悩み相談失礼します。 先日、1年ほど遠距離をしていた彼に次に会う約束を取り付けようと連絡したら、突然家庭の事情と仕事が手一杯で続けていくのは難しそう、、、というメールを貰いました。 そして今まで仲良く出来ていたのにこちらの都合でごめん、、、と。 彼のアプローチからはじまったのですが、以前の経験からあまり医者との恋愛に乗り気ではなく、半年ほど様子をみてからはじめた恋愛で、半年以上もしつこく思ってくれているなら大丈夫かな、、、と判断して付き合いはじめ、そんな中人事異動で遠距離になりました。 彼は緊急の呼び出しもあるので、行くのはいつも私ばかり。 ドタキャン、遅刻も多くそれでも仕事だからと割り切っていたので、なんとなくうまくやれていたのに、急なメールに頭がついていかなかったし、メールで済ませるのは今までの楽しかった思い出までも台無しにされたような気がして腹も立ちましたが、言う気力も奪われてしまって「こういう形で言われることに言いたいことも山ほどあるけれど、受け入れます。いろいろと落ち着くと良いね。今までありがとう」とお返事をしました。 好きな人が出来たならわかるし、割り切れもするけれど、仕事は前から忙しかったし家庭の事情って?! みたいな感じで、具体的な理由が見出せず、気持ちの整理がつきません。 実はこんな風に終わる恋愛が2回目ということもあり、自分にも何か原因があるのかな。と悩み中です。 そんな中、、、 私のこともその彼のこともよく知る共通の方にそんな内容を相談し、彼と付き合う前からもわりとなんでも話していた方だったので、泣いて電話もして迷惑をかけたり、最悪なことも全部知っているのですが、その上で付き合おうと言われています。 自分はそっちにも行くし、フォローもちゃんとするよ。と、、、。 正直、偏見ではないけれど医者との恋愛はこりごりな感じもしていて、そんな風に思ってもらってもよくわからない別れ方をしてしまった私は次に踏み出せずにいます。 お叱りの言葉でも助言でも構いません。 何かしらお言葉を頂戴できたらありがたいです。
私は小学六年生の時の日記に 『人間は そろそろほかの生き物たちに恩返しをする時代にならなければおかしい』と書いていた者です この、根の深い痛切な感覚には、その後は自ら強い麻酔を打ち続ける思いで何とか半世紀ばかり長らえてきたのですが、8年ほど前から、その麻酔もすっかり効かなくなってしまったようで 今や、人類の殆どあらゆる所業が、私には受け入れ難いものになっています 他の天体から見たなら、何千万種もの生き物の中、一種族だけがこれ見よがしに繁茂している星なんて、なんと残酷な・・破滅が近いな・・なのでは? 3/27にもお書きしましたが 現在、人類が行き詰まっている 大もとの根っこにある大問題は 我々の存在も《この星の成分の欠片(の一瞬の姿)》であることを忘れ捨てたような、はち切れんばかりの傲慢さであると思えて仕方ないのです きれいな夜景..? この星の命である「表土」がぐちゃぐちゃにされて..としか、私には見えず.. (癌細胞が光っているようにすら見えてしまいます) 生命に満ち満ちた、緑深きこの国の山々にゴルフ場..? この星の生き物の一員として、正気の沙汰とは思えません (家を建てるだけでも夥しい生き地獄が発生しているわけで.. 地鎮祭の意味も、もはや茫漠として..) 人間だけが快適な空間へと破壊が進む街なかでは、縁の下という空間は消え、水を飲める場すら潰され... 苦痛に喘ぐものたちの悲鳴を聞く耳もなく.. 更に、惨殺という過去の真事実を忘れたのか「〇〇危惧種」などとは どの口が..と、苦しすぎて、耳にも口にもできない事象が日常に溢れています ほんの0.何%の 極めて幸運な動物に対して「かわいい・癒やされる」という言葉が出てくる感性が、理解不能です 私は(“奇跡の一本松” よりも、更に幾重もの偶然の結果、何とも有り難いことに) 【生まれてみたら、偶々人間だった】 それだけのこととしか思えないのです 何十世代も語り継がれてきた口承文芸の中には、たいへん大切な 《我々は大昔から、ほかの生き物たちにどれほど助けられてきたことか..その感謝の気持ちを忘れてはいけない》という深い心が伝えられてきたものと私は思っています かつて「日本昔ばなし」というTV番組の主題歌 “いいないいな人間ていいな” との歌詞を耳にして愕然としました これは全く真逆なのではないでしょうか?
