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検索結果: 113件

母が亡くなりました

長くなります。 母の人生は私が聞いた話では結婚後苦労をしており、なぜそんな家に嫁いだのかと思うくらいです。しかし、希望に満ち溢れていた人で、年をとったらどこに旅行に行きたい、これをやりたいと常日頃から話をしていました。 そんな矢先に見つかったのが、乳がんでした。母は乳がんのなかでも進行性の乳がんでした。そのことを早くから母から伝えられていましたが、予後不良とは知らず、あまり深く考えていませんでした。1年半の闘病を行いましたが、肺と肝臓への転移が見つかり余命2週間と告知されました。医師から説明を受けたのは父で、母へはそのことを伝えませんでした。私や兄は上京しており、ずっとコロナで会えなかったのですが、亡くなる10日前に会うことができました。亡くなる2日前までは自宅に一時帰宅したりしましたが、一時帰宅後から体調が優れず、面会が制限される中、父に見守られて永眠しました。 コロナの第3波が始まりつつあった時期で、私たちが帰省することで残された家族に迷惑をかけてしまうことから、母を看取ることも葬式に出ることもできませんでした。 私には彼氏も夫も、子どももいません。母を亡くして、人はなんのために生きるのか、今後どのように生きれば良いのかわからなくなりました。 また、後悔することとして、①進行性の乳がんと聞いて、深く考えず寄り添うことができませんでした。 ②余命を本人に告知しなかった。これは、本人が精神的に耐えられないと思ったからです。また、もともと神様や宗教に信仰深い母に神様から裏切られたと感じてほしくなかったからです。でも、時々本当にそれで良かったのか、母の意思を尊重していないのではと感じることがあります。 ③体調不良とコロナでどこにも行けない時に、YouTubeの旅動画を見せ、どこどこに旅行に行きたいねと希望を持たせてしまったこと。これにより、より自分の置かれている状況に絶望を感じさせてしまったのではないかと感じています。 ご多忙の中と思いますが、お返事をいただければと思います。

有り難し有り難し 12
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2021/12/16

救いの言葉をお願いします。

福祉施設で従事しているものです。 1週間前、現場で事故がありました。薬の影響もあり日中よく眠られる方で、事故が起きた日も眠っていました。13時に声をかけた時は体温もあり、寝息をたてていましたが、14時に声をかけたときには、手が冷たくなり、心肺停止の状態でした。救急搬送されたものの、心肺停止に気付いてから病院に搬送までも30分以上の時間が経過したため、脳死の可能性が大きいとのこと。このまま植物状態も考えられるとのこと。 支援員がもし気付くのが早ければ。いつから心臓とまっていたの?もっと気にかけていればと、後悔しかありません。 私は直接、その方との関わりはありませんが、心肺停止の状態も初めて目の当たりにし、何もできない無力差を痛感しました。 一番近くで支援をしていた後輩が、ご本人、ご家族に申し訳ない。自分の責任だ。もっと気にかけていれば。目覚めるのが当たり前と思っていたと、自分を責め続けています。 回復を願っていましたが、昨日、余命が宣告されました。職員一同、泣いても後悔しても他の利用者様もおられるため仕事は続く中、責任を感じている後輩に、どんな声をかけてあげればいいか、とても悩んでいます。 あの時こうしていれば…たらればの話なののもわかっていますが、考えてしまう。 アドバイス、よろしくお願いします。

