これまで数々のご相談に親身にご回答頂きありがとうございました。 最近になり「今の自分を受け入れ、ありのままに生きる」ということに興味があります。 仏教にもそれに沿うような教えがあると思い、もし書籍でそうした考え方・心構えを学べるような書籍があればご教示頂けますと幸いです。
愛犬9歳半がとてもとても最後苦しみながら息を引き取りました 途中で見るのも辛く明日の朝は安楽死をさせてもらうつもりでしたのに間に合わなくて壮絶な闘いでした 腫瘍からくる心タンポナーデで獣医からも辛い死になるとは言われていましたが呼吸困難で想像以上の苦しみ方でした もう半日はやく決断し安楽死させてあげれば良かったと泣いて謝ることしかできませんでした どのように供養してあげるのが良いのですか
ハスノハで回答しているお坊さんは、悩んでいる方の力になりたいという方が多いと思いますので、その回答を見るだけでも、とても勉強になります。 そのお坊さんの中でも、最近憧れている方がいます。 その方が発信している言葉のようにできる範囲で行動してみたり、紹介している本やハスノハの回答など見たりと、どうしたらその方のような考え方になるのかと気になっています。 その方がいうには、読む本で、考え方が変わるようなのですが、皆さんは、どのような本を読んでいますか? よろしければ、教えてください。 お願いします。
初めまして。浄土真宗の思想についての質問です。 浄土真宗に「悪人正機」という思想がありますが、これはどんな悪人であっても阿弥陀仏様を信じれば浄土に往生することが出来るという意味なのでしょうか? もしそうなのだとしたら、数百万人を粛清した独裁者や数千億円を騙し取った詐欺師も阿弥陀仏様を信じてさえいれば浄土に往生することが出来るということになりますが、何だか不公平な気がしてなりません。 初歩的な質問ですいません。以前からずっと気になっていたので、この場をお借りして質問させていただきました。よろしくお願いいたします。
恋人はいないし友達も予定が合わなそうです。 好きではない女性と遊ぶことはできますが、 それは相手にも失礼なような。 どうするべきでしょうか。
こんにちは、お悩み相談させていただきます。 先日副住職(26)の方にお付き合いしてほしいと告白されました。 そこのお寺さんは長男が住職で次男の彼が副住職です。 そして三男は銀行員、四女は大学生です。 副住職の彼は普段は役場に勤めており、お通夜等があるとお寺に戻り副住職の仕事をしています。 もしもこの方と結婚するとなると副住職の妻は仕事を辞めなければいけないでしょうか? お寺さんのことについて未知なものでお手柔らかに教えていただけたらと思います。
こんにちは。 半年前から趣味として座禅を朝晩40分ずつやっています。 最近はお寺さんでも座禅をするのですが、悩みがありご相談させて頂きました。 1.座禅中に時間を気にしてしまう自分がいる事。 半跏趺坐で両足の痺れが出るのが開始後30-35分ほどなのですが、ここ最近は上手く座れてないのか、2個目の質問である足を組み直すのと並行して時間を気にする自分がいます。その時の感情面が、足が限界、まだもうちょっと大丈夫、あと何分やろ?できれば足を組み直さないで一炷終わらせたい、いつになったら慣れるんやろ。 2. 50分間の座禅中に足を組み直さないと両膝、左肩が痛くて仕方ないのですが、我慢してたら慣れるものなのか。共に座禅をしている方達は静かに座れているのに何故自分だけは我慢できないのかと自己嫌悪してしまいます。 3. 趣味として座禅を行っていた時は苦痛だとは思わなかったが、一つの修行だと考え座禅を行うようになってからは苦行、座禅が嫌いとまでは言わないが辛いと思ってしまうようになった。心の持ち様or考え方で変わるのだろうと思うが、何が正しいのか分からない雁字搦めの状態になっています。 座禅というものを真面目に捉えてちゃんとやらないとと思ってるから苦痛と思うのか、もっと気楽に座ればいいのか、考え方やコツなどありましたら教えて頂きたいです。 よろしくお願い致します。
インターネットで仏教布教や衆生救済にご尽力されているお寺様も多くなってきている昨今、祈祷寺院は世間の目に触れやすくなっているかと思います。 インターネットでの僧侶の露出が増えた結果、従来の檀家制度では考えにくかった、「どのお坊様・お寺様と懇意にするか選択する」ことが可能となっています。 メリットがある一方で「自称・僧侶」という僧籍を持たない、本山に属さない等偽物の僧侶に騙される危険性も否定できません。 (中には、自ら「破戒僧」と主張する方もいらっしゃいますが。) また、友人等から「お寺に行こう」と誘われたら新興宗教団体だったという話もききます。 お寺様・僧侶様が、本物かどうかを確認する方法というのはあるのでしょうか? 神社であれば、神社庁に属しているかどうかである程度の判別はつくと思うのですが(単立は別として)、お寺にはそういった統括組織等はありますか? よろしくお願いいたします。
