高齢者の安楽死についてご意見をお願い致します。90歳になる身内の者が倒れ入院となった際、医師に言われました。平均寿命を超えているからもういいのではと。つまり、延命治療をせずに逝かせるということです。家族は反対し、できうる限りのことをしてほしいと願いましたが、いざ胃瘻をどうするかの際に、この医師は容態について虚偽の説明までして胃瘻を阻止しようとしました。 高齢者の医療負担が大きな問題となっていますが、この医師も口から食べられなくなったら寿命とは言うものの、だからといって家のように栄養を少しずつ減らして二三ヶ月で逝かせましょうだなどと私はどうしても疑問を拭うことが出来ません。 医師が捉える死と御坊様が捉える死とは違うとは思いますが、命を救うのが医療であって、そこに延命も何も無いのではと私は思ったりもするのです。蝋燭は燃え尽きてこそ終わりです。口から食べられない、平均寿命を超えていることから死に至らしめようと安易に考える医師に私は命に対する驕り高ぶりと恐ろしさを感じます。たとえ口から食べられずとも、今その目の前に尽きていない命があるのですから。
以前友人を自死で亡くした事があります。 だいぶ乗り越えてはいますが、ふとした時に急にものすごい悲しみにおそわれる時があります。 でも、それは仕方のない事と受け入れていましたが最近また違う感情に悩んでいます。 今とくに悩みや死にたいと思う事があるわけではないのに、自分が死ぬ事ばかり考えてしまいます。自分が首をつっている所や胸に包丁をつきさしたり、そのような事が頭にうかんできます。 死にたいわけではないのに、そうしたくなるんです。 とくに疲れている時や、自死した友人の事を思い出すときに。。 鬱なのかなぁ、と思いますが自分が突発的に死んでしまうのではと不安になります。だけど、深い悲しみからか心が壊れてしまい、死ぬ事に対して怖いとか感情もなく無の感情になる時もあります。 自死した遺体も見ていますので、その光景が頭から離れない時があります。自分が認識しているより心のショックが大きいかもしれません。 どのように心をもっていっていいかわからず、早急になにか心を変える言葉をいただきたく書かせていただきました
お世話になります。じゅんちです。 15歳の娘の突然の死から8ヶ月が過ぎました。まだまだ涙が乾く日はありません。 月命日には友達が相変わらず来てくれて賑やかにしてくれます。 寂しい、会いたい、いろんな気持ちにもちろんなります、二女が姉の服を着たり同じような仕草をしたり、行事があるたびに思いだし二女の姿を見ながら同じような事が起きやしないかとたまらなく不安になったりの繰り返しです。 私自身が楽しい時間を過ごすことに罪悪感を覚えます。 友達に会ったり、笑う時間もありますがそれがふとたまらなくなるのです。 長女にも楽しい時間がたくさんあったはずだと。 長女は空から私が笑ってるのを見たいはずだよねと思うのですが、気持ちが頭がバラバラです。 どんな思いでいたらいいのか整理がつかず辛いです。 お言葉をいただきたいです。宜しくお願い致します。
はじめまして、すもももと申します。3年前に大学を卒業して以来、自分の進路が定まらず、最近はもう挑戦する気力もなくなってきました。 新卒で入社した会社には人間関係で悩み、より自分の個性を活かせる研究職を薦められ大学院に進学しました。 しかし、研究室の雰囲気に馴染めず、すぐに不登校になりました。辞めてはいないものの、アルバイトを転々とし、いまは大学院を辞めて就職か、留学か、結婚して身を固めるか、大学院に通い続けるかで悩んでいます。 結婚は付き合った彼とかんがえていますが、早くも結婚式の方向性の違いからすれ違いしてしまう予感がしています。 何にも向いてない可能性も高く、無駄に生きて精神力やお金を消費するよりも、好きな場所で好きにいなくなれたら楽だし、それが一番な気もします。 とりとめのない質問ですみません。わたしはどのように、この先の進路を決めていったらよいでしょうか。
5月に父親を亡くしました。 普通の生活に戻った今頃になって 自分が死んでしまう事に恐怖を感じるようになってきました。 結局死んでしまうのになぜ人は生まれ、生きなくてはならないんだろうと毎晩考え、いつか訪れる自分自身の死に対して怖くてたまらなくなります。 死にたいと言う訳ではなく死ぬ事が怖いです。
私は5年ほど前に躁鬱病と診断され、今年の夏には乳ガンと告知をされました。 早期の発見だったため、抗がん剤治療と手術で完治する予定です。しかし、私は完治したくなかった。出来れば転移してくれれば自死を選ばなくても若くで死ぬことが出来たのに、と思うのです。 乳ガンを、見つけた時にはまずお医者さんと思いましたが、これが人間の生への執着なのだなと思いました。 でも、親に心配をかけ、辛い抗がん剤治療をうけながら働き、高額な医療費を払い、こんな事転移してたらやっていられません。 治療拒否も自死と同じ扱いになるのでしょうか?
