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hasunoha 問答検索結果 : 「夢」
検索結果: 4301件

親とは

親と上手く関わる方法を教えて欲しいです 私は片親で小さい頃から母親1人で育てられました。 親の手伝いをしたらあーじゃない、こーじゃないと文句を言われ、やらなければご飯なし、しまいには「手伝えないなら出ていけ」発言をここ何年も言われ続けています。 その日は口を聞いてもらえず話したと思ったら悪口。数日経てば親から上機嫌で話しかけてきます。 もう慣れっこなのでそこは我慢すればいいのですが、最近も酷くなりました 今年に入って親がパニック障害になり一日家にいるようになりました。 私も数年前から対人恐怖症になりました。 最近は「お前は病名がついていないんなだから病気じゃないんだから仕事しろ。お母さんは病名ついているんだから仕事できなくても仕方ない」と言われました。 仕事したと思えば「お前には合わないんだから辞めろ」と言われます。 それを言われた事がすごくショックで裕福な家庭ではないから病院行くの躊躇うのがバカバカしくなりました。 仕事をちゃんとしている妹には上機嫌で話しかけ、服を買ったりご飯連れて行ったりしています。 言ってることがぐちゃぐちゃすぎて分からなくなります。 早く一人暮らししたいのですが、貯金もあまりないので仕事をするしかありません。 もう家に居たくないし人間不信になりそうです。生きている意味が見いだせません。

有り難し有り難し 8
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不思議な事

昨年、3月に母を亡くしました。長年、母と2人で暮らしていました。私は3人兄弟の末で独身です。父とは13歳で死別していることも有り結婚も考えた事は何度も有りましたが縁が無く今に至ります。母は亡くなる2ヶ月前まで普通に生活しており88歳でしたが電車を乗り継ぎ趣味の日本画教室にも通っていました。高齢にしては入院して1ヶ月ほどで嵐の様に人生の幕引きをしてしまったので悲しく辛い日々が今も続いています。入院した際は姉に、私の事が心配だと言っていたようです。昨年末より遺品整理を始め、昭和一桁生まれで幼少期に戦争経験しているせいで、何でも捨てれない世代ですので本当に沢山遺品がありました。大きめのダンボール20箱近くあった遺品は、全て半年近くかけて宅急便にて供養に出し、大量の絵の道具も梱包し習っていた先生に託しました。遺品整理をしている時にとても不思議な事がありました。大量にあった写真は全てスマホで撮影し、供養に出そうとダンボールに入れる際、何気に全て写真を抜き取っていたアルバムを開くとまだ供養に出さないと決めていた昔の母と幼少の私の写真がアルバムの最後にあったり。泣きながら遺品整理をしていると、母の自画像の絵が2日間に分けて別々の部屋の説明がつかないような場所から出て来たり。昨日は、既に整理し終えて供養には出さない誕生日カードを再度整理しようと作業していたら、何十枚とあったカードも全て整理が終わった!と思っていたら、まだ1枚があり開けてみたら、私が30年前の母の日に母宛にあげたカードで中に3万円がそのまま入っていて、文章には、「ママ、いつもありがとう!これで何か好きな物買ってね。私は今、この先が何でか不安で仕方ない日々を送ってます」と。3日後は、私の誕生日です。母は毎年、私の誕生日の数日前、まさに今の時期になるとカードと3万円をプレゼントしてくれていました。このタイミングで私が30年前に母にあげた3万円が母から私への誕生日プレゼントみたいで号泣しました。そのカードに書いてある文章は、今の私の気持ちそのものです。30年前、生きている母に対して「不安な日々を送ってます」なんて何故書いたのだろう?今、母宛に書くならまだしも。長くなりましたが、私は母がいつも側にいてくれていると思っていますが、本当に霊というものはあるのでしょうか?お教え頂きます様どうぞよろしくお願い致します。

有り難し有り難し 9
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「無常」について理解出来た気がするが…