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彼氏の病気

長年片思いをしたのち、思いが通じて3か月。幸せの絶頂で、彼に末期癌が分かりました。余命は抗がん剤次第で半年といわれています。 彼は30歳ほど年上の職場の上司です。彼がいない事で、職場はぐちゃぐちゃです。私が彼と交際していることを知っている人はいません。 末期癌が分かり、翌日からは抗がん剤をスタートし、みるみる環境は変わりました。副作用も強く20キロ近く体重も減り、仕事も出来る状態ではなくなりました。本人も思っていた以上に環境が変わったのだと思います。 報告を受けたとき、私は想像を絶する恐怖と共に、彼の死を覚悟しました。 そのうえで、伝えたい気持ちを伝えました。 それに対し彼は、〇〇さんは「諦めない」と言ってくれたよ。 〇〇さんは「お前なら大丈夫」と言ってくれたよ。と前向きなお話をしてくれた人の話をします。 あぁ。これから治療と闘う彼を応援できなくてどうする。と自分の考え方を変える努力をしました。 抗がん剤が進む中で、彼が苦しい思いをしていましたが、上記の内容を考えて、少しでも前向きになれる声掛けをしました。 それに対して彼からは「そんな事言われても無理だよ」との返答。 タイミングを間違えたのでしょうが難しいと思いました。 何より辛いのは彼なので、そのような心境になるのも分かりますし、その思いに寄り添いたいのですが、私もまだまだ人生経験が浅いもので、どうすればよいのか分かりません。彼と同じ年まで生きていれば、もっと違う事が言えたのかな。 同世代で癌克服した仲間との話などを聞くととてもついていけません。 彼から来る病状の報告に一喜一憂する自分はなんて幼いのだろう。結局自分が大事で何も出来ないと涙が出ます。 今の状況を考えると、彼にとって私は不安を煽っているだけなのかもしれません。最初は、甘えてくれているのかな?と思っていましたが、最近は自分の発言に自信が持てません。 何か言っては後悔と号泣の繰り返し。挙句の果てに、メールが来ることが怖くなっています。そんな状況が悲しいです。愛しているのに。 彼に貰ったプレゼントを無意識の内にごみ袋に入れていて驚きました。 全く何も食べられなくなったり、永遠食べ続けたり、お酒の量も増え、眠るまで飲み続けています。自分自身の事も怖いです。

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伯母の言葉に許せません。

私のお婆ちゃんに2ヶ月ほど前、胃癌が見つかりました。持って半年、早ければ3ヶ月と言う余命宣告。 お婆ちゃんには癌のことは隠して、母と伯母夫婦と話し合い今は思い出をいっぱい作ろう!という事になりました。 母と私は仕事があり、中々時間が作れないので伯母夫婦がお婆ちゃんの身の回りの事をしてくれています。 その事に関しては感謝していますし、近くに居てよかった。と思っていました。 ですがつい最近ホンの些細な事で伯母がお婆ちゃんに対して怒ってしまい、「退院も支度も1人ですればいぃ。」 と言っていました。 最初は冗談だろうと思っていましたが、どうやら本気のようで。 母は伯母に何故怒っているのか理由を聞くと 「病院食は食べたくないし、吐き気がするって言ってたから朝昼晩とわざわざご飯を作って持って行っているに、気を使わなくていいよって言うあの言葉が腹が立つ。 私が毎日御見舞に行っているのに私の所にはお礼の電話もない。散々迷惑かけておいて。 私は退院の日は行かないから。」 その言葉に私は怒りが込み上げてきました。 私からすれば大事なお婆ちゃんですが、伯母からすればたった1人の母親です。血のつながった親子です。 とても1人で退院できる状態ではないですし、ゆっくり歩くのが精一杯。 迷惑かけているのはお互い様、今そう言うことを言っている場合なのか。心が狭すぎる。 いつ亡くなってもおかしくはない状況なのに、そんな言葉が何故出るのか私には理解できません。 そして追い討ちをかけるように、伯母の旦那が「何も持って行かなかったらご飯食べるよ。こっちが色々持って行くから食べないだけ。」 そんな事をよく言えたなと思いました。 癌のせいで食欲も落ちてしまい、体重が35キロしかありません。なので少しでも体力がつくように、体重が増えるようにと思いお婆ちゃんが好きそうなものを持って行っています。 そんな事も分からない伯母の旦那にも腹が立ちます。 私が文句を言いたいのですが、お婆ちゃんの病気の事もあるので今は我慢しています。 ですが人として伯母夫婦の事を許せません。 顔も見たくないぐらいです。 こう思う私の心が狭いのでしょうか。 長文になってしまいすいません。 最後まで読んで頂き、ありがとうございます。 ご回答お待ちしております。

