こんにちは。当家の菩提寺は曹洞宗なのですが、「うちのお寺のご本尊は歴史的な経緯から阿弥陀如来なんですよ」と住職に聞きました(あまり大きくもないこともあり、それまで遠目にはわからなかったんです)。宗派の本尊と各寺院の本尊が一致してないことはよくあることですので、それ自体はへえそうなんだ。ぐらいの感想でしたが、ちょっと後で考えてしまいまして。というのも、その阿弥陀如来様の前に「南無釈迦牟尼仏とお唱えしましょう」という掲示があり、ずっとそうしてたんですけど、目の前におられるのは釈迦如来じゃありませんよね・・・?「南無阿弥陀仏」じゃないんでしょうか??みんなに目の前で「南無釈迦牟尼仏」と言われて阿弥陀如来様はどう思われることなんでしょう?両方唱えてみるべき? 実は、法要の際に住職が「南無釈迦牟尼佛・南無高祖承陽大師・南無太祖常済大師」と列挙している部分に一言「南無阿弥陀仏」と挿入していたことがあり、おお!ここで配慮してたのかと得心したんですが、逆に言えば阿弥陀如来関係はここだけです。そもそも、曹洞宗のお経は釈迦如来や観世音菩薩関係のものばかりですよね。 寺の本尊もしくは各家庭の仏壇の本尊と、お唱えやお経って、必ずしも対応してなくてもいいものなんでしょうか?多分いいんだろうけど、なんでなんでしょう?(だって、そうじゃないと薬師如来や地蔵菩薩や不動明王のお経なんか唱えたくてもまず唱えられませんよね。)如来や菩薩は相互に「私の前で誰それからこんな読経があったよ」と報告してくださってるのか、それとも上司不在時の代理決裁のように宛先が別の如来でも処理してくださるのでしょうか?このあたり、どう理解したらいいものなんでしょうか、よろしければ回答お待ちしております。
お世話になります。修験得度についての質問です。どうかご教示いただけますと幸いです。 醍醐派のお寺で先達になる事ができたのですが得度をして本格的に山伏として活動をしたい場合どうしたらいいでしょうか? 先達になったお寺に通えば師匠のさじ加減でその内に得度もといった感じでしょうか?師匠にはこのように言われました。 具体的に何回山に登れば何回お寺に通えば得度みたいな目安とかはありませんでしょうか?どうすれば得度できるのか具体的に知りたいです。 先達になれましたがこれで念願の山伏と名乗っても良いという事で間違いありませんか? 先達になれましたが先達になると具体的に何がどう違ってくるのでしょうか?また先達になった後も以前と変わらず仏壇を拝んで仏像拝んでといった感じで過ごしてますがこれで良いんでしょうか? 先達にしてくださったお寺のお坊さんは師匠と呼べば間違いないでしょうか? 何卒回答をお願いいたします。
私は真言宗の、寺院でたびたびお祓いしてもらってるものです。 お寺からのアドバイスで般若心経と、佛説不動経と、薬師如来さま、十二天などの真言を唱えています。 昨日興味がでてしまって、理趣経をネットで、でていたから唱えてしまって、悪いことしたかな?て疑問になりお寺に確認したら理趣経よりは、お渡しした、般若心経と真言をよく唱えなさいてことでした。 なんか、悪いことをした気分になり、反省しました理趣経を一回唱えてしまって、反省しました。罪になりますか? あと、延命地蔵経は、一般の人が唱えてよいものですか? また、四国遍路さんが使う持鈴は、一般の人がもって鳴らして大丈夫ですか? すみませんが教えてください
神様の御用人という小説の中で、黄金という名の方位神様が「古来より神には様々な神饌が捧げられてきたが、我々にはその品々に込められた人間の『想い』を受け取っている」と言っていたのですが、お寺にお参りした人の思いや仏様にお供えした食べ物に込められた思いを、仏様は受け取っているのでしょうか? 頓珍漢な質問でしょうが、お坊様の考えを賜りたいです。
