菩提寺がないまま仏壇を買いました。 開眼式と過去帳の記入をしたいのですがいきなりお寺に連絡してやってくれるものなのでしょうか? 宗派は曹洞宗です。
いつもお世話になっております。私が最近通い始めた法座(読経会)の お寺の住職先生が、法話や説法を邪道とみなしているようです。 法座が終了し、私がノートを片手にお経について聞きに伺うと、 「本当のことを知っているのはお釈迦様しかいないから、説いてはいけない」 「僕のいったことも参考程度に耳に挟んでおいてね」 「説いちゃいけないって書いてあるから(確かに法華経にはそんな文言が あったと思いますが)」 「もしそれを説いて、その人の言ったことを信じてしまったら、変な新興宗教 ができちゃうよ」 「お経を直接読んで、自己解釈するように」(逆にそちらの方が危険な気が… 例:理趣経。それに漢文や中国語の文法が理解できない人はどうするの でしょうか)などと言い、教えていただくことができません。それどころか、 最後の文言のように、かえって危険な事態を招きかねないことを言われます。 法句経ーダンマパダには「教えさとせ」という文言があったような 気がします。対機説法という概念もあったと思います。 それに、積極的に法話会を開いている先生方もいらっしゃいます。 この先生のおっしゃることは、信頼しても良いのでしょうか? 私個人的には「う〜ん…」といったところです。
初めての相談です。 私はこれまで、人を憎み、虫を殺し、ネットのルールも守れず、盗みを働き、 友人の物も盗み、勉強もせず、人に嘘をつき、家族に嘘をつき、酷い生き方をしてしまいました。 私はあの世について調べていました。 そしたら死んだら悪人は地獄に行く、 現代人の半数は地獄に落ちる、地獄は存在する、臨時体験で地獄を見た、という恐ろしいことが書いてありました。冗談ではない、子供の教育の為の嘘ではないのだと。 懺悔をしても、心は報われません。 死ぬのが怖いです、自主しようと思いましたが、元々家族に信頼されていないと思い、周りに影響する酷いことをしたのだと 罪悪感で、震えが止まりません。 後悔しても仕切れません。 本当に私は、悪い人間です。仏教の教えを知らずして、悪い事ばかり頭が働いてしまう自分が情けないです。 今こうして平然と生きていることが、嫌になります。犯罪者の身なんだと、見守ってくれているご先祖様や、仏様に申し訳ない気持ちでいっぱいです。 過去にした出来事は、戻すことは出来ない 自分を悔みます。 怖くて苦しいです。 これからが不安になりました。いい行いを これから出来るのか、完璧にならなくては、好きなことを我慢しなくては。 毎日自分のしたことの罪悪感で心が潰れてしまいます。 現実は厳しい世界です、仏教の教えも、 やはり厳しいのでしょうか、六道輪廻という言い伝えがあるのをネットで拝見しました。苦しいことを繰り返す。 人はまた人には生まれ変わることはない。 アニメを見過ぎている私は、転生する、 命は循環している。そう今まで思っていました。そう信じて生きてきました。 限られた命、好き放題してしまって、情けないと思いました。地獄は 炙られて、切り刻まれて、叫び声が聞こえて、骨になり、活活と鬼が言うと、また体が戻される。 想像しただけでも、恐ろしいです。 いい人になりたい、親孝行をしたい、 でも自分は死後、49日も、恐ろしいです。臆病者です。純粋な頭の悪い人間です 長文で申し訳ありません。 返答よろしくお願いします
六道輪廻では、ヒトと動物を明確にカテゴライズする立場があるかと思います。(あくまで大雑把な区切り、とする見解があることは知っております) 遺伝子工学(ヒトの遺伝子を含んだブタの誕生、デザイナーズベイビーなどの事例)やペット葬儀が発達する昨今、葬儀をすべき生命としなくてもよい生命の区切りを、どのようにお考えでしょうか? もしその区切りが恣意的なものであれば、無縁仏は困るから供養してくれ!みたいな話は一体なんだったのでしょうか?というか、過去の葬儀文化そのものが、疑わしく思えてしまいます。 まさに諸行無常や諸法無我を見える化するような技術が、更に発展していく見通しです。仏教界は死刑制度などの発信にも慎重なようですが、個人的には今こそ仏教の出番だと思います。 https://www.google.com/amp/s/www.kyoto-np.co.jp/articles/amp/149140 そのあたりは、どんな状況になっているのでしょうか?宗派ごとの見解というより、お坊さん個人ごとの発信ばかりを目にします。組織的な働きかけを期待して待つのは、間違っているのでしょうか? よろしくお願い致します。
ある方から新興宗教への誘いがあり、お経というものに初めて触れました。 自分の人生色々あったので、懺悔とかそう言った意味での読経してみようと思い始めました。 ただ、その人と付き合い会うたびにその人のお友達を紹介され、その友達によるとSNSの情報は間違っているだのとか、 他の宗教は正しいお経を読んでいないから、うちのは正しい教えに沿っているから功徳があるとか、 持っているお守り、お札は功徳を得るには邪魔だから処分しろとか、読経を続けていれば社会がどうなろうと守られるとか言われました。 お守りやお札はとても大切なもので処分することは耐え難いものです。 宗派によってそう教えるものがあるものでしょうか。 そう言ったことを言われこの宗派での読経は止めるか迷っていますが、読経自体は辞めたくないと思っています。
子どものことを「がき」ということがありますが、これは仏教語の「餓鬼」からきた言葉なんでしょうか?
