夫が急死しました。 50歳前とまだ若かったため、葬儀や宗教のことなどあまりよく話あわないままでした。 葬儀に際して、夫の兄弟が宗派のお寺に連絡をとってくれて無事に葬儀は済みましたが、その後の法要をお願いするにあたり妻である私に入信するように言われ、夫の供養のためにと思い入信しました。 (結婚した当初に宗派の話はでましたが、戒律が厳しいので無理に入信しなくてもいいと夫に言われ、その時は入信しませんでした) 夫自身も特に熱心な信者ではなかったため(お寺には行かなくても、墓参りなどはまめに行き先祖供養には熱心でした)私もあまり夫の信心する宗派のことをよく知らないままでいました。 しかし葬儀を行い、その後の供養のことなど確認すると、他の宗派に比べて色々と違うことがあり戸惑うばかりです。 そもそも私自身にその宗派の教義に心打たれての入信ではないから、その決まりごとの多さがなんだか狭量な気がして仏様とはもっと心が広いものではないのかとなんだか悲しくなってしまいます。 とはいえ、若くして亡くなった夫のためにきちんと供養はしてあげたいとう思いも強いです。 四十九日も近づき、仮祭壇を返却する日ももうすぐです。 色々用意しなければいけばいのに、仏壇がその宗派専用のものでなければいけないとか、位牌はおかないとかの決まりごとがいちいち気になって気持ちが滅入ります。 供養は残されたものの気持ちなのだから、私の好きにしたらいいんだという思いと夫をきちんと供養してあげたいという気持ちがせめぎあって夜も眠れません。 どうしてもっと一般的な宗派を信心してくれなかったのかと今は亡き、夫の両親をうらめしく思う気持ちさえわいてきます。 熱心でなかったとしても夫が入信していた宗派の戒律を守り、そのしきたりに則って供養するのが正しいことでしょうか。 それとも戒律に違反しても私がこんなふうにしたい、というやり方で供養してもいいのでしょうか。 何卒ご教示ください。
たびたびの質問、すみません。 私の家には、1階にお仏壇、2階の私の部屋に小さな仏様の像があります。 お仏壇には、祖父母や父のお位牌が置いてあります。 仏様の像は、阿弥陀三尊様と弥勒菩薩様とお地蔵様・文殊菩薩様・普賢菩薩様です。 私の部屋で仏様の像に向かって手を合わせ念仏を唱えても、お仏壇の前で手を合わせ念仏を唱えたことと一緒にはなりませんか? 変な質問で申し訳ありませんがよろしくお願い致します。
私は長年、極楽浄土に往生したら仏となることが定まるだけで、往生したその時から仏となるための修行が始まるものだとばかり思っていましたが、最近知り合いの浄土真宗のお坊様から「往生した瞬間から仏」ような内容のお話を聞かせて頂いて混乱しています。 釈尊の次に仏になるのは弥勒菩薩であってそれは56億年後の話だから、少なくとも極楽往生してから56億年は待たないといけないのかと思っていました。 宗派による解釈の違いなどを取り違えていたんでしょうか?浄土真宗として正しい認識をどのように持てば良いのでしょうか?ご教授下さい。
最近、コロナウイルスのニュースを見て思うのですが、私たちは病気の原因となるウイルスやガンなどを医療行為として体から取り除いたり、そのモノを消したりすることがよくありますよね。 それは殺生にはならないんでしょうか? お肉や魚、野菜などのいのちを頂かずには生きていけないのと、病気の元を殺さずには健康で生きていけないこととはなにが違うんでしょうか。
初めまして。唐突ではありますが、「即身仏」になりたいと思っています。世の中変わりません。いつまでたっても時代と人が入れ替わるだけで些細なことから大きな規模まで争いが続きます。一般の人でも即身仏になることは可能でしょうか?仏教に深く根ざす住職様なら即身仏のなり方やどこでなることができるのか、ご存知かと思いましたので質問させていただきました。回答のほどよろしくお願いします。
