お上人方にご相談です 私自身は、寺の長男一人っ子として生まれで父が実父であり師匠となっています 父は、都会の檀家1000件の大きなお寺の三男として生まれ、修行はどこへも行っていません。人の紹介があって、今のお寺(地方寺院、檀家200件)に婿にきて私が生まれました。 先代(私の祖父)はもう20年前に亡くなり、父が新住職として主導しております。 私は、幼い頃から父とは親子仲はよくなく、高校卒業と共に大本山の小僧として入り、その後、父から「うちにはお前の給与はだせないから、他で勤めなさい」と言われ、昨年末まで都会のお寺で勤めさせて頂きながら、そこのご老僧に配慮を頂き宗門の修行はすべていくことができました。(費用は寺から出なく自費で出だしてきました) 昨年末、勤め先のお寺もご老僧から若上人へ代が変わり私も仕事が無くなり、言わば退職となり、自分の年と両親の年など考え、正月から実家の寺に戻りました。 僧侶となってはじめて、師匠と一つ屋根の下で暮らし始め、いろいろ気づくことが増えてきました。 1、お寺のお金をおよそお寺の活動とはほど遠い趣味の分野としてお金を使っていること 2、お経を法事葬儀以外朝夕のお経などを一切あげない、本堂にすらはいらないこと 3、風俗へ通っていること 4、母への暴言 5、私には仕事はさせないこと(することもないので、自費でゴミ袋と箒を買って掃除をします。それも嫌な顔をされます) 6、給与は月に50000円頂いています(食事は三食寺で頂き、寝るところは幼少の時の部屋があります) お寺には貯蓄はなく、借入金もあるそうです。(総代さん曰く) 親子とは言え、出家した時点で親子でなく子弟であり、僧侶として師匠と弟子との関係は絶対であるという認識でいます。しかし、上記の理由など疑問に思うことが多くここのところ悩んでいます。 師匠の僧侶としてのあり方に異を唱えることは果たしていいことなのか? それとも、黙って反面教師としてでも仕えるということが進みべき道なのか葛藤しています。 ことあるごとに、「だれがここを継いでもいい」と後継はお前で無くともということをちらつかせています。今まで一度も反論したことはありません。 恥ずかしい話し、仲間にも顔を合わせて聞けずにいます。 どうすべきなのでしょうか?
納骨についてご相談させていただきます。 昨年の夏に配偶者を亡くし、現在遺骨を自宅の仏壇に安置しております。 昨年の葬儀の際、突然であったこと、郊外の自宅近くで葬儀を行ったこと、コロナ禍でもあったことから、家族葬で簡素に行いました。その際に、少し様子を見たいので、納骨は一周忌の時にとしました。その後、四十九日、百箇日は、お経を読むことができる親族に来てもらい、これまた簡素に自宅でお経をあげていただきました。 一周忌まで一か月となったのですが、墓のある霊園の法要室はコロナのため使用不可、おそらく導師の方も来ることはできそうにありません。一周忌、納骨法要はきちんと行いたいと思っていましたが、難しい状況です。霊園の方では、法要を行わず納骨だけはできるようです。 納骨に関して調べてみると、時期等には特に決まりはなく、遺骨にもあまり執着しないようにした方がよいという記載が多かったように思います。 きちんとした法要等を行って納骨したいという気持ちと、いたずらに納骨を遅くすることへの抵抗の間で悩んでいます。 納骨を行いたい気持ちとして、今は在宅勤務ですが、コロナ禍の状況が変われば、元々出張族であるため自宅を離れることも多くなりますし、故人との思い出の地を訪ねたりといったことも行っていきたいと思っています。 納骨を遅らせる気持ちとして、簡素な葬儀であったため、納骨法要はきちんと 行いたいこと。このような状況が、「納骨はまだ待って」と故人に言われている ような気持ちにもなることがあります。 僧侶の皆様のお考えを教えていただければと思います。 ------------------------------ 以前に「義父、義母の菩提寺へのご供養依頼」という質問を行い、和田隆恩さま、日延さまにご回答いただきました。義父母の菩提寺と連絡を取り、追善のご供養が無事できました。田舎に伺うことができなかったのですが、ご住職さまが 読経、塔婆を立て、その画像をメールでお送りいただきました。また、墓地のお世話をしてくださっている本家の方にもお話をしていただいたようです。 こちらでの回答をいただき、追善供養を行ってよかったと思っています。 ありがとうございました。
不躾な事を相談させて頂くのですが お寺を変える事は可能なのでしょうか。 理由は、お寺の方の対応に嫌な思いをしたからです。 以前、大切な身内の法事がありました。 住職は体調が悪いとの事で代理で女性の方がいらっしゃいました。 恐らく身内の方なのでしょうが、その方は法事をあげる人の名前を間違え何回忌かも把握していませんでした。 後ろにいた身内から名前を訂正され、何回忌かを振り向いて聞いてました。 怒りの気持ちでいっぱいでしたが親族がいたので堪え、ぐだぐだな法事になり説法も説得力なしでとても嫌な気持ちになりました。 慣れてないのか仕方ないです。 お経も間違えても仕方ないです。 せめて名前と回忌をきちんとしてほしかったです。 これから身内が亡くなった時などこんなにいい加減なお寺にお葬式を任せたくないです。 お寺を変える事は可能でしょうか? また変えるにはどうしたらいいでしょうか?