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父の死が怖い

父が末期ガン、余命わずかで来月いっぱいはもたないと言われています。 私は一人っ子で遠方に嫁ぎました。 若気の至りで遠方にいてそのまま、という感じです。 親には何度も、こっちに来てほしいと言われていました。 ですが嫁ぐ事になり、父は私が幸せに穏やかに暮らしていれさえいればそれでいい、と言ってくれていました。 だけどやはり心残りはないと言えば嘘でした。後悔もしていました。 そして月日が経ち、、現在に至ります。 コロナの関係や諸事情で、会いには行けず次に会えるのは残念ながらお葬式になってしまいます。 私には子供も生まれ、帰省の際には思い出をたくさん作り、毎日のように子供などの写真を送り、父も毎日のようにそれを見てくれていました。離れていても、そんなやり取りで繋がっているのが嬉しかったし安心できました。つい最近まで、私や孫の事を色々気にかけてくれていたし夏には帰省できないだろうから何か送るよ、と言ってくれていました。 そんな矢先でした。 それから毎日、なんとか受け止めなければと考えますが、やはり受け止める事ができません。 何をしていても頭の中に父がいて たまに父の声が聞こえてくるような、ずっと頭にもやがかかっているような状態です。 何かをしている時はまだましなのですが、ふっとやってくるんです、、波があります。 本当なら今すぐに会いに行きたい気持ちです。 父が亡くなっても、私は受け止められるでしょうか。 先が見えない真っ暗なトンネルにいるようです。正直怖いです。

有り難し有り難し 7
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父の死

回答頂けたらありがたいです。 先日、離れて暮らす74歳の父が4ヶ月間の闘病の末亡くなりました。白血病でした。 入院後すぐに医師から余命数週間から数ヶ月と家族だけに宣告され父に悟られないように平常心で接してきました。 父は「来年は~」と未来の話をしたりして私達家族は「そうだね!早く治さないとね」と苦しくて胸が張り裂けそうになりながら嘘をついて父を励ましていました。 変に優しくしたら悟られると思い4ヵ月の間お見舞いには行くものの、いつも通りの素っ気ない態度を取ったり、車で片道1時間半の病院だったのもあり毎日はお見舞いに行けず、でも毎日行っておけば良かったとか、もっとありがとうの言葉を伝えれば良かった、お父さん大好きだよって伝えれば良かった…と後から後悔が押し寄せてきて泣いてばかりいます。 息を引き取る前に「お父さんの娘で良かったよ、ありがとう」と伝える事は出来たのですが意思疎通も出来ない中で言っても…もっと会話が出来るときに何故言わなかったんだろうとグルグル考えては泣いての繰り返しです。 父が亡くなってからテレビを見て笑うのも、美味しいご飯を食べるのも普通の生活をしている事自体、申し訳ないような罪悪感があり辛いです。 父は私の気持ちを分かってくれているでしょうか? 生きてる時と変わらず見守ってくれているでしょうか? 本当に辛いです。

有り難し有り難し 40
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最後の課題にアドバイスをください

尊敬する大好きな恩師が亡くなって2年。 病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで夢を語っていた恩師。半年後に亡くなりました。この現実を受け入れることは出来ません。人はいつか死ぬと分かっていたし、元々敏感な方でした。でも、病気と余命宣告を同時にされる3ヶ月前まで恩師は夢を語っていました。なのに3ヶ月後には夢を諦め死に備えて身辺整理。恩師は自ら余命を聞き、身辺整理をし弁護士に遺言の立ち上げを頼みました。そしてもし自分が死んだらあなに貰った手紙を棺に入れるよう息子に頼んでいいかと聞かれました。妊娠中の私は、促進剤を入れる前に恩師に会いに行ってから出産しました。恩師の危ない状況を聞き、2日退院を早め、その足で恩師の元へ行きました。意識が朦朧としていたけど、頷いてくれました。そしてその日に亡くなりました。産後2日目のことで、痛みを抑えながらお葬式へ行き、自分の手で手紙を入れました。それからは子育ての日々。衝撃的な事で、受け入れる時間もなく今日まできました。あんなに夢を語っていた恩師が亡くなったことで、人の死は無条件に突然訪れるものなんだと初めて強く実感しました。普段は忘れているけどいつも死と隣り合わせなんだと。それから生きるのが怖くて、家族を失うのではないかと不安です。だから後悔しないために、常に最悪の状態を考えています。今車が突っ込んできたらこの位置は危ないとか、もしあの看板が落ちてきたら危ないから走ろうとか。父の癌を早期発見したのも私で私が家族の命を守りたいという気持ちに苛まれています。もし家族の誰かが倒れたら誰に119番を頼んでAEDを誰にどこから持ってきてもらうかなど常に頭でシュミレーションしています。それでも人は死ぬのでこの行動が全て結果になるとは思いません。もっと楽しく生きれる人が生まれたらよかったのに。死の恐怖に潰されるくらいなら最初から無でよかったのにと考えてしまいます。でも、恩師とこの世で出会えた事、恩師と過ごした時間は私にとって最高の宝物です。今までもこれからもずっと私の大切なかけがえのない時間です。恩師が亡くなってから悩んだりしても、自己解決できるようになりました。恩師の教えがあるからです。でも恩師が亡くなったことや受け入れられないこと死の恐怖に関しては悩んだままです。きっと恩師の死は私に与えてくれた最後の課題なのです。どうかアドバイスいただけませんか。