瞑想を毎日1時間行っていますが、ある日「自分で考えろ」「解放」と頭の中で感覚として受け取りました。 目を瞑ってすぐに1時間経っていたので、不思議だなと思いました。 この状況をどのような状態なのでしょうか? 世間で言う悟り?お告げ?良く分からないです。 どの仏様がおっしゃたのかも分からないです。 この受け取った言葉はどうしたらいいのか分からないので、教えて頂けたら嬉しいです。 自分で考えろって言われた時点で質問すると、駄目な気がしますがよろしくお願いします。
仏様を供養する・・というのは、具体的にどうすることなのでしょうか? 亡くなられた方やご先祖様を供養するときと同じですか? また、「南無阿弥陀仏」という念仏(で合っていますか?)は、阿弥陀様だけじゃなくてお地蔵様や弥勒様にも唱えることができるのでしょうか? もし、それぞれに唱える念仏がありましたらお教え頂けないでしょうか。 よろしくお願い致します。
はじめて質問させて頂きます。 プロフィールに記載しておりますが、家族の問題を抱える中、昨年暮れに仏教の教えに出会い、本当に心が穏やかになれた体験を得る事ができました。 それまでの私は、実家が高野山真言宗のお寺とご縁があり、結婚後も実家の仏壇を預かり、月参りや納骨堂のお参りをはじめ、いろんな関わりを持ってきて、仏教と深く関わってきたつもりでした。 しかし昨年暮れ、心身共に行き詰まり疲れ果てた時に出会った教えは浄土真宗(真宗大谷派)の教えだったのです。 その時はじめて、今までずっとお寺に関わってきたつもりだったのに、「仏教の教え」についてほとんど何も知らなかった事がわかったのでした。 それから改めて今求道中なのですが、今まで聴いてきた真言宗のお経と、浄土真宗のお経がまったく違うのにびっくりして、元は同じお釈迦様なのに、どうしてこうも違うのか。 両派ともご本尊がお釈迦様ではないとはどういう事なんだろう。 両派の中の、お釈迦様の教えと、各ご本尊様(大日如来様と阿弥陀様)の関係性って何なのだろうと、今切実に知りたく質問させて頂きました。 私にとって真言宗は小さな頃からずっとずっと触れてきた大切な宗派であり、また浄土真宗は昨年暮れ、本当に行き詰まってどうしようもなくなっていた時に、私の心を救っていただいた大切な宗派なのです。 どちらも私にとっては大切な宗派なので、どうしたらいいのかわからない状況になってしまいました。 ただその中で、元はどちらもはじめはお釈迦様だったのでは?と思い至り、タイトルにある質問をさせて頂きました。 どうぞよいお導きがあればよろしくお願いいたします。
こんばんは。 プロフィールにも書かせて頂いたのですが、幼い頃より祖父の隣で読経したりお墓参りやお供えをしたりしていました。 結婚し子供にも恵まれ、祖父が亡くなってしまったこともあり、なんとなく仏教というものと疎遠になっていたのですが、最近になりまた仏教に関心が出てきて、子供の頃なんとなく諳じていたお経の意味やその他諸々を勉強するようになりました。 まだ子供が2人とも小さいこともあり、毎日のお勤めまではなかなか継続して出来そうもないのですが、いずれは祖父のように、ご先祖様や子や人の為を思いながらお経をあげられるようになりたいと思っています。 さてご相談なのですが、無知なのでこれが仏教となにか関わっているのかさえわからなかったのでこのカテゴリーにさせていただきました。 もういつ頃から始めたのかは覚えていないのですが、多分小さい頃から祖父と墓地に並ぶお地蔵様に手を合わせたりしていて、その癖?なのか道にいるいわゆる事故等で亡くなられた方のためにあるお地蔵様にも手を合わせています。 これは結婚してからも子供が産まれてからも、祖父が亡くなってからも続いています。 運転中にも目には入ると、片手ですが手を合わせる真似みたいにして軽くお辞儀をしていて、毎回通る道なんかは、もうすぐあのお地蔵さんのところだな、と覚えてしまいました。 自分的には、もうこんなに毎回手を合わせなくても…と思ったこともあるのですが、一度やりだすと途中で投げ出すみたいで結局続けています。 しかし人に聞いたのですが、事故で亡くなられた方のお地蔵様に手を合わせたりしていると悪い?霊が寄ってきたり、なにか障りが出るんじゃないかと言われてしまい、どうすればよいのだろうかと思案しています。 この一連のわたしの行動は、仏教的にはどうなのでしょうか。 あまりしないほうが良いのであればやめようと思いますし、大丈夫なのであれば続けていこうと思います。 それとも仏教には関係ないのでしょうか。 ちなみに祖父はお寺に建つ石の柱?みたいな所にも名前が載るほど熱心な真言宗の檀家さんで、亡くなった時はお坊さんが泣いてくださるほどでした。 なのでわたしも他の宗派に触れたことはないですが、偏見や拒絶等はございませんので、是非多角的に教えて頂きたいと思います。 稚拙な文章を長々と失礼いたしました。