いつも多くのお知恵をありがとうございます。 今日は仏教のことで疑問に思う点があり、質問を失礼します。 仏教と一口に言っても、多くの宗派があるのですが、 死後すぐに仏となり極楽へ。 という宗派や、閻魔様の裁きを受ける。とする宗派もあります。 生まれてから死ぬまで、ずっと一つの宗派で、一族皆が同じ宗派であれば良いのでしょうが、 親戚であったり、知人であると宗派はどうしても変わってきてしまいます。 その際考えるのが、 私の死後に行く世界は、 相手の方のいく世界とは異なっており、 あの世で再会することは叶わないのではないか。 一方は四十九日と言わず極楽へ行かれ、一方は裁きを待ち、地獄へといくかもしれない。 などといった具合です。 実際にあった事例としては、法要の時に「今彼女は輪廻のためにあの世で修行をし、乗り越えているところです」というような説法を受けたのですが、別の宗派ではそうではないのだろうな。と、思ったような事です。 実際には死んでみないと分からないことなので、考えても仕様のないことだとは思うのですが。 お坊さまの皆さまは、こういった宗派による教えの違いにから生じる、死後の世界の違い(四十九日の捉え方、三途の川を渡る渡らない)など、どうお考えになられているのだろう。と、質問を失礼しました。
位牌を作る時、文字の色はどういう基準で決めたら良いでしょうか?
浄土真宗では往生即成仏を説きます。これは非常にありがたいのですが、煩悩具足の凡夫たる私としては死ぬ前に涅槃、あるいはそれに準ずる安らぎの境地に至りたく思います。これは叶わぬ願いでしょうか?
仏教では生まれれば一切皆苦 四苦八苦 輪廻からの解脱(生まれないこと)を目指すそうですが 反出生主義とある程度重なる所がありますか?
いつもお世話になっています。 相談などをさせていただいているときに、懺悔をすれば地獄に行かない。 極楽浄土へ行けるなどといっていただけるのですが、本当にそうだと、誰も地獄に落ちないのではないでしょうか。やはり悪いことをしてしまった人はどれだけ懺悔をしても地獄に行くのではないかと思います。 宗派によっても差はあるかと思いますがお答えいただけますと幸いです。
仏壇を購入し必要な物を揃えている途中なのですが、位牌は誰の物を置いたら良いのでしょうか? 父方、母方の祖父、祖母は亡くなりました。 両親は生きています。 インターネットで調べても名字が同じの父方の祖父、祖母の物を置くというものや、置きたければ母方も置いてもよいなどありよくわかりません。 標準的な考えを知りたいです。 あと、位牌の大きさなのですが何を基準に考えたら良いのでしょうか? 15号という小さな仏壇を購入したのですが、利用している仏具店からは4寸を勧められました。 大きさを測って仏壇にあててみても大きい気がするのですが基準がよくわかりません。 仏壇と位牌の大きさの関係の基準を教えていただきたく思います。 それと位牌の表の名前の上にある梵字などの一文字はどれをつけたら良いでしょうか?僕は曹洞宗なのですが、位牌の名前の人が違う宗派の場合どうしたら良いでしょうか?また同じ宗派の場合は「空」でよいのでしょうか? よろしくお願いします。
おはようございます。 いつもありがとうございます。 今、毎日朝起きてすぐ、正信偈をあげています。実際に聞いたことがない(覚えていない)のでYouTubeを参考にしています。 発声とか発音とか節回しとか色々あるとは思うのですが、このご時世なのでお伺いを立てる方も方法もなくて、毎日聞きながら読経していると「ここは音を出しづらい」 「ここは最後の音が消えている」と疑問ばかり湧いて、集中できなくなることも多々あります。 お恥ずかしい質問なのですが、こんなにモヤモヤしながらお経ってあげてもいいものでしょうか? しかも、正信偈でいいのでしょうか? 朝起きて、あげるお経が何かもよくわかっていません。 このままだと我流になってしまうのですが、それは冒涜にはならないでしょうか? あと、他にも出来ることがあれば(読経でも写経でも)やりたいと思っているのですが、皆目見当がつきません。 お手数おかけしますが、色々教えていただけると幸いです。 よろしくお願いします。