おそらく一番古い記憶です。幼稚園に入園する前の話です。 近所の公園に巣から落ちた雀のヒナがいて、父が拾って手当をしてしばらく家の鳥籠で飼っていました。ヒナは元気になり、時々かごから出して家の中で飛ぶ練習をしていました。私もその鳥のことが好きでよく話しかけていたと思います。ある日、両親が見ていない隙に、籠から出してぬいぐるみを抱きしめるようにしたら、死んでしまいました。その時は寝てしまったのだと思いました。 小学校のころの実験で、メダカを顕微鏡で見るということがありました。先生の話を聞いていなかった私は水槽に戻すときに失敗しメダカを死なせてしまいました。ほかのメダカに共食いされる様子を今も思い出します。 他にもセミの虫かごを自転車に入れてあちこち走り回っていたら、気づいたら死んでいたこともあります。 私のせいで意味のない死を遂げた生き物たちに罪の意識を感じます。 それなのに私は看護師を目指しています。もし人の命を自分の無知や不注意で奪ってしまえば許されることではありません。 失敗したらと考えると怖いです。 看護師になりたいのは、死なせない方法を学びたいからです。おそらく生き物の殺してしまったことへの罪の意識からきていると思います。死に最も近いところで、自分の生き物を殺してしまいやすいという不注意な弱点を克服したい気持ちがあります。 能力がないならしてはいけないことは世の中にたくさんあります。もう運転をすることはできないと感じた高齢者が免許を返納するなどです。 私は、自分が生き物を殺してしまいやすいという性質を持っているのに看護師になろうとしています。克服したいと願ってしまいます。 のんびりした性格なので焦ったときが本当に危ないです。どうすれば、ヒューマンエラーを確実に起こさないで済むでしょうか。ミスが許されない現場で働く覚悟がもてません。 自分だったらこんな看護師に面倒を見てもらいたいとおもいません。信用できないからです。 不注意を直したいです。 家を出るときなど、戸締りをして3度確認しても、外出中に不安になります。 また自分の思っていないところでミスが起きることもあり、不安が増しています 最悪の状況を常に想像できるようになるために知識も身に着けていきたいですがそれでも足りない気がします 不安です
仕事帰りのことです。 交通量の多い道路を車で走っていると、急に対向車線側から猫が飛び出てきました。 ブレーキを踏んだのですが、もしかしたら少しぶつかったかもしれません。 一瞬の出来事でよく覚えていません。後ろの車も普通に後ろを走っていました。 このとき、すぐに停車したかったのですが、停まれるような場所でなく、Uターンして戻りました。 しかし、猫はおらず、車も普通に走っていました。自分の車も異常はなかったです。 探しに行くにしても川沿いの土手で交通量も多く断念しました。 何回もごめんなさいと思っています。 ただ気持ちが晴れません。
