はじめまして。花坂 埖(はなさか ごみ)と申します。 どうぞよろしくお願いいたします。 わたしは現在、とあるWEBメディアでライターとして活動しています。hasunohaの存在も、そのメディアの編集者から聞き、はじめて知りました。 そんなわたしが今回お悩み相談したいことは、 「大好きだった言葉とうまく向き合えなくなった」です。 わたしは幼少期、全く友達がいませんでした。 そんな中で友達の代わりになってくれたのが、本の存在でした。本を読んでいると、自分が寂しいことを忘れ、自由になれた気がしました。 いつしか本だけでは飽き足らず、インターネットの誰かが書いたブログ、週刊誌の記事……とさまざまな言葉を読むことが好きになりました。 またわたし自身も手紙を書いたり、作文を書いたり、言葉を書くことがかけがえのないことになりました。一番好きなことではなかったけれど、一番得意なことだったからです。 わたしにとって言葉を読んだり書いたりすることは、世界とうまくつながることでした。 だけどある日、突然言葉を読むことができなくなりました。急に自分は最低な人間で、言葉を読んだり書いたりする価値がない人間のように思えたからです。 あんなに楽しいほどにするすると言葉を読んだり書いたりできていたのに、それがとても苦痛な行為になりました。言葉を読んだり書いたりすることができないわたしには、存在価値などないと思いました。一時期は、言葉を通して世界とつながるのは諦めようと思いました。 だけど、わたしはやっぱり言葉が好きです。今でも言葉を読んだり書いたりすることにしがみついています。たぶんそれしか打開する方法がないからです。 それでもやっぱり、言葉を読んだり書いたりすることがとても苦しく、辛く、そして言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分がとても、悲しいです。 お坊さんは、好きなことができなくなったことはありますか?そして、言葉を読んだり書いたりすることができなくなった自分はこれからもできないままなのでしょうか?そして、大好き なことができなくなったWebメディアの読者の方へもメッセージをいただけると幸いです。 長々と失礼いたしました。どうぞ、ご回答いただけたら幸いです。よろしくお願いいたします。 花坂 埖
以前にもこのサイトに投稿させてもらった者です。 母親の死から一ヶ月少々経ちました。 ですが、強烈な罪悪感が毎日毎日、自分の胸をえぐり切りきざみます。 数分違いで看取れなかったこと 死を察して、寂しく孤独を感じていた母親に付き添わなかったこと どちらも僕がその気になればいくらでも出来たことなのに、自分のことを優先するばかりに、それをしなかった。 その結果、母親を孤独と寂しさの中で誰にも看取られず、逝かせてしまいました。 今更それを嘆いても、後悔しても、どうしようもない。 でもどうしても、頭の中が一日中、そればかりなんです。 勇気はないですが、常に勢いに任せて、自分で命を絶つ考えを持ちながら生活しています。 というか、その日をやり過ごすのが精一杯で・・・ 僕もいつか逝く時は、独りで孤独に死ぬことになるんだろう?とか、食事をするにしても、あんな親不孝なことをしておいて、ご飯なんか食べる資格が俺にあるのか?とか、すべてが悲観的にしか考えられないんです。 日が経つにつれて・・・とかよく言われますが、僕の場合は日に日に罪悪感が大きくなっていくようで、そのうちどうにかなってしまいそうです。 もちろん、まだ母親が逝った事実も受け入れられてない状況で・・・ もう二度と逢えないと思うと、寂しくてたまらなく・・ 母親の 『寂しい』 『何でまだ死ねないの?』 『家に帰りたい』 この言葉が一日中ループしていて、恐ろしく辛いです。 僕は生に値する人間なんでしょうか? こんな親不孝な自分が、のうのうと生きていていいんでしょうか? こんなこれ以上ない親不孝物の息子に、この先の未来はあるのでしょうか? また、未来があっていいのでしょうか? これほど辛い毎日で、生きる意味は?
