小学2年生の長男が最近何度も同じ事を聞いてくるのですが、うまく回答できずにいる事があります。 ①人間はなぜ生きるのか。 ②大人になったら良い事はあるのか。あるとしたらどんな良い事があるのか。 ③僕の人生は良いことがないので生まれ変わったら良いことはありますか。 だそうです。 私には難しくて分からないので、何でも知ってるお坊さんに聞いてみるね、と言うと目をキラキラさせて「うん!お願い!」と言っていたので小学2年生でも分かるようにご回答頂けたら嬉しいです。 よろしくお願いします。
こんにちは、お世話になります。 私からのアプローチで付き合う事になった仕事関係で知り合った6歳年下の彼と色々ありましたが結婚の話がやっとでるようになりました。 それはとても嬉しかったのですがここにきて彼が新興宗教を信仰していることを聞いてとてもとまどっています。 彼の母親の家系が信者で、彼の父親も結婚を機に入信したようです。 彼には弟がいますが、彼と共に物心つく頃にはもう入信していたようですが特に何も考えた事がないそうです。 活動内容は朝にお経を唱える・集会に参加してお経を唱え、教えを聴く・伊勢神宮に団体でお参りする等で他にも色々と細かい事はもっとあるかもしれません。 初めは勧誘しないと聞いていたのですが、今更結婚の条件に入信する事と言われ大きな不安ととまどいに毎日悩んでいます。 彼が信仰している事に関しては理解をして受け入れるつもりですが、それを私に強要されるとなると信仰の自由などもありますし疑問を感じます。 そもそも信じていない宗教に入信して信じられないながら活動に参加するのもどうかと思います。 でも彼の事は好きですし、知り合ってから5年程経ちますので出来れば一生一緒に居たいという気持ちも大きいです。 自分の家族にはまだ話せていません。 自分がどうしたいのか、どうすればいいのかも纏まりません。 結婚してうまく暮らしていく事はやはり難しいでしょうか? このような状況にある私に意見をいただけると嬉しいです。
この世についてどう思いますか。解釈ではなく本当のところリアルなお坊さんなりの真実をぶっちゃけていただきたいです。怒りですか。呆れですか。虚栄ですか。私利私欲ですか。 この前にふたつ質問しているのでそれにも答えていただきたいです。
それとも、生きている時の幸せを求めるものですか? また、宗派によって違うのでしょうか? 先祖供養をしたり、生きている人の煩悩を消すようにしたり、 両面を見ることがあります。占いをしているところもあるし 宗派によっても随分違うのでしょうか? 色々な宗派のお坊様にご意見を賜りたいです。
17年連れ添った猫を失い、次の猫も家に来て二ヶ月目に交通事故で失いました。その子はまだ1歳にもなっていませんでした。 なぜあの子達は死ななければならなかったのでしょうか。 なぜ私は失い続けるのでしょうか。 悲しみ以外、涙以外、私は全てを少しずつ失い続けます。 仏様、私はあまりにも愚かです。私には真理を悟ることができません。何もみることができません。 私は死者の出なかった家のカラシの種が欲しい。 あの子が死なずにすむなら、何度でも車の前に飛び出したい。 仏様、私は救済に値しません。もう疲れてしまいました。ただただ疲れてしまいました。
不安で仕方がありません。 災害、事故、事件、世界情勢、常に全てに怯えていますが住んでいる地域の特性から最近は火山災害が特に恐ろしいです。 今住んでいる場所から逃げ出したい気持ちでいっぱいですが、現実的に難しい状況です。家族もいるし、お金もないためです。 不安を見て見ぬ振りしようにもふとした瞬間に恐ろしい情景が頭をよぎり恐怖でいっぱいになります。無駄に想像力があるので手に負えません。 災害への備えは少しずつ始めているのですが、備えにだって限界はあるし間に合わないかもしれないし、そもそも即死の可能性だってあります。 そして私が怯えたところで減るわけでも増えるわけでもないのが災害。その日は明日かもしれないし、一生来ないかもしれない。遭遇しても案外平気かもしれない。そもそも突然の事故で今死ぬかもしれない。 未来に対して不安になることそのものが無駄なのだと理解をしつつも、浮かぶ全てが恐ろしくとても苦しいです。 常に次の瞬間滅びるかもしれないという気持ちで、怯えながら毎日を過ごしているのでとても充実しているとは言えません。することもしたいことも見つけられず、恐怖と不安で無気力になってしまいます。 私は一体どうすればいいのでしょうか。