最近いろいろなことを考えすぎては世の中とか、 人間というものに関して悲観的になってしまいます。 例えば、社内でねちねちした悪口の言い合いがあったりすると 「なんでもっと平和に生きられないんだろう。」と思ってしまいます。 桜が咲いたね、とか今日は暖かくて気持ちいいね、とか そういった些細だけど楽しくて幸せな話題ってたくさんあると思っているのですが… 人間は悪口を言うことを楽しむ生き物なのでしょうか? また、傷つけられた相手になぜか悪者にされることが多く(逆恨みです…) 「あの時傷ついた自分はなんだったのだろう、せめて反省でもしてくれればいいのに」と思うのですが… 人間は傷つけられたことは覚えていても 傷つけたことはすぐに忘れてしまうような そんな自己中な生き物なのでしょうか? 世の中理不尽で悲しいことが多いなと思いますし、 愛がない人が多いなと感じてしまいます。 どういった心持ちで生きていくべきですか? また、そういった人たちとどのように付き合っていくべきでしょうか。 私が考えすぎなことはわかっているのですが… よければご回答いただけますでしょうか。 宜しくお願いします。
お釈迦様の時代は托鉢やお布施により頂いたものをなんでも食べていましたが、 現代日本において、托鉢でもお布施でもないのにお坊さんが肉食をするのは何故でしょうか。 仏教とは慈悲の心が根底にあり、生命に対し、苦しみを与えないようにするのは当然のことです。 お釈迦様の時代、今のような方法にて動物が囲われ、無理な出産を繰り返し強要され、体の一部を切除され、まだ寿命に程遠い若齢の家畜を殺していたとは思えませんし、 お釈迦様が肉を食べていたのを理由に、肉を食べてもいいんだよ〜というのは間違っています。 残り物を頂くのと、スーパーにて肉を買い調理するのは違います。 漁師のように職業にしている人もいるし仕方ないという話も見ましたが屠殺業に嫌気がさして仕事を変えた人もいます。 出された肉をありがたく食べれば生き物も報われるというなら、人間が死んでも葬式などせず、ありがたく調理して食卓にのせて頂くべきだということになります。 植物も生き物ですが、植物に意識はないですし、もし痛みや意識があるならば、家畜の餌にされている大量の植物を減らすべきです。 穀物や水、家畜を育てるのには大変膨大な資源が使われる一方、穀物さえ食べられずに飢餓で苦しむ人々が沢山います。 日本仏教が妻帯肉食をはじめたのは、その時代において必要な選択だったのかもしれませんが、現代日本にてまだ呑気にそれに甘えているのはどうでしょう。 肉食が許されるのは、病気で肉が必要であったり、高山地帯や極寒地帯において作物が育たない地域の人々であり、 豊かな国では肉を食べたいという煩悩をできるだけなくして、もっと全体の生命に対して心を配る必要があるのではないですか。 仏教は拘りをなくし、解脱をえるのが最大の目的ですが、戒律を手放してよいのは聖人に達したもののみて(仏は存在が慈悲ですから) 煩悩だらけの人間がなんでも手放したら、欲に溺れてしまうだけで、仏教の意味がありません。 また念仏を唱えたなら救われるというのは、一時的な救済で、本当にその人を救うことにはなりません。念仏を唱えようが、殺生をしたならば、やはり因果の報いは受けます。 肉食の許容は、屠殺業を放任し結果的にその人たちをも破滅させます。 私は直接屠殺していないし、肉を食らっても極楽浄土に行けるから、それでオッケーというのは仏教では無いと思います。
最近、私は食欲がありません。原因は、おそらく前回の質問である死への恐怖が拭えてないことだと思います。 子供の頃、悪いことや迷惑をたくさんかけたり、生き物の命を奪ったりしたことで自分は地獄に落ちるのではと思ってしまいます。 どのようにすれば拭えるでしょうか?そして私は楽しく生きていいのでしょうか?