父が亡くなり、戒名と法名についてのご相談です。 4年前に兄を亡くし、現在は父の故郷に父が購入した浄土真宗の納骨堂にお骨を納めております。 そして、そちらのお寺さんで法名をいただいております。 つい最近、父が亡くなりました。 父は我が家に近い納骨堂を私が購入し、納骨する予定です。 父が生前、娘の近くが良い…と言っていた為、つい最近、我が家に近い納骨堂を購入したばかりでした。 こちらの納骨堂は宗派問わずですが、管理をされているお寺さんが真言宗です。 葬儀の際は家族葬にした為、葬儀屋さんに手配していただいた真言宗のお坊さまに火葬場でお経を読んでいただき、戒名や法名はいただきませんでした。 やはり戒名や法名は今後、いただいた方がよろしいでしょうか? 四十九日法要の後、納骨する予定です。 その際に、納骨堂を管理しているお寺のお坊さまに四十九日開眼納骨法要をしていただこうと考えております。 そこで戒名をいただくか…。 俗名のままにするか迷っています。 いずれ兄のお骨も分骨して、こちらの納骨堂へも持ってきたいと考えています。 その場合、法名の入った過去帳を入れても良いものでしょうか? 過去帳には私の祖父母の名前も入っています。 それとも、兄も分骨の際に戒名をまたいただいた方がよろしいのでしょうか? 何が良い方法なのかご教示いただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。
江戸時代に13万もあったと言われる寺も現在8万ありますが、更に減って5万になると言われています。また、葬儀産業の発達によりいわゆる葬式仏教も無くなりつつあります。心の問題は、精神科医やカウンセラーの役割になりました。これからの日本仏教の行方を教えて下さい。
どうして皆様は仏の存在を信じられるのですか? 年に数回決まったお寺で参拝しているし もちろん有難いとは思っていますが どこか伝説の話というか、心の底から信じられていない自分もいます。 仏陀なんていない。極楽浄土なんてあるはずない。死んだら灰になっておしまい。お墓で亡くなったおばあちゃんに思いを伝えても、死んだのだから意味はない。という思いが何処かにあります。 どうしてお坊さんは仏の存在を心から信じられるのですか? 私もできることなら心の底から信じてもっとありがたさを感じたいです。
いつもお世話なっております。 最近は休養を余儀なくされている ので、退屈な時間、時々仏様の教え をよくよく考えます。 「一切皆苦」という概念について 気になったのでお尋ね致します。 その四苦八苦などの「苦しみ」は 生まれた以上仕方ない物、と心得た、 つまり諦めたのちはどう行動すれば いいのでしょうか? 一切皆苦、と聞くと全て無駄に 思えて仕方ありません。 いっそ、早くお迎えが来ないだ ろうかとも思ってしまいます。 いえ、そう思う日が増えました。
一般人が、少しでも無明の闇を晴らすには、日々具体的にはどのように行動したらいいのでしょうか?よろしくお願いします。
新しくお世話になる曹洞宗のお寺に、ご先祖様の永代供養と、祖父母の納骨に行ってまいりました。 お坊さんがお経を唱えて下さったのですが、数珠を持っていらっしゃらなかったので、不安になってしまいました。数珠がなくても大丈夫なのでしょうか? また、永代供養墓地では、いつどなたがお供えされたかわからないビール等も置いてある所にお位牌を置いての供養だったのも、大丈夫か気になってしまいました。 また、本堂でご本尊様にご挨拶することなく、すぐに遺骨を永代供養墓地に納め、その後、納骨堂で納骨する流れだったのですが、大丈夫でしょうか?