報いきれるほどの恩ではない。この世でどのようなことをしても、お坊さんの大恩に及ばないのです。私の参じたお方に報いきれないのです。 大概の僧侶志望の方は、僧侶という型枠に収まり、呆けた顔をしたいだけでしょう。(違う人も当然、いるでしょうけど) このhasunohaに南伝仏教の本を勧めるお坊さんがいました。 なぜ浄土宗門徒ならば一心に念仏を唱えよ。と言われないのか? そうでないなら、この宗派は貴方の要求に応対できないと、 宣伝して回っているようなものである。師の恥だ。 煩悩を滅するのが道であるなら、すぐに南伝へ飛び出して出家すべきでしょう。 命はいつ果てるとも知れず、呑気に書き込む時間などないはずである。 一宗派の門徒ならば、師から伝えられた安心を絞り出し、絞り出して、 与えるべきである。南伝なんぞの教えは不要でしょう。 青白い顔をして訪ねてきた人に、この本を読んでみろと言うのか? 崖に捕まって、落ちそうな人間にこの本を読めと言うのか? 本を勧めるのが悪いのではなくて、相手の心に真に向き合うべきでしょう。 頑張る気力が湧かないと嘆いて苦しんでいる人間に、 「努力にこそ価値がある」と答えを返した僧侶はいないだろうか? 砂漠のど真ん中にいて、飢えて苦しんでいる人間に、 雑巾を絞って、絞って、ひねり出した一滴を捧げるが如く、 求むる者に注ぐべきである。 真に苦しむものは雑巾の水でも礼拝して飲む。 例え地球に宇宙人が攻め込んで、インデペンデンスデイの如く、 飛行機で宇宙船に突っ込み、地球の危機を救っても、 お坊様の恩に報いきれるものではない。 未来永劫に輪廻して善行善業を積み続けても、報いきれるものではない。 hasunohaで答える程に頑張っているお坊様がこの程度(すみません、ごめんなさい)なので、現状の日本仏教界の内実を察するに十分ですよ…すいません。 意識の低いものが跋扈し、仏を貶めるだろう。 正法は、ロウソクの火のように弱ってこのまま絶えるのではないかと、 心配するばかりです。 門徒の恥は師僧の恥であり、師僧の恥は宗祖の恥だと思います。 碌な返答も出来ず惑わすようであるならば、黙していた方がマシです。 偉そうに説教みたくなってごめんなさい。 ただ反省はいくらしても、一円も掛からないので損はしないと思うのです。 私も道の途中ですので、頑張ります!合掌
納僧です。 普段、通夜・葬儀や回忌や棚経ばかりで、殿鐘を打つ機会が滅多にない中、今度大きな法要があり、おそらく殿鐘の配役が当たることと思います。 そこで、お恥ずかしい話ですが、殿鐘の打ち方について、下記の通りで合っているか確認して頂ければ有難く思います。 当日は慣らしをする時間も無さそうなので、今のうちに間違いなくしておければと思っております。 殿鐘三会 (一会目) 中 小 大 中 小 大 中 中 中 中…(点上) 中 小 大 (手磬交打)(点上) 中 小 大 (二会目) 中 小 大 中 中 中 中…(点上) 中 (手磬交打) 中 (三会目) 中 中 中 中…(点上) (手磬)小 大 いかがでしょうか。
