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hasunoha 問答検索結果 : 「お坊さん 苦しみ 」
検索結果: 1391件

子供の名づけ、後悔しています

生後5ヶ月になる娘の名前で、いまだに後悔しており、ずっと考えてしまっています。 娘の名前は、最近よくある名前だと思います。 お坊さんにだけ見ていただけるようにプロフィールに記載しました。 妊娠中、名前を考えてはいたのですが、全然イメージができず…候補は3つほどあげていましたが、いまいちピンときていませんでした。またとても情緒不安定だったこともあり、名前を一生懸命考えることができていなかったように思います。 出産した後も、子供が生まれたということになかなか気持ちがついていかず、コロナ禍ということもあり誰も面会できなかったので、一人で病室で泣いてばかりいました。 そんな中、娘を見ると、私の気持ちなどよそに、とても穏やかに寝ていました。その顔を見て、穏やかな、癒されるような名前がいいかなと考えて夫とLINEで相談しながら、考えました。 決まったのは、候補にはなかった名前です。 少し迷いもあったものの、これでいいのかな。と思って出生届を出しました。 しばらくはよかったのですが、じわじわと、「つけたかった名前にすればよかった…」「これでよかったのかな…」と思うようになりました。 また、私が中学生のときの同級生と同じ名前ということも気になってきてしまいました。漢字は1文字目が一緒です。 その子は特別仲が良かったわけでもなく、連絡先も知らないくらいですが、とてもキラキラした子です。どうしても頭の中にその子のイメージがずっと浮かんでしまっています。 娘を呼びかけるたびにです。それも苦しいです…。 そんなこと、名前を決める段階でわかっていたことなのに、そのときは、「まあ大丈夫かな」と思ってしまっていたのです。 娘は今後わたしと同じ地元で暮らすことになるので、そこでもし私の知り合いがいたら、「あの子と一緒の名前じゃん」と思われてしまうのでは…。 こんなことすら考えます。 つけたかった名前もあったことで、さらに後悔が消えません。 改名は考えていません。娘のことは、とてもとても大切な存在です。自分がきちんと名前を受け入れなくてはと強く思っています。 私はどうしたら、きちんと前を向いて、娘を名前ごと大切にできるでしょうか。

有り難し有り難し 22
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大切な家族

昨年の10月に父を亡くしました。急死でした。享年76才でした。よく働く父でした。退職してからも仕事もたまにしてまして、仕事先でなくなり、私達家族が駆けつけた時はすでに亡くなってました。父の身体が原因だったのですが、急にでしたので、家族皆、とてもショックでした。元気に暮らしていましたので、お迎えがきたのだと、父に言葉をかけ、気持ちを表しました。葬儀も済み三十五日になって今度は母が体調を崩してしまい、私達家族は疲れが溜まっ他のだ土、母の体を休ませました。何日かしても様子がおかしいので病院に連れ行き、脳梗塞になってました。幸いに後遺症も目立って見られなかったのですが、その日を境に母は家事全般をしていましたが、家事や日常生活がままならなくなりました。脳梗塞にもなり、直ぐ回復とはいかないので、私達も見守り、家族で協力して家の事もしてまして、私も実家に週に一度ですが、行っています。言葉も会話も少なくなり、寝て過ごす日々が続き、下のそそうもあり、またまた心配になり、検診の先生に相談して、心療内科を進められて検診して認知症でもない事が分かりホッとしました。しかし、母の様子は変わりません。鬱状態なのです。私は変わらす家族で協力して母が良くなって欲しい思いで見守り生活していますが、私達、家族の言葉も母には響きません。母は私の妹と妹の子供達と暮らしています。私の娘も離れては居ても電話で母と話すようにしたりしています。数ヶ月経った今もあまり変わらないのです。父が亡くなってショックなのです。私達もショックでしたが、母とはやはり違いますね。長年、夫婦だったのですからね。私達も早く元気になって父が亡くなっても元気に過ごし欲しいんです。心配と不安から私達家族は、母もうこのままなのだろか?治るのだろか?と思います。いつも明るい母だったので、また、母と会話や色々な話し、出掛けたりして、父が亡き後もそう過ごして行けたら。いいと思っています。時間や時期が解決してくれるのでしょうか?母の気持ちなんですが、お坊さん方、善きアドバイス、善きお言葉を頂きたくお願いいたします。私、家族がこれからも頑張って母と一緒に明るく暮らせるように