先日も質問させて頂き複数の回答有難うございました。 彼が自殺でいなくなり7ヵ月が過ぎました。 彼が居なくなり…人は亡くなると本当に【無】になるのだと… 彼の後を追っても会えない事はなんとなく分かるような…最初は頑張って彼の為にも生きて行こうと思いました。でも…それは偽善の言葉で、本当は 意味も分からず残され、他人に責められ…それでも、 人って悲しい思いしても生きて行かなければいけないのでしょうか?? 病気や事故や老衰や自殺どんな亡くなり方でもそれが寿命ならば早く彼のように楽になり…無になりたいです。 もう自分でも理解出来ない事で人に責められる事に疲れました。 死んで無に本当になれるのなら親にだけ詫びて、彼のように楽になりたいです。
まだ、おばあちゃんが亡くなってから四十九日を過ぎていません。 おばあちゃんの娘さんが「分骨して欲しい」と言ってきました。 調べた所、遺骨の権利は喪主にあるとの事で喪主の父親に聞いた所、いいと言ってました。 が、まだ四十九日を過ぎてないのに分骨は早いですよね? また分骨の際、娘さんに渡してはいけない部分や父親の元に置いておくべき、供養するために残すべき部分とかありますか? 母親いわく喉仏は渡したらいけないのじゃないか?と言ってましたが……
13歳の時に祖母を亡くし火葬しました。 その時の祖母が火葬されたときの場景が今だ20年以上たった今でも私の心の中ではトラウマになっています。 人を焼くなんて、骨になった祖母を見て本当に残酷だなと思いました。 また私自身も亡くなって火葬されるのだと思うと怖くてしかたがありません。 このような恐怖やトラウマをどう克服すれな良いのでしょうか? お教え下さい。
明けましておめでとうございます。 全ての皆様にとって、健やかな一年となることを祈念いたします。 * 「足るを知る」と「向上心」をどうバランスさせるかについて質問です。 ■質問の内容 ・人間の煩悩はキリがありません ・煩悩とうまく付き合うために「知足」が重要との理解です ・一方で、より良い生を営むには、「向上心」が必要です ・しかし「知足」「向上心」は、ときに相容れないように思われます ・そこで、両者の使い分けについて、ご意見を頂戴したかったもの ■質問の背景 ・私は肉体や精神、能力等の向上(=欲求を満たせる自分に成長すること)を目標として努力してきました ・結果、自分自身や周りの人の幸せを実現できると考えてきたためです ・しかしある時、幸福度は上昇していないことに気付きました ・そんな時に「知足」の重要性に気付き、「向上心」との折り合わせについて強い興味を抱いたものです ・両者の使い分け方法について、下記2パターン考えました ■仮説① 行為の目的(相手のため/自分のため)で、以下の通り使い分けるべき 【良さそうな例】 A「相手のため」×「向上心」 (例)より喜ばれる仕事をしたい B「自分のため」×「知 足」 (例)菜食で十分 【悪そうな例】 C「相手のため」×「知 足」 (例)今の仕事の質で十分 D「自分のため」×「向上心」 (例)より美味しい食事をしたい ■仮説② ・「知足」と「向上心」のバランスを考える必要は無い。 ・自らの欲求を満たせる自分に成長する「向上心」が重要である ・逆説的だが、向上心(欲望)を満たした経験により「足るライン」を把握できるようになる ・肥大する向上心(欲望)を実現した経験が、「自らを満たさない、長く続かない」ことを体感させる ・知足は、頭で理解するものではない。体得させる必要がある (例)お金をもっと稼ぎ、食事にお金をかける。結果、最高級の焼肉もファミチキも両方美味しいし、どっちも幸せで、(実は)どっちも大差ないことを体感する。 しかしずっと貧しいままだと、どうしてもやせ我慢での知足となる。「知足の習得」には、欲求を満たして「こんなもんか」という体験が必要不可欠。 お釈迦様が王子の頃に豊かだったことは、悟るための必須条件。。? 少し漠然とした問いで申し訳ございません。 どうぞよろしくお願い致します。
この数十年、お坊さんが身近になりすぎて、低俗な存在になったように思います。 テレビ番組や新聞で、「お坊さんが好きな焼き肉のメニュー」、「お坊さんも出会い系サイトを利用したり、身分を隠してキャバクラで遊ぶ」、「強姦や暴行で僧侶の男が逮捕される」等をよく見るようになりました。 この現状について、どう思われますか?