私は…スピリチュアル的な物(パワーストーンとか占い)にハマった→流行りの御朱印集めにハマった→神社とお寺の参拝にハマった(その過程で神様や仏様と摩可不思議過ぎるご縁を頂きました!)→現在、神道と仏教の知識(書籍やネットが主)を学んでいるといったプロセスを踏んでいる者ですが… そんな私が「イスラム教」や「キリスト教」など世界の宗教を“なんとなく書籍やネットで学んで”良いのか…“仏教のお坊さんに”教えて欲しいです 何でそんな事聞くかと言うと…うまく説明出来ないのですが “神道の神様や仏教の仏様”に「こいつ異国の宗教に浮気しやがったな!?」って思われたり「こいつが我々に抱く信仰心はこんなものなのか…」って思われないか…どうか ちなみに何故私が日本にあまり馴染み無い宗教を学ぼうと発想したかと言うと単に他国の神の考え方捉え方を知りたくなった…それと 【高次元の存在は確かに存在するのだろうが、仏教神道といった宗教という人間の作った1つ2つの枠組みには捉えきれないものであろう、より多くの宗教(高次元の存在の考え方)を学べば、より高次元の存在と近しくなれるのではないか?詳しくそれらの存在を定義が出来るのではないか?そもそもその宗教に高次元の存在はいるのか】と発想がふと浮かんだからです こういったある種の実験(?)または知識欲の充実を図りたいのですが…どのような結果が付きまとうのか不安なんです “影響されやすい自分”が新たな知識や信仰を得てどのように仏教と神道を見直すか、場合によってはどのような報い(天罰とか仏罰)を受けるのかとか… あまりこんな事言うべきじゃないと思うのですが宗教は教義の違いからともすれば互いを否定しがちですもんね 私はそもそもお坊さんではないし在家信者の定義にも当てはまらない只の“神道仏教ファン”に分類されると思うので失礼は承知なのですが… 恐らくお坊さんの中には私と同じ事を発想された方がいらっしゃるのでないかな?と もしかしたら私のようにビビってまごついてる前に実践された方もいらっしゃるのでないかな?と思って質問させてもらいました どうか回答お願いします
以前、観音様のお供えしたお米を食事に使っているのですが、鳥に数粒のお米を分けようかなと考えております。 先日図書館で借りた曹洞宗の本では、「仏飯や霊供膳は、お下がりとしていただくのが好ましいですが、小鳥などに餌として与えてもいいでしょう。これは、施食といわれる浄行にもなるからです」とありました。なのでお坊様の意見を聞きたいです。
初めてご相談させて頂きます。 机の上に、お守りに入れる用の紙のお札を二枚、 キーボードとパソコンのモニターの間に立て掛ける形で置いています。 お寺で頂いた小さな紙のお札で 一つは開運、一つは厄除けです。 このお札とは別に、個人的な願望を祈祷して頂いたお札も 持っていますが、そちらはお守り袋に入れて首からさげて いつも持ち歩いています。 倒れた紙のお札はお寺で売っていたもので、 お守り袋に入りきらなかったので机に飾っていました。 その二枚のお札が、机で作業したときにぱたりと倒れたので 不安になってしまいました。 息を吐いた時に倒れたので、息がかかったか、 私が机を揺らしたか、近くにあったキーボードが接触するかして 物理的に倒れたのだと思いますが、 神棚に置いた紙の札が倒れるのは 物事が行き詰まるとか今の願いがかなわないとか、 あなたの願いや考え方自体が間違っている可能性がある、 等書いている占い師さんのサイトを見て心配になりました。 (実際には神棚ではなく机ですが…) 他にも色々な意見を見まして、 大抵は「物理的な問題なので気にしなくてよい」 というものでしたが、心配症なもので、 お坊さまの意見を聞いてみたくこちらに書かせて頂きました。 そのお寺では、お札とお守り両方をお出しできるのですが お札をお祀りするのが大変な人はお守りを頂けます。 今回、机に置いていたのはそのお守り用の紙のお札です。 お守り用のお札が倒れたからといって、 問題があるとか願いがかなわないとか、 そんな風に心配することはないでしょうか? くだらない質問とは思いますが、 ご回答頂けましたら幸いです。
仏教に興味が出る前にチベット密教のシンギングボウルや、ガンター、バジュラなどを、天然石やさんや、マライカとゆうお店で買ってきてそこには印はどのように組むかなど紙にもかいてあって無料で配っていましたから見たりよく、鳴らしていました。今は手放しましたが、これは罪になりますか? もし罪になるならばどうしたら許されますか?