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お経と愚痴

毎朝神棚に祀ってある荒神様と弘法大師様に『おんきんばやそわかー』とお経をあげている上司との接し方についてご相談です。 1日には決まったお寺へお参りに行き、 年に1度は高野山へお参りに、 毎朝毎晩仏壇にはお経をあげている。 自分の親は立派なお坊さんだった、と言う方なのですが… とにかく愚痴が多く、トラブルがあれば人のせい。 どんな些細な事でも自分は全部知っていると思われたくて、 相手の言っている事を全否定し、自分の論を押し付ける。 気に入らないとどのような場面でも怒鳴り散らし、 (銀行の窓口が少し混んでいるだけでも怒鳴り散らし、店長を呼ぶ始末。) 口癖は『金がない』『金持ちはクソみたいなケチが多い』『あいつは○○』←少しでも自分を立ててくれない相手には差別用語。 『何で俺は熱心にお参りしてるのに宝くじ当たらないんだ』 二人しか居ない職場なので、避けるわけにもいかず疲れはててしまいました。 お坊様方、私は、先祖に手を合わせることしかしたことがない者なのですが お経をあげれば愚痴をこぼしても良いものなのでしょうか。 愚痴やマイナスな言葉って、口から出ただけで自分の回りに嫌な空気を撒き散らすだけだと思うんです。 義務感でルーティーンになっているお経を、完璧に覚えてあげることより、手を合わせる気持ちと、何か前向きな言葉を発することの方が よっぽど素晴らしいと思うのですが、どうなのでしょうか。 お坊様方だったら、どう考えてこのような場所で嫌な気持ちにならないでいられますか? どうぞアドバイスをください。 よろしくお願いいたします。

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仏教を学んでも人格者たり得ない私。人格育成する良い方法は?

ご質問させて頂きます、ハルソラと申します。 タイトル通り、仏教を学んでも人格者たり得ず、浅はかな自分に嫌気すらさしてしまいます。 私のしている仏教の学びとは、巡礼(四国や各観音霊場巡り)、市販の仏教書、座禅、説法会や座禅会の参加など4〜5年ほどです。 仏教では「慈悲の心(思いやり)」を大切にしますが、その慈悲を他者に向けることが、私にとって難題となっており、些細な事から人間関係のトラブル、軋轢が生じることがあります。 どうして慈悲の心を持つ事が出来ないのだろうと自分なりに考えてみますと、まず自分の人生に感じる圧倒的な不幸感です。 私の親は冷淡で、愛情深い親ではありませんでした。その事で何十年と悩みましたし(自身の存在意義も含めて)社会に出てもうつ病、非正規雇用を転々、一生懸命やったスポーツもうまくいかない等ありました。 しかし衣食住に不自由はないので贅沢な悩みかもしれません。 さらに一般社会においては会社でも、路上でもマナーやモラルのない人を目にする事が多く、そのような人達に差別意識を持ってしまっているのです。 そのため人に何かをしてやりたい精神があまり養われないようです。 説法会や座禅会で、お坊さんと触れ合う機会も増え(しかしいつも気軽に話せる訳ではない)そのような方々の話しや態度をみて見習いたいと思いつつ、すぐに忘れてしまいます。 私が「慈悲の心」を身に付けたいのは、自他の救いのためです(どちらかと言うと自分。←これがダメなんですかね?) どうしたら心から他者をいたわり、慈しむ事が出来るのでしょう? ご教授よろしくお願い致します。