尊敬していた方が亡くなり、お通夜に行ってきました。 地域にとっても貢献したお爺ちゃん医師で亡くなるまで現役でやってた方でした。 お通夜の際、下世話な話になってしまいしますが、とっても大きな葬儀で、お坊さんも3人で拝んでました。 一般的に一人のお坊さんが拝むのと、3人のお坊さんがお坊さんが拝むのは、どぅ違うのでしょうか。 例えば、3人のお坊さんが拝んだ方が、故人が成仏しやすいとか、三途の川を楽に渡れるとか、、、
いつもお世話になっております。 また少し疑問に感じたことがありますので質問をさせていただきます。よろしくお願いいたします。 浄土真宗では、人はお浄土からこの世に生まれてきて、そして命が終わったらまたお浄土に帰っていく、そしてまたいつの日か、人びとを救う為にこの世に生まれてくる と説かれているかと思うのですが、 それでは人はもう、六道輪廻、輪廻転生を繰り返すことは今後はないということなのでしょうか? 人の死後の転生や、お浄土とこの世との関係について、皆様のご回答を頂けたら幸いです。 よろしくお願いいたします。
何度も質問させていただいております。 毎回丁寧な回答をいただいて感謝しております。 さて、私は今までキリスト教の学校を卒業し、イスラム教の国に住み、特に宗教は持たずに全ての宗教は知識として学んできた程度でした。 元々追求すること、考えること、科学的にものを見る質なので現実的にに世の中を見てきました。 そして最近行き着いた答えは、科学と神秘、宇宙と人間は皆同じなのだということです。 バレエに人生のほとんどを費やしていますが、これはほぼ稽古、修行、メディテーションです。これを通していろいろなことを学んでいます。 そこでたまたま仏教について読んだところ、正に宗教という概念もなく実践してきたことそのものだったのです。 どんな贈り物よりも嬉しい発見でした。 それから毎日、宗派や教えを調べましたが、困ったことに『そう言われればそうかもしれない』という教えの違いばかりなのです。結局のところ、一つの目的をもって正しく生きることを遂行すれば宗派など問題ないのでは?と思うのですが、現実問題いかがなものでしょうか。 今後真剣に仏教を学びたいと思ったときに、どのようにして適切な宗派を選ぶべきなのでしょうか。
こんにちは。仏教の慈悲について考えていたのですが、迷いました。お暇な時に、教えてくださると助かります。 私は最初、慈悲は愛と同じかな?と思いました。愛とは誰か困っている人を見つけたら自分がしてほしいと思うように相手を扱い助けることだ、と助祭から昔教わったんです。それと似た気持ちかなと思って。でも慈悲について過去の記事を読んでいるうちに、慈悲と愛は違うかもしれないと思うようになりました。仏教では周りの人や生き物と自分が皆繋がっている考えがあると感じたんです。それで、まず慈悲とは共感することなのかなと思いました。でも、共感だけではなくて広い心で人の為に祈るような意味もあるのでしょうか。うまく言えないけれど、憐みみたいな....例えば、自分に敵意を持っている人に対して慈悲の心で接するような表現をどこかで見たのですが、それは相手が自分のやっている悪い事に気がついて正しい道に進めるように祈ることかな、と思ったり。あれこれ考えているうちにわからなくなってきました....。 題とは直接関係ないけれど、今月父の一周忌でお坊様のお祈りと共に納骨されていくのを見届けることができました。普段は全然泣かないのに涙が出てきました。悲しいからではなくて、安心したからだと思います。僧侶とはすばらしいお仕事ですね。とても感謝しています。
