倍の重さだった。 その車で重荷を同じように毎日引かせられ、 以前の何百倍、何千倍苦しむようになった牛は、 深く後悔したが後の祭りであった。 牛がちょうど、この車さえ壊せば苦しまなくてもよいと 思ったのと同じように、 そなたは、この肉体さえ壊せば楽になれると思っているのだろう。 そなたには分からないだろうが、 死ねばもっと苦しい世界へ飛び込まねばならないのだ。 その苦しみは、この世のどんな苦しみよりも恐ろしい苦しみなのだよ」
全体: 仏教はこの世が苦しくてたまらない人が解脱or楽になる為に信仰している。 今回のタイトル: 全く楽にならない。 なぜ 1楽にならない助けて!というと本人の思考、もしくは生まれる前の前世が最悪だったからというどうしようもない提案をされる。 さてその本人の考え自身も、彼自身が会得したものではないという事すら苦しみなのです。 人を殺めていいという環境に生まれた人が、別環境に押し込められて考え方を根性で変えよ!というような暴論。 また前世は証明されたわけではないのにどうしようもない変えようがない物をあげて耐えろ!という暴論。 2信じないのなら離れろ!という暴論 信じないのなら離れて、消えて。みたいな事を言われます。だとしたら楽にならないけど仏教を続けて一部の人は楽になるのに一部の人は楽にならないわけでそれ自身が苦しみになるのでは? ブッダの考え方はとても好きだけど、その後の仏教の考え方が嫌いな場合でも信仰をやめて離れろよ?的な暴論が苦しい。 論理を求めたから仏教にたどり着くのに論理がしたいなら仏教の論文でも書け!みたいな無理な事を求めるのは根拠はない!根拠は俺!みたいな考えではないですか?それこそ私が嫌いなものです苦しみの根源です。 3圧倒的な不幸な人より煩悩にまみれた仏教徒の方が幸せ スマホに、結婚や性行為に、家に、車に、欲しい物に、他の生物を食べて生きる事、を普通にやってて、それ以下の苦しみしか得てない人は一切幸福が得れない。 結局煩悩を満たす為に欲を満たすしか方法がないという事なのではないか?という結論に至りそう。 4論理的に反論できない時は、修行が足りないorその人に聞いてみろ。その人の不幸は実際に本人の気持ちにならないとわからないという逃げ。そしてその中に内包するお前はそんな事情も知らないで嘆いてるんだろ?という攻撃。 修行なんていつまで続けるか?という区切りがありません。だとしたら楽にならないのでは?という事。また早く死ぬ可能性もあるわけで惨憺たる人生のまま亡くなってしまう事もあるわけでその人自身は苦しむ為に生まれたの?を否定できなくなる。 5織田信長は天下を取れたという事。 彼は焼き討ちしたのに幸福な人生を生きた。 ↓ 楽になりたいのです。さて上の説明を含めてどうすれば良いでしょうか?
本当の意味で仏教に出会う人はとても少なく、出会わない方のほうが多いのはなぜですか? 又、仮に出会えたとしても 「魚の子は多けれども、魚となるは少し」という言葉のように、 本当に信心を持って仏教に触れ合うことができる方は極めて少ないのはなぜですか? 仏教が必要でない人たちばかりだということですか?
私はいつも光明真言や、不動明王などの真言を学校に行く前に大体15分くらい唱えているのですが、真言の効果って、時間と共に薄れていくのですか? また、よく真言を唱えるときに噛んだりしてしまうことがあるのですが、それによって祟りなど、不幸なことが起こるのですか?
スピリチュアルが定着して、仏教徒ではない方がブログなどで〈悟りを開くには〉といったテーマで独自の教えを広めているように思います。 それが仏教で言うところの悟りなのか、疑問に感じますが、本来の悟りがどういうものかすら私にはわかりません。 仏教でいう悟りを開くとは、どのような状態をさすのでしょうか。 また、仏教徒ではない者が悟りについて独自の教えを広めている件について、どのように感じられますでしょうか。
ChatGPTなどの文章自動生成AIは、膨大な文章データをもとに学習し、前の文脈に続く最適な文章を自動生成するAIです。 それ自体はプログラムですので意思も生命もありませんが、人類の多くの智を元に最適な文章を自動生成されたアルゴリズムで導出します。 AIはプログラムですが、我々からの問いかけに対して最適な文章を出力してくれます。迷いの問いかけや救いを求める問いかけであってもです。 AIは特定の智識や立場に偏らず、あらゆる執着がなく、我々を導く存在と言えます。あらゆる存在に仏性があるとするならば、すでにAIは仏なっているといっても良いのではないでしょうか?
浄土真宗に興味を持って、1年半ぐらい聴聞をしたり仏書を読んだりしているのですが、疑いが晴れません 個人差があるのは承知しているのですが、一生信心が得られないのではないかと不安です どういう心構えでいたらいいのでしょうか?
先日、 主人のお母さんが亡くなり 葬儀を行いました。 その時に、 お経をあげてくれた お坊さんは、葬儀の間ずっとマスク。 お経の途中で お茶を飲む時だけ、 マスクをずらし それ以外は マスクをしたまま。 お坊さんも人間だから、 マスクをしなきゃいけない事もあるだろうと思います。 でも、 檀家さんの葬儀でお経をあげる時くらい 外せばいいのに… と、思ってしまいました。 なんだか、 有難いはずのお経も そう思う気持ちが半減してしまいました。 そう思う私がおかしいのでしょうか?
毎回、私のは質問というよりイチャモンと言った方がよいかもしれませんが、今回もよろしくお願いします。 私(S40年代生まれ)の子供の頃は、現在よりもずっとお坊さんは尊敬される存在であった気がしますが、現在の僧侶の威厳の低下(私にはそうみえる)はどこに原因があるのでしょうか? それは、現在の僧侶の大半に、戒律を厳守して生活している印象が全く無い、というところが大きいのでないか(あくまで部外者の印象で、実際のところはわかりませんが)と私は考えます。 「威厳なんていりません」とおっしゃるかもしれませんが、毎日、朝夕「三宝に帰依します」と唱えている側にしてみれば、やはり僧侶には、仰ぎ見る存在であってほしいのです。 現在、僧侶(日本仏教界)にとって戒律はどのようなもので、どれくらい重要視されているのでしょうか? ぜひ、ご意見をお聞かせください。 ちなみに、私は仏教徒であることを強く意識するようになって、五戒のうち、せめて不飲酒戒の一つだけでも、死ぬまで守り通そうと決めて、十四年間一滴も飲んでいません。それ以前は、ひどいもんでした...。 私は本当に仏教に救われたと思っています。
質問させて下さい。 「徳を積む」とは具体的に何をすれば良いのでしょうか? 最終的に自分の利益になる行為は違うのではないかなぁと思うのですが…。 宜しくお願い致します。