自分は存在するのでしょうか。 五感がなければ私はおそらく自分の存在を認識できないと思います。 もし本当に自分が存在するのなら、五感がなくても自分の存在が分かるものではないでしょうか。 他の誰でもない私がいるという感覚は五感の認識機能を通して他の生き物との接触により脳がただ錯覚を起こしているだけなのではないかとおもいます。 私がいるから、体があるのではなく 体があるから、私がいるという感覚が生まれた という考えです。
私は既婚で、子供もいます。 一方的に主人に尽くす夜の生活と日々のストレスに疲れ、一夜限りの不倫をしてしまいました。 後悔ばかりです。何も楽しくありませんでした。 子供と夫に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 もう二度と相手とは会わないだろうと思います。 こんな私は地獄に落ちてしまうでしょうか…。 自分が世界で一番汚い生き物に思えて辛いです。
そもそも、我々が誕生し生きているということは「葛藤」とともにあるるように観じております。どうして「葛藤」があるのでしょうか。 どのような環境に生まれたとしても、老いることは避けられません。病に侵されない人もいません。他人からは恵まれていると言われても人知れず「葛藤」があります。 我々「いのち」ある生き物は、最初から「葛藤」が備わり「悟り」へと向かうことになっているのでしょうか。それとも「いのち」の宿命として「葛藤」があるのでしょうか? よろしくお願いいたします。
父親が、買ったもの、料理したもの、外食の料理をいつも、残します。 その割に無駄に沢山注文するし、作るし、買ってくるのです。 もったいないから、母と私とで食べるんですけど、太るし、苦しくなるしで嫌です。 もったいないとかやめてとか言ってもヘラヘラしてるし、食べろ食べろみたいな態度なので腹が立ちます… だからといって買い物はやめてくれないし、外食しないわけにもいきません。 いつも、もったいないなとか、嫌だなと、思ってしまうのですがどうしたらいいでしょうか?
義父(85歳)は、彼の父親(以下、父親と略)と愛人の子です。父親と本妻には3人の子があり、現在父親と子3人は同じ墓に納骨されています。本妻は、行方知れずになっています。現在、父親と本妻の子3人の墓は、義父母(義母は80歳)が主に供養しています。 私の女房が義父の娘ですが、我々夫婦には子がなく、将来この墓を守れないので合同葬にする予定でいます。 義父は、「おれは自分の父親が勝手に愛人に産ませた子だから、本妻まで面倒みきれない」と言ってます。合同葬にする前に、名前だけは戸籍謄本で分かる本妻の供養をすべきでしょうか。もし、するとすればどのようにしたら良いのでしょうか。尚、愛人と父親の間には、義父とさらに2人の姉妹(共に他家へ嫁いでいます)が現存しています。
いつだったか、SF小説を読んで人間という生き物はとてもちっぽけでくだらない生き物だと感じたことがあります。 その思いは今でも私の根底にあり、私は人間が命を繋いでいく意味、私という人間が今を生きていかなければならない意味が分かりません。 ただ、弱くて不器用で、これから何も成し得ないだろう自分に対するあてつけや逃げの発想だろうとも思います。 いっそのことなにか精神的な病気にでもなってしまえればと何度も考えましたが、身体だけは健康体な私はメンタルにおいても中途半端なところで行ったり来たりを繰り返すだけで、結局何者にもなれないんだと惨めな気持ちになります。 彼氏にも、出来ることなら早めに死んでしまいたい、と言ったことはありますがどうしてそんなこと言うの、と窘められましが私にはそうやってたしなめる彼の気持ちが分かりません。 痛いことは想像するだけで心が苦しくなるので、自殺はすることはないと思います。 痛みもなく死ねるよ、と言われたら喜んで飛びついてしまうかもしれませんが。そんな状況はきっと妄想か漫画の世界だけでしょう。 私には気分の波があり、沈んでいるときは上記のようなことを永遠と繰り返し答えの出ないことで生きる理由を見失い虚無感に涙をながしています。 浮いている時も一時悩みもなくなり浮ついた心になりますが、沈んでいるときの落差からほんとうに今の自分は正しいのか、またすぐ沈んでしまうのではないか、そして改めて自分には何もない、自分は何者でもない、何者にもなれないことを認識してしまい自分は何をやっているのだろうなと物悲しくなります。 どう意識を切り替えていけば、少しは生きることに対して光を見出せるでしょうか。 どう方向を定めていけば、自分に対して前向きに向き合っていけるでしょうか。 長々と申し訳ありません。どうかご回答の程宜しくお願い致します。