有り難し有り難し 75
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仏教徒に対する疑問パート8

前にウィトゲンシュタインの形而上学の話をしたお坊様がいて その人が形而上学の世界を考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってるといってましたが そのウィトゲンシュタインの形而上学の話でさえ形而上学から来た考えじゃないですよね? だからその考えが必ずしも正しいとは思わないんですがもしもそれが正しいなら 悟りは考えたり言葉にしたり探そうとすること自体間違ってる・・・ それなら菩提樹で瞑想して悟りへ行けるのも間違ってるんじゃないですか お釈迦様が怪しくないですか? 自殺大国日本を救うような奇跡を見せたりすればなんとなく信じれるんですが 都合よく無記って言葉で片付けて良いなら どんなカルト宗教も成立しますよね わざわざアビダンマや大乗や密教やらが一貫性のない色んな経典使って 色んな山の麓からアプローチして悟り目指す必要もない 最終的には無記なんですもん わかんないですもん  ウィトゲンシュタインの話しが正しいなら 形而上学の世界は考えるのも言葉にするのも探すのも色んな経典で計るのも悟りが存在することも間違ってませんか?そもそもそんなもの無いのでは・・・ 有るんだったら誰が作ったんですか?人間から神様になったお釈迦様ですか?それともこの世の最初から有った原因のわからない結果ですか?それとも過去仏ですか?やはり無記ですか・・・ 本当に悟りを開いてる人がいたら今のこの戦争や犯罪や自殺が蔓延する ナイトメアストリートダンジョンな世界を救ってると思うんですけどね

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「アブラハムの宗教の唯一神」の仏教的解釈を教えてください。

仏教は世界に名だたる宗教ですが、最も信者が多い宗教は何と言ってもキリスト教、ですよね?またイスラム教もかなりの影響力がありますし、それらの始祖たるユダヤ教も、アメリカの政経界に強い影響力を依然として持っていると聞きます。 そんな世界的な影響力の持つ、これら一神教が冠する「アブラハムの宗教の唯一神」に対して、仏教がなんのアプローチもした事がないとは個人的には考えにくいのですが、なんらかの仏教的解釈を加えて、仏教の中での位置づけ、みたいなものが決まっていたりするのでしょうか? ヒンドゥー教や神道などの多神教の神々を仏教の中に取り込んでいくのは、日本でも本地垂迹の歴史等があったように、既にやられて来たことですし、個人的にもそこまで波風が立つような事ではないと思います。 が、流石に「アブラハムの宗教の唯一神」を仏教の中に位置づけようとすると、各一神教徒から「そうじゃねーよ唯一神なんだよ!仏の中に入れるんじゃねーよ」と大バッシングが食らいそうで、なかなか難しさを感じます。 他宗教との兼ね合いの話になってはしまいますが、もし仏教として果敢に唯一神を取り込もうとした歴史や、または現役のお坊さんとして私はこう考えているなどありましたら、小生にご教授頂けたら幸いでございます。 ※最後に、小生はあくまで仏教や神道、一神教に対してはズブの素人です。質問文に根本的な間違いがあるかも知れません。その際はお手数ですがご指摘願います。

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仏教における女性蔑視?はいつから?

毎度お世話になっております。 お坊さんと匿名でお話ができるというのがなかなかに楽しくてつい頻繁に利用してしまいます。 私は僧侶ではありませんが、仏教のことを、ちょこっとずつですが勉強するのが趣味なんです。この趣味がなかなか共感されないんですよ。 今回はちょっと学問的な質問を。 タイトル通りですが、仏教の教義では女性を蔑視、と言えるかどうかは分かりませんが、宗教的素質の低い存在であると見なしているということが、現在どうかはともかく、歴史上にあったことは間違いないと思います。 そのような考え方がいつから、どこから出てきたのかな?という質問です。 いわゆる初期仏教で既に宗教的素質に男女差はあったのでしょうか。 大乗仏教に入ってからなのでしょうか? 大乗からだとするとインドから? 中国から? そのあたりのことがちょっと知りたいです。 よく女性蔑視として挙げられる例として、たとえば五障とか変成男子とかいう言葉は、ウィキペディアを見る限りではお釈迦様の思想ではない、となっていますが、初期経典などに同じような考え方は全く見られないのでしょうか? 一応強調しておきますが、現在の仏教が女性差別に加担しているかどうかという話ではなく、また戒律の数や教団の違いといった現実的な差異ではなく、あくまで悟れるか悟れないのか、という宗教的な素質に関わるところの差が、どこからあったのかな? ということです。 詳しい方がいれば、ちょっとした参考でも教えてほしいです。

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大人ってなんなのでしょうか?