仏教で絶対の幸福というものがありますが本、セミナーでは理解することが出来ません やはり、お坊さんとの問答で何年という時間(お金)をかけ、理解するものなのでしょうか? 時間をかける事に意味もあるのでしょうか? 楽して理解する事はやはりお釈迦様が許さないのでしょうか? 人間関係で生きずらさを日々感じています アンケートなどで生き方が180°変わった、目からウロコと言うような返事が寄せられています 絶対の幸福が理解でき これからの人生に役立てればと思います よろしくお願いいたします
自分の部屋で、観音様を祭っているのですが、お米とお水と偶にお菓子(頂き物や家に合った物)を供えているのですが、大丈夫ですか?
仏教のパーリ聖典にはボーディサッタ(菩薩)は地獄に行かないとの記述があるのですが、ほかの仏典ではボーディサッタは地獄に落ちたという記述があります、どちらが正しいのでしょうか?
ハスノハで質問の答えを見てみるとお釈迦様は王子様ということがわかりました。 そしてこう考えました、お釈迦様は一度くらい肉を食してのではないのかと。 もしかして五戒を守れた人っていないんじゃないかと思いました。 お釈迦様に失礼だと思いますがどうでしょうか? 本当に五戒を守れた人っているんでしょうか?
レタスの葉の一部やお米粒を少し、食前や調理後に生飯偈を唱えて、庭に置いているのですが、大丈夫でしょうか? 毎度、要領を得ずに質問して申し訳ありません。
先日、初めて座禅会に行きました。 そこでの指導で「座禅中は、目を瞑ってはいけない」と言われました。 理由は目を瞑ると眠くなるからです。 僕は目を瞑っても眠くならないし、目を瞑ったほうがやりやすいです。 眠くなるからという理由だけなら僕は眠くならないので目を瞑って座禅しようと思うのですが他に目を瞑ってはいけない理由はありますか?
お世話になっております。 柴田秋です。 私は10年ほど前に自殺に失敗しました。 複数回の失敗の上、死ぬのは少なくとも生きることと同じくらいには面倒で疲れることだと感じたため、久しく実行には移していません。 それから、どう生きるのかと同じように、死について考えるようになりました。 死後の世界とかではなく、死ぬことで私の周囲に与える影響についてという意味です。 迷惑云々や、コストや、私の心とは関係なく死後に振り分けが行われるのであろうなということなどです。 こちらの質問の回答に対して、疑問が浮かび上がりました。 https://hasunoha.jp/questions/38774 余談ですが、今は少なくとも怒りは自覚していません。 「仏教は死んだらどうなるの教えではなく、生きているからどうするの教えです」 とあります。 多分、きっと心構えのことをおっしゃっているのだと思いますが、疑問が沸き起こってきます。 背景は語りましたが、それはあくまで単なる動機です。 私のことは私で考えるとして、他者のことは私には分かりません。 よろしければ、質問に応えていただきたいです。 仏教の最終的な目標は、悟り、無限に続く輪廻から脱し、六道のひとつである天道に行くことではないのですか? 仏は天道に在すもののことですよね? つまり、死後のことこそが目標なのではないですか? あくまで、そこに至るための過程として、どう生きるかが重要なのだと思っているのだと思いました。 つまり、生き方は手段で目的は死後の行き先であると。 なんとなく、キリスト教やイスラム教、パスタファリアニズムの天国を目指すのとは異なるのだとは思ってはおりましたが、疑問が起こりました。 仏教は天道を目指し、輪廻から脱すること、つまり解脱が目標ではないのですか? 絶対の正解を求めているわけではありませんので、ご自身の考えで構いません。 ※私の拠り所とする科学(科学的方法)にも絶対の正解はありません。 あれらは、今のところ否定されていないというだけです。 当然、ご回答なされた方以外の方には、天道へ行くことを目標とされている方もいるかも知れません。 それぞれのご回答を伺いたいです。 よろしくおねがいします。