この世界に本当に仏様の慈悲があるのなら、どうして世界中の残酷な営みが今も続けられていて、全ての生命の恒久的平和が保証されないのでしょうか。 結局、生き物として生まれてしまった以上は飢餓や戦争、弱肉強食の世界に放り込まれるのが殆どで、私のように平和で衛生的な生活ができるのは一握りです。いつかはこれをお返ししなければならないのは良いのですが、この世界の苦しみを肩代わりするのは恐ろしくて嫌だと思ってしまいます。奪い合いでしか存在を保てない物質世界にもう産まれたくないのですが、世界中の残酷な営みは止まらずこれからもっと加速するだろうことを考えれば考えるほど、この世界には神も仏もおらず、ただこの地球が無くなるまで残酷な営みから逃れられない無限地獄でしかないと感じて苦しくなります。 どうしてお釈迦様はこの世界を肯定できたのでしょうか。人間でなくとも、野生動物の過酷な弱肉強食、遡れば隕石による避け難い絶滅。それなのに生き物はまだ生きることを選んでしまっている。私もまだ、「今死ねば絶対に御浄土に行くことができる」と誘われても少し躊躇してしまいます。だから私は御浄土には行けない。それもまた苦しい。 自分の生活に集中しようとしても、希望を持とうとしても、それが容赦なく砕かれることもあると知っている以上、難しいです。災害や戦争、犯罪によって無慈悲に未来を奪われた人達の中には、私なんかよりもずっと賢くて清らかな人だっていた筈です。安心して生きられるかどうか、命を全うできるかどうかなんてどこに生まれるかの運でしかない。宗教とは、物質的な苦痛に耐えきれない人間が頭の中で作り出したものに過ぎません。私も本当はお浄土の存在を信じたい。けれど「もしお浄土があるのなら、もし本当に神仏の救いがあるのなら、どうして世界は今も残酷なままであり続ける?」と思うと信じることができません。破滅的なものばかりが真実のように思えてしまいます。 私はただ、安心して生きていたい。誰からも傷つけられず、災害や戦争に巻き込まれず、死んだらちゃんと安らかな場所に導かれる。そういう「確固たる」保証が欲しいだけなのです。ですが今の世界では、残酷な中に放り込まれる確率の方が極めて高く、人間の行き詰まり感からしてこれからの世界はより残酷な弱肉強食の世界になるでしょう。次に生まれるときは、ひたすらに残酷な環境の中なのでしょう。
4度目の相談になります。似たような事をごめんなさい。 私はもう心が限界なので、自殺の準備をすすめています。遺書の下書きと自殺に使う道具の購入を終えました。今日は遺書の本番用紙と万年筆を買いに行きます。 さっき遺書に書く文章を添削していました。その時に、奪ってしまった命やいじめた生き物、食べてるものの事が頭によぎって罪悪感に支配されました。 具体的に何をしたか↓ ・トカゲを炙っていじめた(生死は覚えていない) ・カルキ抜きを怠慢でせずメダカを20匹以上殺した ・トカゲを世話をせず殺した ・部屋の虫を怖いからと殺した ・蟻を凍らせてまたは殺虫剤で殺した ・原因不明だがエビを次々と死なせた ・水槽に邪魔だからとタニシを大量に殺した 5ヶ月前からずっと罪悪感に悩んでここに書き込んで、その度に救われてまた病んで、という事を繰り返しています。 神様と仏様とご先祖様と奪ったまたはいじめた命に何度も祈って、一時的に楽になってもすぐにまた戻ってしまいます。 これは罰ですか?こんなことで許されるならこれ以上幸せな事はないですが。彼らは恨んでいますか。 もう終わりにしたいんです。自殺理由は罪悪感ではありません。未来に希望が見出せずお先真っ暗だからです。 不登校で生活リズムもめちゃくちゃで勉強もできなくて努力もしなくて。書いてて情けないです。死んで楽になって全部お終いにするんです。 私みたいなクズはきっと死んだ方が世の為なんです。 死んだらきっと優しい神様が迎えに来てくれるんです。そう信じて死にます。 私が命を奪った生き物たちは私を恨んでいますか? 私は死んだ後だれかに救ってもらえますか? もう1人じゃたてないんです 使い方を間違えているかもしれませんが、誰にも相談できないのでここに書きました。苦しんでいたこと、知ってほしかったのかもしれません。 自殺を誘発する目的はないです。読みましたが規約に違反していたらごめんなさい。
知床で事件がありました。 いつも事件や災害が起きると思うのですが、亡くなる人は生まれる時からいつ死ぬか運命は決まっているのかなとか思ってしまいます。 また逆に会社社長は、日頃の行いが故で大変な事故を引き起ました。この人の未来もなるべくしてなった未来なのかなとも思います。 今回は事件を取り上げましたが、ハスノハで相談している私たちにふりかかる出来事のひとつひとつ全てが、運命であった未来なのでしょうか?