私はあまり贅沢に興味がありません。理由はあまり面白さを感じないからです。 ただ、世間ではお金を使えば使うほど成長できるとか男としての器が広がる的な意見が多数を占めています。 お金を使わせるためのマーケティングなのかなと思うのですが一概に否定できないのも事実。 お酒もタバコもやめて精神状態はいいし、普段の食事も美味しい。別に高いものじゃなくても十分美味しいし、車も問題なく乗れればいいと思っています。 欲がなさすぎなんですかね。。。世間的には欲がある方が成功できるといいますが、それは確かだと思います。でもそれと幸せは別物なのかなと。 欲が強い方が幸せですか? 欲が強い方が達成感はあって楽しいと思いますが。 負け惜しみなんですかね。昔から欲しかったものがなかなか手に入らなかったから、手に入らなくても別の提案で満足するクセが身についた気がします。 これが良いのか悪いのか未だにわかりません。 お坊さんのご回答をお聞かせくださいませ。
こんにちは。「葬式仏教」批判についての質問です。 時々ネット等で「お釈迦様は葬式をしたりお墓を作ることを否定した。だから日本の仏教は本来の仏教からかけ離れている。」といったコメントを見かけますが、お釈迦様は本当に葬式やお墓を作ることを否定したのでしょうか? この話の根拠とされる涅槃経(現代和訳)を読んだのですが、お釈迦様は自身の葬式について非常に細かく指示をだしており、さらに「遺骨は塔を作ってそこに収めよ」などお墓を連想させる記述もあり、少なくとも葬式やお墓を否定しているようには思えませんでした。 以前からこういった「日本仏教は本来の仏教じゃない!」といった批判に疑問を抱いていたので、この場をお借りして質問させて頂きました。 よろしくお願いいたします。
お坊さんの回答をみてたら相談者が連続して、「今の苦しみは仏様が与える修行だ」という認識に、お坊さんの皆さんは全く否定されておられません。 「苦難は神が与えた試練だ」はキリスト教の考えではありませんか? 四聖諦を初めとする仏教の思想では現世の苦しみは修行とかいうのは否定されてませんか? 私は、相談者に修行だから我慢しろと言ってるように見えます。救いになってないのではないでしょうか? 苦しみはあるが、それを解決する方法があるとブッダは説いたのではないでしょうか? 生かじりの知識なので解釈を間違っているかもしれません。分かりやすく解説していただけないでしょうか?
いつもお世話になっております。先日お説教会にお参りした のですが、お導師様の「他の仏様は父性を持つが、阿弥陀様は 母性を持つ」と言う発言が気にかかりました。 他の仏様が父性を持つと言われているのは、厳しいからだ そうです。まるで、他の仏様は私たちを捨てる、というような 言い方だな、と感じました。 私が阿弥陀様のほかにお不動様も信仰していることを告げると 「でも、あなたが死に際に体が動かなくなる瞬間までそばにいて 導いてくださるのは阿弥陀様だけ」と言われました。 もちろん阿弥陀様の王本願は絶対だと信じております。 ですが、お不動様の功徳や利益についてまだ理解できていない のもあるため、「結局は仏界も父親なんてその程度なのかな」 と考えてしまっております。 一方では、「不動明王の体が黒いのは、私たちの住む穢土に 自らも身を沈め、救済任務にあたっているため」と説かれ、 聖無動尊秘密陀羅尼経の偈頌には、 「…念念歩歩所起罪 真言威力皆消滅 命終決定生極楽」とあり、 そんな冷たい仏様には見えません。 さすがにお不動様は来迎しないと思いますが… 他にも布教師さんの中に、他の宗派のことを 「きっと遊女が近づいてきたら『汚らわしい!』と追い返す」 とまで言い張る方もいます。でも愛染明王は遊女からの信仰が 厚かったとも聞きますし… どうなんでしょうか?ご意見お待ちしております。 よろしくお願いいたします。 余談ですが、本日仕事納めを迎えることができました! 三宝の御加護に感謝いたします!!