私はもうすぐ20歳になります。 しかし、それを受け入れることができません。20歳になるのがこわいのです。 実感は0歳が1歳になるのとなんら変わらないのかもしれません。毎年のように、家族や友人から「おめでとう」と言われ、ケーキを食べて、また1日が過ぎるのかもしれません。 しかし、私にとって20歳の区切りはとても意味のあるように思えてならないのです。 このことが頭を巡り始めた頃は、おそらく「責任や就職などの大人になったら乗り越えなければならない壁から“逃げたい”」という気持ちがあったのだと思います。 しかし、今はその気持ちよりも「大人になったら見えなくなるものに対する“恐怖”」が強いです。 私にとって大人は汚いもののシンボルであり、自分はこうなりたくないもののシンボルです。大人になったら見えなくなる何か大切なものがあるはずなのです。 なので私は「大人とは何か」という疑問に答えを出そうと考え始めました。 その答えが分かれば、大人を受け入れられる何かが手に入るかもしれない。そう思います。 しかし、一口に大人といっても様々です。未成年の子供を指して「あいつももう大人だなぁ」という親もあれば、いい年した部下に「子供じゃないんだから!」と怒鳴りつける上司もいます。 多分「大人」と「子供」の境界はとても曖昧なのかもしれません。 なので大人のお坊さんたちに何か「大人とは何か、どう定義するか」のヒントをいただきたいのです。 よろしくお願いします。

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地獄について

お世話になりますm(  )m 今臨死体験の本なども読んだり ネットでも見たりするのですが 地獄についてどう思われますか? 私は地獄があってほしい派です 世の中には人を平気で苦しめて 平気でいれる人がいます まさに悪魔そのもので 自分には理解できません 極端な話がテロリストなど イスラム国の人達など あのような残虐な事が平気で出来ることが 本当に信じられませんし あのような事を平気でしてきた人達が 何の裁きも受けないのはあり得ないと 私は思います 同じ人間なのに どうしてあのような事が出来るのでしょうか 私は悪いことをすれば 必ず報いを受けるべきだと望んでいます 完ぺきな人間はいませんから 多少の悪は仕方がありませんが そうゆうレベルではなく もう「 死んでしまいたい 」と その人をおとしめてしまうような 詐欺だったり、泥棒だったり 苦しむことを平気でやった人に対する思いです 殺人は相当に罪が重いと 私は思います しかしネットで見たのですが 地獄は存在しない 人はみな天国へ行く どんなに悪いことをした人でも 天国へ行くと書いてありました ( 死後の世界や天国は信じる方ですが 地獄は存在しないと言われる方です ) と書かれているのを見て そんな訳はない!!と 思いました、納得できません 今自分が読んでいる本( 臨死体験の本です、カールベッカーさんの本です )には( まだ読んでる途中ですが ) 地獄が存在すると書かれてありました ( 臨死体験された方が見てきた ) 鬼の様な人たちがいて その人?により そこに拷問を受けて 苦しんでいる人たちがいた  と書かれてあります グロテスクではありますが 散々悪いことをしてきた人たちには この様な裁きを受けるべきだと 私は思っています!! お坊さんはどう思われますか? よろしくお願い致します

有り難し有り難し 149
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哲学専攻の友達に論破されてしまいました。

 僕は日々陰鬱に生きていて、変わらなければならい節目を迎えた時、生きる意味について考えるキッカケを授かりました。生きる意味というか、今、生きているということに納得する理由がほしくて。僕はその理由をなんとなく自分の中に見出しました。  それは「人は善を為そうとし、真に為し得ない。優しくあろうとし、真に優しくあれない。愛そうとし、真に愛せない。」その善を為そうと、優しくあろうと、愛そうと努力することこそが生きる悦びだと、僕はそう納得していました。そしてその「生きる意味」を職業(カウンセラー、精神科医、臨床心理士、お坊さんなど)にしようと、大学を入り直すことさえ考えました。  しかし、その友達は、僕の生きる理由を「現実を決済する」こと、僕が信じる「美しいものを美しいものだと感じる心そのもの」を妄想と否定し、浄土、成仏の存在を真っ向から否定しました。  僕は、その友達の考えを否定することはできませんでした。かといって僕の本来持っていた考えを否定する気を起こそうとも思いませんでした。  またある人は「誰かがあなたに、本音や弱音を告白しているときに絶対に言ってはいけないことがある。正論です。」と言いました。  浄土、仏性、成仏は、そして仏教は、自己満足させるためだけの嘘なのでしょうか?美しいものを美しいものだと感じる僕のこの心は妄想でしかないのでしょうか?  それは僕が在る、と考えれば在る、のだと信じておりますが、僕はこの途方もないやるせない気持ちをどうにかしたいのです。  僕は恐らくこの(実存哲学?という)正論を信じると一生不幸だと思い、しかも僕はそれに対してどうしようとすることもできないのです。  僕は、仏様から授かった自分の寿命を全うするために死ぬまで生きようと思っておりましたが、その考えが不安定にならざるを得ないのです。  僕はこの儚い気持ちにどう向き合えば良いのでしょうか?お智慧をお貸しください。  長く稚拙な文章となってしまい申し訳ありません。また仏教思想を自分勝手な解釈で捉えております。それは違うというところ、誤解があれば、感謝と敬意をもってお説教を受け賜わります。 便宜的に、思想的に、僕はその人を友達だと書きましたが、本当はツイッター内において、フォローフォロワーの関係にすらなっていない、赤の他人です。 (´・ω・`)...