天国や地獄へ行く。生まれ変わって新たな命となる。 火葬なら幽霊になって、土葬ならゾンビになるとも聞きます。 死後の世界。きっと生きている限り分からぬ世界。 しかし、生きているからこそ、死への恐怖や不思議に囚われます。 知らないからこそ死への恐怖が拭えるのか。 それとも知ってしまう方が安心して死んでいけるのだろうか。 天国や地獄がもしあるのなら… またその世界で生きていかなくてはならないのか。 生まれ変わって新たな命となるのなら… 知らぬうちにまた同じ世界で苦しまなくてはならないのか。 この世界に生きるものとして。いつか死を迎えるものとして。 死と向き合うためにアドバイスお願いします。
僕は高校生です。 最近、人とうまく話せません。 そもそも、話すことに意義があるのかを考えてしまいます。 そうすると、自分が雑談をどんなふうにしていたかも疑ってしまい、 友達と話すときも引き攣った笑みしかできません。
心の病で入院中です。 病気は、心の葛藤が身体にあらわれるもので、15年以上わずらっています。今の症状は、1ヶ月以上つづく、腹痛です。検査では、身体的には異常はありません。 痛みがやってくるたびに、辛さとともに、身体には異常がないのに、なんで…と悲しみと怒りの気もちがわいてきます。 心の問題なんだから、自分の力で闘うしかない、と病院では、誰ともコミュニケーションをとらず、個室にひとり、こもっています。 この病気を手放すことができたら、と思うのです。 いっぽ踏みだして、変わりたい、と思うのです。 しかし、どこにむかって、どう変わればいいのか、わかりません。 道標がほしいのです。 自信と力をもつには、どうすればよいのでしょう。 アドバイスいただけたら幸いです。よろしくお願いします。
日本には、なんとなく政治と宗教な話は、親しい間でも話しにくいような風潮があると思います。例えば私自身家族の中でも応援している政党が違ったりするとなんとなく気詰まりな感じがします。そういう宗教や政治の話がなかなか気軽にしにくい日本の風潮にお坊さんはどう思いますか? 話は違いますが、うちは曹洞宗ですが、遠くに住んでいる親戚の叔父が韓国の方が教祖のキリスト系の新興宗教を信仰しています。叔父さんはとても元気でタフで明るくて面白くて好きですが、宗教の話をしている時に進化論を否定していることに驚きました。たしかに進化論が正しいかは、私自身教科書でしか教えられておらず、自分で確かめたことはないので、確証や証拠で反駁することはできないのですが。 あと人間だけ霊界があるというその宗教の教えに対しては、全ての生き物が限られた生を命の限り全うするということは同じな世界で、人間にしか霊界が用意されていないという考えがしっくりきませんでした。当然信仰の自由があるので何を信じるかの選択の余地は一人一人あり、全く否定する気はありませんが。その対話をしている時の母がもううんざりといった言動でもう終わりにしてほしいというオーラが全身から漂っていて、とりあえず途中で私が引き下がりました。(こういうところでも宗教の違いを対話するのを嫌がる日本の風潮を感じました。) 比較的歴史の洗礼に耐えて伝統を長く受け継ぐ仏教の宗派のお坊さんは、新興宗教と呼ばれている宗教の特徴や教えについてどういうお考えをお持ちなのか、気になりまります。 お手すきの時にお返事頂けたら嬉しいです。
高校生の男子です。 お寺に生まれたご縁から、2年前から 仏教に魅力を感じるようになりました。 さて、質問は「冷静さを保ちたい」ということです。 自分は性格的に弱い部分があります。 進学校に進んだものの、いつもなにかに急かされるというか 精神的余裕を失ってしまいます。 心の平安が大切なことはよくわかっているのですが、 冷静になることができず、へとへとになって帰宅します。 精神的余裕がないので、いただいた命を輝かせることができていません。 むしろ腐らせてしまっているようにも思います。 そんな自分が情けないし、 みっともないです。 でもお坊さんは、日頃から冷静沈着で 命を輝かせているようにおもいます。 そこでこの行き詰まったこの状況をどうにかしたいと思い 質問しました。 どうしたら、どんな状況にあっても冷静さを保ちつつけることが できるでしょうか。 よろしくお願いします。
以前の投稿では表現が回りくどくてイマイチ聞きたいことが伝わっていない様でしたので簡潔な質問文にして投稿し直しました。 宜しければご回答お願い致します。 私の悩みの元に関してはプロフィールに記載しました。 『なぜ愛する女性の命を出産という危険に晒してまで子どもを望んだのですか?』