孫(中1女)別居の長男の子です。 今年女子中高一貫校へ入学しました。 夏休み頃より、親に反抗的な態度をとるようになり、机に座っていても勉強に集中せず、スマホいじったり他事ばかりで、注意してとりあげると母親につかみかかる事もたびたびあるようです。 夜もいつまでも寝なくダラダラし、朝起きれなく、学校へ母親が車で送る状態だそうです。 でも学校は嫌でなく楽しいと言ってるようです。 嫁は教育に厳しい家庭で育ち、口開けば勉強の事、生活面等口うるさく言って育ててきました。 最近は父親の言うことも聞かなくなっているようです。 子供の事で夫婦喧嘩度々で、嫁も困り果て電話で泣きながら、状況を報告してきます。 一度くらい引っ叩いてもいいかとおもいますが、嫁は親に叩かれた事ないからと、体罰はしないようです。 息子も以前叱ったときに手を出してケガをさせてしまったことがあり、抑えているようです。 一つ心に引っかかるのは、嫁が子供を褒めたのをほどんど見たことがなく、私の家へ来て食事をしてもいつも無言で、注意の言葉だけです。 この件で嫁に話してみたいのですが、神経質で感情的な性格なのでそれも躊躇してます。 こんな状態の孫ですが、時々メールをしますと、毎回ではないですが、以前と変わらない返信があります。 私が、いつもと変わらす接したほうがいいのか、一度きつくしかったほうがよいのでしょうか。 私は息子二人育てましたが、特に目立った反抗期はなく、いまこのような状況で、毎日のように嫁から電話がある度にどのように回答したらいいのかお教えいただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
こんにちは。目に留めていただきありがとうございます。 私の悩みは、タイトルの通り生きているのが辛くて消えてしまいたくなることです。 ここ15年くらいずっとダメな自分が嫌で、自分は周りのちゃんとした人間より一段劣った、下等な生き物に違いないと思えて消えてしまいたくなる気持ちで、辛かったのですがどうしていいかわかりませんでした。 年齢とともに良くなっていくかと思っていたのですが、最近ひどくなってきたように思います。 会社にいるとため息やキーボードを叩く音が全部私を責めているような気がして気が狂いそうになります。 食堂や飲み会など雑談をする場では頭が真っ白になり、その場から離れると泣きたくなったり実際泣いたりします。 しかし、健康で仕事もあり、家族も健在で、生きているのが辛いなんてあまりにも贅沢で感謝が足りないと思います。 おまけに、このような悩みは自分が自己中心的で自意識過剰だから生まれてくるのではと思うので、そんな自分が気持ち悪いです。 悩んでばかりは良くないと思い体を動かしたりしてみるのですが、なかなか続けられません。 もう少し気持ちが楽になればいいなと思うのですが、何かちょっとしたアドバイスでも嬉しいので、お知恵をいただけませんでしょうか。 長文失礼いたしました。
初めまして、私は大学受験真っ最中の高校三年生です。大学受験で追い詰められているので尚更だとは思うのですが、タイトルの通り自分の将来も生きていることも全部が怖いです。 まず、今の自分の選択が死ぬまで学歴として付きまとうと思うと本当に怖いです。今選択を間違えたら何年後かに野垂れ死んでしまうかも、とばかり考えてしまいます。そもそもまだ学歴が重視されている世の中が嫌です。自分も含め人間が本当に残酷で嫌になってきました。 話が変わりますが私は幼い頃から肉や魚など生き物を食べることができません。