有り難し有り難し 78
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二回のご回答も何にもならず・・・

自分の考え方や生き方をそうしろと言われたからと言って、なかなか変えられるものではありません。 お答えを聞いて、じゃあやってみようと思ってそれを実行しても自分には何の実りにもなりませんでした。 私の家の近くに、ちょうど念仏を唱えて下さるお坊様がいたので、お話を聞きに行きました。 11時に予約をとって行ったのですが、お話されていることがどう聴いてもご自身がやってきたこと、やっていることの話ばかりで、こちらの話を聞いていただけませんでした。何のためにここまで来たのかよくわからなくなりました。 自分はこれだけのことを知っている、これだけのことを今やっていること、私も昔はこんな人間だったと、苦労話、説法とはなんだろうと、何だったのだろうと考えさせられましたが、答えは出ませんでした。ちなみに15時に解放されました。 結局は誰かに救いを求めても誰も助けてはくれないということ、死にたいと思う心は変えられないということはよくわかりました。 死にたいと思ったらその場で刃物で心臓を突き刺す勇気をください。 走行中の車から飛び降りようとしたことも何度もあります。 私はもう人間ではないんでしょうか・・・ 死しか考えられない。、早く死にたいです。

有り難し有り難し 318
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人間不信が治りません

とても長文になります。失礼致します。 長年人を信じることが出来ません。原因がいくつかあります。 1つ目は親の事です。幼い頃母が離婚し現在の父親と再婚しました。父親も再婚です。前妻との子供の方が可愛いようで、普段は絶対に遊びに連れて行ってくれることが無いのに、前妻との子供達の事は毎月1回必ず私たちの住む家に泊まりに呼び、遊びに連れていきます。 こんな状況なのに父親の実家に帰省すると仲のいい家族を演じたいのか、頻繁に話しかけてきて子供ながらにうんざりしていました。 この頃から父親の事は一切の他人として考えていたのですが、高校生の頃父親から性的暴行未遂を受け、男性不信になりました。この父親と母親の間に私と年の離れた弟が産まれた為、生きていく為にも母親は離婚をしません。 2つ目は中学生の頃です。小学生の頃から学校で毎日遊ぶくらい仲の良かった男女の友人達に裏切られました。 この2人とは別に幼馴染がおり、私はその子のことが好きでした。でもその子には好きな子がいたので、迷惑をかけないように言わず仲のいい友人のままでいようと思っていました。 幼馴染がいない所で好きな人の話になり、心を許していた友人達だったので絶対に内緒にするという約束で話しました。その日を境に無視が始まりました。家族の事もありもう何を信じたらいいのかわからなくなりました。 この頃から現在までずっと人の視線がとても怖く、目を見て話す事が出来なくなったり、家族や親しい友人以外の他人と話す時極端に声が小さくなってしまったり、少し離れた場所で話をしている人がいれば私は何かしてしまっただろうかと不安になったりしてしまいます。 社会人になり、就職をしたものの会社の行事でスカートや水着を強要され男性不信と人間不信が加速してしまい2年経たずに退職。 次の職は入社してみると年間10人近く退職するような場所だったようで、年功序列と贔屓が酷く、努力をしても全く報われず、仕事中涙が止まらなくなった事があってから4年で退職してしまいました。 世界にはもっと酷い目にあっている人も沢山いることはわかりますが、正直今自分の人生は一体なんなんだとひたすらに辛いです。 せめて人の視線を気にせず、人の目を見て話せるような普通の人の生活を送りたいのですが、どうしたらいいのでしょうか。

有り難し有り難し 14
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