日本の仏教(浄土真宗を除く)は何故『肉食妻帯』が許されるのでしょうか? 浄土真宗を除く宗派は『肉食妻帯』の禁止が前提で作られていたのでは無いのですか。 肉食関して仏陀は肉食を禁止していないや三種の浄肉をおっしゃる方が多くいますが、その部分だけを引用するとそう解釈できるか分からないですけど、当時は「托鉢」や「午後の食事の禁止」が前提の話で、日本の僧は「托鉢」や「午後の食事の禁止」をしているわけではないのに、その部分だけを引用するのは如何なものでしょうか。 また中国経由の日本の仏教には関係のない話であり、仏陀は肉食を禁止されなかったという個々の考えがあるのであれば、上座部やチベット、真宗などに改宗するか新たに肉食を禁止されない宗派を開宗すべきで妻帯の禁止及び菜食主義であった既存の宗派を変える事は以ての外ではないでしょうか 私は肉食妻帯に対して反対しているのではなく、真宗以外の諸派は肉食妻帯な禁止が前提として作られているのだからそこは徹底的にして欲しいのです。 妻帯については後継者問題があるからとは言いますが、なぜそこまで出家にこだわるのに、妻帯の禁止にはこだわらないのでしょうか。出家せずとも知識ある在家としてお寺を見守る家系として生きていけばいいではありませんか。 出家しているのに妻帯だと在家とあまり違いが無いではありませんか。 これは勝手な私論ですが 末法無戒を、唱えた日蓮上人ですら肉食妻帯をしていませんよね?それは「僧が袈裟を着る事」や「人が人を殺す事はいけない事」と同じ様なもので、その当時は肉食妻帯はしないのが当然なので末法無戒には含まれないからでは無いのでしょうか。 もし政府が「僧の服の着用勝手たるべし」とでも法令出したとしても、日蓮上人は直接は言及していないが、服を着るのは当然でその上で末法無戒と言ってるなんて誰でも分かるじゃないですか。 まとめると肉食妻帯の容認を当初からしている真宗以外は、かつてと大きく肉食妻帯に対しての意識が変化しているのにも関わらず、別宗派を作らず元の宗派を名乗ったまま肉食妻帯を許しているのか。 また現在における出家と在家の違いはなんなのかです?
わたしはこれまで貯金をしたことがなく、その月のお給料を次の月のお給料までに、ほとんど使い切ってしまいます。 特に服代に月10万円ぐらい使うこともあります。 1万円ぐらいの服を何着も買うので、あまり着ないで捨ててしまうこともあります。 毎回、無駄遣いはやめようと思っているのですが、ストレスが溜まっていたり、少しでもピンときた服があると買ってしまいます。 服に限らずお金があると使ってしまいます。 どうしたらお金を貯めることが出来るのでしょうか? 甘えた悩みですみません、アドバイスよろしくお願い致します。
仏教以外の様々な思想が存在するこの世界で、お坊さん方々は何故、仏教を選んだのですか?「実家がたまたまお寺だったから」とか、「娑婆を捨てるつもりで仏門へ」などのきっかけがあったと推測しますが、今現在もお坊さんであり続け、仏教を信じ続ける理由って何でしょう(「坊さん=ただの職業」論の僧侶は除きます)。 例えば、哲学の普遍的テーマは「幸せとは何か」ですが、継がなければならない寺などない自由の身であれば、これが人生のテーマだという人は仏教じゃなくて哲学でもいいですよね。でも、仏教一本に決めちゃう人もいる。すると、個人としては哲学を学ぶことは出来るけれど、僧侶という立場上、仏教の教えに反することは表立って言えなくなったり、思考を限定されたりすることもあると思うのですが・・・実際はどうなんでしょう。