有り難し有り難し 15
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愛犬の突然の死が辛すぎて立ち直れません。

先日、最愛のワンコが虹の橋へ旅立ちました。9才9ヵ月でした。突然のことで頭では理解できていますが心がついていけなくて毎日泣いて過ごしています。 でも。兆候はあったのです。七ヶ月前から。かかりつけ医にかよって色々な検査をしたり投薬をしたり。本当の原因がわかったのは亡くなる前に入院させた救急病院で精密検査をして亡くなる三日前でした。脳炎でした。かなり進行していて手遅れだったのでしょう。 何故、こんなに辛いのか気持ちを整理して考えました。病気の原因が最期になるまでわからなかったこと。七ヶ月前から辛かったワンコにもっと寄り添ってあげたかったという後悔。そして何より、動けていたときのワンコの記憶が狂気に支配されあの子があの子でなくなってしまっていた姿で止まっているということです。末期の脳炎の症状らしいですが。 病魔におかされる前のあの子の記憶より 鮮明に思い出されてしまうのです。 最期は救急の先生のご尽力のもと、穏やかに私の腕のなかでお別れをすることができたことは救いでした。有難うと感謝の気持ちを伝えることができました。 病状がわかっていて余命もわかっていて迎える死。前日までいつもと変わらない姿だったのに迎える突然死。うちの子のように兆候はあったのに原因がわからず 少しずつおかしくなっていって結果迎える突然の死。どんな死も辛いことは変わりません。辛いことから逃げようとは思いません。辛い気持ちが少しでも軽くなるような心の持ち方を教えて下さい。 よろしくお願いします。

有り難し有り難し 14
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死んだ母に謝りたいです。

いつも温かいお言葉をいただき、本当にありがとうございます。 昨年7月に母を亡くしました。 その悲しみから未だ立ち直れず、思い出しては後悔と自責の念で涙が溢れます。 母が亡くなる前に「自分がもうすぐ死ぬ」という事を知ってしまったのは、私のせいだと思っています。 姉と、母の前で延命治療の話をしたのです。 母は寝ていると思っていたのですが、今考えれば本当に愚かな事をしたと思います。 三年前に父が他界した際は、最後まで父の病気や余命は本人に知らせず、父も医療の介入を拒否したのでそのまま何も知らずに他界しました。 母は延命治療の話をした日以降も眠ったり起きたりを繰り返しましたが、起きた時には泣き叫ぶようになっていました。ほどなくして母は常に眠ったようになり、2ヶ月ほどで他界しました。 私があの時そんな事を話さなければ…母は眠ったまま安らかに死ねたのでは無いか。私の不注意が母に絶望と恐怖を与えてしまったのでは無いか。 今でもそう思い、母に謝りたい気持ちで苦しくなります。 生きていても苦しいのです。次々と辛い事ばかりが起こります。 友人には「自分が耐えられる試練しか、人生には起こらないんだよ。だからあなたが今経験している事は、修行だと思って暮らすのが良いんだよ」と言われました。 でも私が耐えられるから、耐えてきたからと言って、傷付かない訳では無いのです。傷ばかりついてもう割れてしまいそうです。 どうしたらこの辛さが少しは軽くなりますか? 私はもう母や父を追って死に、そして二人に謝りたいです。