お願いします。 災害についてはどのように捉えたらよろしいのでしょうか。意外に同様の質問が見つからなかったので、お願いします。 記憶に刻まれた大震災の数々、この世でいうところの善人も悪人も区別なしに命を落としました。 もし、これが何かの意思によるものならば、無差別テロのようにも思えてしまいます。 明日を信じていた者もいるでしょう。受験、スポーツ、出産。未来を信じて生きていく思い、願いはこんなにも簡単に途切れてしまうのです。家族の未来を願っていた者もいるでしょう。残された者には更なる悲しみが続きます。亡くなった方がた以上に残酷にも思えます。 私たちは乗り越えられる試練しか与えられない。という考えも聞きますが、残された者にとって、これは命が続く限り決して乗り越えられない悲しみに思えてしまいます。 何か意味があるならばお考えを教えて下さい。 それとも、起こる事象には何ら意味がないのでしょうか。加えて、この世の未来を願うことは仏教においては何の意味も持たないのでしょうか。
本日、仕事中にお客様が「僧侶にさえ袈裟の色で階級をつけたりしているのはおかしい。本来仏教とは身分差別したりしないはずだ」とおっしゃっているのを聴き、疑問に思いましたので質問させて下さい。 僧侶によって?宗派に違いはあれど袈裟の色で階級があるのは何の為でしょうか? また、それは誰が判断、ジャッジし決められるものなのでしょうか?
お忙しい中、申し訳ありません。 心にずっとわだかまっていることを聞いていただきたく存じます。 昔見た道徳の教科書の内容で心に残っているものがあります。 バスにある若者が乗ってきました。 若者は優先席に座りました。 次のバス停でお年寄りが乗ってこられましたが、若者は席を変わりません。 別の席の乗客が「変わればいいのに」「若いのに」と陰口を言います。 若者はうつむいて座っています。 お年寄りは「次で降りるから大丈夫だよ。」と言い、次のバス停でバスを降りました。 次の瞬間、乗客たちは驚きました。 若者もバスを降りていきましたが、若者は足が不自由だったのです。 乗客たちは沈黙に包まれ、バスはバス停を後にしました。 私は、この話を読んで「結局何をしても人は文句を言われるし、誤解されたくなければ優先席に座ったり、バスに乗ったりすべきでない」と感じました。 あまりにも、救いがないように思われショックだったのか、先生のしてくださった解釈は記憶にはありません。 お坊様はこのお話を読んでどのようにお感じになりますか。 このお話は、子どもたちに何を教えたかったのでしょうか。
昔から宗教に興味があったので、キリスト系・仏教系問わず、新興宗教でも縁があった時は、資料を受け取ったり、話を聴いたりしていました。 しかし、いずれの宗派も絶対的な確信を持つことは出来ないので、入信することはありませんでした。 その中で、昔からの友人が「あなたを救いたい、あなたのために24時間勤行をする」などと親切心で熱心に勧誘しています。「その気は無い」と断りつつも20年になります。(最近は年に数回程度ですが) そして、数年前、主人の余命宣告を受けた時、私としては人生の中で一番宗教を求めていました。しかしながら、その数ヵ月間はまったく連絡がありませんでした。 その事から、最近は「私が一番必要としていた時期に縁が無かったのだから、あなたの宗教に入ることは絶対にあり得ない。」と明確に何度も伝えています。 「勧誘であれば、話をすることは無い。勧誘の話は聞きたくない。勧誘の電話はしないで」ということも何度も伝えています。 それでも、「そろそろわかってくれた?入信する気になった?」と連絡して来ます。 その友人と同じ仲間が他に数人いますが、熱心に勧誘されているのは私だけです。他の友人たちは最初の頃に断っているためにその後は勧誘していないようです。 できることならば、他の友人のように勧誘を止めてくれたならば、その友人が企画する同窓会にも参加したいのですが、私の顔を見れば執拗に勧誘をするので参加できませんし、他の友人たちとも疎遠になってしまってます。 今まで「宗教に興味がある」という態度をしていた私の責任でもありますが、20年かかりましたが、「入信しない」という結論が出たので、それで納得して欲しいのです。 20年分の期待感があるので、宗教抜きの友人関係は無理なのでしょうか? その子が中心の他の仲間たちとの関係も含めて、バッサリと縁を切るべきなのでしょうか?