どんなに規則や法律などを作って、正しさを成り立たせようとしても、すべての者にとって、生まれてから死ぬまでなにもかも平等であれるようにすることが不可能なら、中途半端に法律や規則やルールなど作らないで欲しいです。どうせ不可能であるなら、自由に生きさせて欲しいです。 なにをしても良し悪し言われる。 めんどくさいです。 お坊さんからのご意見を頂きたいです。
先日、母が交通事故に遭い、京都の薬師如来様をお祀りしているお寺で祈祷していただきました。以前から疑問に思っていたのですが、神社は二礼二柏手一礼と知っていますが、お寺は同じではないのでは?と思いました。そもそも神道と仏教という事点で違いますよね?お寺の正しい参り方をお教えいただけませんでしょうか、また母の見舞いに行ったとき、すがる思いで薬師如来様の真言唱えているのですが、厳しい修行を積んだお坊さんでもないのに口にしていいものでしょうか。いろいろと無知で申し訳ありません。
こんにちは。 亡くなった人にもう一度会えるの方法が、なにかしらあるのではないかと考えてしまい、検索していましたら、そういう考えは仏教の教えに背くものとありました。 会えないのは当たり前なのに、少し悲しかったです。 やっぱり私が人生を全うするまでは、絶対に会えないのでしょうか。 はすのはでたくさんのお坊さんに助けていただきました。残された子供たちに主人の魂が宿っているというのもわかってます。でも、もう一度会いたいと思ってしまいます。 どうしたらいいのでしょうか。主人の死を受け入れられてないからなのでしょうか。 同じ様な体験をされた方は、どの様に過ごされているのでしょうか。
いつもお世話になっております。 先の霊視おばさんの件、 思い切って警察に相談しました。 警察官が声を掛けるだけでも抑止に つながるので、次見つけたら遠慮なく 110番して、とのお言葉を頂き、 いたので通報しました。 「皆さんが驚いてしまうので」 とお堂の中には入らないようお願いし、 しばらく周辺を一緒に探しましたが、 バディになってくれたお巡りさんと私は 見つけることが出来ませんでした。 さらに「うわっ、警察がいる!」と お客様を驚かせてしまい、おそらくお寺 の人も驚いたと思います。 また門外でお巡りさんと話している様子を 退勤する職員さんに見られてしまう、 という体たらくです。 お巡りさんは、 「他の警官も周囲を巡回しているので、 何とかなります! それに、霊感商法はあるけど、 悪霊やサワリなんてもんはありません! まして貴女、拝んでるんでしょ? だいじょうぶ!」と励ましてくれました。 呪詛は本人の元に還る(観音経より) とはよく言ったものです。 私の気持ちは呪詛だったんでしょうか? 正義感が強いね、とよく言われますが、 こういったやり辛さもあります。 ですが私には、確かに大好きなお寺や 仏様を護りたいという気持ちがあります。 お寺から被害者も犯罪者も出したく なかったのです。 なので余計に悔しいし、悲しいです。 次からどんな顔をしてお参りすれば いいんでしょうか。 私の行動は間違っていたんでしょうか? ご意見賜りたく存じます。
このようなサイトがあることを初めて知りました、お世話になります。 老齢の父の葬儀を以前からの母の言葉に従い、浄土真宗で執り行いました。 しかしその後の母の話がどうにも不審で調べ直したところ、真言宗の可能性があります。 分かっている、決まっているのは以下の点です。 この場合、今からでもお寺に相談して変更すべきでしょうか。 ・父は実家から遠くに引っ越した家族のため、菩提寺は近隣には無い。 ・永代供養をお願いする予定で、墓地もない。 ・母には何度か確認したが、毎回「浄土真宗」と答えていた。父は答えられる状態ではなかった。 ・四十九日法要はまだ済ませていないが、浄土真宗のお寺にお願いする手筈。 ・母は「南無大師遍照金剛」と唱えていたらしい(これを聞いて不審に思った) ・家に弘法大師空海(真言宗)の小さな写真があり、近隣の寺による真言宗の簡易経本を発見した。 ・父の親族は遠方のため葬儀に来なかったが、法要に来る可能性はある。 母が気に病みそうなので、出来れば安心させてあげたいところです。 ご指導のほど、よろしくお願いします。
