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hasunoha 問答検索結果 : 「私 お経 」
検索結果: 2744件
2025/04/20

座禅に関しての悩み

こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。

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「足るを知る」と「向上心」のバランス

明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。   *   「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。   ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの   ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです   ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました   ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい   ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある    (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。?   少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。

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宗派の違い

何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。

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慈悲とは、共感、広い心?

こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。

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肉食妻帯並びに出家と在家の違い

日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?

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