2023/11/06他罰を受けに行くという自傷行為
本日も、過去の罪についてのお話を聞いていただければと思います。
私は過去の問答でも何度も投稿した通り、多くの罪を犯した罪人であり、罪を自覚してからは日々、反省と懺悔に努め、また死ぬまでに少しでも世の中に善い芽を遺して死のうと、自分にできる善をつみながら生きている毎日です。
最近は罪悪感に酷く苛まれ何も考えられない、というようなこともなく、こんな私でありながら、朝日に照らされ健やかに生きることができています。しかしながら、何故そのように生きることができているかと言いますと、ある行動を控えていた(少し避けてしまっていた)からだと思っています。
それと言うのが、罪の意識を再確認するために、また自らを追い詰め罰を受けるために、私のような加害者を酷く糾弾し強く非難している言葉の数々を意識的に見に行くという行為です。その行為によって、少し気持ちが緩んでいるときや浮かれているときでも、今一度罪を認識し改めることができるのです。しかしながら、やはりどうしても心身を消耗してしまうため、最近は意識的に避けてしまっている節がありました。私は義務として、責任としてそれらから目を逸らしてはいけないと思っていながら。
それらには本当に多くの方の苦しみや恨みの感情が込められていて、どうしてもどうしても耐えきれずにおります。また、多くの方の恨みを目にする中で、私はそれら全てを背負わねばならない=私は忘れているだけでこれ程酷い行為の数々をやってきたのではないか?と少し錯覚させられつつあります。(実際そうである可能性もあり、自分の過去が本当に恐ろしいです。)
正直な気持ちを申しますと、苦しく辛い行為です。しかし、自己満足であり自傷行為であると分かっていながらその行為をやめた私は生きている価値のない・罪を何とも思わない屑人間に成り下がってしまうという思いが消えません。罪を犯したものとして、これ以上悪に心許してしまったらいけないのに。
心の中の私(かもしくは誰か)が、「非難・糾弾を受けとめろ」「見に行け」と話しかけてくるような思いです。
この私の行為について、お坊様方の客観的な御意見をお聞かせいただけたらと思っています。
また、常日頃から罪を忘れずに生きる心構えについても、お聞きしたいです。
乱文、長文失礼致しました。最後まで読んでいただき本当にありがとうございます。
有り難し 17
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