有り難し有り難し 28
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先週親友を病気で亡くしました

友人は同年代で、心から分かり合える親友でした。一昨年、脳腫瘍ということが分かり、その時点で余命1年との宣告でした。 家族以外は親友の私にしか病気のことは伝えられていませんでした。 友人はその時点で他の誰とも連絡を取ることをやめてしまい、私だけが唯一の心の支えとなっていたのだと思います。 家族からも、誰にも言わないでいてほしいと言われていたので、私自身も1人で悩み、事の重さを受け止めきれずにいました。 いつ友人から電話やメールが来るのか分からず、取り乱していることも多かったためしっかりと考えてから返事をしなければと思っていたので、しばらくは外出を控えた生活をしていたほどです。 その後、私が仕事を再開したり、妊娠したこともありマメに連絡をとったり、会ったりすることができない日々が続いていました。 友人も想像していたよりも元気にしており、このままの日々が続くのでは?と錯覚するほどでした。 それが先月急変し、あっという間にしゃべることもできなくなり、亡くなってしまいました。 あまりの事に今も受け入れられず、思い出しては泣いている日々です。 そして、なによりどうしてもっと会ったり話したりしなかったのかと後悔しています。どんなに苦しく、死の恐怖と1人で戦っていたのだろう。くだらない話しでもいいからたくさんすれば良かった。 できることがたくさんあったのに、どうして自分の生活を優先させてしまったんだろう。 いなくなって、どれだけ自分にとって必要な人だったのかを感じています。 ちょうど同じころに私は出産をしました。意識が無くなるほんの数日前のことで、最後に報告できて本当に良かったと思っています。10日も早く急に出産になったのはきっとこの子が生まれたことを友人に知らせるためだったのではないかと勝手に思っています。 友人の家族にも何もできなかったことを謝罪しました。しかし、本当に心の支えになっていたと思う、ありがとうという言葉を頂きました。 それでも私の心は悲しみと後悔でいっぱいです。この悲しみを乗り越えることができるのか不安です。 こんなに深い悲しみの中にいることを友人は望んでいないと言われるのですが、頭では分かっていても心が全くついてきません。

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祖父は苦しんで死んだのではと今でも思ってしまいます。

昨年の夏に祖父が他界しました。余命宣告をされており、私と母は祖父がいい最期であってほしい、と自宅で介護に取り組みました。 特に母は看取りたいという希望を強く持っていましたが、祖父は私が仕事中、母が30分目を離した間に亡くなりました。 私は祖父と過ごした時間が「看取り」だと思うと母には伝えましたが、最期を看取れなかったことを大変悔やみ、自分を責めていました。 その祖父の亡くなり方に気になる事があります。 発見時は天井に両手を仰ぎ、目と口を開けて亡くなっていたそうです。 母は周りの人から「昔に亡くなった妻(私の祖母)が迎えに来たから手を仰いだんだね」と言われ、母も納得していました。 しかし、私は息が苦しくて助けてくれって手を出していたんじゃないかと今でも思っています。 亡くなる前日、痰を出す力もなく、呼吸がうまくできなくて苦しそうでした。 わたしは祖父の息苦しさ知っていたのに、手伝えば痰はほどほどに出せているな、と勝手に大丈夫だと思ってしまいました。 「じゃね!じいちゃん!また明日!」 と手を上げたら、「おう!」と笑顔で返されました。明日はじいちゃんに会えると確信しました。 そうしたら次の日亡くなりました。 たしかに息苦しさはあったけど、顎で息をするほどではありませんでした。しかし、痰は自力で出すには厳しいものがありました。 人は普通、息が苦しかったらもがきますよね。 仰がれた手は痰が苦しくてもがいた手だとしか思えませんでした。 今となっては事実はわかりません。 悔やんでも仕方ないこともわかります。 遺族はああすれば、こうすれば、と自分を責めることも知っています。 しかし、自分が一番苦しみに気づけて対応できた筈なのに、どうして大丈夫だと思ったんだろう、と後悔しています。 母へじいちゃんは苦しまないで幸せだったよ、と言った自分に嫌気がさします。 楽になれて良かったね、は遺族が故人は楽になれた、解放されたと思わないと辛いから出る言葉だと思います。私は、当の本人が苦しんで亡くなったらそれは苦しんで亡くなったのだと思います。 結局最後に祖父に苦しい思いをさせたかと思うと祖父に申し訳なく、亡くなった時の祖父の苦しみを思うと涙が出てきます。 どうしたら祖父への後悔から解放されますか? あと、こんな考え方は祖父に失礼でしょうか? こんな私にアドバイスをお願いします。