みんなに食べるなとは全く思わないのですが、当たり前に食べている人間が本当に残酷で恐ろしいです。むしろ生き物が食べられない私がおかしいみたいな周りの反応も怖いです。人間は自分たちが快適に暮らすために自然を破壊したり生き物を育てて殺して食べたり(なのにペットは可愛がる)、人間のなかでも頭の良さなどで差をつけようとしたり、おかしいと思います。このように、自分たち人間のことをおかしい、当たり前に慣れすぎていると感じてしまうのは私がおかしいのでしょうか…。誰にも共感してもらえず辛いです。私は自分のことでも他人のことでもとても傷つきやすく、周りから驚かれるほど何でも考えすぎてしまいます。家族とも友人とも仲が良く、かなり恵まれているはずなのにこんなことばかり考えている自分がおかしくて嫌です。 他にも、将来ちゃんと自分で生活できるか怖い、時間は止まらずもう1秒前には絶対に戻れないのが怖い、いつか親が老いて死んでいくのが怖い、自分自身も歳をとるのが怖い、これから先にふりかかるストレスが怖い、など今気にしても仕方がないような不安ばかりずっとずっと考えてしまい最近は眠ることもできません。 めちゃくちゃな文章でごめんなさい。 ご意見いただけたら嬉しいです。
また新たな戦争が始まりました。明日は我が身でしょうか。 「報道しない日本メディアはダメだ」と言われています。私たちは平和ボケしているのでしょうか。まあ日本が戦争に巻き込まれるのも時間の問題ですね。私たちに未来なんてない。現実なんて汚らしくて残酷なものでしかない。 この世界のシステムに耐えきれなくなった憎悪が世界中で噴出し騒乱を巻き起こしているマクロな事実と、そんな完璧ではない人間という生き物から一方的に「あなたが間違っている」「あなたが変わればうまくいく」と言われ続けたミクロな怒りが混ざり合って何もかもが馬鹿馬鹿しいとしか思えません。だから生きているのが嫌なんだ。 仏教だって結局、生きるも死ぬも理不尽しかないものだから何か納得できるだけの理由をこねくり回した結果でしかないでしょう。「全部私が悪いので悔い改めて、私の全部をこの世界に捧げます」と生きなければこの生命という不愉快極まりないシステムから解放されないのですか。喜んで火の中に飛び込む兎になれと。結局望まれているのは自己犠牲じゃないですか。生き物は、自分のために自分以外のものが犠牲になることを望んでしまうものなのです。 どれだけ努力したところで、自分とは関係ないもっと大きなものによって簡単に潰される。この国のシステムも欠陥だらけで有事に対応できると思えない。いつ殺されるかわからないから、いま生きていることに感謝すべき? そう思うにはこの世界はあまりにも汚らわしすぎます。ずっと言ってきましたよねこの世界は生きるに値しないと。その決定的証拠がまた一つ増えたんですよ。生きるも死ぬも誰かの天秤の上。人権なんて初めからなかった。第三次世界大戦はいつ起こりますか? 私たちは死ぬ準備をしなければなりません。 薄氷の上の平和すら貴重品となってしまった世界で、その平和の中にいながらうまく生きられない罪悪感。自分の在り方を否定され続けてきたが故の「どうせ自分なんていらないんでしょ」という感情と閉塞感。秒読みとなった戦前危機に対する焦り。人間という生き物への困惑。未来に対して絶望視しかできない。こんな世界の中でどう生きろと。けれど何を言われても響きはしない自分自身に対しての苛立ち。今の世界を見ても美しいと言えるでしょうか。 結局、傲慢でなければ生きられない世界。2025年を迎えられるといいですね。きっと無理だろうけど。