たったひとりの娘が亡くなり、ひとりぼっちになりました。今は手続き上のことなどをしながら、ぼんやりしながら生きております。せめて娘の供養をきちんとしてあげたいとは思いますが、生きる目標を失くしました。娘が居なくなったのに、お腹が空く自分が、睡魔に負けて眠ってしまう自分が、息をしている自分の存在が苦しくてたまりません。私のことを心配してくれている親族や友人、職場の上司や同僚のことを考えると、身勝手なことはできません。いつか時間がこの痛みを癒すだろうこともわかっています。でも、癒されることを私自身は望みません。誰にも迷惑にならないなら、今すぐに娘のところに行きたいです。
僕は寺息子で、よく「苦しいこの世から抜け出すために仏に祈ろう。そうすれば来世で救われる」と父親が説いていました。しかし、子供の頃、「じゃあ家族と旅行したりしてる時も苦しいの?」と聞くと、親はなんとも言えない表情を浮かべていました。どうにもならない苦しみが多かった昔とは異なり、今の世の中ではある程度の幸せは保証されています。ならば、来世に期待したり人のせいにしたりするのではなく、自分に原因を見出し、現世をいかに楽しめるかを考える方が良いのではないでしょうか。また、恐らくそういった「今を大事に」といったような仏教概念は存在していると思われますが、そもそもの仏教の存在意義と矛盾してはいないでしょうか。重ねての質問申し訳ございません。よろしくお願いいたします。
私は今、看護学校2年生です。 学校に入学して、はじめてできた友人(Hとします)は優しくて考え方や価値観も素敵で、私にとってとても大切で、大好きな子です。お互いにいいところも悪いところも言い合える仲です。平日は学校が終わってから毎晩私の家で課題をしたり、話をしたりしています。休日もかなりの頻度で遊んでいます。これから先もずっと一緒に居たいです。 しかし、最近よく私の無神経な言動から喧嘩をしてしまうことが多いです。というのも、Hが他の子と仲良くしているのを見ると私が嫉妬するようになったからです。Hが私以外の子と遊びに行った話、ご飯を食べに行った話など聞いているとモヤモヤして、嫌な気持ちでいっぱいになります。はじめは黙っていましたが、Hに「最近どうしたの?元気ない?」と聞かれ、嫉妬しているということを打ち明けました。それに対して「あなたが1番大好きだよ。嫉妬しなくても1番だからね。」と応えてくれました。とても安心できて、イライラやモヤモヤはしばらくおさまっていたのですが、最近になってまた嫉妬心が出てきました。 今度、いくつかの病院へ実習に行くのですがそのグループ分けでHとは1つも同じグループではないです。また、Hは仲のいい子と同じなようで、グループに分かれた時楽しそうな姿を見てとてもつらくなります。Hが何も悪くないことは分かっています。しかしどうしても不快な感情が出てしまい、心にもないことばかり言って喧嘩をしたり、Hを傷つけたりしてしまいます。 大切なのに嫌なことばかり言ってしまって、Hにとって私が邪魔なのではないかとも思うようになりました。学校を辞めたい、死んでしまいたい、もう邪魔はしたくない、そんな気持ちでいっぱいで今どうしたら良いか分かりません。 学校のことなのだからグループ分けなど気にせず取り組むべきなことも、嫉妬心など子供っぽいワガママな感情であることも理解はしているつもりです。しかし、Hのことは本当に大好きで、はじめて自分より大切だと思えた人です。もう傷つけたくないです。ちゃんと彼女のことを考えられるようになりたいです。何か助言を頂けないでしょうか。よろしくお願い致します。
先日自分のことを小さいころから苦しめてきた母親を殺害しようしました。 しかし結果的にはできなかったです。痛めつけることだけでした。 やつを床に強い力で踏みつけ、それなりの力で殴って、蹴り続けました。 悲鳴を上げて、叫んで、呻いてました。 本当は殺害する気だったけど、いざ踏みつけていると何か重さのようなものを感じてできないとわかりました。今目の前で動いてるものを一生動かなくすることの大変さというか。 途中で痛めつけることに方針を抱え、今でも不完全燃焼ですがいくらから痛めつけて帰りました。 やつは追いかけてきてどこに住んでるのか連絡先を教えてほしいとか、父親と連絡を取っているのか聞いてきました。 自分は歩きながら住所も連絡先も教えず、父親との連絡も「知らない」とだけ答えました。 本当はここでもう少し殴るべきだったと思います。 そしてちゃんと生活しているのか、幸せに暮らしてるのか聞いてきました。 子供でまだやつの家に暮らしていた時けなして、追い詰めて、苦しめてきた人間が今更そんなことを言ってくる。本当に頭に来ました。でももう外にいて人もいる。自分にそれを見られながら殴る気持ちは整理できなかった。 自分は笑いながら、幸せに暮らしてるし、普通に生活してるとか答えました。 何度もそれを聞いてきましたね。本当に殺してやりたい。今思い出しても胸糞悪くなってくる。 最後にヒステリックに自分がいなくなればいいの?!とかわめきだしました。 意味がわからなかった。もとから自分の周りにいない人間のはずなのにいったいどこにいたというのか。 「なんでそんなことを聞くのか」とキレると奴は帰りました。 幸せに暮らしてるのね、それだけわかればいいからと言って。 奴を痛めつけてるとき、リビングにはTVがついていた。それも許せない。奴にはまだまだ年齢からして30年近くは人生を楽しめる。 日本はやさしい国だ。年をとっても快適に暮らせる制度、環境はごまんとあります。 まだ足りないです。今回のことで実際に殺害することは難しいとわかりました。 だけど痛めつけ足りない。次は警戒されて難しい。今回はインターホンで自分を名乗って入った瞬間殺しかかりました。 次は難しいが奇襲しかないと。 だけどそれだけではできるかわからない。 何か、何か最高の復讐を教えてほしいです。 今回のことで自分に人は殺せないかもと感じました。