こんにちは。 みんなの投稿、自分の投稿を読んでいました。仕事のことや何かと私、辛いんですけど何かが今までと違うんです。誰かの幸せ報告の投稿はスルーして絶対に読まなかった。妊娠報告の投稿、今までは間違いなくスルー。絶対に読まなかった。でも今日は読んじゃった。 よかったねー🐥 元気な子、産んでねー🐣 って心底、思いました。どこの誰か全然、知らないけど何かハッピーです。 私、とうとう壊れたか…と思わなくもないけど…。でも、やっぱり嬉しい。私がよく使う「でも」。プラスに考える→「でも」マイナス(諦め)。これ、よくないな…と思っていました。今日の「でも」は、自分否定→「でも」。いい「でも」な気がします。 うまく、まとめられないけど…。 ひとが、ひとを変えるというか気づかせるんだな、と思いました。名前も知らない、会った事がなくても。それで、同じことでも、見方を変えると180度かわる。「どう見えるか」は「どう見たいか」を心がけるか人生という修業の中で違ってくるのかもしれません。 ………。 うまく文章にできませんでした…。
私は黄帝内経(京都の仁和寺に写本所蔵、中医学の祖)にも記させている、陰陽五行説を大切にしています。 日本では科学の発達により味蕾に辛味が反応しないからと、味覚から辛味を排し、代わりにうま味を足した陰陽五行説を謳う栄養学者が後を絶ちません。 黄帝内経は心身一如や医食同源、陰陽五行の関係とバランス、季節等を大切にします。 日本は海に囲まれている為に、陸上のうま味より海産物のうま味(鹹味)に頼っています。 陰陽五行で謂うと鹹味は水や腎に分類し、水剋火で火に属する苦味や心を相剋(抑制)します。逆に、水生木で木に分類される酸味や肝を相生(生み出し)ます。 従って、鹹味のうま味に頼れば鹹味は比和(増幅され)、心は相剋されます。 その為に心を補うか、心の親である肝より相生する必要があります。 例えば、焼き魚やパエリア等に柑橘類を搾る等です。 陰陽五行説を活用すれば様々な組み合わせで、うま味は発生します。 しかし、外食や中食、家庭等の全てがうま味調味料〔味の素、調味料(アミノ酸等)〕に頼り切っています。 近年、精神疾患の増加、世知辛い社会を生んでいるのは上記より、うま味調味料に頼る事により、心を瀉し、相生させる為に肝を多忙にしているからだと考えています。つまり、和食にも要因がある。 元来、和食は大陸より教わったのが、南蛮貿易や文明開化により西洋と交わり発展しました。簡単に言うと、和食の産みの親は中国です。 なのに、陰陽五行を歪曲し、”唯我独尊”の間違った解釈である”自分だけがすぐれていると自負する事”である”自己中心”や”傍若無人”な態度に写ります。 また、『料理芝居(著:北大路魯山)』より、料理屋は下手でも風格がなといけないのはわかりますが、和食やラーメン等の職人の写真は、”実るほど頭を垂れる稲穂かな”と謂うのに、偉そうに腕を組んでいる人ばかりです。 心理学で謂うと、腕組みは不機嫌、守り、怯え等です。 その点で、料理の美味しさの3割は雰囲気と謂われ、雰囲気で美味しかった経験は誰しもあるはずです。 食への感謝は、作る側にもあると自負しています。 故に、傲慢な態度で雰囲気を大切にしないと、美味しいとは言えないのです。 以上より、家庭から和食が廃れ、世界遺産に登録してまで和食を守らないといけなくなったと考えます。 ご見解を、何卒宜しくお願い申し上げます。