いま、私は難関といわれる国家資格の試験に合格するために働きながら勉強するしています。 合格しないとその先の展望が見えて来ないのです。 私だけでなく家族にとってもそうです。 受験勉強はしていますが、勉強が得意でないため、勉強することが辛いです。仏教では結果は信仰によって左右されないと理解していますが、努力をする辛さを乗り越える術、思考を教えてください。 既に四年間、休日もなく勉強してきています。もちろん成績は上がっていますが、小さい子どももおり、一緒に遊びたい。働きながらのこの生活が辛いです。今の本音を言えば、結果は欲しいけど努力は嫌だ。です。 安直な答えでは、やめたら済むことはわかりますが、応援してくれた妻に対しても、私自身もずっと後悔することはわかっています。諦めたくないのです。自分の中にいくつもの嫌な自分がいます。 どうぞよろしくお願いいたします。
先が見えないからなのか、人は不安になりますね。 写経をして心を落ち着かせても、寺社巡りをして自分の叶える事の意志を神様や本尊様にお願いしても不安は、消えません。 今がまさにその時なのです。 この不安は、どうしたら良いのでしょうか?
切羽詰まると全て放り投げて逃げてしまう癖があります。 ある程度追い詰められるとエンジンがかかるタイプなのか、窮屈な生活が好きなのか、苦しい状況に自分を持っていきがちです。 逃げずに立ち向かえば大概は自分の思った通りに進んだり、思ったより簡単に事が済むのですが、8割方「もういやだ!」と放り投げて逃げてしまいます。 いやだ!と思わずに前に進めばいいのですが、その気持ちになるまでに多大なる時間を無駄にしています。 自分で招いた状況から逃げずに、いやだなと思わずに立ち向かえるようになるには、どうしたら良いのでしょうか?
12年付き合っている(いた)人がいました。 初めは遠距離でした。3年前東京に転勤してきました。 彼は親の借金の為、好きでもない人と結婚していました。付き合って5年位たった頃その事実を知りました… しかし、いつかはキチンと清算し私と結婚してくれると信じていました。私の子供、両親、友達…みんな彼を「良い人」と慕っていました。 今年の1月、彼の財布から子供が書いた手紙を見つけてしまいました。「パパへ」と言う文字が飛び込んできました。お正月、仕事だと言っていたはずの日付のレシートには子供用の下着と記載がありました… 彼は調停をし、キチンとすると言ってくれ、8月から調停が始まりました。 先月調停に向かい、その結果がメールで届きました 「疲れた、詳しくは日曜日(4日後)ゆっくり話すから」と。 私は何故すぐに話してくれないかと電話を入れました。 「いまどこ?」 「○○駅」 しかし、ざわついた感じも駅構内らしき雰囲気も伝わって来ませんでした… 「○○駅のどこ?」 「下のターミナルだよ」 私はさすがに信じられず 「本当にキチンと清算し、調停が終了したのが分かるまで連絡しません」 と、その日以来、会わない、話さない、もちろんメールもしていません。 ここまでされても…私は彼の本当を知らない。 本当に結婚していたのか? 本当に調停しているのか? このまま彼を待つのが良いのか? 素行調査して、彼の現実を知りキチンと諦めるか? でも素行調査する事は、人間としてどうなのか? 今彼を本当に好きか? それすらもわからない。 自分の気持ちがよくわからない。 でもこのままじゃ、前に進めない… 毎日毎日考えていますが答えが出ません。