こんばんは。 今度はおばあちゃんについてです。おばあちゃんは認知症です。 元々千葉県に住んでいました。浦安市です。ディズニーの街です。 中2になると同時に、姉・母・私で、おばあちゃんの介護の為に、お父さんを千葉に残し、広島県廿日市市に引越しました。宮島の街です。 中学校が変わり、パートを始めた母に代わり、私がご飯を作ったり、出したりしていました。 中3で塾に行き始めましたが、おばあちゃんに晩御飯を出してから、塾に通っていました。 私は今、岐阜の大学に通っていて下宿をしています。 一人暮らしをして、友達を沢山呼んで・・・という夢は諦め、大学寮に住むことに決めました。 家賃は4300円。光熱費は5000円弱。 ですが、安いですが、抜群に汚く、私は気管を痛めてしまいました。 それでも、デイサービスに行くおばあちゃんの為に自分にかけるお金は、減らして欲しいと思い、大学寮は出ませんでした。 今では、排便や食事もままならず、施設に入っています。 成人式で帰った時に、おばあちゃんに 「俺誰かわかる?」 と聞いたら 「はー、誰じゃったかいねー?」 と言われてしまい、後頭部を強く殴られたかのようなショックを受けました。 「ユーリだよ。」 「大きくなったねー」 どうやら、私は、早稲田大学に通っているらしく・・・ 今年7月に半年ぶりに帰り、施設を訪ねて、同じ質問をしました。 「俺誰かわかる?」 少し考え・・・ 「ユーリ君!!」 私は、驚きました。半年前に忘れていた人間を認知症の彼女が、思い出せるでしょうか? 施設の人曰く、 「いい子にしてたら、家に連れて帰ってもらえるって、思ってるんじゃないかな?」 私は、その場で大号泣してしまいました。 今の私があるのも、彼女がいたからです。 親は、「大変だろうから帰ってこんでええ。交通費もあるし。」と言います。 ですが、2年間のバイトでそれなりに貯金しました。 私は、野球部に所属していて、長期休暇はほとんど練習です。 さらに、勉強。自分磨き。 実際、最近、前述のことを言い訳にしてお婆ちゃんの老いていく姿を、見ないようにしている自分がいるような気がします。 やはり、時間を無理矢理絞り出してでも、会いに行くべきですよね? そして、どう声をかけたらよいでしょうか・・・?