前回の質問では 自らの生き方について相談しましたが、 今回はネルソン・マンデラ氏の名言について単純な質問です。 ネルソン・マンデラ氏は数々の名言を残しています。 「遺恨の念は、毒を飲んでおきながら、それが敵を殺してくれると期待するようなものだ。」 や 「大きな山に登ってみると、人はただ、さらに登るべきたくさんの山があることを見出す。」 などなど、 何となくではありますが、 案外考え方は仏教に近いのではないだろうか。 と、思いましたので 実際にお坊さんの声を聞いてみようと思い、質問致しました。
初めまして、ちかえもんです。 悩みというよりはずっと知りたいと思っている事なのですが、 ここに書いてもよろしいでしょうか。 6年前のこと。離婚をして2ヶ月ほど経った頃に 辛さで軽い心身症になり、心療内科で話を聞いてもらっていました。 普段から夢は良く見るのですが、その頃に印象的な夢を幾つか見ました。 そのー1つが、仏像の夢です。 無音で動きはなく、坐禅の時のような座り姿で、両手を其々 膝頭に 掌を上向けて 置いている金色の仏像が私を見下ろしていました。 ただそれだけの夢でした。 その仏像の夢はそれ一回だけしたが、ずっと記憶に残っています。 どこかのお寺の仏像なのかな? 私の心の中の仏様が姿を見せてくださったのかな? またあの夢は何か意味があったのかな? いつか分かると良いな、などと思っております。 先ほど、このサイトを見つけ、もしかすると何か分かるかな、と 思って書き込み致しました。 あの時の心身症は3ヶ月ほどで治り、 今は毎日仕事に趣味に精を出しています。 始終夢の仏像の事が気になっているわけではなくて、 今は、たまに そういえば、、、と思い出すぐらいです。 どうぞよろしくお願いいたします。
久しぶりに相談させていただきます。もし過去の相談に答えてくださっている方がおられましたら、その節は本当にありがとうございました。 最近、日常生活の中でしんどいことやつらいことが多く、もう死んでしまいたいと思ってしまうこともあります。そのようなことをこの前、クリスチャンの友人に相談したところ、彼女はしんどい時は神様に「状況がよくなりますように、神様支えてください」とお祈りするのだと言っていました。 そこでふと疑問に思ったのですが、浄土真宗(家の宗派なので、他は詳しくなくてすみません)では南無阿弥陀仏とお唱えすれば極楽に行けるといいますよね。しかし、今現在苦しいときに、仏様にお祈りなどをして頼ったり、支えていただいたりすることはできないのでしょうか。仏様にお願いできるのは極楽に行くことだけなのでしょうか。 もしよろしければ教えていただけると幸いです。よろしくお願いします。
最近、人の寿命は予め決められていると聞いたのですが、それはどんなにお金を費やして健康に気をつけたりしても変えられないものでしょうか。 運命には抗わないほうが正解なのでしょうか。 仏教の智慧をお借りしたいです。
日本の仏教ならではでしょうか。はっきりとした要因があるのか興味があります。