昨年、実父が癌で亡くなりました。 父の死に際は、末期癌患者の臨終によくある(?)「身の置き所がない」状態で亡くなりました。葬儀の際に父の友人に「顔が変わってしまって」と絶句されました。 生きている間も苦労の人生だっただけに、安らかに逝くことが出来なかったのが悔やまれてなりません。 なぜ父は最期まで苦しまなければならなかったのでしょうか? また、父の肉体的な痛みを思えば、1日でも2日でも早く逝かせてあげられなかったのかと自分を責めてしまいます。 父の苦しみはどう解釈すれば良いのでしょうか? 病気の進行、術後の容態悪化で仕方ないと考えるしかないのでしょうか?
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
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