先日買った上置きタイプの15号のお仏壇(高さ45センチ)を和机(高さ35センチ)にのせて高さ調節のために9ミリの板を9枚挟んでおつとめをしているのですが、目の高さより8センチほど下にご本尊がきます。 インターネットの情報によるとご本尊は自分の目線より高いところにするとあったり、使いやすいところで良いとあったり色々です。 目線よりお仏壇を高くすると膳引きにりんなどを置いているため、首のあたりまでりんなどがきてしまい使いづらいです。 この場合どうすれば良いのかを教えていただけるとありがたいです。 よろしくお願いします。
今の世の中は情報で溢れています。 スマホって簡単にいろいろ調べることができて、情報で溢れかえっています。 心がツライときや精神的にしんどいときに、 精神的に弱く強くなりたいなぁ 傷つきやすい性格を変えたいなぁと思い、 検索魔になって検索すると、 あれやこれやいろいろ出てきて、 何が良くて何が悪いわけではないと理解していますが、情報が多すぎて、よくわからなくなってきます。 何がホントなのか?何を信じていいのか? きっと私意外にも藁をもすがる思いで、いろいろ検索する人もいると思います。 (確固たる宗教など崇拝してる方は、このような迷いはないかと思いますが…) 信じたいことだけ信じてればいいのでしょうか? 仏教的な目線は下記のことはどのように思われますか? 全ての出来事は引き寄せ? 出会う人や出来事は偶然?必然? 自分に起こる出来事は必ず必要? 乗り越えられない試練はない? 健康に問題があるときは暗示? 仏様にお願い?神様にお願い? 宇宙に任せる? 自分の胸にすーっと収まった言葉こそがご縁があり、その時に、ん?なんか腑に落ちないなって思う言葉は受け入れなければいいのでしょうか? そのような言葉でも後から受け入れるようになるかもしれませんが… 私自身、家に仏壇もあり仏教ですが、正直、意識するときはお墓まいりや法事の時だけです。ですが、今度はお墓があるお寺に仏教講座があるので、参加しようと思っています。 自分勝手な考え、散文、お許し下さい。 お手数お掛けします。よろしくお願い申し上げます。
曹洞宗のおつとめと坐禅のタイミングについてお聞きしたいです。 インターネットで得た情報によると朝のおつとめの前に10分から20分ほど坐禅。夕方のおつとめの後に10分から20分ほど坐禅。とありました。これでいいのでしょうか?また、それ以外に昼の坐禅をしてもいいのでしょうか? それと通販で15号のお仏壇と仏具がセットになっているものを購入したのですが、仏具の色が白で無地の物が届きました。 これは四十九日用のものでしょうか? 通常の時は使わないものなのでしょうか? それと仏壇のろうそくの替え時ですが、短いろうそくを使っているものでおつとめの時新しいろうそくに火をつけて、おつとめを終えて消して、まだろうそくは残っているのですが、次のおつとめの時そのろうそくを使うとおつとめの途中で燃え尽きてしまいます。この場合どのタイミングでろうそくを変えたら良いのでしょうか? おつとめが終わってろうそくが残っていても替えるべきでしょうか? おつとめ中にろうそくが燃え尽きたら替えるベきでしょうか?