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2023/10/30

父の死が受け止めれない

今年の8月30日に父が癌で他界しました。 享年60歳でした。 今年の初めより余命宣告を受けており、亡くなる2ヶ月ほど前から看取りの方針で同居することになりました。 私は看護師をしているのですが、現在育休中で他の家族より長い時間共に過ごし、点滴等の介助、病院の付き添いも行っていました。 入退院を繰り返してきてた父でしたが、 他界する数日前に「しんどいから病院へ行きたい」と口にし、入院となりました。 点滴加療で身体のしんどさは軽減し持ってきた梨まで食べてくれるまで元気になっていました。 早く帰ろうな!また来るわ!と言ったのが 最後2日後に危篤状態になって亡くなりました。 余命宣告を受け医師から何度も話をしてもらい 看護師をしている上で経験上他の人よりわかることも多かったのですが、いざ本当にいなくなってしまうと受け入れれない自分もいます。 その反面淡々と葬式の準備や、死後の身辺整理等を行っている自分もいます。 現在子育て中ということもあり、哀しみに浸るということはなく、父がいなくなっても当たり前の日々を過ごしています。 時間がある時に父との思い出を 思い出そうとすると頭の思考が拒絶して 亡くなる前のことも考えることを自己で阻害してしまいます。 悲しんであげるのを父は望んでいるのではないとは思いますが、淡々と法事をこなし、 日常を過ごすことにすごく嫌気がさしてしまいます。 忘れてはいません、しかし具体的にこう話したりこんな様子だったということを振り返ろうとしても考えられません。 こういう時はどうしたらいいですか。

有り難し有り難し 10
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母親を亡くしました

6月に母を亡くしました。 2年前、大腸がんが見つかり、手術の甲斐もあり、その後、検査結果は優等生、完治したと言っていいと、担当医から言われていました。 今年2月頃から、食欲が落ち、少量嘔吐することがありました。 4月初め、かかりつけ医に行った母が嘔吐し、救急搬送され、緊急入院。 数日後、母のための買い物をし、福引でプロ野球の観戦チケットとスタジアムツアーパスをペアで当てました。 母に見せると大喜びし、その日までに退院して一緒に初観戦行く!と言ってくれました。 6月9日のチケットでした。 母の腹水は増加し、検査の結果、癌性腹水・腹膜播種。 腹水を抜くことも出来ない、抗がん剤も命を縮める、余命3ヶ月。ご飯を食べることも、もうできない。 信じたくない告知でした。 母には、余命は伝えていませんでした。 癌性腹水に対応できる病院を探し出し、転院させ、処置を受けたところ、ご飯が食べられた!食べても吐かない!と喜んでいました。 母の死の二日前。久しぶりに電話がかかってきました。 電話する元気が出たと、私は喜んでいました。 よく聞くと、酸素はずしてくれたけど苦しい。苦しいけど仕方ない。 そんなことを言うんです。 苦しいのはおかしいから、すぐナースコールして何とかしてもらって! 必死で叫びました。 その後、病院から電話。 頻脈、発熱あり、血中酸素濃度80台。緊急連絡取れるようにと。 死んじゃう、殺される、と思って、必死で電話くれたのか。 それから2日、母を見守りました。 反応がなくなってからも、私が呼びかけるとハッと目を見開いてくれました。 大好きだよ!ありがとう!ずっと一緒にそばにいるからね! 最期までうなづいてくれた母。 最期まで私の母でい続けてくれた。 そして、6月4日午後、旅立ってしまいました。 緊急入院から2ヶ月。観戦チケットの5日前でした。 葬儀、死後の手続き、四十九日、納骨。 仕事しながら独りで必死に対応しました。 天涯孤独となり、母を呼び、探し、遺影の前で号泣する毎日です。 親戚からは私の判断が悪くて、母は生きることが出来なかった。 普通、親戚に相談するものなのに、なぜしなかったのか。 相談していたら死ぬことはなかったのに。 今もそう言われ、私のせいで母を守れなかったと後悔する毎日です。 生きる価値も無いのに、何のために生きているのかわかりません。