初めて質問させて頂きます。長文になってしまい申し訳ございませんが、宜しくお願いします。 私は歴史が好きなのですが、とりわけ源平合戦が好きです。二つの氏族が覇権をかけて争う中での栄枯盛衰や、その過程での日本中を巻き込んだ争乱の数々。これ程までに歴史のダイナミズムを感じられる出来事は中々無いと思ったからです。 なので、先日神戸に行った際、一ノ谷の戦いの戦跡を巡ろうと思い立って観光し、道中、是非見たいと思っていた須磨寺に立ち寄りました。須磨寺には、宝物として平敦盛の武具や青葉の笛が置かれていることが有名ですが、これらを見た時、私は非常に大きな衝撃を受けました。 勿論、平家物語の「敦盛最期」は作中屈指の有名な悲話として、私も知ってはいました。しかし、それはあくまで「物語」としての認知に過ぎなかったのです。知識としては現実に起きた事だと知りつつも、現代とはあまりにもかけ離れた武士たちの世界観や壮絶な出来事の数々に、実感としては完全に物語上での出来事でした。 ですが、敦盛の遺品と、敦盛を殺した苦悩から出家した熊谷直実が、彼を弔うために書いた「南無阿弥陀仏」の掛け軸は、実際に寺にあったのです。 こうして、到底現実の出来事だと実感出来なかった源平合戦を、現実の出来事として否応なく突きつけられ、私は恐ろしくなりました。平家物語に登場し、様々な運命を辿った武将たちの人生もまた現実の物だと、同時に思い知らされたからです。 都での優雅な生活を捨て、戦いに身を投じる事を憐れみつつ奮戦して亡くなった者。戦いに勝利しつつも、哀れにも反逆者となり亡くなった者。戦乱の中で志半ばに自害した者。そして、熊谷直実のように出家した者。 また、源平合戦だけでなく、数々の戦争や動乱に人生を左右された無数の人々…。 歴史という大きな流れの中で翻弄されていく人々が現実に居たのだと、心から実感出来た時、歴史の中での個人の無力さと儚さに恐怖を感じ、平家物語が言わんとしている「無常」を、心の底から理解出来たような気がしました。 果たして、無常について理解出来たようなこの感覚は、悟りに近いような物なのでしょうか? 仏門に入ってもいない者が、軽々しく悟りなどと申し上げるのは気が引けるのですが、世の中に対する一つの見方が生まれたような感覚が不思議だったため、質問させて頂きました。

有り難し有り難し 5
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祖父母の死、家族への罪悪感

5年前に祖父が他界しました。 そして先日、祖母も他界。 祖父母は私が学生時代、陸上をしていたときたくさん応援に来てくれました。 どんなに小さい大会でも、プログラムの隅々まで読んで、私より把握して誰よりも楽しみにしてくれていました。 いい結果でなくても頑張ったねと言ってくれました。 そんな風に大切にしてくれていた祖父母に対し、後悔ばかりが残っています。 祖父は私が生まれた時から耳が聞こえません。どれだけ話しても伝わらず、その事にイライラして冷たい態度をたくさん取ってきました。紙に書いてって言われても面倒で話すことを避けてきました。 私が福岡で暮らし始めるころ、祖父が急に体が弱り施設に入りました。ろくに会いにも行かず、最後まで顔を見ないまま他界しました。 そして、先日祖母が他界しました。 祖母が孫に会いたいと言っているを知っていたにも関わらずコロナを理由に会いに行きませんでした。 祖母も体が弱ってきている、もう危ないと知り、急いで帰ろうと思った矢先、息を引き取りました。 祖父母を失って初めて、2人の存在の大きさを痛感しました。私が陸上に励んでいた時、誰よりも楽しみにしていた祖父母。美術や作文で表彰されたとき、誰よりも喜んでいた。新聞にちっちゃく名前が入っていた時のものを額縁に入れてかざっていた。 そんな2人に私は、何をしてきたのか。 酷いことも沢山言った。冷たくあしらった。 自分がしてきたことへの罪悪感と嫌悪感が止まりません。 音が聞こえない世界がどれだけ怖くて不安だったのか、私がとった行動がどれだけ傷つけたのか。悔やんでも悔やみきれません。 母は現在脳出血で入院中です。 祖母が他界した時も入院していて、コロナの関係で葬儀には出られませんでした。 母は昔から身体が弱く、アルコール依存もあって精神的に不安定でした。 私と兄が家を出て、祖父が他界して 母と祖母の面倒を父が一人で行っていました。私は家族から逃げていました。両親は仲が悪く、母がおかしくなっていくことに耐えられず逃げるように家を出て、ろくに帰らず連絡もとらず。けど祖母の葬式で帰った時、歳をとった父。祖母の介護。母の入院。沢山の現実を目の当たりに、家族に対して情けない気持ちでいっぱいで涙が止まりませんでした。今は実家で一人になった父。どうすればいいのか分かりません。 帰るべきなのか。福岡の生活を捨てるべきなのか。