まず上置きタイプの仏壇を和机に乗せて座って使ってもいいものなのでしょうか? 次に仏壇に掛ける掛け軸で新金、錆金、上仕立て、もくらんと種類があるようですがどう違うのでしょうか? よろしくお願いします。
友人と話している際に仏教の話になりました。 仏教ではこの世は苦しみであり私たちは輪廻の中にいる。と以前聞きました。 hasunohaで教えて頂いた事や今までの自分の経験から考えたのですが、 輪廻から抜け出した時に本当の世界が見えるのか。 この世が苦しみの世界ならば、苦しみを減らす生き方が楽なのではないか。という答えにたどり着きました。 それを友人に伝えたところ、その考え方は「諦め」だと言われました。 今ある世界が本当の世界! 死んだら無になる、輪廻などない! そんな事をしたら生きている意味がなくなる! この世は地獄なんだよ! 苦しみを減らす生き方は諦めである! と言われたのですが、 私の考え方は諦めなのでしょうか?? 生きていたら、(自分から見てですが) 良いことも悪いことも同じだけあって、 良いことには感謝すれば良いし、 悪いことには苦しみがあって、 それをどう受け取るかで世界は変わると思うのです。 そうやって肉体と精神で苦しみを減らして行くのは諦めや逃げですか?? ご助言いただけましたら幸いです。
先日、祖父の家の物置小屋を探検していました。私が知っているのは、祖父の家は江戸時代から13代続く家です。 そのため、小屋にはなんか凄いの入ってそうだな、という木箱や竹籠が沢山あります。 色々見ていたところ、主に朱塗りのお膳セットや陶器でした。 しかし、父がふと この木の棒なんだ? と、足元の樽の上にあったものを手に取ると。 仏像でした。私は仏教は好きでお釈迦様の教えなどは好んで知ろうとするのですが、仏像に関しては分かりません。 その仏像は30センチくらいの立像で観音様でしょうか。 スラッとしていて右手は人差し指と親指をくっつけて上を向き、左手は下を向いている美しい仏像でした。 仏像の乗っている台の下には 先祖代々永享元年 と書かれており、調べてみると室町時代だとか。 もうひとつも立像で、胸の下あたりに法界定印(調べました)を組んだ お地蔵さま?お釈迦様?です。 これは、年代は不明です。10センチから15センチくらいです もうひとつは、20センチくらいの扉のついた彫り物です。3センチ程の人物が3人いて、御一方は不動明王様でした。 長くなりましたが、無造作に埃まみれの小屋において置くのも嫌だなと、見つけたのも何かのご縁かと思い、汚れを拭き取り綺麗にしました。 これらは、仏壇で一緒に手を合わせていいものでしょうか。 良ければ教えてください。曹洞宗です。
私は、信仰するということの概念について悩んでいます。何故なら、私は、神様や仏様の存在を信じてはいるのですが、それは人間の心の内にある概念に過ぎず、形而下で捕捉できるものではないと思っており、この考え方が取っ払えない以上は心底から神仏を信仰することは叶わないのではという疑念を抱いているからです。 私がこのような考え方をもったきっかけは、遠藤周作さんによる著書「沈黙」を読んだことです。ご存知でない方に簡単にあらすじを説明しますと、キリスト教の弾圧があった江戸時代に、ある宣教師が拷問の末に棄教したという報を受けてその弟子が真相を求めて来日し、救いを求める弱い隠れキリシタンや彼らを拷問にかける大名と出会いながら、仏教との相違や絶対神の是非について考え、葛藤するというものです。 私がこの小説で衝撃を受けたのは、諸行無常の考えを礎とした仏教を信仰しているはずの大名が、キリシタンだというだけで農民の魔女狩りを行い、キリスト教の弾圧に執心していたことです。 宗教というのは、固まった思想を提示することで人々の心を安定させたり、民衆を統制させる側面があるとは思うのですが、劇中のように政の道具としての扱いにとどまったり、科学が普及した現在において金稼ぎのダシに成り下がってしまったりする宗教文化を多々見ると、もしかして心の底から神仏の存在を信仰することは最早なり得ないのではないか、という疑念を感じずにはいられません。 こうした疑念に輪をかけるのが、自然の脅威です。現在猛威を振るうコロナウイルスや、台風、地震などといった災害は、私たちにとっては害悪でしかなく、早期の収束や撲滅を願われるばかりですが、それらの現象は我々の嘆願とは関係なくただ事実として存在するのみであり、これらを既成の宗教概念によって説明するには限界が生じるのではないかと思います。それを考慮すると、我々に都合の良い神仏への疑念が益々助長されるばかりです。 私は、目的によっては多少の方便は許されても良いと思っていますが、神仏を本気で現実のものと信じている方々のことを考えるとどうしても後ろめたいものを感じます。こうしたことについて、僧侶の皆様はどう思われるのでしょうか。冒涜と思われるのでしょうか。それとも、これも信仰と思われるのでしょうか。 大変無礼な質問であると承知しておりますが、何卒宜しくお願いいたします。