初めて相談いたします。よろしくおねがいします。誰に聞いてよいかわからず、悩んでおります。 私の母のことなのですが、心の持ち方についてご教授願いたいと思っております。 両親は私が15歳の時に離婚し、それから母親だけで育てられてきました。ちなみに私は一人っ子です。 大学、大学院はバイトと奨学金でなるべく母には迷惑をかけずに勉強し、就職後は毎月母の収入以上の仕送りをしています。 母は私が就職をしたころから、依存するような発言をしており、それが不快です。 また私の生活に色々とアドバイスをくれるのですが、その発言が耳障りでつい辛く当たってしまいます。 母の面倒は生涯に渡って見るつもりでいますが、何か納得してないような気がしています。 心のどこかで、両親のせいで貧しい思いや嫌な事があった上に、就職してからも仕送りをし続けている私は何のためにこんなことしているんだろう?と考えています。 見返りが欲しい訳ではないのですが、私が苦労する(労力を使う)意義が母親のためだけなのか?と思うとやりきれないです。 自活してちゃんと働いて生活しているのに、どうして色々言われないといけないのか。と思ってしまいます。 最近私が結婚して、母がより一層私に依存してきます。 今は別々に暮らしていますが、いずれ一緒に住むと思うと不安です。 どのような心の持ち方をすれば、母に優しく接することができるようになるか教えて欲しいと思います。 よろしくお願いします。
約2年程前、職場で上司から「来るな・辞めろ・気分が悪い」と、二度言われ、非定型性の「うつ」になりました。すぐに心療内科に行き、上司の暴言が発病の原因であると診察をうけました。約8ヶ月、会社を休職しました。 私は、労組に加盟し団体交渉をしました。 1回目 団交 上司は、暴言発言は、認めました。 しかし、謝罪は無しでした。(病気になったのは、あなたが悪いという姿勢でした。) 2回目 団交 支社長と本社から人事部の方との交渉。 ・交渉内容:基本給と傷病手当金の差額 (基本給は、本来、暴言が無ければ受け取れていた金額) ・私の、休職日数の延期の申し上げ ※会社の方は、考えておくとのことでした。 しばらくし、約半年程、休職期間が延長しますとのFAXが事務所にきました。労組と私は、受け入れました。これ以来、金銭のことは、交渉の中での立場を逆転させる最後のかカードで置いておきました。(使う気は、なかったのですが・・・) 3回目 団交 始めて暴言上司が謝罪しました。 素直に受けいれました この時に始めて、○○さん、申し訳ありませんと。 今迄、私のことを名前では、呼ばず「おい、又は、お前」としか言われていませんでした。5年もの間。 さて、病気を患っていたため、違う部署に配属になりました。仲間と言える方々と、「縁」をいただき楽しくいることができます。 そんな職場でも、今年の1月に事業所の閉鎖が決定しました。全員クビです。30人近くの方々は、泣かれていました。私も、その一人です。 私は、まだ病気を患っております。入睡眠困難、左胸から針が上がってくるように痛い感覚があります。医師からも特効薬が無いとのことです。 毎日、薬を服用しておりますと、この病気には勝てないのかな? この病気が、わたしの人生を狂わしたと、思います。 被害者は、ずーと暗い闇の中に溶け込んでしまいそうになります。 悲しくて、将来が見えません。 この先、不安です。 また、再発する可能性もあります。 仏教では、このような問題にどのように解決されますか? (因果応報でしょうか? でしたら、解雇された30人は、全員悪いのでしょうか? 病気になった、私がわるいのでしょうか?)
父親は胃がんを発症し、病院でも匙を投げられ緩和ケアの段階に来ています。 言葉を発する事もなくなり、食事も殆ど摂らず寝ている事が一日の大半になりました。 息子として何かしてやりたいのですが父親としてはそれを望んでいないようです。 母親も椎間板ヘルニアを患い、介護自体も辛そうです。 自分は今、孤独と焦燥感がない交ぜになったような日々を過ごしています。 いずれ父親の死を看取る事になるでしょう。 その時の心構えが頭ではわかっていてもやっぱり割り切れないのです。 父とは折り合いが悪く「くたばっちまえ!」と何百回と思いましたが、いざその時が近づくと居ても立っても居られない自分の気持ちがわからないです。 これからどう日々を生きてゆけば良いのか無明の世界に居るようなものです。 どうか助言をいただけませんでしょうか?