有り難し有り難し 15
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激しい後悔、取り返しのつかない人生で死にたいです。

高校を一年で中退し、通信制に通ったもののそこでも単位が取れなかった約5年ひきこもりニート20歳です。高認ギリギリ合格しました。 明日から短期でとりあえず働かせることになったのですが、これからの人生絶望です。 中二でアニメに出会い自分は声優・ナレーターになりたい。他アニメに関われる仕事に就きたいと思っていました。 専門学校のアフレコ体験に一回行ったきり、養成所などにも通うことなくずっと甘えてひきこもってしまった意志薄弱野郎です。 今もできるなら通ってなりたいと…。 習い事は小1のときに数カ月だけ習った空手のみ。辞めた理由は他のところで骨折、手術をしたためです。 それ以来何にもしてこなかった。 興味のあった絵画やサッカー、苦手な水泳、器械体操、 バイオリン、そろばんなど親から勧められたのもありましたが、幼少期に動けませんでした。 20歳まで何にもしようとしなかった。小さい頃からコミュ障対人関係が苦手で受け身。 逆に一人でなんでもやってやる、できると思って…。間違いでした。 頼らないと生きていけなかった。  友人も頼る人もいない。 父や母のことを理解しようとしませんでした。 父が集めた本をあまり読んで来ませんでした。 母がフィリピン人なのに、幼少期は周りの目も気にして嫌で、結局母国語も覚えられないまま大人に。 家族間でコミュニケーションがとれてなかったです。 知識や技術、検定、資格、免許、経験何一つない。 今までもこれからも足りないままの人生。不適合者。 大学受験を試みました。貧乏だし宅浪で国際、文学部を。 親にも周りにも自分にも嘘ついて頑張るからと。過去問も参考書も一周も終わらせられなかった。です。センター試験も今年で終わり。年にすると三浪。 高校も二度、まともに通えてなかったのに宅浪で…バカですよね。知識は中学生以下です。  家のローンもあるのにバイトもせず(できずに)親の金を使いまくって漫画やCD購入。ゲームに課金(今は流石にやめることができました。) 家を出て、東京の大学に行って、バイトをして、一人暮らしをして、週1で声優の養成所に通って声優・ナレーターを目指すのが理想でした。 両親も高齢で一人っ子なので家を守っていかないといけない。ローンもある。 いろいろ根が深いのでメールや電話、実際に相談したいです。もうわかりません

有り難し有り難し 85
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不公平

長年働いた仕事先 何度も辞めたいを乗り越えて来たけれど 会社の方針や勤務状態にストレスが加速して 辞めることを決意しました 人間関係はわりと好きでした 仕事はキツかったです これまで頑張ってきたことや耐えてきたことを振り返ると勿体なく感じます また1から構築するのかと憂鬱ですが 辞めるきっかけは姉の仕事先で人が辞める話を聞いたからです。 そっちに行けたらいいのにと思ったけれど 辞めるかもしれない人が辞めないかもしれないに状況が変化していき 転職予定だったけどそれも難しくなっていき 早とちりしてしまったかなと思ったり イヤイヤ、辞めたいと思ってたのは本当だし、これはいいきっかけだったのでは、口実も出来たわけだし円満で辞めれそうだしと納得したり 姉の勤務状態が休みがちなので不安を抱いたり その間に姉が宝くじで100万当ててしまって それを自慢されてしまい何故私に話したんだと不快に感じたりしてます。 姉のギャンブルに相当苦労させられたので まだ辞めてなかったのかとガッカリしましたが そのお金も貯金して姉は働いた金で借金返済すると言ってたので、それが実現したなら喜ばしいことだと受けとります。 私はギャンブルが嫌いな人間なので姉のような生き方は出来ないし、なるべく迷惑かけられたくないです。 姉が大金を手にしたことに羨ましくは思うけどプラスマイナスで考えるとマイナスなので こういう生き方はしたくない。 お金の使い方大丈夫か、もうこの人抜けることできないなと諦めモードです。 当てたことには素直に祝福してます 貯金できるのならそうしてほしいです 出来るならギャンブルで当てても家族にも言わないで欲しかったなと お金で人は狂うから黙って一人で満喫しとけばよかったのにと嗤ってます。 姉に振り回されたなと思うことはありますが 仕事を辞めるいいきっかけだったのかな、と わりと好きだったけど、やはり大変でキツくて 精神的にも参ってて、ネットで愚痴ったりするのが多かったり、無意識に寝てるときに自傷行為をしてた時期もあったり、仕事いく朝に「帰りたい、行きたくない」を繰り返す日々があったり 辞めたいを何度も繰り返したり 橋を渡る度に死にたくなったりするような 仕事先は向いてなかったのでしょうか 家族からは都合のいい人、休日出勤かわいそう と仕事での私をそう評価してました