2015年の4月に離婚し、ばつ二回になりました今は一人で派遣社員の仕事してます、二回の結婚で実の子供が三人いまが子供たちにわ 父親らしいことは何一つ出来てなく養育費も渡してない状況ですこんな自分が情けなく子供たちに申し訳なく日々、死にたい気持ちと格闘してます。 でも死ぬ勇気がない自分が情けなく思います こんな自分がこの世の中、生きてる意味有るのでしょうか、こんなくそみたいな世の中、生きてる意味有るのでしょうか?お金がないと何も出来ない世の中…
私は恐がりの癖に暇な時間怪談話などの朗読動画をよく聞いていました。 ある日聴いた内容が目が見えない霊なのでその霊知ってる人間だけを探し殺しにくると言った内容でした。 その朗読を載せた人は次は自分のばんだと思い少しでも生存率をあげるためにのせたと言っていていつその霊が私の前に来るのかと思うと怖くて怖くてたまらないのです。 成人までに髪伸ばしたら?と親に言われたのですが、その霊は後ろ髪をのばしてると掴まれるといったことで女なので剃ることはできないのでショートカットです。 聴かなければよかったと後悔しても遅いしどうすればよいのでしょうか。 本当に、霊が殺しにくるなどのことはあるのでしょうか? ここ毎日そのことが怖くて怖くてずっと考えてしまいます。
前回の質問でも書きましたが、私には難病を持つ息子がいます。 息子は遺伝子の突然変異が原因といわれ、親自身には非はないとお医者さんに言われています。しかし最近思います。では、なぜ息子は障害を持って生まれてきたのか。私がどうしても女の子が欲しくて、3人目女の子授かるよう願ってしまったから?(結果男の子でしたが)これまでの行いや前世での行いが悪かったから? 私の周囲には、人を振り回したり悪口言ったりと人を傷つけたりしてる人がいます。でもその人は元気な子を産み、幸せに育てています。私も気づかぬうちに人を傷つけたりしてきたかと思いますが、悪口など言わないようにしているし、めちゃめちゃ悪いことをしてきたとは思えません。なのになぜ、私の元には元気な子を授かれなかったのでしょうか。 また、よく子供は天で親を選んで産まれてくるといいます。息子も私を選ばなければ丈夫な体で幸せになれたかもしれないし、もしかしたらあまりに私が子を願うあまり神様が無理に私のお腹に宿したのではなどいろいろ考えてしまいます。 障がいのある息子を宿したことは、私への罰なのでしょうか。それとも何か意味のある運命なのでしょうか。他の人ではなく、私が選ばれた差は何なのでしょうか。 お考えをお聞かせください。よろしくお願いします。
死後の事についてご相談があります。 私は宗教という考え方やそれに基づいた慣習、イベント自体は好きですが、私自身が何かの宗教に属することは避けたいと思っています。 私の知る上では各々の宗教の考え方と私自身の観念が合うことが少ないからです。 ただし、宗教のパロディである空飛ぶスパゲッティ・モンスター教には共感いたしておりますので、自称するときはパスタファリアンを名乗っています。 そこで、私が死んだ後、葬式をあげてほしくないと思っています。 特に仏教式の葬式です。 なぜなら、戒名をいただいた時点で、仏教徒になってしまい、仏教という枠に囚われてしまうからです。 悟りも輪廻も御免被りたいです。 衛生的な観点からは火葬自体はしても構わないのですが、法律が許しませんが、できればその後はゴミ箱にでも捨ててもらって処分してもらいたいと思っています。 家族にそのことを話すと、死んだら終わりだから死後の事など心配するなと言われるのですが、そうではなく、私がそのくくりにとらわれてしまうことを決定づけられることが不服なのです。 死後の世界云々は信じておりませんが、生きているうちはそのことが囚われであり、心配であります。 ただ、信じずとも無いことの証明は極めて難しい以上、ある可能性は0ではないというのが論理であり、公理です。 (論理、公理とは数学上の意味です。) ですから、その0ではない可能性で、仏教の枠に入ることで、悟れなければ輪廻を繰り返してしまうという観念に囚われてしまっているのです。 ただし、重ねて申し上げますが、悟り自体は御免被ります。 渇愛は人間の人間たる、また、人間の動物たる所以と思います。 私は人間らしさを捨てたくはありません。 仏教に従事していらっしゃるお坊さま方には相容れない考え方かも知れませんが、これが私の中の公理です。 さて、これは私の考え方を変える努力をして見たほうが良いのでしょうか? それとも、家族を説得するようにしてみたほうが良いのでしょうか? 相談する相手を間違っているような気もしますが、意見を伺えるかもしれない機会を捨てることはないと思い、ご相談差し上げます。 よろしくお願いします。