10年ほど前、職場やプライベートの過度なストレスから パニック障害→鬱となり、仕事ができない状況になって職を離れました。 それまでは、フルタイムでバリバリ働き帰りは終電、 帰宅後や週末も時々在宅や出先で別の仕事をかけ持つなど 無茶もしていた時期もありました。 それくらい動けていたのが突然何もできなくり、愕然としました。 投薬治療で少しずつ動けるようになってきたものの、未だに完治とならず 相変わらず波がありゆられながらギリギリで過ごしています。 それまでの様な生き方、暮らし方はもう出来ない状況です。 そんな中、自分の生き方を振り返りながら、 ふと子供の頃から生き辛さを感じ続けていた事に気づかされました。 そこで、色々と勉強(通信制で通学もある大学で)を始め、 数年前に(明治維新以降ではなくそれ以前の仏教の考え方)仏教の 教えに触れる事ができ、そこから色々と(亀の様な歩みではありますが) 物事の捉え方を修正できてきている実感ができるようになってきました。 授業だけでは物足りず、参考文献など少しずつ読みながら独学を進めております。 最近は、どこかのお寺で勉強会などがあるなら行ってみようか? と考えてみたりするようになりましたが、 宗派にとらわれずにお坊さんから学ぶ術はないのだろうか? という疑問が湧いてきております。 今後学んで行くために何か良いアドバイスがいただければ幸いに存じます。
6年前から自律神経失調症になり最近は心療内科でうつの傾向があると言われました。仕事も休暇をもらい休んでいますが来週から復帰することに体も心もついていける自信がありません。会社での人間関係も原因で休暇をとったからです。でも毎日、家にいても余計な事ばかり考えてしまい、体調が悪くなるばかりで、今は外にも出ず引きこもりです。相談できる人もいなく毎日が不安とか戦いで毎日がつまらなくて憂鬱で仕方ありません。 前向きに生きていきたいです。少しでもよくなりたいです。なんでもいいです。アドバイスお願いします。
13歳の時に祖母を亡くし火葬しました。 その時の祖母が火葬されたときの場景が今だ20年以上たった今でも私の心の中ではトラウマになっています。 人を焼くなんて、骨になった祖母を見て本当に残酷だなと思いました。 また私自身も亡くなって火葬されるのだと思うと怖くてしかたがありません。 このような恐怖やトラウマをどう克服すれな良いのでしょうか? お教え下さい。
お世話になります。 いつも励まされております。亡くなって4ヶ月、来月には16歳の誕生日を迎えます。 朝5時半、お手洗いで倒れていた姿は何度もフラッシュバックします。 4時には声を交わしていた娘、一週間前前は二女と買い物、プリクラの元気な姿、翌日は卒業式、誰が悪性腫瘍がらあったなんて思うでしょうか、今でも信じられません。 そのお手洗いの意識のないのがわかる、普通じゃないと感じたあのショックもあり、引っ越しを考えています。 ただ、やはり引っ越しもありじゃない?てかたもたくさんいますが 中にはお姉ちゃんとのここでの思い出がなくなるんだよ!て言われるかたもいて気持ちは引っ越しに向かっていますが、もしかして長女はここに居たいんじゃないかとか考えてしまいます。 前向きに考えたいのに、いつもいいのかなて悩んでしまいます。
うつ病か更年期かは別として、悩みから生きる意味を失いつつある中、時にずいぶん前に自殺してしまった母方の従姉妹(唯一の理解者であるご主人と離婚してしまったこと等)のことがふとよぎることがあります。 実は以前に自殺未遂した父方の叔母の巻き添えで亡くなってしまった従姉妹(幼い子供でした)のことも含め、供養のお経をあげてもらったことがあります。 自分は今、生きる意味を失いつつありますが、自制はキチンとついているつもりですが、ふと思い出すこの従姉妹の事について、普段はもう接点のない私に何か意味があるのか?すべき事があるのか? どうぞアドバイスをお願いいたします。