有り難し有り難し 10
回答数回答 1

騒音トラブル

はじめまして 私(メルママ)は、住宅型有料老人ホームでソーシャルワーカーをしています。 住宅型有料老人ホームですので、お元気な方から、介護の必要な方まで、現在150名の方がお暮しになっています。ソーシャルワーカーとは、ご入居者様の状況に応じて、医療・介護・サービスの連携をしたり、悩み事や、お話を伺ったりするのが主な仕事です。 あるご入居者様 Aさん について、ご相談させていください。 ≪登場人物≫ 入居者Aさん 入居者Bさん ソーシャルワーカーW ソーシャルワーカー私(メルママ) Aさんは長く三味線の師匠をされていた80代後半の女性です。精神世界や心の在り方など精通されている素敵なお婆ちゃまです。Aさんがご入居されたのは、今から6年前になります。当時は、とてもお元気で、私たちスタッフにも三味線を教えてくださっていました。私も習わせていただきました。スタートして一年目頃、Aさんの不調が続き、教室は無期限でお休みとなりました。 二週間ほど前だったでしょうか、Aさんのお隣のお部屋のご入居者様Bさんから「三味線の音がうるさい」との苦情があり、BさんからWに「入居契約書には、居室内での楽器の演奏等は禁止と書いてあります。毎日のことなので何とかしてください」とのお話がありました。ごもっともです。 Aさんには今回のケースが起こる以前から、三味線の練習は多目的レンタルルーム(1時間500円)をご利用くださいとお願いをしており、以前はそちらを利用いただいていました。今回もWより、その旨をお伝えさせていただいたのですが、頑として聞いていただけず、「自分の部屋で三味線が弾けないなんて人道的ではない!」とご立腹とのこと。 Bさんや他のご入居者様を攻撃されるようなことをおっしゃったり、Wに対しても「あなたじゃ話にならないからメルママを呼べ!」と話にならないと言います。 三味線を習っていたこともあり、Aさんと私は信頼関係が築けているとは思います。きっと、私なら許してくれると思っているのかもしれません。仲が良いだけに、このようなケースだと逆に話しづらい面もあります。 どんなお話をしたら、納得していただけるでしょうか? よろしくおご指導ください。

有り難し有り難し 15
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どうにかしたい、弱い心の自分

どうにか今の現状を打破したいのですが、 自分が弱すぎて甘えすぎてて辛いです。言い訳ばかりで。 長くなってしまうのですが、私の生い立ちを少し話させてください。 小学生の頃まではちょっと考える時期もあったのですが、ふつうに過ごしていました。それから中学生になると転げ落ちるように、よくない方向に行ってしまいました。 部活での関係やクラスメイトとの関わり、などから次第に心が病みはじめてしまい。不登校になり卒業式は出られませんでした。高校は通信制に行きなんとか卒業できました。 それからは自分は「社会からまわりから遅れをとっていて、負け組だ。もうがんばることも辛い」 と思うようになり、 自分に甘え、バイトも辛いと思うと 習い事もすぐにやめてしまうようになりました・・・ そして、現在、週二回、知り合いのとこの会社でのアルバイをさせてもらっていますが、毎回行けず周りの人にも心配や迷惑をかけてます。 辞めたいと思ったり、ほんとに続けられるのかな?と考えてばかりです。 家族やパートナーにはいろいろと、申し訳ないと思います。 なにか私のなかでモヤモヤしたものがついていて、 それがとれなくて苦しいです。 うまく言葉に表せないのですが・・。 すみません、不幸自慢がしたわけではないですが、こんな文章になってしまいました。 結局自分が変わり、行動しないと、 どうにもならない事はわかります。 でも、なんだか・・八方塞がりのようになってしまっています。

有り難し有り難し 9
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