質問させて頂きます。 私は結婚して16年になります。 夫婦いざと言う時の為、普段からの 先祖供養等の為にお寺に入りたいと 主人と常々話をしています。 でも、お寺の選び方等が全く不明で ずっと悩んでます。 20代後半時に友達からS宗教の事を 聞かされ何度も足を運んで話を聞いたりしましたが納得いかず・・・ 次、主人の叔父さんにKに誘われ、 付き合いで行ったのですが怖い思い をしながら断り・・・ 今はNSに入っていますが前の2つ と変わらない感じで抜けたいです。 主人曰く、新興宗教とやってる事が 変わらないと(私も同じ考えです)。 信者獲得で発表会で何人入信した、 その為のイベント等は大々的。 他宗教は邪宗で批判的、他の人を 幸せにしたいなら勧誘はするべき。 お題目、勧誘が出来ないと功徳が 無い等。 勧誘とかするつもりないですし、 新聞とるの当然と強制されたり、 自分の実家宗教を間違ってると否定 するのは間違ってると思うのです。 実家が入ってる宗教に入るべきとも 思ってないので何かあった時の為に 夫婦で生前に入りたいのです。 私も主人も詳しくないですが仏教が 好きですしお寺も大好きです。 お説法を聞いたり、お経を唱えたりするのも好きですし気持ちが落ち着きます。 でも今は仏教やお寺と言うものが、 信用出来なく嫌いになりそうです。 お話聞いてみたいと思ってもどうしたらいいのか直接聞けるとなると 上記の感じの所ばかりです。 今の状況を打破したいのですが、 お寺の選び方や直接お話聞いたり する事が出来たり等という方法は ありますでしょうか? 宜しくお願い致します。 長文、乱文失礼致しました。
こんにちは。少しメンタルが弱めなので、お手柔らかにお願いします。。 近頃、たくさんの悲惨なニュースがありますよね、戦争とか、人を殺したり、誰かが叩かれたり、自殺したり。。 そしてそこには大抵、被害者と加害者がいて、善人と悪人がいて…第三者も含めて加害者を責める構造が出来上がります。 でも、少し考えると、善人と悪人との違いは唯々、生まれた場所や環境や境遇や、タイミング…だけだと思うのです。 それは誹謗中傷をしている人間さえも事情があることを意味します。つまり…みんな辛い思いをしたくてしてるわけないし、人の性格だって容姿だって思想だって遺伝子と環境が由来する。要するに不可抗力であることが多い…気がします。 だからどれだけ最低な行動をとっても、人間にほんとうの意味での悪者はいないのでは…と考えたいのですが(誰かを許せないような社会の風潮が怖くて…)、お坊さんの貴慮をお伺いしたくなりました。ぼくの考えはやっぱり誤ってますか?回答お待ちしております。
私の付き合っている彼は、実家がお寺です。 今は全く別の仕事をしていますが、いずれはお寺を継ぐようです。 私の家は、宗派も違いますし、ましてや法事等で家族が集まった時にお経を読む程度で全く知識がありません。 付き合って5年程経ちますが、つい先日彼のお寺関係の友達に、結婚したら得度するの?と聞かれて、その時は恥ずかしながら得度の意味すらわかりませんでした。 よく周りからお寺に嫁ぐのは大変だよ?覚悟できてる?と言われます。 彼についていく覚悟は、できていますが、あまりにも知識が無さ過ぎて何をどう覚悟していったらいいのか正直わかりません。 そこで、2点質問に答えて頂けると、心の支えとなり大変助かりますので、よろしくお願いします。 *嫁いだら得度(?)をしないといけないのですか? *一般家庭に嫁ぐことと大きく違うところって何がありますか? お忙しいとは、思いますが、少しでもお力添え頂けると助かります。
初めて投稿させて頂きます。 お悩み相談、ではないのですが、在家の信者として見聞を広げたくお尋ね致します。 先日、スーパーで買い物をしていましたら、作務衣に折五条を掛けて買い物をしているお坊様をお見掛け致しました。 私共信者は、お寺から頂きました半袈裟を掛け、拙いお経を唱えさせて頂いておりますが、半袈裟を掛けたまま外出する事はないかと思います(お遍路さんは別だと思いますが)。 折五条はお坊様が御身分を示すために黒衣(改良服?直裰?)の上に掛けられるものだと思っていましたので、スーパーで作務衣の上に折五条を掛けられておられるお姿にちょっとした意外性と、反面親しみを感じたあまり思わず合掌して御挨拶をしてしまいました。お坊様は満面に笑みをたたえ、やはり合掌をもって挨拶を返されました。 ここで質問なのですが、お坊様はどの様な時に折五条を掛けるのでしょうか。また、作務衣の上に折五条を掛けて買い物をなどをする事も珍しくないでしょうか? つまらない質問ですが、御教示頂ければ幸いです(長文済みません)。