はじめまして アメリカ人の夫と子供のいるアメリカ在住の日本人女性です。 義理の両親が車で30分の所に住んでいまして、週末は一緒に食事やお誕生日のお祝いをしたり関係は良好で、特に義母とは本当の娘の様に可愛がって頂き、私もアメリカの母と慕っておりました。 その最愛の義母が3年に及ぶ闘病の末、昨日午後に自宅で家族が見守る中、眠るように息を引き取りました。 私にとって身内の死は初めての事で、(日本の両親は高齢ですが、とても元気で私との関係は大変良いです) 今朝起きて義母の事を考えてしまい、寂しくて涙が止まりません。 敬虔なカソリックである、義理の家族、親戚、夫、子供達は「神の元に行かれ、苦しみから解放されたので良かった」と理解しているようですが、カソリック信者でない私には到底理解できません。 日本の家族や周りに日本人のお友達もいるのですが、「いつもエネルギッシュで明るい人」というイメージがあるので、メソメソして心配させたく無く、この寂しさをどうしたら良いのか、心の整理がつきません。 義母の死を受け入れることが出来なくて大変苦しいです。 アドバイスをどうぞよろしくお願いします。
私は今年1月より職場での異動がありました。新しい職場では戸惑いもありましたが親切な先輩方に囲まれ恵まれた環境で働かせてもらっています。 そんな中、今月4月に先輩職員の突然の訃報がありました。私が異動して4ヶ月が過ぎようとした時の事でした。その先輩とは同じ職場内でも所属している所が別な為、一緒に仕事をすることは数える程しかありませんが親切で優しい先輩です。そんな先輩の突然の訃報。言葉では表現出来ない程とても悲しくて辛いです。亡くなった先輩のことが頭から離れず仕事もなかなか集中できません。また勤務上、葬儀・告別式にも行くことが出来ずとても後悔しています。こんな私に何か出来ることはないでしょうか。 気持ちの切り替えがなかなか出来ず送らせて頂きました。
先日、親戚のおばあさんが亡くなりました。92歳でした。 70歳くらいまでは元気だったのですが、事故にあってから体が不自由になって、旦那さんも亡くなったので老人介護施設で過ごしていました。 あまり面識はなく、小さい時にすこし遊んでもらったくらいしか思い出はないのですが、おばあさんがもう長くないかもしれないと親から聞いてから2週間くらいでなくなってしまいました。 晩年は体が不自由で苦労されたようですが、最後の2週間は苦しまず安らかだったと聞きました。 それでもやはり寂しい気持ちになりました。遠くに住んでるのでお葬式には行けなかったけど心でお祈りをしました。 これでよかったですよね? ここでおばあさんのことを書いてあげることが供養な気がして書いてみました。
約20年前に通っていた学校で出会った友人が18歳と言う若さで亡くなりました。死因は不明のままなんです。 友人とは3つ歳が離れているんですが、当時はいつも一緒にいました。 波長というのでしょうか?話を交わさなくても友人がそばにいるだけでも幸せに感じていました。いつも友人から幸せを分けてくれました。なのに私は、何もしてあげられませんでした。恩を仇でかえしてしまいました。 友人の死を知った時は、もう頭の中が真っ白になり、何も手につかなくて軽いノイローゼになってしまいました。何かつらい事や嫌なことがあると、彼女のところへ行きたいと思っていました。 今は、あまり笑わなくなったり、私だけ幸せになってもいいのかな?と思っています。本当に、私だけ幸せになっていいのでしょうか? 夏になると友人との思い出がよみがえり、毎日ないています。
昨年、実父が癌で亡くなりました。 父の死に際は、末期癌患者の臨終によくある(?)「身の置き所がない」状態で亡くなりました。葬儀の際に父の友人に「顔が変わってしまって」と絶句されました。 生きている間も苦労の人生だっただけに、安らかに逝くことが出来なかったのが悔やまれてなりません。 なぜ父は最期まで苦しまなければならなかったのでしょうか? また、父の肉体的な痛みを思えば、1日でも2日でも早く逝かせてあげられなかったのかと自分を責めてしまいます。 父の苦しみはどう解釈すれば良いのでしょうか? 病気の進行、術後の容態悪化で仕方ないと考えるしかないのでしょうか?