いつもありがとうございます。明日ご先祖様の遺骨を永代供養にかえることになっています。 私は、お寺などで極度に緊張してしまいます。なぜかというと、仏様に対してとても酷いことを考えてしまうからです。 ご先祖様に対して感謝の気持ちで供養をしなければと思うのですが、感謝の気持ちが足りない上に、汚い心の私が、お寺に行ってもいいのでしょうか。
どの宗派を信じてると言ったほうがいいですか? もしも、何を信じてると聞かれたとき、 説明できないと困ってしまいますので 無宗教なので、別に心配する事ではないのですが、、、 日本人なら、仏教もしっておかなくてはいけないなと思いました。 たくさん宗派があるので、全てを見るのは、無理がありますので おすすめの宗派、ブッダにちかい教えをしてる方がいましたら、ぜひ教えていただきたいです。
昨年末からお経に興味を持ち始め、スマホと電子辞書を傍らにお経の一節一節をわかりやすいように今の言葉に変えています。 元から古典が好きなのと、漢字や言葉にひかれるところもあって、この作業が楽しくてしょうがありません。 時代背景を理解するために、親鸞様の本を読んでいた時のことです。 たまたま知人にその本を見つかってしまい「変わった本読んでるね」と言われたのでお経を読み砕いている話をしたら 一言目に「俺はさ、宗教なんていらないと思ってるよ」と切り出され「お経をわかりやすく読もうとか本当にマジ、キモいから」と。 お経をわかりやすくすることを否定された訳ではないのですが、会う度に(週1ぐらい)「仏教野郎が来た!」とか「仏教なんて信仰する奴の気がしれない」と。 はっきり言われたのは「仏教の話なんかしてたら、変わってると思われるし、キチガイみたいだからやめた方がいい」 私は仏教の話ばかりしている訳ではないし、仏様を信じるべきだ!と声高に強調したこともありません。 ただ、親鸞様の本を読んでいたことと、親兄弟知人でもない誰かが常に自分を見ていてくれて、救ってくれるとしたらありがたい(お釈迦様や阿弥陀様)としか話していません。 高1の娘にも誤解されていて、私が朗読の会の先生からいただいた「法性寺」という発声練習に使うプリントを読んでいたら 「家の中でお経あげるのやめて!!」 と言われ、違うことを説明したんですが 「家の中でお経読んだり、法話聞いたり、気持ち悪いことばかりしてるから間違ったんだよ!」とキレられました。 私にとって仏教とは子供でも、大人でも心の支えになるんじゃないかと思っていて。 でも、そう断言できるほどの知識がある訳でもなく、どこかのお寺に通っている訳でもなく、ただ楽しくてお経を読み砕いているだけなので説得力がありません。 先に話した知人も「仏教、仏教って変人ここに極まれりですね」と馬鹿にしてくるし、「俺を本当に巻き込まないでくださいね!」と念押しされるし。 お経を通じて、仏教に心を寄せていくことは他人から全否定されるぐらい、おかしなことなんでしょうか? 長くなりましたが、よろしくお願いします。
お世話になるお寺を、実家近くにかえることになり、納骨堂のご先祖様の遺骨を永代供養にかえることになりました。 永代供養の墓地にお願いする時には、皆でご先祖様にご挨拶に行くべきでしょうか? 両親だけ行って、私は実家の仏壇で手を合わせるだけでも大丈夫でしょうか?永代供養にかえても、これまでと同じようにご先祖様に思いが通じるものでしょうか。