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逝く道への想い

昨年2月、癌との闘いを頑張っていた母が逝ってしました。 母を愛していたので……哀しく、もっと何かを…何かを…の後悔ばかりを考える日々を過ごしていたところ その約半年後の8月、兄が自らの意思で逝ってしまいました。 母の死は余命宣告を受けていましたので、その時の覚悟は少しは出来ていましたが 兄の死は想像すらしておらず、まして自らの意志で…強い意志で逝ってしまうなんて本当に考えてもいなかったのです。 現在も哀しみと向き合う事が出来ず、後悔ばかりです。 兄の死を知る3~4日程前、首から背中にかけ、急な激痛におそわれ その痛みは兄の死を知ると共に治まりました。 今想えば、母が知らせていたのだと想えてならないのです。 何故、私はその身体の異変を変だと想わなかったのか… 何故、二人きりの兄妹なのに電話をかけ『何か変わったことはない?』 と、兄を気遣わなかったのか… 兄が心の病と闘っていたことも知っていたのに 何故私は兄へ連絡を取らなかったのか… 兄も私を愛していたし、私も兄を愛していたし なのに、何故…何故 私は兄の逝く道をとめられなかったのか… どんな想いでいたのか…何を見ていたのか…何を感じていたのか… どんな気持ちで一人逝ってしまったのか… 考えれば考えるほど胸が張り裂けそうで… 穏やかに笑みさえ浮かべて眠る兄の顔に 兄の意志なのだから 兄の意志を尊重しよう 穏やかに過ごせるところを探して逝ったのだから 兄の意志だから…と、 何度も何度も自分に言い聞かせてはいるのですが あの時、私が気づいてあげていられていれば 何かが変わったのかもしれなかったのに… でも、気づかなかった事が兄の為にはよかったのか… 想いが右往左往して混乱しています。 私が想いすぎると兄は母のもとへいけませんか? 母には逢えたのでしょうか… きちんと三途の川を渡らせてもらえたのでしょうか… この世で苦しみ哀しんだのだから あちらでは苦しみませんよね? 私は 兄の母の傍へいきたいです 何故私をおいて逝ってしまったのか… 私を連れて行ってほしいのです 文章が定まらず申し訳ございません。 お坊様…愛する母の死、愛する兄の死 その哀しみと向き合うことが出来ません… 受け入れる事が出来ません。 私に出来る事があったはずなのに… 何も出来なかった己が辛いです。

有り難し有り難し 17
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2023/04/14

夫の病気が不安で眠れません

タイトルからすると仲の良い夫婦のようですが、長年別居しています。別居の理由ですが元々は夫の女性問題で、その後単身赴任などにより10年以上別居しています。 中学生と高校生の子供がおりますので月に一回ぐらいは1週間ほど一緒に過ごすスタイルで10年以上やって来ました。 最初は離婚を視野に入れていましたが、時が経つに連れ、男女のパートナーとしてではなく、子供を育てる上での良いパートナーになって来たと感じていました。 私は、夫は夫の仕事に対して才能があると思っておりそこは本当に尊敬しています。仕事優先でも全く文句はありません。 夫も、私に対して、子供たちが今のところ心身共に健康的な10代まで育った事を感謝してくれています。 今では夫の女性関係についても相談に乗ったり笑い話にしたりできる仲です。 男女の恋愛や性的な関係にはなれませんが、気づかない間に本当の家族になっていたような気がします。 そんな夫が病気になり入院しています。死亡率の高い病気だそうです。 私が一緒に住んでいなかったから、 もしもっと早く気づいていたら、 健康に気を配った食事をさせてあげていたら、 など全てに後悔していますが、かと言って今は何もできません。まだコロナの影響で面会をする事もできません。 もし退院できたとしてももうお互い生活基盤が出来ており、同居もできません。 また夫は生活費もきっちり出してくれていた為、私は子育て優先のお小遣い程度のパートしかしていません。正社員などを探していますが、50代未経験では中々仕事もありません。 もし夫が亡くなってしまうような事があったらと考えると不安で眠れません。 今まで気楽に生きて来た分、急に後悔と不安で何も手に付かない状態です。歌って踊って暮らして来た訳ではありませんがアリとキリギリスで言うところのキリギリスのような気持ちです。 元々楽天的な性格だと思っています。でも今回の件で頭を殴られたようなショックを受け、無気力になり、何も手につきません。 この不安と後悔をどうしたら前向きに変えられるのでしょうか。

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